蘭を裏切ることになっても
コナンは腕を組み、考えていた。
『殺人まで犯してしまった本当の森田さんが自首することを条件に依頼を受諾したのよ。本当の森田さんは、すでに亡くなっていた奈良井剛市さんの名を名乗ってソ連軍に自首した』
言葉で言ってしまえばたったこれだけの事に、いったいどれほどの人の想いが凝縮されているのだろう。
「本当の森田さんがソ連軍に自首すること、それが身代わりの条件だったってこと、春江さんは知っていたの?」
コナンは素直に疑問を口にした。
英理の鋭い視線が返ってくる。
「コナンくん、私たち弁護士の仕事は、必ずしも真実を暴き出すことではないのよ。法律の範囲内で依頼人の利益を最大限に確保すること。それは探偵も似たようなものじゃなくって?」
英理の口調は静かだった。しかし、だからこそ逆に、そこには途方もない重みがある。
「ごめんなさい…」
しゅんとなるコナンを見て、英理は微笑みを取り戻した。
「確かに、春江さんの自殺が立証されないと私に対する殺人の容疑は晴れない。でもね、その程度のことを恐れるようでは、最初から弁護士の資格なんかないのよ」
そう言うと、英理は立ち上がった。そして、机の引き出しから分厚い封筒を取り出した。
「あなた達が私のために一生懸命調べてくれたこと、それには感謝しているわ。これは本当よ。でもね、真実を知ろうとする心の欲求が強ければ強いほど、それをどこかで抑えこむ、もっと強い意志も必要なの。これは、社会が存在しなければ一秒たりとも生きてはいられない人間の、定めというものよ」
英理はコナンに封筒を差し出した。
「これはあなた達へのお礼。人からいただいた図書券だけど、皆で分けてね」
「あ、ありがとう…」
英理は穏やかに微笑んでいた。
*****
妃法律事務所からの帰途、話の内容の四分の一も理解できなかった歩美は黙りこんだまま。足取りも重そうだった。光彦もまた、ひたすら何かを考えている。
「おい、光彦」
前を歩いていたコナンが振り向いて言った。
「え、何です?」
「これを」
英理から貰った封筒を手渡す。
「こ、これ」
「お前と歩美で分けてくれ。今日付き合ってくれたお礼だ」
「ちょ、ちょっと、これ、この厚さからすると、一万円や二万円じゃありませんよ」
「じゃ、また明日」
コナンは小走りに交差点の横断歩道を渡って行った。哀はあわててコナンの後を追う。
信号が点滅を始め、光彦と歩美はうす暗い歩道にぽつんととり残された。
「な、何なんでしょうね」
「光彦くん…」
歩美が光彦の腕を抱きしめた。
「あ、歩美ちゃん?」
*****
「もう、お父さんたら、呼び出しといていないんだから」
蘭はショッピングセンターのテラスで小五郎を捜していた。
と、コナンがやってきた。
「あ、コナ…」
その後ろから、ブルーのセーラー服に赤いリボンの哀が現れた。
蘭は思わず柱の陰に隠れた。
(ち、ちょっと、何で私が隠れなきゃいけないのよ)
コナンと哀は蘭の隠れた柱から一テーブル離れた場所に座った。
「どうしたんの? 反省でもしているの? 工藤くん」
(く、工藤?)
驚愕の蘭。
「反省というか…俺もまだまだだなあって、そう思っただけだよ」
哀の顔をじっと見るコナン。
「な、何?」
「悪かったな、変なことに付き合わせちまって」
「それを言うなら円谷くんと吉田さんでしょ。どうしてあの二人を?」
「そりゃ…あいつらに、この一件は興味本位で首を突っ込むような事件じゃなかったんだって教えたかったのさ。それと…」
「それと?」
「いや、何でもない」
哀はふうと息を一つ吐いた。
「私は、結構楽しかったわよ」
「そうか?」
「ええ」
コナンの視線は強かった。
「ど、どうしたの、さっきから」
「お前、事務所へ行く前に、『本当にわかってるの? 私の気持ち』って言ってたよな」
哀ははっとした。
「あ、ああ、あの事? …気にしないで」
「昨日、そして今日、お前がその着慣れない服に込めた女の決意ってのは何なんだ?」
哀は言葉に詰まった。
「何て言うのかな、その、はっきりさせておきたいんだ…俺も本当の気持ちを言う。だから、お前も本当の気持ちを言ってほしい」
「…自分の言ってることの意味、わかってる?」
「もちろん」
哀は目をつぶり、そして開いた。
「工藤くん、貴方は、私にもチャンスがあると言った。でも、それが私を死なせないためだけの方便だったとしたら、こんなに、こんなに残酷なことはないのよ、わかってる?」
「そうだな…」
「私だってわかっていたわ…貴方には相思相愛の毛利蘭さんがいるというのに」
蘭は絶句した。
コナンは真面目な顔だった。
「相思相愛? 本当にそうなのかな」
「え?」
蘭もぎくりとした。
「何だかさ、周りはそう思いこんでいるみたいだけど、俺は、本当に蘭のことが好きだったんだろうか、って思うんだ、この頃…」
コナンの視線は遠くに飛んだ。
「…いつの頃からかな…同級生と話がかみ合わなくなったのは…そう、小学校二・三年の頃からかな…何しろその頃の俺は、コナンドイル全集やら横溝正史全集、江戸川乱歩全集とかさ、とにかく親父の本を読みあさる毎日だったんだ。芸能人だのテレビアニメだのゲームだの、他の連中の話なんかまったく興味がなくて…気が付いたら、友達と言えるのは蘭しかいなかったんだ。確かに蘭は俺の話を聞いてくれた、でもそれは、俺の話に興味があって聞いていたんじゃない。蘭だって、本当はもっと他の友達みたいな話をしたかったはずだ。俺もそれはわかっていたさ。でも、蘭は黙って俺の話を聞いてくれるから、俺は蘭に甘えていたんだ。情けないことに、今頃になってわかったことだが、俺は、言いたいことを言っていたように思えてその実、これは蘭には難しすぎる、とか、あいつにこんなことを言っても理解できないだろう、とか、知らず知らずに自分の言ってることをコントロールしてたんだ。コントロールしなくてもよかったのは親父と博士くらいのものさ…俺がこの格好になるまで、それはもう当たり前のことで、全然苦にもならなかった。というか、コントロールの習慣そのものを認識していなかった。だが、歩美や光彦、元太たちに出会って、俺はそのコントロールの存在ってやつを、いやというほど思い知らされた」
体の震えが止まらない蘭。
「そして」
コナンは視線を引き戻して、哀の眼にピントを合わせた。
「お前に出会って、俺は生まれて初めて、同い年、しかも女の子、コントロールをまったくしなくてもいい話し相手を見つけたんだ。お前は、俺が何を話しても的確に答えてくれる、いや、期待した以上の返答が返ってくる…そしてお前の話は、俺の知らない、時には圧倒されるようなレベルの高い話だ。そんな話をしてくれるのは身近には親父か博士くらいしかいない…快感なんだ。話していてこんなに楽しい相手は他にいない」
哀は乾いた口を開いた。
「貴方、本当に、自分が言っていることの意味、わかってる?」
「もちろん」
「その先を口にすれば、それは…貴方の言葉を信じて待っている、蘭さんを裏切ることになるのよ」
「そうだな…確かにそうだ。だが、三ヶ月前くらいから言ってねえよ。待っててくれなんて、一言も。それどころか、最近じゃ苦痛でしかたないんだ、蘭に電話するのは…何で馬鹿正直に俺のことなんか待ってるんだって。ひどいよな…本当にひどい言い方だよ…だけど、どうしようもない本当のことなんだ」
哀は思わず天を仰いだ。
「…つらいわね、お互い」
「何が正当防衛よ、あの人は最初から狙って彼を殺そうとしたのよ」
「え?」
あまりにも唐突な言葉。哀はびっくりしてコナンに視線を戻した。
「お前にも話したろ。春江さんが言っていた言葉だ。おかしいとは思わねえか?」
「な、何? いきなり」
「この言葉を聞いていたから、俺は、奈良井さんが怪我をしたのは、森田さんと口論の最中にどちらかが激高した結果の事故だと、そう思っていた。だが実際は、奈良井さんが自殺をはかったんだよ。森田さんはそれを押し止めるのに必死になったはずだ。そんな状況なのに、どうして『狙って彼を殺そうとしたのよ』なんて言葉が出てくるんだ?」
「たしかにそうだけど、それが…」
「前半の正当防衛という部分と、後半の殺そうとしたという部分、これは言ってる対象が違うんだよ。後半はおそらく、本当の森田さんがソ連軍に自首したときのことを言ってるんだ」
「どういうこと?」
「武市さんも春江さんのことを愛していたんだ。しかし、本当の森田さんに彼女を奪われてしまう。ところが本当の森田さんは、手癖の悪い男だった。春江さんもそれを結婚後に知って悩んでいる。だから武市さんは、本当の森田さんがソ連軍に追われていることを利用して彼を排除しようとした…いや、もしかしたら武市さんはソ連軍に通報したのかもしれない。これから兵舎に侵入する奴がいる、と」
「そんな…」
「自首が身代わりの条件だということを、武市さんは春江さんに言っていなかったんだろう。おそらくこう言ったんだ。自分は罪を償うために自首するから、身代わりになって家族だけは日本に連れて帰してほしい、そう森田に頼まれた、と」
「春江さんは、その真実を五十年も後になって初めて知らされた、というわけね」
「そういうことだ」
哀は憮然とした表情だった。
「ふ…この話に何の意味がある、てな顔だな」
「そうよ。脈絡がないじゃない」
「人を本当に愛するってのは、それほどの覚悟がいることなんだ。たとえ他人を死に追いやってでも」
瞬間、哀の意識は飛んでいた。驚愕なのか感動なのか、それさえもわからない彼方へ。
「戦後の森田一家の写真を見ただろ…幸せそうだった…高光さんの様子を見てもそれはわかる。一家は、本当に幸せだったんだよ。武市さんは、その幸せを守ることに人生の全てを費やしたんだ…死に追いやった本当の森田さんへの慚愧の思いを、自らその名を名乗ることで、一人背中に負ってな…」
哀はじっとコナンの次の言葉を待っている。
「武市さんは、春江さんを心から愛していた…だからこそできたことなんだ」
哀は下を向いてぼそっと何か言った。
「ん?」
「本当に、いいの?」
哀はきっと顔を上げた。
「蘭さんを裏切ることになっても」
哀の思い詰めた表情をよそに、コナンはまるで落ち着き払っていた。
「正直なことを言う。そこまでの覚悟はできていないんだ、俺は…だけどな、俺は…」
「待って! その先の言葉を言ってはだめ。彼女にも言ったことはないんでしょ」
「あ、ああ」
「覚悟ができていないって正直に言ってくれたこと、今の私はそれだけで充分」
「…その意味を教えてくれないか」
「だって、私も覚悟できてないもの。他人の悲しみを知ったうえで、自分の幸せを追求するということの覚悟を」
見つめ合う二人。
「時間がかかりそうだな」
「そうね、お互いに」
「もっとも、その間にまた心変わりしちまうかもしれないがな」
「それもお互い様よ」
蘭は硬直したように立ちすくんでいた。涙が溢れて止まらなかった。
*****
「歩美ちゃん、いったいどうしたんですか?」
米花駅前のベンチに光彦と歩美は座った。すでに日はとっぷりと暮れ、二人は街灯の白い光に照らされていた。
歩美は、しょんぼりとうつむいている。
「気分でも悪いんですか?」
「ううん、怖いの」
「怖い?」
「コナンくん…私は、コナンくんは天才だと思ってた。ものすごく頭のいい…」
「ええ、そうですよ。彼はまさに天才です」
「違うの」
「え?」
歩美は顔を上げた。
「コナンくん、コナンくんは大人なのよ」
「え?」
「今日のコナンくん、あの話、あれは、小学一年生にできることじゃないもん!」
「え、う…ま、まあそうかもしれませんが…」
「私、私…コナンくんがどこか遠いところに行っちゃった、って思ったの。目の前にいるのに」
光彦はしばらく考えていた。そしてにっこり笑った。
「いいじゃないですか」
「え?」
「コナンくんの正体が何であったとしても」
「光彦くん?」
「僕は、コナンくんの友達ですから。たとえ、彼が別の星からやって来た宇宙人だったとしても」
「灰原さんは?」
「もちろん、灰原さんもです」
そんな光彦が、ものすごく頼もしく見えた。
「光彦くん…」
見つめられて照れてくる光彦。
「や、やだなあ…そそそんなに深刻に考えることありませんよ…それとも、このままコナンくんと灰原さんと絶交しますか?」
「何で? 何で絶交しなきゃいけないの?」
「絶交したくないんだったら、気にすることなんかないじゃありませんか。二人の正体なんて」
「う、うん…」
「少なくともあの二人は悪人じゃない。それは歩美ちゃんだってわかるでしょ?」
「そうよ。二人とも私や光彦くんや元太くんを、いつだって助けに来てくれるもん」
「そういうことですよ」
「うん、そうだよね。ありがとう、光彦くん」
明るさを取り戻した歩美。
「いやあ、そんな…ははは…」
しかし、歩美に向けた笑顔の裏で、光彦の頭脳はフル回転していた。
(まずは写真…確か学校の図書室に…)
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