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君を誰よりも愛する人
 日曜日、蘭は朝から部活のため学校へ。コナンは午前十時頃阿笠邸に向かった。
 阿笠邸では、哀が眠そうな顔をしてコナンを出迎えた。
「いらしゃい」
「どうしたんだ? ずいぶん眠そうじゃないか」
「ああ、髪の遺伝子抽出をね…」
「どうせ時間がかかるんだから、別にそんなに急がなくても」
「すでに結果は出てるわよ」
「え? まさか!」
「サワダヒロキくんの解析ツールよ」
「何だって!」
「ノアズアークが私に教えてくれたのよ、自分自身のコピーと遺伝子解析ツールがある場所をね」
 コナンはコクーンの中で聞いたノアズアークの言葉を思い出した。

 ゲームが終わって、サワダヒロキとの別れの時。
「ありがとう、コナンくん。とっても楽しかったよ」
 その時、彼は本当に嬉しそうだった。
「ゲームは終わった。しばしのお別れだ」
 彼の嬉しそうな笑顔の向こうに、探偵の勘が、危険なものを感じとっていた。
「…ヒロキくん、君はどこへ行くんだい?」
 思わず口をついて出た言葉は、なぜそういう質問になったのか、自分でもわからなかった。
 しかしよく見ると、彼の顔は、希望に満ちているように見えた。
「どこへも行かないよ。しばらく眠ることにする。まだ、僕が生まれるには早すぎたんだ。でも、きっと、いつの日かまた会える。君を誰よりも愛する人に託しておいたから…」

(俺を、誰よりも愛する人…)
 コナンは哀の顔を見ていた。
「どうしたの?」
「え、あ、いや…それで、ノアズアークは今どこに?」
「ディスクの中。時期が来るまで封印しておいてくれって頼まれたの。暗号化した複数のコピーを分散して保管してあるわ」
「頼まれたのはお前が退場した後か?」
「ええ、そうよ」
 コナンは哀の顔をさらにまじまじと見ていた。
「な、何?」
 思わず顔を赤らめる哀。
 視線を落とし、ふっと笑うコナン。
「ノアズアークは賢い奴だったな」
「え?」
「最後の勝者は俺だったわけだけど、俺がそんなことを託されても困っちまう。その点、お前なら安心だ。なるほど…」
 一人何事かに感心するコナンに、哀はちょっぴり不満を覚えた。だが、問い詰めれば、さっきの強い視線はなあに、ということになる。それもちょっと避けたいところだった。
「ノアズアークはもちろん知っていたんでしょうね、私たちの正体を」
 かすかに刺を含む言葉。しかしコナンは哀の心の動きを読めていなかった。
「ああ、だから最後の勝者として俺を、自分を託す者としてお前を、それぞれ選んだんだよ」
 そこで、コナンははっと思い出した。
「…おっと、それで、高光さんと宗太郎さんの関係は?」
 哀もとりあえず喫緊の話題に戻った。
「予想の通り。血縁関係は0」
 コナンの目が、あの、いつもの探偵の目に完全に戻っていた。
「やっぱりそうか…となると、やはりあの写真の男が…」
 哀も、いつもの表情に戻った。
「そっちも調べたわよ」
「え? どうやって?」
「スキャンしたデータを引き延ばして、あの写真の顔と子供のときの高光さんの顔を、三次元解析ソフトで比較してみたのよ」
「ふうん…で、コンピューターの出した結論は?」
「細かいところは省いて結論だけ言うと、あの二人は似ている。つまり親子関係の可能性がかなり高い。まあ、結局のところ人間の目で見た印象とさして変わらない結論しか出ないんだけどね」
 コナンは軽くうなづいた。
「これで、あの写真の人物と亡くなった泥棒が同一人物なら、全ての話の筋は通る」
 ふわあと大あくびをする哀。ぎょっとするコナン。
「あら、ごめんなさい」
 コナンは本気で驚いていた。
「…いや、お前もあくびを…そりゃするよな」
「当たり前じゃない。私を、何だと思っていたの?」
「いや、別に…ごめん」
 消え入るように、ごめん、と言葉を継ぎ足したコナンが、哀はとっても可笑しかった。
「そ、そうそう、この間焼いてたケーキ、ちょうど今が食べ頃なんだけど、食べない?」
 出かかった笑いをケーキの誘いでごまかすと、コナンはまるっきり子供のように、表情が一変した。
「お、いいねえ」
「その代わり、コーヒーは貴方が淹れてよ」
「ああ、いいとも」

 コーヒータイムの後、コナンと哀は阿笠邸の居間に設置してあるパソコンに向かっていた。阿笠邸はギガビット級の光ケーブルで外部に繋がっているから、ネットワークは快適そのものである。
 そこへ、博士が外出から帰ってきた。挨拶もそこそこに、二人は真剣な表情でパソコンに向かう。
「おや、二人とも熱心に何を勉強しておるのかな?」
「満州のことをちょっとね」
 コナンが画面を睨みながら答えた。
「満州?」
「ああ、妃先生のところで起きた事件だよ。亡くなった婦人が満州からの引き揚げ者だったんだ」
「ほう…実は、わしも満州生まれじゃ」
 二人の手が止まった。
「博士も?」
 コナンが問うと、博士は、うむ、とうなづいた。
「ああ。育ての親の転勤で昭和二十年の二月に日本に帰ってきたが、そのときわしはまだ一歳。だから何も覚えておらんがの」
「育ての親って?」
 コナンの直裁な質問に、哀ははっとした。
「わしの父親は地方の病院に勤めておったんじゃが、事故で死んでな、それで、子供のいなかった院長先生がわしを育ててくれたんじゃよ」
 コナンもしまったという顔。話の流れからして母親も、ということだ。二人は神妙な顔をするしかなかった。
「ああいや、すまん、こんな話をして」
「博士、ごめんなさい」
 コナンは深く頭を下げた。
「ああ、気にするな。わしらは家族、そのうち新一も、な」
 博士はにこやかにそう言うと書斎に入っていってしまった。
 哀はパソコンのキーボードから手を離して背伸びをした。そして手を下ろす。哀もまた非常に真剣な表情だった。
「人って、いろいろな過去があるものね」
「ああ」
 コナンはとりあえずパソコンに視線を戻す。
「…知らないほうが幸せ、ってこともある」
 少し考えて、哀はコナンの言葉の意味を理解した。
「高光さんと千里さんのことね」
 コナンは黙ってうなづいた。
「どうするの? ここらでやめておくのも一つの選択肢だとは思うけど?」
「確かにそうかもしれない。でもお前、言ってただろ、聞いてもらえる人がいるだけでも私は助かっているって…妃先生も同じなんじゃないかな」
 哀はコナンの意図を察して、やさしい眼差しで微笑んだ。
「貴方って、本当にやさしいのね」
 コナンは手を頭の後で組んでかすかに笑った。
「いや、単に好奇心旺盛なだけだよ。しかし、その好奇心が誰かの役に立つっていうのなら、一石二鳥じゃないか」
 一瞬、顔を見合わせる二人。そしてすぐに、二人は再びパソコンに向かった。

 昼過ぎ、二人はテーブルに向かい合って座って、サンドイッチを食べていた。遅い昼食である。博士は書斎にこもりっきりである。大事な論文の仕上げ段階、ということだった。
「だけど驚いたわ」
「ん? 何が?」
「貴方の手際の良さよ。包丁さばきといい、材料の選び方といい、大したものだわ」
「サンドイッチ作るくらいで大げさなこと言うなよ。それに、キャンプに行ったときも似たようなこと言ってたぞ」
「褒めてあげてるんだからいいじゃない」
 コナンは紅茶をゆっくりと飲み干した。
「さてと…」
 コナンの表情が真剣モードに入った。
「例の記念誌は所蔵してる図書館がない。インターネット検索にも引っかからない。宗太郎さんが『彼』を刺した事件も検索できなかった…新聞データベースにもなし、と…」
「しかたないわよ。ちょうど例の東京駅連続通り魔殺人事件の渦中だったんだし」
「それに、当初から死者の出た事件だったわけじゃないしな…」
 コナンはうーんと体を伸ばした。
「…こうなると、検事調書でも見たいところだな」
「妃先生ならコピーを持っているでしょうけどね」
「おっちゃんを使って何とか…いやまあ、最悪その事件について詳しいことはわからなくても、例の写真の人物が奈良井さんだと確認できればいい」
「手がかりは今のところ名前だけね…奈良井剛市」
 名前だけは高光から聞き出してあった。
「空き巣で一度捕まった…昭和四十七年か」
 コナンはデータベースからプリントアウトした短い新聞記事を眺めた。
「一応、新聞原紙を当たってみる?」
 記事を哀に手渡すコナン。
「文字の量からしてベタ記事…写真は載ってねえだろうな」
 哀も残念ながら同感だった。
「でもね…一つ疑問なのは、奈良井さんが森田邸に空き巣に入ったのは本当に偶然だったのかしら。七十三歳だったんでしょ」
「と言うと?」
「つまり、七十三歳になっても、まだ現役の空き巣常習犯だったのかしら、ってこと」
「とっくに現役引退していたが、何か別の目的があって、森田邸に忍び込んだってことか?」
「そう考えるほうが自然じゃない?」
「俺の意見は違うな。そもそも奈良井さんは森田邸に侵入したんじゃない。訪ねてやってきた」
「それはないんじゃない? だって、奈良井さんは病院で、空き巣に入ったことは認めたんでしょ」
「宗太郎さんと口裏を合わせていたとしたら?」
「どういうこと?」
「つまり、奈良井さんは宗太郎さんを訪ねてやってきた。あるいは宗太郎さんが招いたのかもしれない。話しているうちに何らかの理由で宗太郎さんと奈良井さんは口論となり、奈良井さんが包丁で怪我をしてしまった。おそらく双方ともそんなことになるとは思ってもいなかったんだろう…このままでは奈良井さんの素性が高光さんや千里さんにわかってしまう…冷静さを取り戻した二人は、空き巣と過剰防衛というストーリーをでっち上げた。春江さんの言っていたという約束がそれだ」
「ところが奈良井さんが亡くなってしまい、過剰防衛というシナリオを続ける必要はなくなった、と?」
「包丁だよ」
「え?」
「言ったろ、正当防衛の決め手は包丁の指紋だったって。つまり、奈良井さんが怪我をしたとき、包丁を持っていたのは奈良井さん自身なんだよ。宗太郎さんにとっては有利な状況証拠があるのに、あえて過剰防衛に甘んじるような態度を取っていると、何かの拍子に全てが明るみに出る恐れがある」
「それが妃先生のアドバイスだった、ってわけね」
 コナンは軽く首を縦に動かした。
「そうまでしてでも隠さなきゃならない過去の事件ってのがあったのさ、三人の間で。宗太郎さんが思い出すと恐怖のあまり暴れてしまうほどの事件がな。もちろん、高光さん千里さんに本当の父親のことを知られたくない、というのも大きな動機の一つだろう。二人ともな」
「なるほど…春江さんが妃先生に怨みを抱いたのは、高光さんと千里さんの父親である奈良井さんとの約束を、宗太郎さんが破ってしまった、それを妃先生がそそのかしたから…」
「春江さんとしては、直接宗太郎さんを責めるようなそぶりを高光さんに見せるわけにはいかなかった。なぜなら自分は奈良井さんになど会ったこともなく、事件にも一切関係ないのだから。夫の無罪放免は喜ぶべきことであり、妃先生には最大限の感謝をしなければらなかったんだ。だが、自分の死に直面して、妃先生に対して鬱積していた思いを、ああいう形でぶつけるしかなかった…妃先生が女だってことも影響しているかもしれない」
 哀は大真面目にうなづいた。コナンが初めて見る表情だった。
「…何だよ」
「さすがね…そんなこと、思いつきもしなかった。確かに、全ての話の辻褄がピタッと合うわ」
「だが、そもそも今回の事件の遠因となった五十年前の事件ってのはどんなものなのか、奈良井さんが重傷を負った経緯はどうだったのか…肝心の点がさっぱりわからない。それに、この推理にはまだまだ仮定の要素が多すぎる」
 腕を伸ばし軽く背伸びをする哀。それから穏やかな眼差しを向けた。
「いいんじゃない? 結局のところ、妃先生から直接話を聞かなきゃ事件の全容なんてわからないわよ」
「ま、それはそうなんだけどな。とにかく、奈良井さんが新京東病院薬剤部にいたことの確認だ。何とかして奈良井さんの写真か、病院の職員名簿を手に入れたいが…」
 そのとき、博士が書斎から出てきた。
「やれやれ、やっと終わったぞ」
「論文、完成したのか?」
「ああ、まあな」
 コナンは博士にサンドイッチの皿を差し出した。
「お腹空いてるだろ?」
「ああ、ありがとう…やれやれ、本当にやっと、完成したよ」
 博士はサンドイッチをぱくりと食べた。
「ん…これは旨いな。新一、お前が作ったのか」
「作ったってほどじゃねえよ。ただ材料を切って挟んだだけだから」
「いやいや、それにしても大したものじゃよ。それにお前が淹れるコーヒー、あれは、わしや哀くんがいくら方法を真似てもどうにもかなわん」
「コーヒーに関しちゃ、ガキの頃、親父からさんざんしごかれたからな。香りをかいだだけで捨てられたりして…ま、それから十年もやってるから」
「じゃあ、博士の紅茶淹れてくるわね」
「おお、すまんな」
 哀は台所へ向かった。
「ところで、哀くんから聞いたんじゃが、妃さん大変なんだそうじゃな」
「ああ…完全に疑いが晴れることはたぶんないだろう」
「ふむ…」
 博士は持っていた紙の束をコナンに差し出した。
「これは?」
「新京東病院の職員録のコピーじゃ。さっきファックスで送ってもらったんだがな」
「な…どうして博士が?」
「昨夜哀くんから聞いてな、ちょっと学生時代のつてを頼って調べてもらったんじゃ」
 コナンは驚きと疑惑の視線に対して、博士はまったくいつものようににこにこ微笑んでいた。
「どうしたの?」
 哀がお盆を持って戻ってきた。
「新京東病院の職員録を博士が…」
 哀も一瞬意外という顔をしたが、すぐに普通に戻った。
「ほんとに手に入れてくれたのね」
「ああ、厚生労働省の知り合いに頼んで探してもらったんじゃ」
 コナンは紙をめくる。そして薬剤部と書かれたページを見た。
 そこに、期待していた奈良井剛市の名前はなかった。逆に、予想だにしていなかった名前が記されていた。
(森田宗太郎?)


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