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まるで水曜日みたいに

作者:つちふる
 目覚まし時計が優しい子守歌を奏でている。
 耳障りな音で下品に騒ぎ立てるベルや、鼓膜を傷つけるヒステリックな音楽よりも、優しい子守歌のほうが却って目覚めが良いことを、いったいどれほどの人が知っているだろうか。
 ノノがそれを発見したのは最近のこと。
 最初は皆に教えてあげるつもりでいたけれど、すぐに考え直して口を閉ざした。勿体ぶったわけではない。どうせ誰も信じてくれないと思ったからだ。
 相変わらず下品な目覚まし時計が売れ続けているのは、ノノのように気づいても黙ってしまう人が多いからだろう。それはでも、仕方のないことだ。
「……あれ?」
 目覚まし時計を止めようとして、ノノはふと自分の右手がなくなっていることに気づいた。ベッドの中を探っても、小指一本見つからない。
 仕方なく左手で目覚ましのスイッチを切り、ぎこちない動作で着替えを始める。
 片手で着替えるのは思いのほか難しい。服を脱いで着替えるという当たり前の動作でさえ、普段の倍近い時間がかかってしまう。こんなことなら普段から練習をしておけば良かった。
 もう一度ベッドの回りを探し、見つからないこと確認してからノノは部屋を出た。



 食堂では、すでに朝食を終えた母がテレビを観ていた。 
「おはよう。ねえ、お母さん」
「遅いわよ。もう学校に行く時間じゃない。遅刻なんて許しませんからね。私は」
「お母さん、私の右手知らない? なんか見あたらないんだけど」
「知るわけないでしょう。いいからご飯を食べてしまいなさい」
「だって、そのせいで着替えるのに手間取ったんだよ。起きるのはいつもと一緒の時間だったのに。あっ、そうそう。ねえ、知ってる? 目覚まし時計はね、子守歌――」
「そんなの遅刻の理由にならないわ。普段から片手で着替えるようにしておけば良かったんだから」
「……わかってるよ」
 せっかく良いことを教えてあげようとしたのに、これだもの。
 ノノは、イスを乱暴にひいて腰をおろす。すっかり気分が悪くなってしまった。
 目の前の皿には、焼いてから十分以上は経過しているだろう二枚のトーストが乗っている。触っても温度を感じない。ノノはうんざりしながら、イチゴジャムを引き寄せた。
「目玉焼きは食べるの?」
「食べる」
「そんな時間がどこにあるの?」
「じゃあ、聞かないでよ」
 ジャムを塗るのに四苦八苦しつつ、ようやくトーストを口へと運ぶ。冷めたい上に湿気ていて、ちっとも美味しくない。ノノはますます不機嫌になる。
「兄さんは?」
「とっくに学校よ。あの子はあなたと違って真面目なんだから」
「私の右手のこと言ってなかった?」
「言うわけないでしょう」
「困ったなあ」
「別にいいじゃない。どうせあなたは左利きなんだし」
「それは、そうだけど」
 テレビの中で、ニュースキャスターが8時ちょうどを告げる。
「ほら、時間よ」
「はいはい」
 ノノはトーストをかじったまま席を立つ。
「行儀がわるい!」
「遅刻するよりはマシでしょ」
「人にぶつかったらどうするの」
「恋でも始めるよ」
 全力で走り続けたノノが教室に飛び込んだのは、始業のチャイムが鳴り終わるのと同時だった。



「お疲れさま」
 ホームルームが終わって机に突っ伏していると、友人が頭を撫でてきた。
 ノノは口をとがらせて 「散々よ」 とつぶやく。
 朝から右手はなくすし、トーストはまずいし、母には怒られるし、そのあげく全力で走ったのに遅刻扱いされる始末。
「今日はもう駄目だわ。何一つ良いことがなさそう」
「まだ一日が始まったばかりじゃない」
「ひょっとしたら、人生最悪の日かも」
「そんなことないよ。もっともっと悪い日がこれから沢山あるって」
「そうかな」
「絶対だよ」
 それでノノも安心した。この友人とは、もう十年以上のつきあいになる。家族の次に一緒に過ごした時間が長く、家族よりも信頼している相手だ。例えば母が 「右」 と言ったとしても、彼女が 「ビリジアン」 と言うのなら、ノノはビリジアンを選ぶだろう。
 友人にその思いを伝えたとき、彼女は何となく理解してくれた。
「つまり、お母さんが嫌いなのね」
「全然ちがうわ」
「だと思った」
 授業の準備時間というのに、誰一人として授業の準備をしない。
 友人はノノの机に腰掛けてくつろぎ、隣では男子がトランプで盛り上がり、後ろの席では女子たちがお菓子を持ち寄って話に空気を詰め込んでいる。
「そういえば、右手はどうしたの?」
「朝から見当たらないのよ。多分、兄さんが持ってるんだと思う。ほかに持っていく人いないもの」
「不便じゃない?」
「不便よ。そのせいで着替えに手間取ったり、パンにジャムを塗るのに苦労して遅刻したんだから」
 ノノは不機嫌そうに頬を膨らませ、友人はその頬をすかさず指で潰した。潰された口から唾が飛び、小さなガラス玉となって床に落ちる。
「右利き?」
「左利き。そこは気を遣ってくれたみたい」
「素敵なお兄さんじゃない」
「素敵なお兄さんは、そもそも手を取らないと思う」
「仲がいい証拠よ。私の弟なんて消しゴムを借りただけで――」
「おーい。クシノ」
 クシノと呼ぶ声に友人が振り向き、ノノも釣られるようにそちらを見た。教室の外から二名の女子が顔をのぞかせて手招きをしている。
「誰か呼ばれてるね」
「私よ」
 ノノは驚いて友人を見る。
「あなた、クシノって言うの?」
「知らなかった?」
「知らなかった。ちっちゃい時からずっと一緒にいるのに」
「親しすぎると、時々こういうことがあるよね」
「私の名前は知ってる?」
「ノノでしょ」
「なんで知ってるの」
「有名だもの。あなた」
「なんで?」
「さあ、理由までは知らないわ。有名ってことで有名なのかも」
「クシノってば!」
「はいはい。今行く」
 急かす二人に答えて、クシノはノノの机から飛び降りる。綺麗な着地だった。
「じゃあ、またね」
「ん」
 グーとパーをずいぶんな速度で繰り返しながら、クシノは二人の女子と一緒に自分のクラスへ戻っていった。
 彼女が去ったあとで、ノノは自分の機嫌が少し良くなっていることに気づく。
 きっと、友人の名前を知ることが出来たからだろう。あるいは、自分が有名人だと知って調子づいているのか。
 始まりこそ散々だったけれど、ひょっとしたら今日は良い一日になるのかもしれない。
 始業のチャイムが鳴る。



「教科書二十四ページ。ここを誰か読んでくれ」
 反応する生徒は、当然ながら誰もいない。
「じゃあ、指名するぞ」
 目があった生徒を指そうと教師はクラスを見回すが、彼らは下を見たりそっぽを向いたりして視線を合わせようとしない。一番前の生徒に至っては、鏡を立てかけている。
 仕方なく、教師はカレンダーに目をやった。
「今日は… 二十一日か」
「明日は二十二日です!」
 出席番号二十一番の生徒が、すかさず発言する。
「昨日は十九日でした!」
 今度は二十二番の生徒。
「そうだな。じゃあ――」 
 ノノは目を閉じ、自分が当てられないよう神に祈る。
 神は信じていないけれど、神ならこまかいことは気にしないはずだ。
「ノノ。読んでくれ」
 案の定、教師はノノを指名した。
「なんで私なんですか」
 一応、聞いてみる。
「それは俺が聞きたい」
 思ったとおりの答え。
 やっぱり、今日はついていない日だったのだ。
 ノノは渋々立ち上がり、苦労しながら二十四ページを開いた。



 四種類の授業を終えたところで、昼休みになる。
 弁当を持参した生徒は思い思いの場所で食事をとり、それ以外の生徒は食堂へ向かう。
 普段は弁当を持参するノノだけど、今日は寝坊をして弁当を作れなかったため、クシノと食堂に来ていた。
「すごい並んでるね」
「いつものことじゃない」
「私、ここに来るの久しぶりだから」
 食堂は既に三つの行列ができていた。一見すると短い列に並ぶのが良さそうに思えるけれど、クシノによるとそれは初心者が陥りやすい誤りとのこと。優柔不断な生徒が一人いるだけで二三人の差は簡単にひっくり返るため、一番長かったはずの列が一番早くなるというケースも多々あるらしい。常連は、そういった生徒を避けて並ぶのだとか。
「シーザーサラダとクラブサンド。それから、デザートに杏仁豆腐ください。Bコースで」
「クラムチャウダーとかつ丼の大盛り。あと、デザートにカツ丼。Aで」
 食堂のメニューは三十種類以上、コースはAB二つに分けられており、Bが基本価格、AはBの四倍の価格に設定されている。量や味に違いはない。単純に値段が違うだけである。
 二人の並んだ列は軽快に進んでいく。クシノの目は正しかったらしい。
「ミネストローネとナポリタン、それからプリンください。Bコースで」
「同じメニューをAで」
 前の二人の会話を聞きながら、ノノはミネストローネを昼食の候補に入れる。どんな料理か知らないけれど、名前が素敵だ。
 うしろのクシノは携帯電話の電卓機能を利用して、真剣にカロリー計算をしている。デザートをどうするかで悩んでいるらしい。
「ダイエット?」
「そう。あと三キロで目標達成なんだけどね。パッフェを頼むと盛大にカロリーオーバー、ヨーグルトならぎりぎりアウト。どっちがいいと思う?」
「食べなければいいんじゃない?」
「食べなかったら食べられないじゃない」
「あ、そっか。目標を達成ったしたらどうするの?」
「好きな人に告白するわ。当然でしょう」
 当然のことだった。ノノもダイエットをして理想的なスタイルを手に入れたいとは思うけれど、好きな人を作るのが面倒でなかなか実行できないでいる。
「私は神様を信じてないから成功を祈れないけど、応援はするよ」
「恋愛って、人生の墓場探しだよね」
「いいお墓が見つかるといいね」
「うん」
 ノノの順番が回ってきた。 
「ええっと。ミネストローネと味噌汁。あと、茶碗蒸しも。それから、クルミをください。Bコースで」
 カウンターに置いたお盆の上に、次々と料理が載せられていく。ミネストローネがスープであることを、ノノはこのとき初めて知った。
「もし私が配膳人だったら、きっと注文の確認をしたと思うわ。だって、味噌汁とミネストローネの組み合わせなんて愉快すぎるもの」
 支払いをしながら、ノノは中年女性の配膳人を睨んでやる。
「もし私があんただったら、今日はスパゲッティを頼んでたよ」
 お釣りをノノの手の平に置きながら、配膳人は笑う。
「それが今日のお薦めメニューってこと?」
「私があんたじゃないってこと」
 料理の乗ったお盆を片手で持ちあげ、ノノはうしろで待ちわびているクシノに場所を譲った。
「先に行って席とっておくわ」
「ん。お願い」
「窓際でいい?」
「窓際がいい」
「食べないで待ってたほうがいい?」
「食べないで待ってくれたほうが嬉しい」
「わかった」
「すぐ行くから」
 しかし、クシノが席へとやってきたのはそれから三十分後のことだった。彼女の後ろに誰も並ばなかった意味を、ノノは今さらながらに理解する。
「おまたせ」
「その通りよ」
「じゃあ、食べよっか」
「そうね」
「いただきます」
「いただきます」
 熱々のホットサンドをかじるクシノ。
 冷め切ったミネストローネをすするノノ。
 静かな味噌汁。揺れるクルミ。
 響き渡るチャイム。

  ※

 昼食後の授業は、満腹感からくる眠気のせいでまともに受けることができない。
 教師のしゃがれた声は優しい子守歌。書き連ねられる英文は良質な睡眠薬。
 普段は騒がしい教室も、この時間だけは優秀で真面目なクラスさながらの静けさに包まれる。違うのは、優秀でも真面目でもないことぐらいだ。
「そう言えば先生な、恋人にプロポーズしたんだ」
 唐突な教師の告白に、机に突っ伏していた数人の女子が顔を跳ね上げた。ノノも閉じかけた目を開く。
「プロポーズ?」
「そう」
「えっ、いついつ?」
「先週の日曜日」
「一昨日じゃん」
 別の女子たちが身を乗り出してくる。色恋話はいつだって楽しいものだ。それが他人のものならば。
「場所は?」
「綺麗な夜景が見える、コンビニ」
「わあ、ロマンティック!」
「しかも経済的!」
「まあ、昼間だったんだけどな」
「恋人の返事は?」
「ていうか、先生のプロポーズの言葉を知りたい」
 教室がにわかに活気づく。いまや、男子さえ興味津々のていだ。
「じゃあ、これからその時の話を英語で書いていこう。興味のある奴は辞書を用意するといい」
 生徒たちは一斉にノートを開いて辞書を取り出す。いつのまにか眠っている生徒がいなくなっていることにノノは驚き、教師の鮮やかな手口に舌を巻いた。
 コツコツと黒板に書き連ねられていく丁寧な英文。詩的で難解な箇所は、辞書とイマジネーションを駆使して乗り切る。
 教室に響くのは、黒板に打ちつけるチョークの音、辞書をめくる紙の音、ときおり補足を入れる教師の声、相談しあう生徒たちのささやき。
 理想的な授業風景とは、このことを言うのかもしれない。
 ノノの訳が正しければ、教師はふられたことになる。

            ※

 一日の授業を終え、部活で心地よい冷や汗を流し、陽光が山の裏側を照らし始める頃、ノノは家の玄関のノブを回す。
「ただいまー」
 返事はない。父も母も八時を過ぎないと帰ってこないので、これは予想していたことだ。鍵は、兄が開けたのだろう。
「ただいま」
 ノノは下駄箱の上に飾られている電子フクロウの頭を叩いた。
 機嫌が悪いのか、フクロウは何も答えない。電池が入っていないせいもあるだろう。
 自分の部屋に戻って着替えをすませると、ノノは隣の兄の部屋へと向かった。そろそろ右手を返してもらわなければならない。
 ノックを三度。左手で。
「兄さん、いる?」
「……また、かけ直すよ。…いや、そうじゃなくて…妹が来たから…うん…うん……わかった。じゃあ、切るよ……うん。おやすみ……」
 数秒の空白。
「…いるよ」
「入っていい?」
「どうぞ」
 部屋に入った途端、風がふわりとノノの髪を揺らし、鮮やかに染めあげられた枯葉が足下に舞い落ちた。
 見上げれば一面の青空。ぽつりと浮かぶ真綿色の雲。遙か上空を旋回している二つの影は、トンビだろうか。
「もう、秋ね」
「その辺、水たまりがあるから気をつけて」
 兄に言われて見た床には、なるほど、確かに小さな水たまりが出来ていた。アメンボが三匹、水面のリンクを滑っていく。
「なんだか水捌けが悪くなってない? 雨が降ったの一昨日でしょう」
「この家も古いからね。あちこちガタがきてるんだ」 
「いよいよリフォームの時期かしら。私、ちょっとした注文があるんだけど」
 目を輝かせるノノに 「そんなお金ないよ」 と、そんなお金はないよという表情で兄が答える。
「え、あるでしょう。うちは共働きだし、四人家族だし、生活は質素だし、お金はあるでしょう」
「僕たちの学費だって馬鹿にならないし、家のローンだって残ってる。何よりこれから冬だろう? 暖かく過ごすためには、どうしたって沢山の札束がいるんだよ」
「うちは暖炉だものね」
「そういうこと。ノノが思うほど暮らしは楽じゃないんだ」
 飛ぶことに疲れた一羽のトンビが、優雅な仕草でテーブルの上へと降り立つ。間近で見るとずいぶんと大きい。少し欠けているクチバシがユーモラスだったので、ノノは携帯電話で写真を撮っておくことにした。
「そういえば、さっき誰かと電話していたでしょう。相手は誰? 恋人?」
「あれは電話をしてるふりだよ。でも、そうだな。恋人との会話を妹に邪魔されたという設定だったから、恋人との電話であってるかな」
「美人さん?」
「美人ではないけれど、声がとても綺麗なんだ。なにせ、僕は彼女の声に惹かれたことになってるんだから」
「兄さんは理想高いから、きっと素敵な人ね。いつか会わせてよ」
「いつか、めぐり逢えたらね」
 部屋の上空を旋回していたもう一羽のトンビが、独特の鳴き声を響かせる。それが合図だったのだろう。テーブルでくつろいでいたトンビが面倒くさそうに翼を広げ、空へと舞い上がった。
 上昇気流を捉えて、あっという間に手の届かないところへ。
 抜け落ちた一枚の羽根がノノの足下に落ちる。かがんで右腕を伸ばしたけれど、つまみ上げるための手がない。それで、この部屋に来た理由を思い出した。
「そうだ。私、右手を返してもらいにきたのよ。今日一日、不便でしかたなかったんだから」
「ああ、勝手に借りて悪かったね。よく寝てたから、起こすのも悪いと思ったんだ」
「何に使ったの?」
「それが、お前のことを好きな友人がいてさ。付き合うのは無理だけど、せめて手を繋ぎたい、一日だけ貸してくれないかって言うから」
 兄はカバンをまさぐり、中身を次々とテーブルに置いていく。教科書。ノート。辞書。サイコロ。ペンケース。思い出。カビの生えた食べかけのコッペパン。なかなか右手が出てこない。
「付き合うのは無理ってどういうこと? そんなの会ってみなければわからないじゃない」
「お前、好きな人がいるだろう」
「そりゃ、私だって年頃だもの。好きな人くらい、いるわ。でも、私に好きな人がいるからあきらめるっていうのは違うでしょう。兄さんは大好きなコッペパンを、カビが生えたからといって食べるのを諦める?」
「どうかな。食べられるところを探すかもしれないね。それが本当に好きだったら」
「私なら諦めるわ」
 カバンの中身が全てテーブルに並べられても右手は見あたらなかった。兄は申し訳なさそうな顔でノノを見る。
「ごめん。どうも机の中に置き忘れてきたみたいだ。多分、この食べかけのコッペパンと間違えたんだと思う。こっちは持ち返るつもりなかったんだ」
「よく似ているものね」
「こうしよう。明日の昼休み、三人で昼飯を食べる。僕とノノと、友人の三人で。そのときに右手も返すよ。友人も喜ぶだろうし」
「それはいいけど、今日の夕飯はどうするの。私は片手じゃ料理できないし、母さんだっていつ帰ってくるかわからないわ」
「食べなければいい」
「…ああ」
 なるほど。
 ノノが自分の頭の固さを痛感するのは、こんな時だ。時々、オートミールのような兄の脳味噌が羨ましくなる。
「さて、と。僕はお風呂に入って、夕食のはずだった時間で部屋の掃除でもするかな。せめて水たまりは取り除いておかないとね」
 兄は立ち上がると、両手を組んで身体を大きく後ろへそらせた。
「やあ、今日も夕焼けが綺麗だ」
 つられてノノも空を見上げた。一日のうちで、最も空が見上げられる時間帯。朱色はますます深みを増していく。
「照れているんだろうね。きっと」
 ノノが口にする前に、兄がつぶやいた。
 日の入りを知らせる音楽は、夜が始まるまで奏で続けられる。
 二羽のトンビはいつのまにか飛び去っていた。

  ※

 料理のない夕食は、あと片付けをしなくて済む。これは大きな発見だった。
「座るだけの夕食と言うのも悪くないわ」
「美味しくないけどね」
「不味くもないでしょう」
 食事を終え、兄が観たいテレビがあると言い出したので、ノノはいつもより早い時間にシャワーを浴びることにした。パジャマを持って洗面所に入り、衣服を洗濯カゴへと放り込んでいく。鏡に映る自分の身体を見て、ため息を一つ。せめて、あと、五センチ。
 この家の歴史と共にあり続けている旧式のシャワーは、熱湯と冷水のバランスを調節し、絶妙な温水を創り出すことから始めなければならない。わずか数ミリのひねりで温度は激しく上下し、加減を少し間違えただけで肌に当てられない代物になってしまう。時には繊細に。時には大胆に。シャワーで適温を出すと言うことは、一種の創作活動なのだ。
 芸術的に仕上がった湯水を浴びながら、ノノは近ごろ流行っている歌を口ずさむ。知っているのは曲名だけなので、歌詞とメロディは自然と彼女のオリジナルになる。流行るだけのことはあって、悪くない曲だ。
 身体の汚れをすっきり落とし、全身がほぐれたところでシャワーを止める。次に入る兄のために湯船の温度を確認してから、ノノは風呂を出た。
「お風呂、あいたよ」
 兄は右手をヒラヒラと振るだけで、こちらを見ようともしない。余命一ヶ月の女の子が余命一週間の地球で生きていくドラマに夢中だ。
 ノノは振り続ける兄の手をそっと膝の上に降ろしてから、自分の部屋へと戻った。
 いつもならこのままベッドに入り、目覚まし時計をセットして眠りにつくところだけど、今日は夕食が短かったせいで時間がずいぶんと早い。
 ノノはしばらく思案したのち、久しぶりに日記を書くことにした。
 勉強机に腰掛け、引き出しから取り出した日記帳の新しいページを開く。
「さて」
 何を書こう。
 このところずっとサボっていたので、いまいち書き方がわからない。ただ一日を振り返るだけではつまらないし、詩的に書くには才能がないし、脚色したら日記にならない。
 参考にしようと前のページを見ると、日付が七年前の八月五日になっていた。
 文章はすべて平仮名で、

   きょうはきのうといっしょでした

 と、書いてある。
 その前のページは四月十日なので 「きのうといっしょ」 と書かれても、その昨日に何があったのか全くわからない。我ながらあきれてしまう。
 当時の自分に会えるなら、一言いってやるところだ。せめて 「今日」 ぐらいは漢字で書けと。
 充電器に差したままの携帯電話が鳴り出したのは、ノノが苦労して日記に日付を入れたときだった。ディスプレイには 『母』 の文字。通話ボタンを押して、耳にあてる。
「はい」
「あ、ノノ?」
「…どちら様ですか?」
「お母さんよ」
「お母さん?」
「そう言ってるでしょ」
「びっくりした。私、てっきりお母さんだと思ったから」
「今、何やっているの?」
「日記に日付を入れたところよ。お母さんは、まだ仕事中? 後ろのほうがずいぶん賑やかだけど」
「仕事はおしまい。今はレストランでマサヒコさんと食事中なの」
「誰それ?」
「お父さんよ」
「あ、マサヒコって言うんだ」
「だから、今日の夕飯はノノとお兄ちゃんだけで食べてね。何なら出前でも」
「もう済んだよ」
「そう。だったら電話することもなかったかしら。そろそろ、携帯電話の充電がなくなりそうなのよ」
「帰りは遅くなるの?」
「ええ。先に休むといいわ。鍵は開けておいてね」
「わかった」
「じゃあ、おやすみなさい」
「あ、お母さん」
「なあに」
「ひとつ、聞いていい?」
「ええ。でも、もう充電が――」
「お母さんの名前、何て言うの?」
 ノノの耳に届いたのは母の声ではなく、ツー・ツーと規則正しく繰り返される不通音だった。ずぼらな彼女らしい失敗だ。
「まあ、いいけどね」
 自分の携帯電話を充電器に戻して、ノノはイスから立ち上がった。
 背中を反らせて身体を伸ばし、深呼吸のようなあくびを二度繰り返す。先ほどから断続的に振動を感じるのは、兄が部屋の掃除を始めたからだろう。必要のない物を片付けようとして、必要な物がないことに気づいたのかもしれない。完璧主義者の彼は、片付けるとなったら徹底的に片付けてしまう。
 ひときわ大きな物音。壁に備えつけられた棚から、何冊かの本が落ちてきた。
 少し心配だ。
 明日の朝、兄が残っていればいいけれど。
 落ちた本を棚に戻していると、ふと振動で傾いた掛け時計が目に入った。 
 文字盤の頂点で今にも交わろうとしている短針と長針を見て、ノノは顔を赤くする。
「ちょっと。そういうことは私が寝たあとにしてよ」
 慌てて部屋のライトを消し、急いでベッドの中へともぐり込む。
 冷たい布団はまるで現実のよう。手探りで目覚まし時計のスイッチを入れた。
 明かりのない部屋で少しずつ目を細めていくと、そのうち目を閉じているのか開いているのかわからなくなってくる。
 この曖昧な感覚が、たまらなく心地よい。
「おやすみなさい」
 今日は久しぶりに良い夢が見られそうだ。晴れたら洗濯物を外に干して、太陽の光をたっぷり吸わせてあげよう。それから羊たちを小屋から出して、草原に連れていってあげないといけない。バスケットにお菓子を詰め込んで。お気に入りのハーモニカを吹きながら。
 ノノは口元をほころばせて眠りに落ちていく。
 きっと、楽しい夢になるはずだ。
 喩えるなら、そう。
 まるで――




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