挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
ジェノヴァの瞳 ランシィと女神の剣 作者:河東ちか

 ― 番外編 ―

69/74

 神の慈しみを ―雪降る宿のちいさなお話― <後>

 水差しに手を伸ばそうとしたままのグレイスの姿を見て、パルディナはいくらか気の抜けたような笑みを見せた。
「起きて大丈夫なの?」
「ええ、だいぶ寒気はおさまりました」
「ならよかったわ」
 言いながら、部屋の中に体を滑り込ませ、扉を閉じる。
 こんな夜更けに、美しい歌姫が部屋に忍んできた、などという色っぽい発想は、今のグレイスには残念ながらできなかった。彼女はランプのほかに、替えの水差しを乗せた盆を抱えている。気にかけて様子を見に来てくれたのだろう。
「飲むならこっちにしたら? 樽から汲んでもらったばかりだから、まだ冷たいわよ」
「ありがとうございます。……こんな時間にすみません」
「大丈夫よ。割と賑わってる町みたいだし、二・三日、ここでゆっくりしましょ」
 パルディナはランプと盆をテーブルに置き、新しく持ってきた水差しからカップに水を注いでグレイスに手渡した。
 満たされた水は氷水のように冷たく、そのまま喉を通すのがためらわれるくらいだった。少しの間口に含み、ゆっくりと飲みこむグレイスの横顔を、パルディナは目を細めて眺めている。
「あなたも、安心して気が緩んじゃったのね」
「え……?」
「ランシィをおじいさんから預かったつもりで、守ってあげなきゃって、一人で一生懸命だったんでしょ」
 そうなのかも知れない。それまで張り詰めていた気持ちが、仲間が出来たことで緩んでしまったのだろう。ランシィの祖父と同じだ。
 少なくとも彼らと一緒なら、ランシィをきちんとした環境で毎日休ませることができる。こうして自分が体調を崩しても、安心してランシィを任せられる人がいる。
 それに、弱っている時に、側にいてくれる誰かがいるのは、それだけで確かに有り難いことだった。
「もう少し、飲む? それともお水より、温かいものがいいかしら」
「いえ。さっぱりしました、ありがとうございます」
 空になったカップを手に持ったまま、グレイスは笑みを見せた。パルディナは肩をすくめると、ふと窓の方に歩き寄った。薄暗い部屋の中でも、金色の髪がランプの光に映えて、彼女の周りだけが星明かりをまとったように輝いて見える。
 パルディナはカーテンを引き、窓を開け放った。溜まった「悪い気」を追い出すためだろう。雪の匂いを含んだ風が歌姫の髪をゆらし、グレイスの頬に触れて、部屋の暗がりの中に溶け込んでいく。
「雪はやんだみたいね、このまま晴れたら、明日は雪遊びが出来るかも」
 窓枠についた雪に指先で触れると、パルディナは窓を閉じ、振り返った。後ろ姿をぼんやり眺めていたグレイスは、目があって慌てて居住まいを正した。正してから、なぜ慌ててしまったのか、考えてしまったが。
「欲しいものはない? なにか食べたいものがあるなら、宿の人に頼んで持ってくるけど」
「いえ、食べ物は特に……」
 戻ってきたパルディナに問われ、グレイスは首を振り、なにか言いかけて結局口を閉ざした。
 パルディナは目をしばたたかせ、
「……なぁに? 眠くなるまで、そばにいて欲しい?」
「そ、そういうことはないんですが」
「でも、なにか言いたそう」
 やはり、察しのいい娘なのだと思う。舞台用の化粧を落としたパルディナは美しいけれどあどけなくて、どう見てもグレイスよりも年下なのに、自分など及ばない観察力と洞察力を持っているようだ。
 グレイスの手から空になったカップを取り上げてテーブルに置くと、パルディナは彼が横になっている寝台に、当然のように腰かけた。組んだ足に頬杖をつき、こちらに顔を向けて、グレイスが話を始めるのを待っている。
「……さっきの、『窓を時々開けて悪い気を追い出す』という、あれですが」
 グレイスは少しためらった後、口を開いた。
「あれで、思い出したことがあるんです」
「うん?」
「僕はこう見えて、子供の頃はとても体が弱かったんですよ」
 所属の町の教会建屋で過ごすより、勤めとして旅に出ている時間が長くなってから、昔のことなど思い出す余裕もなかった気がする。ランシィと出会ったこと、パルディナの養父であるユーシフから彼女の幼少の話を聞いたことが、自分自身を振り返るきっかけになったのかも知れない。
「男の子は、小さい頃は割と体が弱いって聞くわね」
「そうみたいですね。でも、僕はあの頃、体が弱いことは罪なのかと、思わされることが多くありました」
 思い返す機会が今まであまりなかったのは、ひょっとしたら、思い出すことを無意識に避けていたのかも知れない。

「叔父に、武勲を誇る軍人がいました。それはもう、その国なら知らない人はいない、英雄ともいえるような人で、親戚中の誇りでした。僕の最初の名前は、祖父母がその叔父に頼んでつけてもらったんだそうです」
「最初の名前?」
「はい。最初に頂いた名前は、やはりその国では誰でも知っている、古い時代の武人のものでした。男として生まれたのだから、国を護れ、人を護れ、強くあれということだったんでしょう。なのに僕は、いつまでたっても体が弱く、よく体調を崩すので、ほかの子供達と外で遊ぶのもままならないほどでした。
 叔父は段々と、僕を疎んじるようになったようです。自分の甥なのに、自分が名前をつけたのに、あんなにひ弱だとは情けないと、ことあるごとに言われて、祖父母も両親も肩身が狭かったようですね。僕自身も、床に伏せながら、外で叔父と稽古のまねごとをして遊ぶ親戚の子供達の声を聞いているのは寂しいものでした。僕は本当はとても悪い子供で、その罰でこんなめにあっているのかと、考えていたようです。今となっては、その頃の自分の気持ちもはっきり思い出せないんですが」
 パルディナはなにか言いかけ、それでも黙ったまま頷いて、話の先を促した。
「あれは、僕が五歳になるかならないか頃だったと思います。僕は今のように、高い熱を出して、それが数日間下がらないまま、意識も曖昧な状態が続いていたそうです。そこにたまたま、旅をしていたカーシャムの神官が、宿を求めて叔父を訪ねてきました。宿を頼むなら叔父の所がいいだろうと、途中出会った人に紹介されてきただけのようですが、カーシャムの神官と言えば、僕が言うのもなんですが、時と場合によっては死の先触れとまで言われるような存在ですからね。周り中が、僕はもうダメだろうと思ったそうです」
 死と眠りの神カーシャムに仕える神官は、訪れる場所の状況によって歓迎され方の度合いが変わる。人が亡くなったばかりの所に行き合えば、死者がカーシャムの祝福を受け、迷いなくその懐に迎えられた証と歓迎される。しかし、生死の境を彷徨うような病人や怪我人がある場所に行き合うと、口には出されないまでも、死の先触れに来たのだと不吉がられる事が多い。
「……で、もう先の長くない子供がいるから最後の祝福して欲しいと叔父に言われ、やってきたその神官がしたことは、なんだったと思いますか?」
「したこと……?」
「彼はみんなの前でこう言ったそうです。
『この子にその名前は、少々荷が勝ちすぎるようだ。いろいろなものが小さな彼を頼って寄ってきて、逆に弱らせている。一度その名前は神に返し、この子には新しい名前をあげたらどうだろう』
 そうして彼は、僕の最初の名前を木の板に書き、それをみんなの前で燃やすことで『名前を神に返し』、僕に新しい名前をくれました。『この子は今、新しい名前で、改めて生まれてきたのだから、しばらくは赤ん坊のように大事にしなさい』と。そうすることで、彼はまず、名付け親の叔父から、僕がそれ以上疎まれないようにと、取りはからってくれたんですね。
 そして彼は、祖父母に言いつけて、薬の材料を揃えさせました。できあがったのは、さっきあなたが飲ませてくれたような、『体を温め、鼻の通りをよくして、眠りやすくする』加えて、『いくらか熱を下げる』効果のある薬でした。熱を下げる効果のある材料を使うのは、よほど容態がひどい時だけにするようにとも言われたそうです。……薬の調合以外にも、彼は色々なことを教えてくれました。体調を崩したら、体を温かくし、塩と糖蜜を混ぜた白湯をこまめに飲ませなさい。悪い気が溜まらないように時々部屋の風を入れ替えて、なにより安心して休めるようにしなさいと」
「……レマイナ教会の司祭様から、教えてもらったことと同じだわ」
「そうなんです。僕は生来の体の弱さだけでなく、体調を崩せば責められて気が休まらず、叔父の周りは賑やかで周囲は常に騒がしかった。静かに休むのも難しい状態だったから、余計に回復しづらかったんでしょうね」
 初めて飲むはずなのに、なんだか懐かしかった薬の味。あれに糖蜜が混ぜてあれば、すぐにあの頃の記憶が蘇ったのかも知れない。どちらにしろ熱で朦朧としていたから、確かに思い出せたという保証はないが。
「あなたに『悪い気が溜まらないように風を入れ換える』と言われるまで、すっかり忘れていました。新しい名前をもらうなんて、大事な出来事だったのに」
「それが、今の名前なのね」
「はい。でもそういえば、名前を書いた木の板を燃やすことで、一度死んだことにする、なんて、神官学校でも聞いたことがありません」
「大陸の中央部じゃ聞かない風習ね。遠い東国では、人型の紙を災厄からの身代わりにするおまじないがあるそうだけど……。でも、とっさにそんな機転をきかせるなんて、なかなか出来ることじゃないわ」
 一度思い出したら、様々なことが少しづつ蘇ってきた。感心したようなパルディナに、グレイスはひとつ頷くと、
「……そういえばこの名前は、別の大陸の、遠い異国の言葉に由来していると聞きました。ひょっとしたら、異国の風習などにも知識がある方で、それで名前を変えることを思いついたのかも知れないですね」
「へぇ? どんな意味なの?」
 懐かしむように、グレイスは笑顔を見せた。
「……『神の慈しみを』と」
「まぁ、素敵な名前じゃない。あなたらしいわ」
「そうですね。おかげで、いろいろな方に助けてもらえてるんでしょうね、今みたいに」
「馬鹿ね、素敵だけど、あなたらしいって言うのはそうじゃないわよ」
 それは呆れたような、でも優しい声だった。思わず視線を向けると、パルディナは柔らかく目を細めた。
「気が緩んだとたん風邪を引いちゃうくらい、人のことに一生懸命になってる、名前と同じようなお人好しだって言ってるの。こんな時くらいは、自分をもう少し甘やかしなさい。感謝されるのは、ちゃんと治ってからでいいわ」
「はぁ……」
 表情は優しいのに、褒められているのかけなされているのか、今ひとつ釈然としない。でも、こうして口にしたら、なんだか気分まで軽くなった気がした。適度に疲れたらしく、眠気が再び戻ってきたようだ。
「じゃあ、そのお言葉に甘えて、また休ませていただこうと思います。話を聞いてくれて、ありがとうございました」
「眠るまでそばにいてあげてもいのよ?」
「いえ、それはそれでいろいろと休まらない気がするので……」
「なによ、失礼ね」
 可愛らしく頬をふくらませたパルディナは、失言だったかと焦った様子のグレイスを見て、すぐにおかしそうに笑顔を見せた。
「毛布をかけ直してあげるから、ちゃんと横になりなさいな」
「いえ、それくらいは」
「いいから! 肩までちゃんと隠さないと、また冷えちゃうでしょ」
「はぁ……」
 今度は子供扱いだ。渋々横になると、パルディナは寝台から腰を浮かせ、小さな子供を寝かしつける母親のような仕草で、グレイスの肩まで丁寧に毛布をかけ直した。流れ落ちた金色の髪が、グレイスの耳に触れる。
 そのパルディナの顔が一瞬、自分の真上に来たと思ったら、
「……!」
 母親におやすみの抱擁をされる子供のように、歌姫に両肩を抱きすくめられていた。毛布越しに胸に触れる柔らかな感触に思わず身を固くしていると、グレイスの顔に触れるほど間近に、パルディナは頬を寄せ、
「おやすみなさい、坊や」
 そう囁いて体を離し、ランプと温くなった水差しを持って、さっさと部屋を出て行ってしまった。グレイスは体を硬くしたまま、閉じられた扉を呆然と眺めていたが、
「~~~!」
 またからかわれたのだ。気がついたとたん、引いていた熱が急激に上がっていくような、めまいに似た感覚に襲われ、グレイスは奥歯で抗議の声をかみ殺した。


 その叔父は数年後、会合のために出向いた別の町で流行病にかかり、そのままあっけなく亡くなってしまった。歴戦の武勇も、強靱な体も、それだけでは病に対する確かな武器にはなりえないのだ。
 彼の遺体は町に帰ってこなかった。流行病の起きた町の領主が、レマイナ教会、カーシャム教会と協力し、病に倒れた者たちの遺体から更に『悪い気』を広めないように対処したのだという。当時は抗議の声もあったというが、実際に流行病が下火になったことで、後々もその対処法は多く用いられるようになった。
 死と正しく向き合うことは、生きることと正しく向き合うことなのだ。


 目を覚ますと、カーテンが開け放たれて、窓から差し込む柔らかな日差しが室内に溢れていた。
 枕元には、汗をかいた水差しと並んで、皿の上に乗せられた小さな雪だるまが、暖かい室内で一生懸命形を保っていた。ランシィが一生懸命握ってくれたのだろう。
 窓の隙間から、外で遊ぶ子供達の歓声が聞こえてくる。時折混ざる大人の女性の声は、パルディナのようだ。
 グレイスは起き上がり、少し幸せな気分で雪だるまの頭を指先で撫でた。それから、窓から外を眺めてみようと、ゆっくりと寝台から立ち上がった。


神の慈しみを ―雪降る宿のちいさなお話― <了>
次回から四章です。
少し準備のお時間を頂きます。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ