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ジェノヴァの瞳 ランシィと女神の剣 作者:河東ちか

第三章 風来人アルジェスの章

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第七話 2

 昼を済ませ、ランシィが後片付けや洗濯の手伝いをしている間に、カウンターに載せておいた本はなくなっていた。アルジェスが昼食と一緒に、屋根裏の『誰か』に持っていったのだろう。
 アルジェスは歌姫との逢瀬を夜に控え、気もそぞろといった様子だ。買い物に出たユーゴとランシィに途中までついてきたものの、『用事を思い出した』とふらりといなくなってしまった。どうやら歌姫の舞台に持っていく贈り物でも、選びに行ったらしい。
 買い物から戻ると、既にギリェルの姿もなく、モイセがひとり、二階の掃除に精を出していた。
「早めに小麦をこねておくか。少し寝かせておくとパンは旨くなるからな」
 というユーゴと一緒に、ランシィはパンになる小麦をこね、それに干し葡萄を混ぜた。あまり入れすぎるとパン生地がまとめにくくなるというので、入れたのは麻袋の半分ほどの量だ。自分の身から出た大粒の砂糖が甘い匂いを漂わせる、とてもよい干し葡萄だった。
「この前の胡桃もまだあったな、生地の半分はあれを入れるか」
 ユーゴがランシィに背を向け、吊り戸棚を探っている間に、ランシィはポケットに忍ばせていた小さな紙包みを取り出して開き、砂糖ひと匙ほどの量の粉を、こねていた生地の中に混ぜ込んだ。
 粒は全体的に粗めだが、一見砂糖や塩と見分けがつかない。もし溶けきらず舌に触ったとしても、『小麦か干しぶどうについていた砂だろう』程度にしか感じないだろう。

『……これはね、眠り薬なんだよ』
 酒屋の事務所でランシィにそれを見せ、キアラはこう説明した。
『でも、これの面白いのは、飲み込んでもすぐに効き目がでないことなんだ。ひとによって差はあるみたいだけど、一般的に言われてるのは四刻(八時間)。昼に口に入れると、夕飯が終わった後くらいからなんだか眠くなってくる。夕飯に混ぜれば、効いてくるのは真夜中過ぎだ。寝ずの番をしている人間には、一番眠くなる時間帯だろうね。戦争中は、敵の中に忍んだ間者が夕飯用の大鍋に混ぜて、見張りの兵士が眠り込んだ隙に捕らわれた味方を助けた、なんて話もあるんだよ。で、これが……』
 別の紙包みを開いてキアラが取り出したのは、白い繊維で粗く織られた、薄い紙のようなものだった。二枚ある。
『これは、解毒剤というか……、この眠り薬の効き目を無効にする、中和剤といったところかな。あまり美味しくないけど、薬を飲む前に食べておけば大丈夫。これを一枚、さっきタリニオール卿に渡されたしおりと一緒に、本に挟んでおくんだ。屋根裏にいるのが本当にオルフェシア姫なら、これを見れば意味が判るだろう。王族の人たちは、身を守るために様々な事を学ぶからね』
『もう一枚は?』
『ランシィが食べるに決まってるじゃないか』
 そうしてキアラは、瓶に挿された紙に書かれた内容の説明を始めたのだ。
 それはパルディナが、タリニオールとディゼルトに会い、互いに新たな情報を得たことで、タリニオール達が決断する可能性のある事柄と、それに対してランシィが望むかも知れない事柄を推測したものだった。それに対し、なにを用意しどう対処すればいいかも、箇条書きにしてある。
 パルディナの並外れた洞察力もさることながら、こうした薬がすぐ用意できるキアラもまた不思議な存在だった。ただの酒屋の女主人にしては手際がよすぎる気がしたのだ。もちろん地元で長く商売をしていれば、それなりの横のつながりというものもあるものだろうが。

 日が傾きかけた頃合いに、アルジェスが戻ってきた。機嫌良さそうに、高そうな花束を抱えて入ってきたアルジェスは、厨房の中でユーゴと並んでパン生地を小分けに形作っているランシィを見て、ちょっと気が引けた様子を見せた。あれだけ歌姫を懐かしんでいたランシィをさしおいて、パルディナと頻繁に会っていることに、どこか罪悪感に近いものを抱いているのかも知れない。
「前のよりも上手になってるじゃないか。ランシィは料理人の素質があるのかもな」
 これから食事付きの公演に行くというのに、アルジェスは焼き上がったパンを息で吹き冷ましながら口に放り込んだ。
「だから、いい嫁さんになれるぞくらいは言ってやれって」
「なんだ、そんなものになったら、好きなようにあちこちを旅する事もできなくなるぞ。お、干しぶどうのパンって旨いんだな」
 ユーゴの用意した惣菜には手をつけなかったのは、やはりさほどものを食べたい気分ではなかったのだろう。それでも、ランシィが作ったパンを二つ腹に収めると、アルジェスは心ここにあらずといった様子で二階に引っ込んだ。
 ランシィも、あまり食欲はなかったが、普段と違う素振りを見せるわけにはいかない。自分の分を食べ終えた後は、将棋を指すモイセとユーゴを横で眺めていた。あっさりとユーゴの負けが決まった頃には外はすっかり暗くなり、よそ行きに着替えたアルジェスが花束を抱えて二階から降りてきた。
「じゃ、ちょっと出かけてくらぁ。ランシィはちゃんといい子にしてるんだぞ」
「ランシィよりお前の方が心配だよ」
 モイセの皮肉も耳に届かない様子で、アルジェスはランシィの頭をぽんと撫でて、店を出て行こうとした。
 その後ろ姿を目にしたとたん、ふと、もう会えないのかも知れないという思いが胸をよぎった。そう言えばアルジェスに拾われ、ここに連れてこられてからも、お礼らしい言葉を何一つ言っていなかったのだ。
「あ、……アルジェス!」
「ん?」
 思わず呼び止めてしまった。肩越しに振り返ったアルジェスに、ランシィはぎこちなく笑顔を作った。
「こ、この前買ってきてくれたお菓子、美味しかった……」
「ああ」
 この前、歌姫の店から買ってきた焼き菓子を思い出したのだろう。アルジェスはにっかりと笑った。
「いい子にしてたら、また買ってきてやるよ」
 もう、その『また』はないのだ。たとえランシィ達の計画がうまくいっても、揃って一緒にご飯を食べることも、同じ屋根の下で暮らすことも、もうできないのだから。
 硬い笑顔のままのランシィに軽く片手を挙げて、アルジェスはいつものように軽い足取りで建物を出て行った。その足音は夜の喧噪にすぐに溶けて、ランシィの耳にも届かなくなった。
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