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ジェノヴァの瞳 ランシィと女神の剣 作者:河東ちか

第三章 風来人アルジェスの章

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第五話 3

 放っておけば一人で喋っているようなアルジェスがうわの空なので、朝食の席は妙に静かだった。ギリェルが二階に休みにいくと、アルジェスはいつもどおり「用事」のために出て行ったが、いつもは昼を過ぎても戻ってこないのに、今日は昼前に戻ってきた。
「なんだ、早いなアルジェス」
 モイセと一緒に外の井戸で洗濯をしていたランシィの耳に、厨房で炒め物をしているユーゴの声が飛び込んできた。ランシィは水音で気付かないふりをしながら、耳をそばだてた。
「今日はカミラとアンじゃなかったのか? いや、アンヌ? アンナ?」
「ああ、アンは明日でもいいんだ」
 カミラはなんとか会ってきたらしい。アルジェスは、なにやらにやけたような声で答えている。
「アンの店に行こうと思って歩いてたら、ばったり歌姫にでくわしてさ。ちゃんと俺の顔も名前も覚えてるんだよ」
「へぇ?」
「舞台で使う衣装を見に行ってたんだってさ。少し話してたら、『よかったら次は一人でゆっくり歌を聞きに来てほしい』って、招待状をくれたんだよ」
「へぇ」
 ユーゴの声がそれとわかるほど脱力したが、アルジェスの声は逆に弾んでいる。パルディナのことだから、ただ笑顔で渡したわけではなさそうだった。
「どうしようかな、声をかけられてすぐ行ったら逆に馬鹿にされちまうかな」
「来て欲しいから渡してるんじゃないのか?」
「そうなんだけどさ、少し焦らした方が効果的な気がしないか?」
「なんの効果だよ。向こうだって商売でくれてるんだから、いつ行ったって同じじゃないの」
「やっぱすぐに行ってやった方が、誘った方は嬉しいかな」
 聞いているようで微妙に噛み合っていない。
 ランシィは、宿屋で自分を世話してくれたニーナをふと思い出し、なんだか可哀相な気分になった。あんなに自分によくしてくれる女の人が何人もいるのに、当のアルジェスは、突然現れてそれとなく気を持たせるような素振りを見せているだけのパルディナに、すっかり心を奪われている。
 結局アルジェスは、胸がいっぱいで昼を食べる気にもならなかったらしく、しばらく一階でだらだらしたあと二階に引っ込んでしまった。入れ替わりに、寝足りなそうなギリェルが降りてきた。いつも昼過ぎまで降りてこないのだが、
「アルジェスが唸りながら寝返りばっかり打っててうるさい」
 そう言うと隅に椅子を並べ、その上に転がってまた眠り始めてしまった。起きている人間が三人いる一階よりも、アルジェス一人の挙動の方がうるさく感じるらしい。
「まぁ、アルジェスのあれは病気みたいなもんだからなぁ。ほっときゃまた熱も冷めるさ」
 慣れっこらしいモイセは、拭き掃除の準備をして二階に上がっていった。ギリェルが眠ってしまったので、一階の掃除が出来なくなったからだろう。
「ほかの女達が気がついて、怒り出さなきゃいいけどな」
 天井を眺めるように、ユーゴがため息と一緒に呟いた。
 寝ててもいいから人が掃除をしてるところに転がってくるな、というモイセの邪険な声が階段の上から聞こえてくる。ランシィはなんとも返事のしようがなくて、ただ曖昧に頷いた。


 昼を食べ終えるとしばらくは、特に手伝えることもない。アルジェスがあの調子では変わった動きもなさそうなので、ランシィは町の様子を見に外に出ることにした。
 夕方から賑わう地区なので、昼は割と閑散としている。知り合いと、警邏の兵士に気をつければ、そんなに出歩くのに気を遣うこともなかった。悪いことをしているわけではないのに、人目を気にして歩くのも変な話だが、もうしばらくは素知らぬ顔でアルジェス達の懐に潜り込んでいなければいけない。自分の素性が彼らに知られるのは都合が悪いのだ。
 不用意に人気のない路地に入ったりしないように気をつけながらぷらぷらしていたら、通りの向こうから荷車を引いたキアラがやってくるのに気がついた。ランシィはそれとなく周囲に気を配り、特にキアラを避けるでもなくそのまま足を進めた。キアラより先に、ジャンがランシィに気付いた様子で、嬉しそうに小走りに駆け寄ってきた。
「おや、お嬢ちゃん、散歩かい」
 荷車に乗っている酒瓶の木箱は、朝の半分ほどの数だったが、瓶の中にはみんな中身が入っている。今は配達の途中なのだろう。
 ジャンを撫でるランシィの横までたどり着くと、キアラは荷台の端にぶら下げた水筒に直接口をつけて喉を潤している。
「一人で配達してるの?」
「まさか、ちゃんとほかにも人は雇ってるよ。ただこの地区は、高くても良い酒を買ってくれるお客さんが多いからね。営業も兼ねて、あたしがまわってるのさ」
 言いながら、自分の手のひらで椀を作ってそこにも水を注ぎ、ジャンに差し出した。ジャンが水を飲むのを眺めるランシィに、キアラが少し声をひそめた。
「パルディナが、タリニオール卿に連絡がつけられるかも知れないと言っていたよ」
 ランシィは、なるべく平静を装ってゆっくりとキアラを見上げた。
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