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ジェノヴァの瞳 ランシィと女神の剣  作者: 河東ちか
第三章 風来人アルジェスの章
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15.ランシィ、歌姫とアルジェスを引き合わせる<1/4>

 酒場の建物に戻ったのは、まだ夕刻には多少早い時間だった。ユーゴは二階で昼寝をしているとかで、モイセが一階の掃除をしていた。どうもモイセは綺麗好きらしく、暇を見ては手間を惜しまずに二階の片付けや一階の食堂をよく拭き掃除している。洗濯もモイセの仕事らしかった。

 朝にランシィが預かってきた本は、変わらずカウンターの上に置いてあった。ランシィとアルジェスのやりとりに気をとられて、みんな、本のことを忘れていたのかも知れない。

「ちっこいの、散歩で少しは気分も変わったか」

 モイセはランシィより少し背が高いくらいで、ここにいる男達の中では一番背が低い。それを気にしているのか、ランシィのこともユーゴのように『ちっこいの』呼ばわりする。

 ランシィが頷くと、モイセは少しほっとした様子をみせたが、すぐに何食わぬ顔に戻って食堂の隅にある大きな籐のかごを指さした。

「そしたら、ちょっと裏から洗濯物を取り込んで来てくれないか。もう乾いてるだろう」

 ランシィは言われたとおりにかごを抱え、厨房の裏から続く洗い場に歩いていった。その裏に物干し場があるのは、今朝顔を洗いにいった時に気付いていた。

『媚びることはないけど、アルジェスと仲間達の言うことは素直に聞くこと。ただし笑顔は、ここぞという時のためにとっておくこと』

というのがパルディナの助言だった。

 井戸のそばの流し場を通る時、ランシィは、上の階から続く配水管の出口から水が流れた跡があるのに気付いた。朝、厨房で沸かしていた湯を、ランシィがお使いに行っている間に上の階に運んだらしいのはなんとなく気付いていた。屋根裏の『誰か』がそれを使ったのだろう。

 排水口から流れた水は、洗い場から続く溝を通って建物横の側溝に流れていく。その側溝に流れ落ちる前に、小さなゴミをとるための網がたてかけてあって、その網には洗濯の時に出たらしい糸くずや綿ゴミと一緒に、銀色の髪が何本か引っかかって輝いていた。

 この洗い場は酒場の建物専用のものだから、ほかに利用する者はいない。やはり上の階には、銀色の髪を持つ誰かがいるのだ。

 ランシィは観察を終えると、言われたとおり乾いた洗濯物をかごに取り込んでいった。二階で大人達が雑魚寝に使っている大きなタオルや枕用のカバーのほかに、明らかに寝台で使うための大きなシーツがある。

 二階に寝台はないから、やはりランシィのまだ見ていない場所にきちんとした寝台もあるのだろう。屋根裏の『誰か』に湯まで使わせ、身の回りのものも洗濯してやるのだから、あまりひどい扱いをしているようには思えない。

 中に戻ったランシィは、素知らぬ顔で乾いた洗濯物をたたみ始めた。洗濯物の内容を不審に思われるとは考えつかないらしく、カウンターの中からしばらく様子を眺めていたモイセは、ランシィの手際の良さに満足げな表情を見せた。

 たたみ終わった洗濯物をかごに入れ、一息つくようにカウンターの椅子に座ると、モイセはなにも言わず、小さな砂糖菓子の包みをランシィに差し出した。手伝った駄賃のつもりらしい。

「ありがとう」

 ぎこちなく、笑みのようなものをつくって答える。モイセは少し照れた様子で視線をそらし、厨房の中の拭き掃除を再開した。ランシィは何気なさを装いながら、カウンターに置かれていた本に手を伸ばし、ズボンのポケットから取り出した細長い紙を挟み込んだ。

 ただの古びたしおりだが、その隅には古いサルツニアの文字で「貴殿の名を問う」という意味の文が書かれている。今では全く使われていない文字で、読めるのは言語学者かサルツニアの王族くらいなのだという。パルディナはそれを、サルツニアの古い伝承を調べるために学んだといっていた。

 古さを装うために赤茶けた薄いインクで書かれているので、万が一アルジェス達にしおりのことを気付かれても、最初から挟まっていたから判らないと言い訳ができる。そもそも気付かれても読めないはずだから、大丈夫だろうということだった。

「お、おかえり、ちっこいの」

 砂糖菓子の包みを開けて大事そうにかじっていたら、目が覚めたらしいユーゴが階段から降りてきた。ランシィのかじっている砂糖菓子を見て、なぜか笑いを含んだ目でモイセを見る。モイセは素知らぬ顔で熱心に厨房の掃除を続けている。

「今日の晩飯はパンでも焼こうか。窯がないから鍋で焼く奴になるけど」

 そういえば、朝スープを煮ていたのもユーゴだった。ユーゴはカウンターに置かれた水差しの水をカップに注ぎながら、ランシィの頭をぽんぽんと撫でた。

「自分で作るパンは旨いぞ。ちっこいのも手伝え」

 ランシィが朝昼をあまり食べなかったのを気にしているらしい。ランシィが頷くと、ユーゴは水を飲み干し、隅に置かれた小麦の袋を持って厨房に入っていった。

「掃除したばっかりなのに」

「また掃除すればいいだろ、どうせ暇なんだから」

 不服そうな顔のモイセを厨房から追い出して、ユーゴは水やボウルの準備を始めた。手際がいいので、ひょっとしたら料理を仕事にしていたような過去でもあるのかも知れない。

 こねた小麦粉が生地らしくまとまり始めると、ユーゴはランシィを厨房に呼んで一緒にこねさせ始めた。

 そういえば、タリニオールの屋敷に初めて招かれたとき、みんなで一緒にこうやって生地をこねて形を作ったものだった。最初は半分やけになって生地をこねていたタリニオールとディゼルトが、そのうち真剣になってパンの作り方をエリディアに教わっていたのが面白かった。

「お、今日はパンもユーゴが焼くのか」

 ランシィが一緒になって、厨房の中で生地をこねていたら、どこからか調達したらしい総菜の袋を片手にアルジェスが帰ってきた。一緒になって生地をこねるランシィを見て、アルジェスはなぜかほっとした様子で笑みを見せた。

「ランシィ、なんだか楽しそうだな。粘土遊びみたいで面白いか?」

 どうやら、館でのことを思い出していたのが顔に出たらしい。ランシィが頷くと、アルジェスはなにをするでもなく、しばらくその様子を眺めていた。

 悪い人たちではないのだと思う。今までなんの関わりもなく、なんら責任もないランシィを、彼らはそれなりに気遣っている。それは、自分達がしていることの罪悪感の裏返しなのかも知れないけれど。

 ユーゴは、「今の仕事」を知り合いのために仕方なく請け負った、といっていた。彼らにもなにか事情があるのかも知れない。

 もちろん、だからといって安易に許される類の事でもないのだが、表面の善し悪しだけに囚われて、その底にあるものを見逃すのもよくない気がしたのだ。



 パルディナに言われていたことのひとつが、ギリェルが戻ってくる時間をなるべく正確に把握することだった。夜が白みかけ、夜更かしする者も早起きする者もほとんど町を歩いていないような時間に、ギリェルは戻ってくるようだ。

 先に二階に引っ込んだ後も、さりげなく様子を伺っていたが、アルジェスとユーゴとモイセは、どの時間でも必ず誰かがこの建物の中にいて、夜も一人は起きているようにしているようだ。起きている者、留守番役の者は、鍵束を預かっているので、ランシィにもすぐに判るようになった。

 朝食の前にランシィが頼まれた今日のお使いは、アルジェスの知り合いの肉屋でチーズをもらってくる事だった。一体アルジェスは、この町に何人知り合いがいるのだろう。

 言われた肉屋は、やはり朝早くからあいている店らしく、チーズのほかにも腸詰めや塩漬け肉を買いに来た客でなかなか混み合っていた。待っている間、ランシィは客達の話に耳を傾けていたが、昨日とさほど噂話の内容に変わりはなかった。ルトネア軍が国境をすぐに越えてこないらしいという話が広まっているらしく、昨日よりも緊張感は薄れているようだ。高級住宅街の状況も変化がないらしい。

 品物を預かって酒場に戻ると、カウンターの上に置かれていた本が無くなっていた。ランシィがいない間に、屋根裏の『誰か』に渡されたようだ。あとはしおりに気付いて、なんらかの反応をみせてくれるとよいのだが。

 全員揃っての朝食が終わり、眠そうな顔のギリェルが二階に引っ込む。しばらく考える素振りを見せた後、ランシィはおそるおそるといった感じで、アルジェスに声をかけた。

「……さっきお店に行ったら、周りの人が話してたんだけど」

「うん?」

「この町に連れてこられる時に、途中の宿で見た歌姫が、今、来てるんだって。歌が上手いだけじゃなくて、すごく綺麗な人で、『月光の歌声』って呼ばれてるの」

「へぇ……」

 懐かしむようなランシィの表情に、アルジェスは興味をひかれたらしい。

「なんだ、見たいなら連れて行ってやろうか。どこの店だろうな」

「……でも、お酒を出す店で、歌うのも夜だから、子どもは入れてくれないだろうって言ってた」

 すぐに表情を曇らせ、視線をそらす。アルジェスは幾分真面目な顔でランシィに訊ねた。

「『連れてこられた』って、ランシィはどっかよその村に居たのか? 親戚にでも引き取られてきたのか?」

 ランシィは静かに首を振った。

「一緒だったのは、知らない男の人だった。おじいちゃんが死んで、村にいられなくなったから……」

 嘘ではない。グレイスは祖父が亡くなるその日に偶然来ただけで、それまでは全く「知らない人」だった。村を出てきたのは、身寄りがないことで村に居づらくなったためではなく、単純にほかに人がいなくなって住めなくなってしまったからだが。

 だが、多くを語る必要はない。足りない情報は、アルジェスが勝手に頭の中で補うはずだった。片目のない、口数も少なく表情も乏しい子どもにふさわしい、哀しい過去を。

 ランシィがそのまま黙ってしまったので、アルジェスは少し考え込み、すぐに明るく声を上げた。

「とりあえず、その歌姫のいる店に聞いてみてやるよ。ひょっとしたら、大人が一緒なら意外にすんなり入れてくれるかも知れないしさ」

「本当?」

「ああ、なにもしないで悩んでたって始まらないだろ」

 アルジェスが頷くと、ランシィは精いっぱい嬉しそうに笑顔を見せた。タリニオールでも見たことはないかも知れないほどの、会心の笑顔だったと思う。アルジェスは驚いたように目をしばたたかせ、しょうがないなと言うように照れた様子で微笑んだ。

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