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ジェノヴァの瞳 ランシィと女神の剣 作者:河東ちか

第三章 風来人アルジェスの章

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第一話 1-2

アルジェスは扉をきちんと閉めていかなかったので、階下の喧噪が洩れてくる。下はどうやら、食堂か酒場のようだった。
 やっと静かになった部屋の中を、横になったままランシィは改めて見回した。狭い部屋にある家具は一人分の寝台と簡素な鏡台と、寝台の横の小さなテーブルくらいだった。自分がグレイスに村から連れ出された後立ち寄った、小さな村の宿の部屋のような作りだ。実際、ここは宿の一室なのだろう。ほかに荷物はないので、アルジェスが使っている部屋というのでもなさそうだった。
 窓から差し込む光は、まだ昼くらいの角度だった。濡れた自分を抱えて来たのだから、そんなに遠くにきたのではないはずだ。すくなくともまだここはアルテヤの城下のどこかだろう。
 そこまで考えてランシィは、自分がきちんと夜着に着替えさせられているのに気がついた。ぶかぶかなのは、子供用のがなくて、大人の女物を着せられているのだろう。自分の服はどうしたろうか、そうだ、持ちだしてきた剣は、エリディアに渡された麻袋はどうしたのだ。
 熱から来る悪寒を我慢しながら起き上がると、アルジェスが座っていた椅子とは反対側に、オルネストから預かった剣がそのまま立て掛けてあった。麻袋は、寝台の横のテーブルに置いてある。川の水に浸かって濡れたのがまた乾いたらしく、多少泥汚れがついているが、特にあけられた様子はない。
 なぜあんなものをエリディアが持たせたのか、ランシィには心当たりがなかった。手を伸ばそうとして、その麻袋を結わえた紐の端に、灰色の小さな石が通されているのに気がついた。
 グレイスの剣についていた煙水晶のひとつが、まるでお守りのように下がっているのだ。
 手に取ると、麻袋はずっしりと重い。受け取ったときは気付かなかったが、どうやら硬貨が詰まっているような手触りだった。
 オルネストの剣は、将来ランシィに必要なものになると判断したグレイスが村から持ちだしてくれたものだ。麻袋にグレイスのつけたらしい煙水晶がついているのなら、これもランシィのために持ちだしてくれたものなのだろう。
 中を見るより先に、真っ正直なグレイスの心が嬉しくて、ランシィは思わず涙ぐみそうになり、慌てて歯を食いしばった。階下の喧噪のなかから、二つの足音が階段を上ってくるのが耳に入ったのだ。
「……ほらアル、あの子の服も、ちゃんと洗って乾かしておいたのよ」
「おお、さすが俺のニーナ! ついでにあとであいつに粥でも作ってやってくれよ」
「別にいいけど、なんなのよあの子。まさかあんな小さい子にまで手を出してるんじゃないんでしょうね」
「なんだニーナ、あんな子どもにまでヤキモチ焼くくらい俺のこと好きなんだ。ニーナってほんっと可愛いなぁ」
 あんなにぽんぽんと口から軽い言葉が出てくる大人の男が、世の中には存在するのだ。ランシィは思わず感心してしまった。
「もう、アルはほんと調子いいんだから。今日はちゃんと部屋に来てくれないと、承知しないんだからね」
「判ってるって、愛してるよニーナ」
 拗ねたような声のニーナと、それに答えるアルジェスの軽い口調に、ランシィは愛という言葉の定義を辞書で引き直したくなった。
 少しの沈黙の後、男物の靴音が軽い足取りで階段を上ってくる音が聞こえてきた。ニーナと呼ばれた女は、途中まで一緒に階段を上ってきたようだが、それはアルジェスと話すためだったようで、すぐに彼女の足音は階下に戻っていった。
「飲み物もらってきたぞ。お、起きられるのか?」
 左腕にランシィの服の入ったかごを抱え、右手には麦酒を飲むための大きなジョッキを持って、アルジェスが部屋に戻ってきた。ランシィは手に持っていた麻袋をどうしようかと一瞬戸惑ったが、それよりも先にアルジェスの唇に、さっきはなかった赤い紅が移っているのに気付いてあっけにとられてしまった。
 ランシィの視線に気付いたのか、アルジェスはテーブルにジョッキを置くと、特に気まずそうな気配もなく鏡台の鏡をのぞき込んだ。
「ニーナはどうも化粧が濃くていけねぇや」
 ぶつぶつ呟いて、無造作に手の甲で紅を拭っている。そのまま鏡越しに、ランシィが麻袋を手に持っているらしいのに気付いたらしく、手の甲を鏡台の上にあった布で拭きながら寝台の横の椅子に戻ってきた。
「お前が持ってきたならお前のもんだ、取ったりしねぇから心配するな」
 言いながら、指輪や腕輪のきらめく右手をランシィの頭に軽く乗せた。アルジェス一見は細くて華奢なように見えるが、その手には剣や刃物の柄を持ち慣れた者特有の厚さと、引き締まったたくましさがあった。
 よく見れば、袖のない薄手の上着の下に巻いたベルトの背中に、きらきらと飾りのついた豪華な鞘に収まった短剣が挿してある。やはり、ただの旅人ではなさそうだ。
「その剣も、逃げるついでに持ってきたんだろ。俺もさ、こき使われてた牛飼いのオヤジを麻縄でぐるぐる巻きにして飼い葉桶の中にひっくり返して飛び出して来たのが、お前くらいの歳だったんだよ。普通は怖がってなかなか反抗なんか出来ないからな、一人で逃げ出すなんて見所あるぞ、お前」
 ランシィがいじめられてどこからか逃げ出してきたと思いこんでいるのは、どうやら自分の過去の経験に重ね合わせているからのようだ。
 アルジェスの差し出したジョッキは、何種類かの果物をすりつぶして作った飲み物で満たされていた。こぼさないようにジョッキを両手で抱えて、少しづつ口に運ぶランシィを、アルジェスは嬉しそうに眺めている。本当に、拾った子犬でも世話するかのような無邪気な顔つきだ。
 味は申し分なかったのだが、ジョッキで持ってこられても飲みきれるわけもない。喉は多少渇いていたが空腹だったわけでもないので、ランシィは飲み物を四分の一ほど口にしたら疲れてしまった。動いたせいで悪寒がひどくなったこともあり、ランシィは寒そうに毛布にもぐりこんだ。
「風邪の時は寝るのが一番だからな。俺ちょっと出かけてくるから、おとなしくしてるんだぞ」
 残った分は自分で飲みほして、アルジェスはからになったジョッキを片手に部屋を出て行った。今度はきちんと扉を閉めていったから、しばらくは戻ってこないつもりのようだ。
 去っていく足音に耳を澄ませると、階下に降りたアルジェスは階段の下でまたさっきの女と一言二言会話してから、今度こそ建物の外に出て行った様子だった。ランシィはゆっくり起き上がり、立ち上がって寝台の脇の小さな窓を開いた。
 この部屋は通りに面していないらしく、隣の建物の壁と空が見えるだけだ。遠くに王城や教会の鐘楼でも見えないものか顔を巡らしたが、はっきり自分の位置を計れるようなものは見えなかった。
 しかし逆に、それらのものが全く見えないと言うことと、太陽の方角から、自分が城下のどの方向にいるかは割り出せそうだった。
 少し下をのぞき込んでも、階下の屋根が見えるだけで、人の姿は見えない。それでも町の喧噪は風に乗って耳に届く。ルトネアが進軍してきていることも、警備の手厚い夜の高級住宅街に何者かが侵入したこともまだ伝わっていないのか、外は静まりかえってもいなければ物々しい雰囲気も感じられない。
 アルジェスが、タリニオールの館を襲った者達や、その周辺で上がった火の手のこととどう関係があるのか、同時に起きたルトネアの侵攻とつながりがあるのか、判らないことはたくさんあった。
 なによりエリディアのことが心配だ。さっきのアルジェスとギリェルの会話では、「王の相談役」の館からまだ人が見つかっていないという。エリディアは無茶はしないと約束したのに、まさか自分を逃がした後、煙に巻かれでもしたのだろうか。いや、エリディアは聡明なひとだ、無為に身を危険にさらすようなことはしないはずだ。
 昨日までの穏やかな生活から一変した状況に戸惑ってはいても、不思議と怖かったり混乱したりということはなかった。あまりのことに現実味がいまいちわかないのかも知れないが、それ以上に、エリディアがランシィに、するべきことの指標を与えてくれていたことが大きかったかも知れない。もしただ逃げなさいと言われて放り出されただけだったら、うろたえるだけで上手く逃げることもままならなかったかも知れないのだ。
 まだ熱も下がっていないし、体力が戻っていないらしく体がふらふらする。もう少し調子が戻らないと、周辺の様子を伺うのもままならなそうだ。
 とにかく今は焦らず、アルジェスの思いこみを利用して、体を休めた方がよさそうだった。ランシィは寝台に潜り込み、開けたままの窓の外に意識を傾けながら目を閉じた。
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