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ジェノヴァの瞳 ランシィと女神の剣 作者:河東ちか

第二章 騎士タリニオールの章

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第七話 3

 その日も、タリニオール達はなにごともなくそれぞれの勤めを終え、夕食の後の穏やかな時間を楽しんでいた。晩夏の日が落ちて、もうじき夕焼けの色も空から消えるという頃になって、珍しくディゼルトからの使いの兵が館の門を叩いた。
「隣国のルトネア軍が大規模な編成を組んで国境に向かっている様子です」
「ルトネアが? 関係は悪くなかったはずなのに、どうしてまた」
「今のところ、宣戦布告やそれに類する知らせはありません。アルテヤの北西の平原にむけて進軍していると思われ、北西地区の領主達の軍やアルテヤ王国軍が状況の確認と出兵の準備を始めております。不測の事態に備え、サルツニア軍は一部首都市壁外で展開し警戒に当たるとのことで、タリニオール卿にも急ぎ王城までおいで願いたいとのディゼルトさまのご要請であります」
「判った、すぐに向かう」
 答えたタリニオールは、後ろで不安げに控えていたエリディアとランシィに、安心させるように笑みを見せた。
「ルトネアが今になって領地を広げたくなるほど、アルテヤは豊かな土地ではないよ。なにか政治的に駆け引きが必要なことでもできたのだろう。とにかく行って、どういうことなのか状況を聞いてくるよ」
「はい、お気をつけて」
「警備の兵士がいるから大丈夫だと思うけど、こういうときは便乗して騒ぎたてる者もでてくるからね。あまり動揺せずに、落ちついて過ごすんだよ」
 タリニオールは妻と娘を軽く抱き寄せると、手早く支度を済ませ、門を警備する兵士にも一言二言なにか申しつけて、迎えの者と一緒に王城へと出かけていった。
 タリニオールの館の区画は、それなりに地位のある者達が済む高級住宅街でもあったから、同じように知らせを受け、城へ向かう者達もいたようだ。夕暮れだというのに、馬の行き来がいつもより慌ただしかった。
 その慌ただしさが過ぎると、周囲はまた穏やかな夜の静寂に包まれた。いつもより、通りを巡回する衛兵の数が多いのは、同じように留守を守るほかの館の者達への配慮があったのだろう。
「また戦争を起こそうとしてる人がいるのかな」
「どうかしらね」
 一緒にお茶の後片付けをしながら、エリディアはランシィに微笑んだ。ランシィは一三年前の戦争の、間接的ながらも被害者といえる。あまり不安に思わせないよう、エリディアはいつもと同じように穏やかな笑みを崩さない。
「アルテヤの首都にはサルツニア軍が駐留しているのですもの。本当にアルテヤと戦争をしようと思ったら、サルツニア軍が完全に撤退するまで待つはずです。やはりなにかの駆け引きの意味合いが大きいと思いますわ」
「それならどうして、最初からきちんと話し合いをしないんだろう」
「そうですわね……。せっかくお隣で暮らしているのだから、仲良くありたいものですのに」
 とはいえ、いきなり兵を動かすというのはやはり普通ではない。今アルテヤに進軍することは、同時にサルツニアとも敵対しかねない愚行だというのも判っているはずである。
 しかし、一三年前の戦争のきっかけは、時のアルテヤ王が自らを魔導士と称する者のあやしげな言葉に惑わされたからでもあったのだ。人は時に、明らかに愚かなことを選択して疑わないことがある。
「今日は一緒に寝ましょうか。こういうときは身を寄せ合って眠るのが一番ですわ」
 胸によぎった一抹の不安を振り払うように、努めて明るくエリディアは言った。
 エリディアの寝室は、おひさまの匂いと少し大人の女性の化粧の匂いがして、ランシィは大好きだった。覚えていないけれど、母親の匂いとはこういうものなのかも知れない。
 ランシィは自分の枕を抱えてエリディアの寝台に潜り込んだ。絞った燭台の灯りの中で他愛のないお喋りをして、二人そのまま眠りについた。ルトネアの進軍がどういう意図からのものであったとしても、アルテヤに一日二日でたどり着くような距離ではなかったから、情報の得ようのないランシィとエリディアがあれこれここで思い悩むのは、それこそ無駄なことでしかないのだ。
 静かなまま夜は更け、穏やかな眠りからエリディアを揺り起こしたのは肩を揺らすランシィの手だった。
「外の様子がおかしいよ」
 もちろんエリディアにはなにも判らない。だが、タリニオールからランシィの耳の良さを聞いていたエリディアは、すぐにはっと思い当たって、寝台から降りると外から自分の姿が見えないように慎重に窓辺に身を寄せた。寝室は二階にあるから、庭だけでなく外の通りの様子がよく見える。
 いつも同じ位置に立ち、門を護っている警備の兵士の姿がなかった。代わりに、館を囲む壁際に身を潜めて、館の敷地の様子を伺っている人影がいくつも見えた。
 普段はもっと暗いはずの夜空が赤く揺らめいている。周辺で火の手が上がっているのだ、それもひとつやふたつではない。
 不意に、通りの外から流星のような火の玉がいくつか、館の壁に飛び込んで突き刺さった。火のついた矢を外から射かけられたのだ。すぐに建物全体が燃え上がることはなさそうだが、悠長にしている場合ではなかった。
「……逃げますよ、ランシィ」
 中に踏み込まず、建物に火を射かけたということは、中にいる人間をいぶり出して捕らえようという狙いがあるのだ。進軍そのものが、城下の高級住宅地で留守を守る要人の家族を押さえるための、陽動だったのかも知れない。
 ランシィも驚いた様子だが、不必要に怯えたり動揺したりはしなかった。二人は手早く着替え、小さな燭台の灯りを頼りに寝室を出た。
 階下に降りる前に、ランシィは自分の寝室から、オルネストに預けられた剣を持ってきた。これだけは、なにかあったときは持ち出すように、タリニオールにもいわれていたのだ。エリディアはその間に、タリニオールの寝室から小さな麻袋を持ってきた。
 薄闇の中、大きな物音を立てないように階下に降り、エリディアが向かったのは厨房だった。館のどの窓や出入り口から外に出ても、待ち伏せている者に姿を捕らえられるのは判っている。エリディアは厨房の奥に作られた納戸をあけ、その床板をずらした。
 納戸の下には、万一のための脱出用の通路が設けられていた。ただ階段はなく、飛び下りるにはためらわれるような高さだった。エリディアは用意されていた縄ばしごを下ろし、ランシィに先に降りるように促した。エリディアの掲げる燭台の灯りを頼りに下まで降りたランシィは、手を伸ばして燭台を受け取り、エリディアが降りてくるのを待った。
 エリディアは先に、タリニオールの部屋から持ち出した麻袋をランシィに手渡した。大きさの割に、ずっしりとした重さのある袋だった。そのあと、エリディアは縄ばしごを外し、通路の床に放り投げた。
「エリディア?!」
「あけたままにしておくと、ここを使って逃げたのが見つかってしまいますから」
 驚くランシィに、エリディアは微笑んで大きく頷いた。
「少し先に行くと水路に出ますから、そのまま水の流れにそって外に出るのです。そして、今起きていることをタリニオールさまに伝えて」
「駄目だよ、エリディア、一緒に!」
「大丈夫です、ランシィ。彼らがこちらの財産や命を奪うつもりなら、とっくに踏み込んできているはずです。彼らは、中から人が出てくるのを捕らえようと思っているのです。この館に人がいるのは判っているのですから、館の中に誰もいなかったら、不思議に思われて、後を追われてしまいます」
「でも」
「私は大丈夫です、無茶はしません。せいぜい怯えて、愚かでなにも判らない女だと思わせます。あなたは、なにが起きたかを出来る限り詳しくタリニオールさまに伝えて、敵がなんの目的でこのようなことをしているのか、考える手助けをしてあげてください」
 首を振ろうとしたランシィに、エリディアは力強く言った。
「大丈夫、ランシィならできます。女神ジェノヴァの導きを受け、歌姫とカーシャムの神官殿に知恵を与えられた、強くて勇気ある私たちの自慢の娘です」
 ランシィが言葉もなく立ちすくむ、その姿を目に焼き付けるように見つめて、エリディアは納戸の床板を元に戻し始めた。はっとしたランシィが名前を呼んでいたが、床板を戻すとそれも聞こえなくなった。
 その床板の上に、小麦の袋や鍋を置いてからエリディアは納戸を閉じた。暗がりの中で、ここを人が通った痕跡など見受けられないのを確認すると、いかに愚かでか弱い女のように騒がしく外に出るか思案し始めた。

  ※

 高級住宅地のあちこちで上がり始めた火の手を、彼は川沿いの土手から見ていた。
 城壁内だが、外壁に近い町外れのこの付近は民家が少ない草地ばかりで、つい最近この町に来たばかりの彼が好んで時間を過ごす場所のひとつだった。
「派手にやれとは言ったけどさ……人死にまでだしてなきゃいいんだがな」
 呟く横顔は整ってはいるが、精悍と言うよりはどこかしら洒脱な軽さがある。身なりも、戦うことを専門としているような物々しさはなく、かといって農民や町民といった粗末な服でもない。旅芸人や舞台俳優と言われればそうかも知れないと思わせるような、あまり額に汗して稼ぐ類の人間には見えなかった。
「ま、俺がここで見てたってどうなるもんでもないしな。一段落するまで寝て待つか」
 立ち上がり、砂埃を払って、道沿いの木につないでいた馬の元に戻ろうとして、彼はふとなにかに気付いたように立ち止まった。首を巡らすと、土手の下を流れる川の浅瀬を、細い人影がおぼつかない足取りで、足首までを水にとられながら歩き進んでいる。どこから来たものか、暗がりの中でも、その影の腰から下が一度水に浸かったらしく重く濡れているのが見て取れた。
 それでなくても均衡バランスのとりにくい水の上で、細長いものを片手に抱えているせいか、見るからに足取りが頼りない。
「おい、なにやって……」
 思わず声をかけると、その細い人影が顔を上げてこちらを見たのが判った。なぜか動いたのは右目だけで、左目は伏せられたままだ。
 こちらに気がついたらしいものの、立ち止まることが思いつかなかったかのように、その細い人影はそのまま数歩歩いて足をもつれさせた。転んだのか座り込んだのか、土手に生えた草の中に姿が隠れて見えなくなり、彼は慌てて土手を滑るように駆け下りた。
 細い人影は、水の中に膝をつき、土手にもたれるように倒れていた。見たところ、大きな怪我はないようだったが、濡れたまま長く歩いていたらしい。服は泥と川の水で汚れて、体もだいぶ冷えている。
「子どもじゃないか……なんだってこんな所を」
 持っているのは、野遊びする少年のような身なりにそぐわない、立派な剣だった。腰にはなにか重いものが入った麻袋が結わえてある。ひょっとして、高級住宅地から逃げてきた貴族の子どもかと一瞬思ったが、それならもう少しいい服を着ていそうなものだ。
 逃げてきたのだとしても、不当な扱いを受けていた雇い主からどさくさに紛れて、といった感じなのかも知れない。持っている剣は、行きがけの駄賃とばかりに持ち出してきたのだろう。
 それならそれで、ちょっと見込みがあるかも知れない。持ち前の好奇心も先に立った。彼はその子どもの体を抱き上げて土手に押し上げた。自分もまた土手に上がると、子どもの体を抱え上げる。背丈に体の成長が追いついていないのか、子どもの体はひどく軽い。
 馬もあるし、住処の建物までこの軽い子ども一人を運ぶのも苦ではなさそうだった。火の手が上がって不気味に明るい空の下を、自分の体まで濡れるのも構わず、彼はつないだ馬に向かって歩き出した。
次回から三章です。次の更新は1月5日を予定しています。
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