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ジェノヴァの瞳 ランシィと女神の剣 作者:河東ちか

第一章 神官グレイスの章

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第三話 2-1

 あちこちで暖炉を使っているせいか、建物の中は廊下でもほんのり温かい。自分たちの部屋として与えら得た納戸も、それほど冷えてはいなかった。宿の手伝いの疲れもあったのだろう、ランシィは寝具にもぐりこむと、すぐに眠ってしまった。
 自分がいない間にランシィが目を覚ましても大丈夫なように、グレイスは借りてきた小さなランプを棚の上に置いて、また食堂に戻った。
 少し離れていた間に、歌姫の舞台は終わったようだ。食堂では、余韻が冷めやらないらしい客達が暖炉を囲み、静かに杯を交わしながら冬の長い夜を過ごしている。その中には、さっきリュートを引いていた男もいたが、歌姫自身はもう部屋にでも戻ったのか姿がなかった。
 ちょっと残念な気もしたが、いたからといって、自分がどう声をかけるということもなさそうだ。
 女主人に言われるまま、食堂の片付けをあらかた終えると、グレイスが最後にいいつかったのは、宿の廊下を見回って、燃え尽きそうなろうそくを新しいものに換えてくることだった。それが終わったら、もう今日は休んで構わないという。
 小さな村の宿だが、建物自体はなかなか広い。もちろん、普段はこの建物の全ての部屋が使われることはほとんどないのだろう。宿にとっては歌姫特需といった所だろうか。
 燃え尽きそうなろうそくを新しいものに換え、火をつけるのを繰り返していたら、いつのまにかグレイスは宿の三階まで来ていた。廊下に敷かれたじゅうたんや、扉の飾りなどを見ると、どうもこの階の部屋は特に大事な客のためのものらしい。部屋数も少ないから、下の階よりも各部屋は広めに作られているのだろう。
 ふと、普通とは違う気配を感じて、グレイスは作業の手を止めた。ここからは角の先になって見えないが、廊下の奥まった場所から、人がもみ合うような足音と気配を感じたのだ。持っていた道具を床において、グレイスは多少急ぎ足に奥に進み、曲がり角から奥をのぞき込んだ。
 廊下の一番奥扉が半開きになっている。その中から、人と人が争う影が伸びていて、グレイスは慌てて駆け寄った。形だけは扉を叩きながら押し開く。
 扉に近い壁際で、くだんの歌姫と若い男がもみあっていた。男は抗う歌姫の細い腕をつかみ、その体を壁に押しつけて、空いている手で口をふさごうとしている。グレイスは反射的に、若い男の肩をつかんで歌姫から引きはがした。
 投げつけられるように床に転げた若い男は、あたふたと立ち上がり、部屋から飛び出していった。グレイスはすぐにその後を追おうとしたが、
「ま、待って」
 動揺した声の歌姫が、彼の腕をつかんでひきとめた。もみ合いで乱れたのか、ドレスの肩紐がずれてなめらかな肩から滑り落ちそうになっているのを間近で見てしまい、グレイスは慌てて目をそらした。
「でも、このまま逃がしたらまた戻ってくるかも」
「いや、行かないで」
 うつむき加減で顔は見えないが、グレイスの腕に抱きつくように触れる歌姫の体と声は、若干震えているように感じる。旅慣れているとはいえ、若い娘にはやはり恐ろしい経験なのだろう。
 見れば、床には男が持ってきたらしい、綺麗な紙に包まれた箱が転がっている。歌姫の崇拝者ファンのひとりなのだろうが、行き過ぎた思いでこんなことをしてしまったのか。確かにあの強烈な歌の後では、無理もないかも知れない。
 だからといって、このまま誰かが来るまで黙って待っているわけにもいかない。長い時間、自分などと二人きりでいたりしたら、今度はまた別の者にあらぬ誤解をされるかもしれないし、人気商売ではいろいろ不都合だろう。
「とにかく、人を呼んできますから、その間扉をちゃんと閉じて……」
 自分の腕に触れる柔らかな感触にどぎまぎしながら、グレイスは歌姫から離れようとやんわり体を押し返そうとした。そのため、正面から向き合うような形になってしまったところに、歌姫は首を横に振りながら更にグレイスの胸にすがりついた。
「いや、お願い、一人にしないで」
 さっきよりも触れる部分が増えたせいで、歌姫の体の震えが強く伝わってくるようになった。よほど怖い思いをしたのかも知れないが、触れられている方はそれはそれでまずい。柔らかく弾力のあるふくらみの感触が如実に伝わってきて、今度はグレイスの方が逃げるように後ずさるしかなかった。
 暴漢に襲われて怯える女性を邪険に扱うわけにもいかないが、歌姫にとっては、さっきの男もグレイスも、よく知らない男という事に変わりはないはずだ。不安ではないのだろうか。
 と筋道立てて考えているのとは裏腹に、体の方がうまく動かない。もう少し力を入れて引きはがしてしまえばいいのだが、頭では判っていても体がいうことをきかないのだ。後ずさりながら中途半端に押し返そうとしているうちに、グレイスの背中が扉の横の壁にぶつかった。もう下がれる場所がない。
「……扉を」
「え?」
「怖いから、扉を閉じて。早く」
 いや、それはさすがにまずいんじゃないか、と頭の片隅では思うのだが、震える声と柔らかな歌姫の体の感触に、それ以上を考える力が奪われてしまったようだった。グレイスは言われるままに半開きだった扉を閉じた。かちゃりと金具がおさまる音がして、部屋の中がいっそう静かになる。
「あ、あの……」
 こういう場合、怯えている女性を落ち着かせるにはどうすればよいのだろう。突っ立ったまますがりつかれているのは正しいあり方なのか。とにかく自分としては、とりあえず離れてもらいたい。
「座って、少し落ち着かれたらどうですか?」
 水でも飲ませて少し話をすれば落ち着くだろう、と思って部屋を見渡したが、目につく椅子らしい椅子は鏡台に備え付けの小さなものくらいで、ゆったり腰掛けられるのは窓際の寝台しかない。歌姫は小さく頷いて、やっと体の向きを変えたものの、震えて足の運びもおぼつかないのか、グレイスの腕に体を預けてきた。グレイスは歌姫の体を支えるように寝台のそばまで一緒に歩き、やっとの思いで歌姫を寝台に座らせ、体を放そうした。
 不意に、歌姫が強くグレイスの左腕を引いた。予想外だったので、グレイスは容易に体勢を崩し、寝台の上に左半身から転げるように倒れかけた。さすがにそのまま転がりはしなかったが、歌姫の隣に座らされるような形になり、慌てて飛びのこうとしたところを、
「助けてくれてありがとう、神官さま」
 歌姫がグレイスの胸にしなだれかかってきた。
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