1.黒衣の神官、少女と出会う<1/4>
時のアルテヤ王が引き起こした愚かな戦争が終息し、早十年。
死と眠りの神カーシャムに仕える神官グレイスは、大国サルツニア王国からの山道を越え、アルテヤ辺境のさびれた村にたどり着く。
雪降る夜が明けたとき、彼にはもうひとつの未来が委ねられていた。
後に「時の選びし者」と唄われる、隻眼の少女ランシィの始まりの物語。
冬の色をした雲が、枯れた草原の空遠くまで広がっている。
グレイスは改めて、今越えてきたばかりの山並みを振り返った。地図の上にしかないはずの国境の線が、実際の空から眺めても、やっぱりここでくっきりと引かれているような気がした。
この時期に北へ向かって歩くこと、低くてもある低度の山並みを越えることで、それなりの冬用の支度はしてきた。それでも、外套の裾から入り込んで絡みつく寒さのせいで、手足の先が重くなる。
「山の向こうとこっちは風が全然違うんだよ、なんというか、空気の重さがね」
そう言ったサルツニアの若い騎士の顔を、グレイスは思い出した。年齢は自分より少し上くらいで、穏やかな笑顔が印象的な青年だった。彼は一〇年前の終戦の時にたまたま、国境を越えたツハトの村で、駐留していた部隊に同行していたという。
一〇年前と言えば自分は何をしていたろう。剣術の道場で先生にちょっと褒められて、有頂天になっていた時期かも知れない。
あれは、一〇歳になるかならないかの頃だ。それなりに記憶があってもおかしくないのに、今はなんだかよく思い出せなかった。寒さと疲れで、頭が回らなくなっているのかも知れない。
あの騎士の話では、山を下りて半時ほど歩いたところに、ツハトの村があるはずだった。
しかし遮るもののないはずの草原の遥か先は、たれ込めた雲にとけ込んでいて、村らしき建物があるかどうかもよく見えない。風が無いのが幸いだったが、夕方までまだ時間はあるはずなのに、妙に空が暗かった。
ひょっとして、雪が降ってくるのかも知れない。せめて村にたどり着くまでは、待っていて欲しいものだ。
自分の息と足音で律動をとりながら凍りかけた道を踏み進んでしばらく、草原の先に建物の群れらしい影がかすかに見え始めた。見えてからがまた遠かったが、とりあえず目安になるものが視界に入っただけでも気分は違う。早足になったせいか、手も足もわずかながら熱を取り戻したようだった。
だが、その建物の群れが、視界の中ではっきりとした形をとればとるほど、新たな不安がじわじわ胸を占めてきた。
確かに建物はある。なのに、人の住んでいる気配がないのだ。建物の多くには、窓や扉に板が打ち付けられている。夏の間に長く伸びた雑草が、道を覆い隠すように枯れて倒れているのも見える。
よくよく見れば村の周りの平原は、かつて畑であったものが、世話する者を失って久しい姿のように思われた。
あの戦争で人手が失われて、残された住人は村を捨てていったのかも知れない。
不安に追い打ちをかけるように、グレイスの周りに白い綿のようなものが舞い始めた。
とうとう雪が降ってきたのだ。
この寒さの中では、外で夜を明かすこともできない。本当に人がいなければ、最悪、民家に打ち付けられた板をはがしてでも、屋根のある場所で一晩しのがなくてはいけない。雪雲のせいもあってか、空は目に見えて暗くなっていく。
すがるような思いで、目につく建物に近づいては落胆するのを何度も繰り返し、半分あきらめかけた頃に、グレイスはようやく、玄関の扉に板の打ち付けられていない小さな民家にたどり着いた。
その家の周りだけは、草を踏み分けた小道ができている。人が行き来しているのだ。
グレイスは安堵の息をついた。が、人がいればいたで今度は、自分にはまた別の心配があることを思い出した。
グレイスが外套の下に着ているのは黒の法衣。背中には、煙水晶と呼ばれる褐色味を帯びた水晶を柄に埋め込まれた長剣を背負っている。それは死と眠りを司る神カーシャムの神官である証だった。
死も眠りもともに、人に安らぎをもたらすものだ。本来その神官が忌み嫌われる道理はない。しかし、訪れた先の状況によって、人々の抱く心情に露骨な差が出てくるのも、カーシャムの神官の大きな特色だった。
もし、死者が出たばかりの家や村に訪れれば、死者が安らかに帰らぬ眠りについた証と歓待される。しかし、命が尽きようとしている者がいるところに現れれば、口には出されなくても死の先触れとして遣わされたかのような遠巻きな扱いを受ける。
要は迎える側の気の持ちようだ。神官自身に、その地を訪れるのになんの含みもない。それでも、初めての場所に赴くときのこの微妙な不安感に、グレイスはいっこうに慣れることができなかった。ああいった人々の反応を、楽しみにできるくらいに強くなれたらよいのかも知れないけれど、自分にはそれはまだまだ先のことのように思えた。
おそるおそる扉を叩く。
しばらくして、家の中から小さな気配が近づいてくるのが判った。
ほかに誰もいないような村だから、ひょっとして扉に鍵すらかけていなかったのかも知れない。そう気がつくと同時に扉が横に引かれて、外より少しだけ暖かい空気がグレイスの頬に触れた。
予想していたよりもずっと低い位置から、自分を見上げる小さな顔がある。右の顔半分だけがかろうじて見える隙間から、一〇歳にもならないような少女が、あまり感情の読み取れない灰色の瞳にグレイスを映している。
こんな人気のない村に小さな子供がいることに、グレイスの方が驚いた。どう挨拶すればいいのかとっさに思いつかず、グレイスは結局大人を相手にするように、ぺこんと頭を下げた。
「あの、旅の者なのですが、一夜の宿をお願いできないでしょうか」
いや、まず大人を呼んできてもらうのが先だよなぁ……。言っている途中から、自分がひどく間の抜けたことをしているような気になってきた。自分を見上げる少女は怯えるでも不審がるでもなく、上から下までグレイスを一通り眺め、
「おじさん、だれ?」
まだ二十歳前のグレイスは、胸に目に見えない一撃を喰らった気分を押し隠しつつ、曖昧に微笑んだ。
確かに、苦労してそうな顔だとか考えが古くさいだとか友人達にはよく言われるが、見た目はそんなに悪くも老けてもないはずだ。きっとこの年の子供から見たら、大人はみんなおじさんかおばさんなのだ。そうに決まっている。
「僕は、カーシャムの神官でグレイスといいます。北のラウザの都に向かうために、サルツニアからあの山を越えて来ました」
なるべく難しい物言いにならないよう、気をつけながら答える。少女は判っているのかいないのか、ひとつ頷いて、
扉をぱたんと閉じた。