第一話 銀 −母と息子−
遠慮無しに、障子が開かれる。
開けた先の座敷に座っていたのは一人の老婆。
長い白髪を真っ直ぐに切り揃え、後ろで一つに束ねている。重々しい着物を着た彼女はまるで人形のように微動だにしない。皺が刻まれたその顔はまるで蝋人形の様に白く生気が無い。
障子を開けた本人が部屋に一歩踏み入れると、部屋の主はゆっくりとその人物の方を見た。
その人物は侵入者とは思えないほど堂々とした態度でその場に仁王立ちになる。すらりとした長身をマントで隠しているが、肩幅は広く細身の印象は受けない。
目に付くのは彼の黒い長髪だった。
「よう、婆さん。邪魔するぜ。」
その言葉には返答せずにゆっくりとした動作で老婆は立ち上がり、その男を睨みつけた。
「この屋敷に何用だ。」
男は老婆とは対照的に笑みを浮かべて答える。
「とっくに知ってるだろ。隠すなよ。」
再び一歩男が踏み出すと、老婆はその姿に似合わず声を荒げた。
「ここはお前のような者が来る所ではない。今すぐ立ち去れ!」
恐らく、この屋敷の誰もがこの老婆が振り乱して声を荒げる姿など見た事はないだろう。
この老婆は如月家前当主の妻、つまり銀太の母親である。昼には物静かに息子と食事をしていた優しい母親の面影はどこにもない。
あるのは目の前の相手を憎むかの様な重々しい気だけだ。
そして老婆と対峙しているのは異国の旅人、鳴月だった。
「断る。」
先ほどまで浮かべていた笑みをかき消し、鳴月は感情の無い目を老婆に向ける。
普通の人間ならすぐに逃げ出したくなるような老婆の鬼気を浴びながら、彼はひるまず部屋を通り抜けようとした。
だが、なおも老婆は叫ぶ。
「お前のような者に銀太は渡さぬ!」
しかし、それを聞いて、老婆を通り過ぎようとした鳴月は老婆を振り返り、再び笑みを浮かべた。
「そうか。銀太というのか。」
それを見た老婆は焦りを隠せず初めて狼狽した。
鳴月は本当に嬉しそうな表情を浮かべ、その部屋を出ようと奥に続く襖に手をかけた。
襖は開かない。
彼は老婆を振り向いた。老婆と目が合う。
「ここから先へは通さん。」
「・・・・何をした。」
彼に先程までの笑みはない。それどころかこの国に入って初めて、彼は怒りを露にした。
「・・・・・。」
老婆は目の前の男の変化を感じつつも、それに負かされぬよう両手の拳を握り、耐える。
「あれは私の息子だ。この国で暮らす私の息子だ。お前のような・・。」
言いかけて、老婆の顔は驚愕の表情に変わる。
その目は男のある一点に向けられていた。
相変わらず暴風が吹き荒れる中、鳴月が開け放った障子から、かすかに雲間から顔を出した月の光が部屋の中に入り、侵入者を照らし出す。
「お前は・・・・なめづき・・。」
老婆がそう言うと、すぐに又月は黒い雲に隠され光は消える。
老婆のその言葉に、男は不敵な表情を浮かべる。その顔は昼に食堂でチンピラを蹴散らした時と同じものであった。
老婆は見てはいけないものを見てしまった子供のように動揺し、その感情に飲み込まれぬよう足を踏ん張って己を振るい立たせる。
そして沈黙に耐えられぬかのように言葉を発した。
「お前は己が何であるか分かっているのか!お前は」
「知ってるよ。」
老婆に最後まで言わせずに鳴月は答えた。
老婆の体は震えている。目は見開かれ、怯えていた。
何とか強気の姿勢を保とうとしているが、体はいうことを聞かない。
だが、目だけは彼女の強い意思を湛えて鈍い光を放っている。しかしその光も、彼女の言葉と同様男の意志までは届かない。
二人の口から言葉は発せられなくなると、風の唸りと時折空を走る稲妻の乾いた音だけがその空間を支配する。
どのくらいそうしていただろうか。そこに、その空気を断ち切る者が現れた。
鳴月が開こうとしてできなかった襖が、外側から開かれる。
襖の向こう。明かりのない暗闇。
そこから現れたのは、二十代半ばほどの体格のいい男。
その男は静かに襖を開き、ゆっくりとした足取りで、二人の元まで歩き出た。
老婆の表情が恐怖から驚愕の表情に塗り替えられる。先程までの憎しみと強さを湛えた瞳は消えうせ、不安と混乱に満たされた。
何かに耐えるように硬く結ばれていた彼女の口がゆっくりと開かれる。
「銀太・・・・・。」
それを聞いて、鳴月の表情も変わる。それは喜びとも哀愁とも似て似つかない。
だが、この屋敷の住人である二人はそれに気付いていなかった。
「何故・・ここに・・。」
しっかりと固定された目線とは裏腹に老婆はおぼつかない足取りで愛しい息子の下に一歩一歩近づき、震える両手で彼の両腕を掴む。
息子はいつもと変わらぬ優しい笑みを浮かべ、そっとその手を取った。
そして彼女に朝の挨拶をするように彼は言った。
「母上。私は全て知っています。」
まるで殉教者に語りかける神父のように静かに母に語りかける。それを言った後も穏やかな彼の表情は変わらない。
だが、母親の表情は劇的に変化した。彼の手を握る手に更に力が入る。
風の音は聞こえない。
稲妻の光は届いても、雷鳴は轟かない。
「何を・・・・・何を・」
震える母の手の爪が、息子のたくましく太い腕に痛々しく食い込む。だがそれでも痛そうな顔一つ見せずに、息子は母を見た。
「母上。」
「お前は、私の子だ。」
母は息子から手を離さず俯いたまま、まるで自分に言い聞かせるように言葉を発した。
息子の声が聞こえているのかそうではないのか、息子の声には答えようとはしない。その表情は二人から見ることはできない。
「母上。」
「お前は・・・」
息子はそれでも変わらぬ態度で母に言葉をかける。
「私が何故この屋敷から離れられないのか、私はもうずっと昔から知っているのです。」
「・わた・・しの・・・。」
「しかしそれは私が産まれ持った業なのです。それは人の意志が通ずるものではありません。」
「銀太、私は」
「貴方の所為ではないのです。」
再び風と稲妻の唸りが届く。
老婆の動きが止まった。
掴んでいた手が、ゆっくりと下ろされる。足が一歩、二歩後ろに下がり、吊るされていた糸が切れたようにその場に座り込んだ。
目から涙が零れ落ちた。落ち続ける涙を拭いもせず、ただ流れるにまかせている。
息子は母の姿をじっと見つめていた。表情は今も、変わってはいない。
その二人を見る侵入者の表情も変わらない。
時折、黒い雲から投げ出される光がはじけ、三人の影を浮かび上がらせる。3回影が姿を現した時、母は面を上げ、口からまるで息を吐くかのような声を漏らした。
「すまない。」
息子は母の元へ行き、その場にしゃがんだ。そして母の目を見る。
「先程も申しましたでしょう。貴方の所為ではないと。これは私が背負うべきして背負ったものなのです。」
そう言って母の肩に手をかけると、初めて母が震えていることに気付く。自分が羽織っていた上着を脱いで、そっと母の肩にかけてやった。
そして立ち上がり、初めて侵入者を見る。銀太は彼と眼を合わせたまま言った。
「私は彼と共に行きます。」
母の涙が止まる。親に見離された幼子のような表情で、まるでそれさえ手放さなければ大丈夫だと信じているかのように銀太の上着を硬く握る。
「何故だ。お前はこの国の当主なのだ。・・お前は、ここで」
「国のことなら問題ありません。宗太が全てを引き継ぎます。」
「何を申すか。宗太にはまだ」
「宗太には全てを教え込んでおります。彼なら十分に役目を果たせるでしょう。私よりも優秀な当主になるやも知れません。」
もう銀太の顔には先程のような息子から母への優しさはない。
その代わりに彼は一国の当主の顔をしている。
「・・・・・まさか。お前」
「はい。以前から準備をしておりました。」
その言葉に老婆は絶句する。そして何かに気付いたようにその目を見開いた。
「お前達は、繋がっていたのか!」
老婆は畳に叩き付けた両手で、そのまま畳をかきむしる。
「おのれ、よくも」
その低い姿勢のまま、老婆は侵入者を睨み付けた。声はしわがれ、恐ろしいほど憎しみに満ちている。
「お前が」
「違います。」
老婆の目線から鳴月を隠すように、二人の間に銀太は立ち、老婆と向かい合った。
「彼とは今初めて会いました。彼が此処を訪れずとも、いずれ私はこの国を出るつもりだったのです。」
銀太も感じていたのだ。鳴月が自国に入国したその日から、母と同じ予感を。
それを聞いて、老婆は思わず立ち上がり、すさまじい勢いで息子にすがりつく。だが、銀太は微動だにしない。
それは銀太が老婆一人を十分に支えることができるほど逞しいからでもあったし、銀太がもはや老婆に情を抱かない為でもあった。
「何故だ。」
「私が人とは違うからです。」
間髪入れずに銀太は答える。
もう、待つ必要はなくなったのだ。
老婆は息子から手を離し、その場に座り込む。
ずっと感じていた予感。
もうそれは老婆の中で形を変えて迫ろうとしてる。だが、変化した形は老婆の中に納まるものとなって、その中に重く、柔らかく落ち着いた。
もう、先程のような憎しみはない。ただ、寂しさが残るのみだ。
それに心を一押しされ、老婆は口を開いた。
はっきりと、芯のある声で。
「行きなさい。」
銀太の表情が、一瞬崩れそうになってすぐに留まった。
強気を秘めた眼でその言葉を受けとめる。一瞬揺れた瞳も、意思を持って力強く光る。
「今までお世話になりました。ありがとうございました。」
深々と一礼し、銀太は振り返らずにそのままその座敷を出た。そして自室へと向かう。
老婆と侵入者だけが残された。
「邪魔したな。」
それだけ言うと、鳴月はもう用がないと言わんばかりにすぐに自分が入ってくる時に開けた障子から部屋を出た。
そして部屋を出ると、今度は障子を静かに閉めた。
もう稲妻は収まり、風の音だけが響き渡る。だが、今度は雨音がそこに混じり始めた。
光のない闇の晩、涙を流す母親だけが広い屋敷の中でただ一人、眠りにつくことはなかった。
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