第一話 銀 −旅人と当主−
大陸の北東に位置する農業中心の国家、東間という国は昔から如月家の一族によって治められている国だ。如月家は東間国ができた時からすでに存在していた旧家であり、代々この家を継ぐ者がこの国の主となってきた。如月家の体制は古く、あまり革新を好まない。その為他国との交易も少なく、古くからの風習を守ってきた素朴な国であった。
だが、それも現在の当主になってから劇的に変化した。政治のやり方が変わり、段々と他国との交流を広げつつある。昔からのやり方を重んじる如月家の老中たちはこのやり方に反対したが、現当主の力量により他の国との交易が実現し、段々と国は豊かになっていったのだ。元々素朴な暮らしを好むこの国の者達は他の文化が入ってきても自分達の文化を重んじ、古い人間達が危惧していた国の乱れも見られなかった。この功績により現当主は高い評価を受け、人望も厚く、良い当主であると国の誰もが彼を認めるまでになったのだ。
現在の当主は第三十二代目当主、如月銀太。年の頃は二十七。前当主である彼の父は彼が五歳の時亡くなり、彼が成人になるまで彼の母が当主の仕事を代行した。そして十八歳で成人と認められて当主に就任し、彼が如月家始まって以来最年少の当主となったのである。
その国に三日前、旅人が一人入国した。東間には港がいくつかあるが、異国からの船が停泊できるのは、東間最大の港、青梅だけと決められている。その為青梅の港は異国の船が所狭しと停泊し、街は異国の者で溢れかえっている。今や最も人の集まる賑やかな港町となった。言い方を変えれば、どこの商船の者でもない異国の男が一人ぐらい混じっていても誰も気付かないのである。
その旅人は無断で一隻の商船に潜り込み、青梅に着くと船から降ろされる荷物にまぎれて下船して、大勢の異国の者で混雑する入国審査をやり過ごして入国した。そして旅人はそこから直接東間の国中心地、紫雲の街を目指して出立した。
それから三日後の現在、すでに旅人は紫雲の街に居た。旅人が街を歩くと、街の人々は目線を投げかける。それも致し方ないだろう。異国からの旅人はこの国では目立つ存在である。街の中心地とはいえ、青梅の街を一歩出れば異国の者などほとんど見かけないのがこの国だ。
旅人はかなりの長身、端から見ても判断できる体格の良さから、彼が男性であることが分かる。黒い瞳に健康的に焼けた肌、そして瞳と同じ真っ黒な髪を腰ほどまで伸ばしており、そんな長さの髪を束ねもせず無造作に下へ流している。上下は黒い服を着ており、上から一枚の大きなマントを羽織っていた。それらは洋服といわれる類のものであり、この国では一般的に洋服は使用しない。
洋服とは異国で用いられる衣服であり、東間では着物と言われる腰布で留めるだけの簡単なつくりの服を着用している。この他国とは違う独特の文化が今だに当たり前となっていることからも、東間には長い間他国との接触が無かったことが窺える。
彼がこの国を訪れた目的はただ一つ。この国の若き当主であった。
旅人は東間に入国して以来毎日、如月家当主の情報を集めている。全くと言っていい程誰の手助けも、伝手もない彼にとって情報源といえば国民から直接話を聞くしかないのだが、誰に聞いても結果は同じ。 国民から出る言葉は全て当主への賛辞であり、そしてそれはこの異国の男が求めている情報ではなかった。
だが、国民の言葉の中には普通の当主としておかしな点が一つあった。それは誰も現当主の姿を見たことが無いという事だ。だからこそ、旅人はこの謎の当主についてある確信があるのだが、その当主を見た事のある人物を探し出せずにいる為、それが事実であるかを確認するまでには至らないのである。
(屋敷の人間でなければ駄目か。)
そんな事を考えながら、彼は紫雲の大通りを歩いていた。
この紫雲の街は国の中心であるため多くの人間が町中を歩いており、情報収集にはもってこいの場所なのだが、どの情報も旅人の目的を満たすには程遠いものばかり。
さすがに農業中心の国である為、街のどこを歩いても八百屋や食堂が目立つ。今彼が歩いている通りは特に食堂が軒を連ねていた。どこの店からも、美味しそうな匂いが通りに流れ込んで来る。その匂いにつられそうになるが、あいにく懐に金は無い。
「さてと。」
男は何の表情も見せずにゆっくりと周りを見渡した。周りを見渡したところで金が落ちている訳ではない。
彼はある店の前で足を止めた。店の中を確認すると、一度腰をかがめる。再び真っ直ぐ立つと、その右手は握られていた。そしてそのまま店に向かって歩き始める。
これから、彼のランチタイムだ。
* * *
銀太は奥方が五十三の時に出来た子であり、たった一人の子であった。待ちに待った子ということもあって、両親は子ができたことを非常に喜び、また如月家の跡取りとして銀太は生まれた時から多くの国民に祝福を受けて生まれてくる筈であった。
二十七年前、銀太出産の瞬間、子が男児であったことは前当主を喜ばせたが、子を産湯に入れ、体を拭いた後にその場にいた人間は皆驚愕した。
後に彼の名前は前当主によって名付けられた。子の名は銀太。その名は産まれ持った幼子の業を表していた。
「銀太様。」
呼ばれて振り返ったのは若い青年だ。背が高く、着物から覗く腕は太く鍛え抜かれている。だが、目元は優しく、彼は穏やかな顔で彼を呼んだ女中に返事を返した。
「おはよう。皐月さん。」
「おはようございます。」
皐月と呼ばれた女中はそのまま挨拶を返して頭を下げた。同時に美しい黒髪が揺れる。この国の人々には黒髪が多い。そして女も男も髪を伸ばし、結い上げるのが主流とされている。
「庭への水やりなら私がやりますから、どうぞお食事をとってください。」
「いや、一度やり始めた事を人に任せては悪い。これを終わらせてから食事に行きます。もし母上に私を呼ぶよう頼まれたのなら、そう伝えて下さい。」
「承知致しました。」
軽く頭を下げると、皐月は足音をほとんど立てずに長い廊下の奥に消えた。
銀太はまた庭に向き直って柄杓で庭に水を撒き始める。この広い庭の全てに撒くと小一時間はかかるのだが、銀太は気にせず続けた。柄杓から外に投げ出された水は、太陽の光を反射して細かい光を撒き散らしながら庭の植物を濡らしていく。すると、なぜか植物が生き生きしている様に見えるから不思議だ。
銀太はこの作業が好きだった。心が落ち着く。
全て水を撒き終えると、持っていた桶と柄杓を井戸の側のいつもの場所に戻した。下駄を脱いで庭から廊下に上がり、皐月がいなくなった方へ歩き出す。
残された庭の植物達は、皆雫をまとって光を反射し、細かな光を放っていた。
「遅かったね。銀太。」
「お待たせしまして申し訳ございませんでした。」
座敷に座り、先に用意されていた食事に手をつけていた母にそう一言詫びると、母の正面に用意された席に座った。
食事をするのはテーブルに椅子というスタイルが主流だが、この国、特に古い風習を守っている家では椅子を用いず、背の低いテーブルに足を折り曲げて「正座」というスタイルで座って食事をする。又、箸という二組の細い棒のような道具を使って食事をするのもこの国独特のものである。
銀太も同様に座り、目の前に両の手のひらを合わせて一言「いただきます。」と言うと、食事を始めた。
「水やりかい?」
「そうです。」
広い部屋に二人の声がわずかに響く。それもその筈。この屋敷の20畳はある広い一室に、居るのはわずかにこの二人だけ。常に綺麗に掃除され、全く無駄なものがない座敷が、余計にもの寂しさを際立たせている。
銀太の周りはいつもこうだった。銀太が多くの人に囲まれることは決してない。それは彼が生まれてからずっと続いている。
彼は二十二年前に亡くなった父親と目の前にいる母親、先ほど銀太を食事に呼びに来た皐月と言う女中の他に、数名の使用人にしか会ったことはない。その理由は誰も銀太の前では口にしないが、本人は既に知っていた。誰からか聞いたわけではない。自分で気付いたのである。
屋敷に五十人以上も使用人が居るのにも関わらず、数名にしか会った事がないというのは矛盾があるように思えるが、銀太が生活しているのは屋敷と生垣で区切られた離れであり、彼はそこから出ることはない。その為、相手が会う気がない限り、限られた人間にしか会うことがないのだ。
離れといっても普通の国民の住まいの数倍はあり、現在銀太とその母が食事しているのも離れの一室である。母は普段離れではなく本館の方で生活しているのだが、食事の時は離れに来て息子と一緒に食事をするのが日課となっていた。
今年で七十歳となる母は、それでも着物を上品に着こなし、背筋も伸びて姿勢良く食事を進めている。真っ白になった彼女の髪だけが、彼女が生きてきた年月を感じさせた。
「仕事の方はどうだい?」
「問題はありません。交易の方も順調です。最近は交易をしたいという国が増えているのですが、あまり増やすと逆に問題も多くなるので、一つの国と交易するのに制限を設けることにしました。」
「そうかい。お前はこの国の当主だ。頑張りなさい。」
「はい。」
母は毎日食事の時間に仕事の様子を聞き、銀太が何を言ってもこう答える。初めは一体何の意味があるのかと思っていたが、今では政治を任せてくれる事、そして政治の話を聞いてくれる母に感謝している。
銀太の母は女性ゆえ当主にはならなかったが、銀太が当主に就任するまでの十三年間当主代行として政治を行ってきた。その為、いくら老中達が銀太のやり方に反対しても、母が反対しないのならば間違ってはいないと銀太は自信が持てるのである。
実際、銀太はとても賢く、政治の才能もあり、当主としての手腕を十分に発揮していた。その事を母はとても誇りに思っていたし、又銀太を良く知る使用人達も同様であった。
だが、その賢さは同時に悲しみを隠す道具にもなっていたのである。
* * *
「いらっしゃいませ。」
笑顔を浮かべ、女店員は慣れた手つきでこの辺りでは見かけぬ客をテーブルまで案内した。
その客が案内されたテーブルの先には二十代前半の若い男三人組のグループと、同じ年の頃の四人のグループが隣り合わせのテーブルに座っていた。三人組のうち、最も四人組のテーブルに近い位置に座っていた一人が、突然声を上げた。
「痛っ。」
深い青の着物を着た目つきの悪い男は痛みの方向に目を向ける。それは四人組の男達に向けられた。
「何だよ。」
四人組のうち、恐らくリーダー格であろう一番体格の大きな男がその男の視線を感じ、立ち上がる。
「何だよじゃねーよ。何すんだよ。」
「あぁ。何だと、コラ。俺らが何したって言うんだよ。」
言って、同時にお互いの方に歩を進めた。そして互いの顔が接触しそうな位置で立ち止まり、睨み合う。いかにも一触即発といった雰囲気だ。その空気に気付いた客達は皆静かに店の隅まで移動したり、店の外に出る者もいた。先程まで笑顔で客を案内していた女店員も、さすがにこの様子に不安の表情を隠せない。
「やんのか。」
「上等だ。」
よく見れば男達は皆柄の悪い顔つきをしている。二人の言葉に他の男達も身構えた。拳に力が込められる。
「おいおい、勘弁してくれよ。」
この張り詰めた空気を破って声を発したのは先程入ってきた客。あの旅人だ。
「「はぁ?」」
争いの中心に居る二人が異口同音に声を上げる。
「俺は腹が減ってるんだ。早く食事にありつきたいんだよ。揉めるなら外でやってくれ。」
旅人は興味がなさそうな顔でそう言うと、二人に向かってあっちへ行けという風に手を払う。だが、既に喧嘩腰になっている若い男達がそんな他人の言う事を素直に聞く訳がない。
二人は異国の格好をした旅人に向き直る。
「テメェには関係ないだろうが。」
「他所もんが口出ししてんじゃねぇよ。」
なぜか敵同士の二人が一緒になって旅人にガンを飛ばす。とりあえず共通の敵を排除しようとでも言うのだろうか。二人は旅人の座っているテーブルまで来て、大男の方がそのテーブルを蹴倒した。テーブルの倒れる大きな音が小さな店の中に響き渡る。
「きゃあっ。」
その音に驚いた女店員が悲鳴を上げる。
「へっ。」
女の声に気付くと大男が嬉しそうに女店員に手を伸ばそうとした。その手を振り切り、外に逃げ出そうとした彼女を今度は青い着物の男が後ろから捕まえる。
「どこ行くんだよ。お前の店はここだろ。」
下品な笑みを浮かべて、その男は彼女を捕まえたままで入口に立った。つまり、客の逃げ道を塞いだのだ。同時に彼女を捕まえたことで人質を取ったというわけだ。それを見て、テーブルを蹴倒されても黙って座っていた旅人は表情を変えずに立ち上がる。
「いつの間にお前ら仲良しになったんだ?」
言うと同時に笑みを浮かべた。それを見て大男は馬鹿にされたと思ったのか、顔を歪めて旅人に掴みかかった。 店の隅で固まる客達が息を飲む。
だが、掴まれたのは大男の方だった。
一体何がどうしてそうなったのか。周りの人間には分からなかっただろう。
男が掴みかかった瞬間、旅人は全く無防備な状態だった。しかし、男を遥かに上回る速さと身のこなしで男の手を左手で払い、右手で男の首を掴んだのだ。
旅人は自分よりも大きなその男を腕一本で持ち上げてみせる。大男は苦しげに呻き声を上げながら足をバタつかせ、見る見るうちに顔は赤く染まってゆく。両手で自分の首を掴む旅人の手を何とか引き剥がそうとするが、彼を掴む手は微動だにしない。
旅人は何も言わず、ただ不敵な笑みのまま大男を窓から放り投げた。
「うわぁっ!」
大男の悲鳴が窓の外に消える。幸い窓が開いていたおかげで割れるような事はなかったが、男の方はそうはいかない。強かに背中を撃ちつけ、苦しげに咳き込んでいる。
「ひっ。」
それを見て女店員を掴んでいた青い着物の男は旅人には敵わないと思ったのか、彼女を放しそのまま外へと逃げ出した。それもそうだろう。彼は自分よりも遥かに大きな男を腕一本で放り投げたのだ。彼の腕力は計り知れないものがある。
旅人は彼女が開放された事を確認すると、男達にはもう興味が無いのか、目もくれずに倒れたテーブルを元に戻した。旅人が男達から目を逸らすと、すぐに仲間の男達も外へと逃げ出した。
外で唸りながら倒れている男は誰にも助けてもらえず、まだ苦しげにもがいていた。
「あっ、あの。」
最初とはうって変わって怯えた表情をしたまま、女店員は旅人の方へ歩いてきた。
「あっ、ありがとうございました。」
「いや、気にしないでくれ。」
旅人が彼女に対し初めて見せる笑顔でそう答えると、彼女も安心したのか笑顔を戻した。
「はい、ありがとうございます。何かお礼を・・。」
「いや、いいさ。」
「でも、そんなわけには」
彼女が困ったようにそう詰め寄ると、店の奥から五十歳代程のずんぐりとした体形の男が出てきた。
「そうだ。そんな訳にはいかねぇよ。何でも言ってくれ。あんたはうちの店と娘の恩人だ。」
どうやら女店員の父親らしい。今まで店の奥にあるキッチンで料理を作っていたのか、それとも先ほどの男達を追い払おうとしていたのか、その右手には大きなフライパンが握られていた。その言葉に、困ったような表情で旅人は答える。
「じゃあ、昼飯奢ってくれないか?」
その言葉に店中の人間が驚いた。
「本当にそんなんでいいのか。」
「さっきも言ったろ。俺は腹が減ってるんだよ。」
店主は皺のでき始めた顔に深く笑みを刻んで、大声で恩人にこう言った。
「お安い御用だ。ちょっと待っててくれよ。すぐにこの店一番の昼飯をお前さんに食わしてやる。」
「楽しみにしてるよ。」
それに答えて旅人も店主に笑みを向ける。それを見て、店主は嬉々として大股でキッチンに引っ込み、料理を始めた。娘は一度旅人に頭を下げると、父親を手伝いにキッチンへ向かう。
今までその様子を見ていた客達は安心したように元の席へついて食事の続きに取りかかる。それだけではなく、旅人に賞賛の声をかけ、話しかけてくる者もいた。
その騒がしい空気の中で旅人は満足そうな顔をしている。それもその筈だ。目的が達せられたのだから。すると、すぐにキッチンに行ったはずの娘が再び顔を出した。そして恥ずかしそうに、恩人に声をかける。
「あ、あの。・・お名前は」
「鳴月だ。」
それを聞くと、娘は嬉しそうに頬を赤らめて又すぐにキッチンに戻った。
先程の男達が座っていたテーブルの下には小石が一つ落ちていた。だが、そのとても小さな小石に気づく者は誰も居ない。
* * *
鳥の囀り、木々の葉のかすれる音、風のそよぎ。それらの音が広い部屋を満たしている。だが、部屋の襖も障子も締め切られている為、それらの音は薄っすらと聞こえるだけだ。
銀太は部屋に置かれた机のもとに座り、各街からの報告書に目を通していた。その机の横にはおよそ百枚ほどの未処理の報告書が積まれている。しかし、机をはさんで反対側には二百ほどの処理済の書類が綺麗に整理されて積まれていた。
この国の当主はすさまじい速さで書類に目を通し、処理済のものには朱色の判が押されていく。食事を済ませてからこの仕事を始め、空気が淡い橙色に染まり始めた頃、銀太に声がかけられた。
「失礼します。」
銀太は全て処理した書類をまとめていた手を止め、返事をする。
「どうぞ。」
銀太が許可を与えると、左手の襖が静かな音と共に開かれた。そしてそこに正座した皐月が姿を見せる。
「宗太様がお見えになりました。」
「通してあげてください。」
「はい。」
返事をするとほぼ同時に、銀太より少し若い男が皐月の後ろから現れた。真っ黒な髪をこの国のものにしては珍しく短く刈ったその髪は、銀太の髪型に酷似している。
「こんにちは、兄さん。」
「久しいな。宗太。」
人懐っこい笑みを浮かべながら、宗太は部屋に踏み入れる。そして宗太の顔を見た瞬間、銀太も笑みを浮かべた。母親や使用人の前でまとっていたような人の上に立つ者独特の空気は消える。
宗太は銀太の唯一の男の従兄弟である。前当主に子は銀太しかいないが、前当主には兄弟が四人いて、内三人が男性である。一番目の弟の子は三人おり宗太と女児が二人。二・三番目の弟にもそれぞれ子がいるが、全員女児であった。
銀太の従兄弟達は皆例に漏れず、それぞれの親から銀太に近づかないよう言われて育っている。故に自分から銀太に近づいてきたのは宗太だけであった。もちろん銀太に会っていると知られたら親戚一同に反対されることは目に見えている。その為この事は銀太と宗太、そして皐月の三人だけの秘密となっている。
「それでは失礼致します。」
皐月は正座したまま一礼して、襖を閉める。すると立ったままだった宗太はすぐに銀太のそばで腰を下ろした。胡坐をかいたその姿勢は一国の当主に対して礼儀正しいものとは言えない。だが銀太にそれを気にした様子はない。
「どうだい調子は?」
姿勢と共に礼儀に厳しい一族の中に在って、宗太の銀太に対する口調は決して目上の従兄に対するものではなかった。
「御蔭様で。実に良いよ。交易も最近は安定しているし、治安の悪さも見えない。そっちは?」
「こっちは相変わらず。可もなく不可もなくって感じかな。だが、良い事だよ。」
「そうか。」
まるで親しい友人同士のように二人は語り合う。
宗太はこの若い従兄が好きだった。
普段人前に出ない銀太が、たった一度だけ、当主就任の際に如月家の面々の前に姿を現した事があった。親達から銀太の事を聞かされていたが、誰もが銀太の姿に息をのんだ。だが、宗太のその訳は他の者達とは違っていた。彼の持つ空気、威厳。一目見たときからそれを彼から感じ取ったのだ。
就任の日、彼の当主就任に異論を唱える者が居なかったのは、彼が前当主唯一の息子だからだけではない事を宗太は確信している。あの日まで、老中達は銀太の当主就任をずっと反対していたのだから。
その時から単純に銀太と話がしてみたいと思っていた。だが、その機会はいつまでたっても訪れない。銀太が当主になってからもそれは変わらなかった。どうにかして、近づけないものかと思っていた所に、力を貸してくれたのは皐月だった。彼女はずっと銀太の境遇を哀れに思っていたらしい。彼女から聞かされた銀太の私生活は想像以上に孤独で隔離されたものだった。彼女が手を貸してくれた理由はそれだけでは無いと思うが、あえて宗太から彼女にその事について触れた事は無い。
銀太には人を惹きつける力がある。
それを如月家の者達のように銀太を屋敷に閉じ込め、無駄にてしまうのはとても惜しいと思っていた。それは銀太と話をすればするほど、強く思うようになった。自分は銀太と違い、いくらでも外の世界を見ることができる。
いつの間にか外で見聞きした事を銀太に話しに訪れるのが、宗太の習慣になっていた。
銀太は机の上の書類を全て片付け、宗太の正面に座り直した。宗太は「お茶はまだかな。」と言いながら、思い出したように話し出す。
「そういえば、今日下町によって来たよ。」
「下町に?」
下町とは如月家の屋敷に最も近い街、つまり紫雲の町である。如月家が直接統治する街でもある為、屋敷の者の中には紫雲の街のことを下町と呼ぶ者が多く居た。
「ここに来るついでにね。様子を見ながら通り過ぎるつもりだったんだけど、食堂の前に人だかりが出来ててさ。前に兄さんに言わなかったっけ?北の大通りにある、うなぎ料理が上手い店なんだけど。」
「あぁ、聞いた覚えがある。」
銀太は従弟の話を興味津々と言った感じで聞いている。その顔にはどこか羨望のようなものが見えた。宗太は実年齢よりも若く見える原因である大きな目をくりくりさせながら、大げさな手振りで話を続けた。
「どうしたのか店主のおじさんに聞いたらさ、なんでもチンピラが店で暴れて、娘さんが巻き込まれたのを異国の旅人が助けたらしいよ。」
それを聞いて、銀太は訝しげな顔になる。
「異国の?」
「そ。珍しいよな。こんな時期に。」
「そうだな。今はちょうど大雨の季節。異国の旅人が観光の為に立ち寄るには不向きだな。・・・どんな人物だったのか聞いたのか?」
「何でも、黒い長髪、背が高くてなかなか体格も良いって。おまけに顔も。」
「いくらなんでも褒めすぎじゃないか?」
素直に疑問を投げかける銀太に対し、ニヤニヤしながら答える従弟を不思議に思い銀太は怪訝な顔をする。その表情に気付いた宗太は、銀太が何か言うより早く答えた。
「店の娘がそう言ってたんだよ。あの様子じゃあ、その旅人とやらに惚れたな。」
「何?」
何でそんなことが分かるんだ、と言わんばかりの銀太に、可笑しくて堪らないといった風に宗太は手で口を押さえながら笑う。恐らく話を聞いた時の彼女の様子を思い出しているのだろう。
宗太が彼女に話を聞くと、彼女はまるでその旅人が目の前にいるかのように頬を染め、うっとりとした顔で宗太が止めるまで延々話し続けたのだ。宗太は彼女の陶酔っぷりが面白かったが、連れの者達はそうはいかず、うんざりした顔をしていた。その両者のギャップが更に宗太の目には可笑しく映ったのだ。
「顔を見れば分かるんだって。あっ、そういえばさ・・」
再び一方的に話し始める宗太を銀太は優しく見つめている。それは誰に見せた中でも最も優しい笑みだった。
* * *
どこから見ても街のつまはじき者。柄の悪い彼らは街外れでたむろしていた。どこの街にでもいる様な若者だが、彼らの内の一人、最も大柄な男は首に痣があり、着物は土で汚れている。
誰も声をかけないような男達に、ゆっくりと近づいている者がいた。それに気付いた男達の中には驚きの表情を見せる者もいれば、敵意をむき出しにする者もいる。彼らの中心である大男はそんな彼らを制止させ、神妙な顔つきでその男を出迎えた。
「よぅ。」
近づいてきた男、鳴月は親しげに、先程自分が店の窓から放り投げた男に声をかける。だが、大男の方は鳴月とは対照的に苦々しい表情を浮かべた。
「今更何の用だ。」
体格に似合わず、大男は気弱げに聞き返した。一度自分を負かした男を前にしているのだからそれも当然だろう。
「訊きたいことがあってな。」
鳴月は男達の前まで来るとあの店で見せたのと同じ笑みを見せる。大男は先程の事を思い出したのか、無意識に右手を首に当てた。逆らえないことを分かっている大男は素直にそれに応じる。こういった男達ほど、上下関係には従順なものだ。特に力関係においては。
「で、何が訊きたいんだ?」
それを聞いて満足そうな顔で鳴月は腕を組みながら要求を言った。どこか値踏みするような目で男達を見回す。
「如月家の当主について。」
「は?」
思わず大男の仲間の一人、細身の男が声を上げる。何でわざわざそんな事を自分達のような連中に訊くのか、理解できなかったからであろう。その仲間に大男が目配せして黙らせた。そして大男が代弁する。
「何でそんなこと俺等に訊くんだ?」
「訊いてみたかっただけさ。知っている事だけでいい。話せよ。」
鳴月は笑みを崩さず、軽い感じで促す。だが、鳴月はそうでも男達は自分達の頭を倒した男に対して気軽にはなれない。観念したように、大男は話し始めた。
「今の当主っていやぁ、俺等と同じぐらいの歳で、たしか病弱だって聞いたことがある。」
「病弱?」
意外そうに鳴月は訊き返した。今まで聞いた話の中には無かった情報だ。これまでは当主の悪い面を言う者はいなかった。
「あぁ、だから屋敷の離れから出ることができないらしいぜ。」
「・・・そんなに悪いのか?」
「さぁ。詳しい事は分からねぇよ。おめぇらはなんか知っているか?」
大男の仲間達は不安や不満の表情を隠せないが、リーダーにも逆らえず口を開く。
「そんな事言われてもなぁ。」
「この国の奴等は当主を見たこともないんだぜ。そんな奴の事訊かれても。」
「あっ、でも、病弱ってのは違うんじゃないか?」
仲間の一人、比較的小柄で、ぎょろっとした目が印象的な男が言ったこの言葉に、鳴月は興味を示した。
「何でそう思う?」
突然自分の方を見られて、小柄な男は内心少しびびりながら先を続けた。
「あっ、あぁ。俺一回だけそいつを見たことがあるんだよ。その時は普通に武道の稽古してたぜ。とても病気してそうな感じじゃなかったなぁ。」
男がそう言うと、仲間達は驚く。それほど、当主を見るということは稀なことなのだろう。
「本当か、それ?」
「すげぇな。どこで見たんだよ。」
「えーっと、たしか半月ぐらい前に。」
「どこで?」
「・・・・・。それが・・。」
男は気まずそうに目を泳がせる。そして一度自分達のリーダーの様子を伺った後、探るように鳴月を見た。その様子に気付いた鳴月は肩をすくめる。
「俺は別に如月家の回しもんじゃない。お前が何言ったってどうもしねぇよ。」
それを聞くと小柄な男は安心した表情を浮かべる。
「そうか。あーっと、俺が見たのは如月家の庭だ。」
その言葉に、仲間は更に驚く。大男はこの男が何かやらかしたのかと慌てて問い詰めた。
「お前、屋敷の敷地内に入ったのか?あそこには警備が」
「あぁ、まぁ、好奇心っつーか。・・忍び込んだんだよ。」
大男とは逆に鳴月は右手で自分の顎に触れながら、実に楽しそうな顔を見せる。
「忍び込むのは難しいのか?」
その鳴月の言葉を聞いて、小柄な男は得意げに話し始めた。
「まぁね。確かに屋敷の周りは高い塀に囲まれていて、入り口は正面しかないし、そこには常に警備がいる。けど警備って言ってもいるのは2人だけだから、正面を避けて塀を登れば進入はできる。だが、そこで塀を登ろうとするのは馬鹿なやつだけさ。塀には漆をたっっぷり塗ってあって登りにくくしてあるし、屋敷のどこからでも塀が見えるようになっているからすぐにみつかっちまう。」
「それで?お前はどうしたんだ?」
自分の話に夢中になっている男を邪魔しないよう、鳴月は先を促した。
「俺はこの体形を生かして塀の下から入ったのさ。一箇所だけ屋敷から塀が見えない場所がある。その場所の塀の下の板を気付かれないよう上手く外してね。」
「なるほどな。で、その場所はどこだ?」
「・・侵入するつもりか?」
その質問に対しては返事をせずに、笑みで返す。
それに対して男達がどう感じたのかは知らないが、小柄な男は意を決したようにゴクリと唾を飲み込むと、鳴月にその場所を説明し始めた。
「もしあんたが不法侵入で捕まっても、俺達のことは言わないでくれよ。」
少し声量を落して小柄な男が鳴月に言った。彼の声がどことなく弱弱しく聞こえるのはそうなる可能性に怯えているのかもしれないし、鳴月自身を恐れているのかもしれなかった。
またもや彼は不敵な笑みで自信満々に答える。
「もちろんだ。」
鳴月はこの男達にとって敵にも等しい存在である筈だが、男達はいつの間にか鳴月に一目置いたようだ。彼等の鳴月を見る目には恐れはあっても、もう不満や疑心は見られない。
「そういえば・・・・お前は当主の姿を見たんだよなぁ。」
確認するように、探るように鳴月は小柄な男の目を見ながら問う。
「あぁ。そうだ。」
さっきまで緩んでいた口元が引き結ばれる。軽く目を閉じた後、一度深呼吸して鳴月は質問を続ける。
「当主を見て気づいた事はなかったか?」
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