思えば、こうして子供生活をし始めてからかなり経つのね。
工藤君、あなたと出会ってから、一体どれ位経つのかしら? こうして、あなたの横顔を盗み見るのも、大分茶飯事になったわ。
あなたは知らないでしょうね。最初は凄く恨んでた。お姉ちゃんを、助けられた筈のあなたを……。新聞に写っていた、あの無力な姿のあなたが、実際とはあまりにも違いすぎたから。
「あん? なに人の顔じろじろ見てんだよ?」
「……別に」
半眼で振り向いた工藤君に、私はそっけない答えを返した。
私達がどうして二人きりで居るかって? ついさっきチャイムが鳴った帝丹小学校から帰る途中なの。皆とは少し前の道で別れて、彼とももうすぐ別れる事になるわ。
そう。この道も、景色も、随分通いなれたものね。
普段どおりの帰り道に、丁度工藤君が角を曲がった時だったわね。
「あ!」
横を見た江戸川君が、何かに気付いたような声をあげた。突然声を出すなら、もう少し声のボリュームを落として欲しいものね。反動で心臓がうるさいじゃない。
文句の一つも言ってあげるつもりで口を開きかけたけど、彼は壁に向かって突然しゃがみ込んだ。楽しそうな後姿……通行人が不審がってるわよ?
「何やってるのよ?」
「へ? いいから、お前も見てみろよ」
ちょっと呆れながら尋ねた問いだったけど、返って来たのは弾んだ声だったわ。こっちを振り向きもしないで手招きだけしてるなんて、よっぽど興味深いものがあるんでしょうね?
「だから、何……?」
面倒くさいけど、仕方なしに工藤君の肩と壁にある隙間を覗き込んでみる。
「あ……」
驚き……違うわね、これは素直に”可愛い”と形容した方がふさわしいかも知れないわ。小さくて、雪のように真っ白な子達が、五匹……いえ、この親を混ぜると六匹ね。
つい見惚れていた私に、隣で工藤君が悪戯っぽく笑った。少しだけ不機嫌に映るような視線を送ってみたけど……ダメ、顔を戻すとまた、自然に筋肉が綻んできてしまうわ。
“ミャア”
五匹居る子猫の中の一匹から、小さくてかわいい声があがる。母猫が、その子の顔をぺろぺろ舐めている。そんな姿を見てると、私でも純粋に癒されるわ。
「あ、一匹行ったぞ、灰原」
さっき鳴いた子猫とはまた別の一匹が、どういうわけか私の足にすりよってきてる。とくん、と胸が高鳴る音が聞こえる。野良の筈なのに、随分懐っこいのね。
しゃがんで、子猫の頭を撫でてあげているうちに、自然と口元が綻んでいったわ。さっきまでのどす黒い感情なんて、消し去ってくれるみたい。
フッと息をつく音が耳に届いた。隣を見ると、江戸川君が私を見て微笑っている。見透かしたような目が、少ししゃくに障る笑みではあるけどね。
「可愛いだろ? 実は昨日見た時はまだ生まれてなかったんだ。母猫の腹が大きい状態でな。今朝はもう居たみてーだけど、まだ生まれて間もない仔猫だぞ」
明るい口調で彼は言ったけど、私の世界は少しだけ曇ったわ。生まれて間もない仔猫って言葉の何かが、私の心にある闇をつついた気がしたのよ。
そうね、わかっているわ。この子は、生まれたばかりのまっさらな存在よ。見た目も心も、こんなに真っ白な子猫……そこに、私みたいなけがれた存在が近づいてしまってよかったのかしら?
私が犯した罪の重さ位、判ってるわ。江戸川君……あなただって、その被害を受けた一人なのに。そんなあなたを、ずっと恨んでいたのよ。
だから、目の前であなたが屈託なく笑う程、責められている気がする。
しばらく俯いていたけど、彼は突然私の前にしゃがみ込んだ。
「……どうした?」
「どうもしないわ。通りがかる人が構いすぎたのかしら。警戒心がまるでないわね、この子達」
彼の心配そうな問いへの、精一杯の皮肉を込めた言葉のつもりだったわ。冷たく笑ったつもりだから、江戸川君がまたどんな呆れた反応を返してくるのかと思ったけど……
「警戒心ならあるに決まってんだろ。けどそいつはおめーが好きなんだってさ。よかったな」
予想もしてない言葉を言われたら、ただ目を丸くするしかないのね。
「……何言ってるの? 好き嫌いなんてこんな子達にあるわけないじゃない。ホラ、現にあなただって充分懐かれてるみたいだし」
ちらっと江戸川君の手元を見たけど、ハーレムみたいに子猫が群がっているじゃない。
「……そう思うか?」
「え?」
耳に聞こえるか聞こえないかぐらいの声が、私の耳に届く。聞き返すと、江戸川君の腕の中に居た子猫を突然渡されたわ。
「一体何よ」
彼のよくわからない行動に、私はただ手を出してその子を受けとっただけ。何の抵抗もなくやってきた子猫が、やはり無警戒過ぎる気がしてならないけど。私の腕に移動した子があまりに懐っこくすり寄るものだから。可愛いじゃない? 思わず抱きしめて頬をすり寄せたわ。
「で、この子が何なの?」
行動の意味も言わずに、私と子猫を交互に見つめてる彼に、少しイラついたわ。だから、ちょっと強めの口調で質問したの。そうしたら、彼はあの余裕たっぷりの不適な笑みを顔いっぱいに貼り付けて……何よ、じれったいわね。
「見てみろよ」
静かに呟いた彼の言葉に首を傾げたけど。彼、今度は突然私の足にまとわりついてた最初の子猫に手を伸ばしたわ。抱き取ろうとして。
「……え?」
この子、私から離れないわ。江戸川君の手から逃げるようにして……
何が起きてるのかなんて、判らない。江戸川君の手が届くと、にぅ、なんて小さい声を上げて足をじたばたさせてる。
「ほらな」
「……」
「おまえと離れたくないんだって。分かるんだよ、お前の側が居心地がいいって」
「うそよ……」
信じられないわ。目の前の現象が、信じられるわけないじゃない。彼の優しい響きの言葉も、私の胸に染み入ってくるけど。
動物は好きよ。勿論、子猫なんて凄く大好き。懐かれて嬉しくないわけはないわ。でも。
こんな薄汚れた私だけに懐く猫なんて居ていいものなの? 今だって、私の薬は彼らによって、人を殺すために使われているのよ。けど、私だけ何の罰も受けずに安穏と生活してる。
お姉ちゃんみたいな、優しい人でさえ殺されたのに。
まとわりついて来る暖かい猫の体温が、今の私がどれだけ平和な中に居るか教えてくる。こんなまっさらな、何も知らない子が、人間の心も見抜けずに寄ってくるなんて。
「無理して、私と一緒にいてくれなくてもいいのよ」
子猫をじっと俯いて見てたら、無意識だったけど、そんな科白がつい零れたわ。そうしたら、向かい合う彼の顔が呆れた表情に変わって……彼の口から、随分大げさな溜息が零れたわ。
「何言ってんだよ、さっきの反応見ただろ? そいつはお前と一緒に居たいんだって」
「……違うわよ、あなたの事よ」
「俺の事?」
しっかり耳に私の声をキャッチしたみたいで、彼の言葉が少し荒くなって、彼の眉間にはしわが寄ったわ。いっそ聞こえなければいいと思って、口の中でぼそっと言った科白なのにね。
聞こえてしまったら、仕方がないのかしら。
俯いて、言っていいものかどうか一瞬迷ったけど。気がついたら、口が開いてた。
「あなただって、被害者じゃない。私の薬の」
「あん?」
「全く恨んでないとでも言うの? あなたの身体を縮めて、そのせいであなたは好きな人にも正体を隠さなきゃいけなくなったのよ。その身体のせいで、あなたがどれだけ苦労してるかぐらい知ってるつもりよ」
言いづらい科白ではあったけど、案外第一声が出るとせきを切ったように出てくるものね。
江戸川君……あなたは多分、私を恨んだりしてないわ。その位、判ってるつもりだけど。でも、あなたわかってる? そもそも私が組織に居なければ、あの薬がこの世に存在する事もなかったのよ。そうすれば、あなたは今頃元通りの姿で、あの彼女と一緒に……。お姉ちゃんだって、私を組織から抜けさせたいと思って手を染めてなければ。
あなたの世界を奪った私を、最初は理解できないって怒鳴ったじゃない。
「そう、そもそも私っていう科学者が居なければ。生まれて来なければ、あなた達もお姉ちゃんも、苦しまずに済んで、」
「ふざけんな!」
彼の突然の怒鳴り声に驚いて、続く科白を飲み込んでしまったわ。さっきと変わって凄く怒った顔が私を睨みつけてる。
「生まれて来なければなんて言葉言うんじゃねーよ。おめーの母さんが、どんな想いであのテープを残したか、おめーの姉さんがどんな想いでおめーを組織から抜けさせようとしてたか。それがわかんねーのか?」
最もな事を言われてるのかも知れないけど。少しだけ彼の言葉にむっとしたわ。赤の他人のクセにってね。
「それでも私は色んな人を不幸にしてきたのよ。あなただって、最初そう言っていたじゃない!」
私の正体を知ったあなたは、私に一番痛い所を指摘したのよ。考えなかったわけじゃない。毒を作ってるつもりじゃなくても、私の薬がそう言う事に利用されてるって知ってたもの。
「染み付いた罪は、そう簡単に抜けないのよ。あなたがあの時言ったように、私の作った毒で一体どれほどの人が不幸になったか。考えた事がないわけじゃないわ。そう、今ももしかしたらどこかで私の薬が、暗殺のために……」
私、声が震えてるわ。敢えて考えないようにしてる事だけど、想像するとどれだけ怖いか。工藤君、あなたに想像できるの? 手を汚した事なんてないあなたに。
工藤君は、口を結んで目を据わらせて私をじっと見つめていた。その口からどんな言葉が出てくるのか、最初少し怖かったけど、もう覚悟は出来てるわ。いっそ、中途半端に慰められるぐらいなら、思い切りののしられた方が……
「確かに、そうだよな」
彼の口から漏れた低い声に、肩が震えた。私はそっと抱いていた子猫をおろし、しゃがんだまま彼の言葉の続きを待ったわ。無意識的に、震えてしまうこぶしをきつく握り締めて。
「オレだって、おめーの事知らないうちは、薬を作った奴が憎かったよ。こんな身体にさえならなきゃ、あんなに蘭を泣かせる事もなかったんだ」
直視するには辛い真実をまっすぐに伝えてくる。でも、これは私の犯した罪の報いなんだから、ちゃんと受け止めないといけない事よ。
私は目を閉じて、小さく深呼吸をしたわ。
「ほら見なさい。やっぱりあなただって、本音では……」
「最後まで聞けよ。オレはな、そこまで嫌いな奴に必死で尽くして守ってやるほど、お人よしでもねーんだよ。そりゃ、事情は事情だろーから形だけ匿ってても、んな優しくするわけねーだろ。おめーが実際付き合ってみて、いい奴だって判ってるから一緒に居るんじゃねーか」
「あら、フォローのつもり?」
敢えて腕を組んで、クールを装って江戸川君に笑って見せた。けど、彼は「ちげーよ」なんて首を振る。
「おめーが作った薬が、他の奴を苦しめたって事実まで、フォローしてやる気はねぇよ。少なくとも、オレはおめーの事嫌いじゃねーし、許してるつもりなんだよ。もしかしたら、おめーのあの薬があったから、命だけは救われたのかも知れねーって見方もあるしな。この身体になって、工藤新一のままじゃ気づけなかった大事なモンも、大分判った気もするし。そういう意味では感謝もしてんだ。そんなオレがおめーの事、これっぽっちも恨んでるわけねーだろ」
どこか棘のある声だったけど、一つ一つが私の心に沁みこんでいく。あなたに出会ってから、思い出の一つ一つが私を作ってく。あなたに言われた言葉が、今までどれだけ私の勇気に変わったかしら。意味もなく優しいだけの言葉じゃないから。工藤君、あなたの言葉はいつもいつも……
「私は……」
声が震える。視界が、ぼやけてく。あんまり泣き顔なんて、見られたくないのに。特にあなたの前では、涙なんて流したくないのに。止まらないわ。最初にあなたと会った時みたいに、止められないで零れてく。
彼がポケットから取り出したハンカチを受け取って、悔しくて顔をそらした。
「わりぃ、言い方きつかったか?」
「違うわ。あなたのクサイ科白に、少し感化されただけよ」
頭をかきながら謝られて、ついツンとした返事を返してしまう。私も、まだ青いわね。
「あんだよ。素直じゃねぇ奴」
工藤君が大げさに溜息をついて、また半眼の呆れ口調で呟いた。悪かったわね、素直じゃなくて。と返したくなったけど、たまには、素直になっておくのもいいかしら。
少しだけ間をおいて、涙を拭って視線をそらしたまま、聞こえるか判らない小声で彼に囁いた。
「ありがとう。私の方こそ、ごめんなさい」
届いたかどうかなんて、彼の顔を見れば一目瞭然よ。大きく目を見開いて、きょとんとした顔で私を見つめてるんだから。それなのに、彼は無言のまま。
聞こえたなら、何か言いなさい工藤君。変に素直な返事したせいで、私からは何も話しだせないじゃない。
気まずい空気に、やっぱり素直にならなきゃ良かった、なんて思ったわ。けど、私と工藤君の間にあった沈黙を破ったのは、忘れてた予想外の存在よ。
“ミャア”
突然足にふかふかしたものがすりついてきたの。私も工藤君も驚いてそこを見たわ。居たのは、さっき私に妙に懐いてたあの子。甘えた声で鳴いて、足の下をくぐる可愛い子猫よ。さっき、私たちの激しい口論でいつの間に逃げてたようだけど、戻ってきたのね。
思わず抱き上げると、他の子猫達までぞろぞろ寄って来たわ。
「やだ。ちょっと……何?」
どうしようもなくて、とりあえず母猫の胸元に返すのに、またくっついてきちゃうのよ。別にコントやってるわけじゃないわ。私なりに困ってるのよ。そんな気も知らずに、隣で見てた江戸川君は吹き出して笑ってるようだけど。
「しょうがないわね……」
観念したって小さく溜息をついて見せても、内心では少し幸せを感じてるのよ。あごを撫でればごろごろ気持ちよさそうな音を出すし、頭を撫でれば擦り寄ってくるし。私にとってはこの子たちは究極の癒しよ。顔が、ほころんでいくもの。
夕日が、私や子猫達を照らしてる。前に太陽の断末魔なんて表現したけど、こんな穏やかな時間も悪くないわ。
「灰原、おめー動物の前では嫌に態度が素直だな」
「あら、悪い?」
上から降ってくる声に、小さく笑って見せた。
「悪くねーけど、どうせならいつもそんな顔してろよ。前にも言っただろ? そういう顔してれば子供にしか見えねーし、お前の姉さんや両親だって喜んでるだろうからな」
「……ええ、そうね。あなたの言うとおりかも知れないわ」
こんな他愛もない会話をして、時には言い合いもして、私たちいつの間にわだかまりを消していったのよね。そしていつからだったかしら。あなたの存在が私にとって、誰よりもかけがえのない大切なものになってたのは。
いつからなんて判らないけど、あなたは一生気づかないでしょうね。あなたを想う私の気持ちなんて。ねえ、世界一鈍い探偵さん?
一生、私の胸にしまっておく気持ちでいいわ。探偵事務所の彼女にも幸せになって欲しいから。工藤君の事も彼女の事も、私は大好きだから。ただ彼が、ずっと元気であってくれる事だけ望んでいるのよ。お姉ちゃんみたいな別れ方だけはもうごめんだから。
だから、彼と一緒に居られるこの一瞬一瞬だけは、せめて私のもので居てくれれば。
「暗くなってきたし……そろそろ帰りましょ」
「ああ、そうだな」
まとわりついてきてた子猫達を、今度こそ母猫に帰して、工藤君と二人で立ち上がった。後ろに、子猫達の暖かい視線を感じながら。
お姉ちゃんが天国で見てたとしたら、今の私たちをどう思うかしら。
“ミャア……”
私の気持ちに応えるように、小さな鳴き声が最後に耳に届いた気がする。気のせいだと思うけどね。
『見守ってるから、どうかずっと、幸せでいてね』
|