第41話・その2
その後といったら、もう大変なものだったらしい。
先立って言ってしまうと、僕は或る一時以降の記憶が無くなっていた。僕にその一時以
降の時間は確かに存在していたわけだが、一体全体どこに置いてきてしまったのだろうか
と思い返したところでそれは無駄事でしかない。
僕の記憶の最後は仲間内の他愛もない会話で馬鹿のように笑い転げてたところで、再開
された記憶の最初は翌朝の洋室の布団の中であった。
起き上がろうとすると、感じた経験のない種類の頭痛が生じて身体も重くなったようだ
った。それでもなんとか初体験の二日酔いに呑まれた身体を起こすと、ズキンと一歩ずつ
振動と音色を奏でる頭部を掌で押さえながら洗面所で酔いを洗い流す。
昨夜の記憶を呼び起こそうとするが、全く左脳は応対してくれる様子を見せない。
その最初の手掛かりになったのは、洋室で横になっていた菜月の姿だった。起床した際
には酔いという大きな膜に全身を覆われて体の機能を司られていたので、左横で眠りにつ
いていた彼女の寝姿を確認するほどの知覚すら奪われていた。
布団に包まれた彼女の寝姿に眼の線を遣ると、うっすらと片方の目が開いている。僕の
重い足取りと顔を洗浄するときの音と気配で、彼女は眼を覚ましていたようだ。押入れの
中にあった来客用の布団で眠っていたようで、体を起こすと彼女も酔いが残ってるようで
寝惚け眼といったようにしばらくは動作不能の状態でいた。
「おはよう」
これまでの人生20年で五本指に入るぐらいに重低音のおはようを送ると、
「ぅん、おはよ」
と菜月も感情なしの言葉だけといったおはようを返信する。
昨夜の一連の経緯が消却していた僕は当然に彼女の宿泊の経緯も知り得なく、それを訊
こうにも先ずは2人とも身体機能を正常値に近づける努力をすることが先であった。
菜月は立ち上がると、僕の行動をなぞるように洗面所で酔いを丹念に洗い流していた。
洗浄を終えると、彼女は両側の頬を両手でパンパンと二度叩いて意識を正常化させる。鏡
と向かい合ったままで力一杯に瞳を閉じて、何度とパチクリとさせる。
「よしっ!」と、菜月は頷く。どうやら、彼女の知覚は正常値への近似化に成功したらし
い。タオルで顔を拭うと、振り返って彼女の復活した知覚が僕を捉える。僕も彼女も昨夜
の衣類のままで、折角の彼女のお洒落服も無残にしわだらけと化していた。
僕の方へと寄って来ると、彼女は僕の手前でしゃがみこむ。両手をフローリングの床に
付け、ダイニングの床に座って壁に凭れてた僕の倦怠感が備わった顔色を覗き込む。
「おはよっ♪」
語尾にハートマークでも付きそうな可愛らしい甘えた声色だった。
洗浄された菜月の顔からは化粧が落ちており、メイクの取れた何一つもまとっていない
彼女の素顔も十分に魅力的に見えた。
「うん」
と、僕はこうべを落とすように下げる。
そんな簡単な所作でも、頭部には刺激が付いてきた。
「大丈夫?」と訊ねる彼女へ、
「大丈夫」と先程の彼女と同義で返す。
そう、感情なしの言葉だけ。
それに菜月の方も心配気味の「大丈夫?」ではなく、彼女の顔色には笑みすら見遣れた。
「僕、なんか面白いかな?」
と、彼女の笑みの意味を訊ねてみる。
「面白いわよ、だって生気の欠片も感じられないもの」
置き物みたい、と例えられる。置き物の方が余程マシだろう、まだ感情のプラスマイナ
スがゼロなのだから。今の僕は、明らかにそれがマイナスだ。百人に聞いたら、僕を見た
百人がそう答えるだろう。
「僕さ」
と、本題に話を進める。
「昨日の記憶がないんだよ」
「うん」
「そうでしょうね」
と、当たり前のように彼女にあしなわれる。
「随分と早い時間に酔い潰れてたもの」
「そうなの?」
「そうよ」
と、前置きがある。
「大変だったんだから」
急に不安が身体中の外膜を包み込む。
僕は一体、何を仕出かしてしまったのだろうか。平常でない思考回路で以って、なるべ
くの平静感を保とうと心内を落ち着かせる。
アルコールでの失敗談の各例を挙げてみよう。体内循環が黄信号を灯して嘔吐、これは
最悪の結果といえよう。涙の腺が緩やかになって泣き上戸、これもタチが悪い。己を上級
へ急浮上させて周囲へ始める説教魔、これは何とか聞き流して対処してもらいたい。感情
の起伏が豊かになって精神的に余裕が生まれる、テンションが上がるだけなので良質とい
える。見る見るうちに暗黒の闇世界へ引き摺り込まれる、テンションが下がるだけで悪質
だ。
僕の対象となった酔いの反応は、いわゆる「絡み酒」だった。周囲に絡んでは、お前は
ああだ、お前はこうだと指摘を続ける。
十分に傍迷惑な失敗例だった。その詳細については、菜月から説明が為される。
「基本的に悪口は一つもなかったわ」
よかった、フッと安堵の息が漏れる。
お前はあそこが良いだとか、各人の礼賛が主となっていたらしい。
「じゃあ、ちょんぼはしてないんだね」
「うん、ただ酔ってたから何を言い出すか分からないじゃない」
「だから、ちょっとドキドキだったわ」
と、彼女が本音を漏らす。
「例えば?」
「例えばって・・・・・・」
少し間隙を置いて、その内容を思い浮かべる。菜月は両手はフローリングの床に付けた
まま、女の子座りで考えていた。
「そりゃあね」
と、目を伏せて先を述べる。
「ベッドでどうだったとか言われたら、ねっ?」
「あぁ、確かに」
と、僕は頷く。
「それはたまったもんじゃないね」
「そうよ」
「あなたは覚えてないからいいけど、その場にいる私はどう対処するのよ」
まるで僕が本当に言ってしまったかのように、彼女は僕に詰め寄る。
「それは・・・・・・」
と回答を見い出せずにいた僕へ、フッと彼女は口角を上げる。
「大丈夫よ」
と、右手でそのロングの髪を掻き上げる。
「言ってないんだから」
それはそうだ。
「もしかして」
と、失われた記憶を呼び戻す作業の先を続ける。
「僕を介抱してくれたのも君?」
「ってゆうか」
と、菜月は現代的な前置きを添える。
「自動的に私がその役割になったっていう方が簡単かな」
主役である僕が早々と戦線離脱してしまい、その後は催す側の6人で祝会を続けた。
初体験でペース配分を承知してなかった僕はさておき、他のみんなも徐々に両頬を赤ら
めていきながら陽気に会は展開していく。その中で、美喜だけは早めにアルコールをリタ
イアした。唯一成人していない新垣佳奈への配慮でジュースに切り替えたのは口実で、正
確な理由としては今回の白ワインは彼女の口には合わなかったようだ。井川が僕へ選出し
たワインは彼女の祝会のときのフルーティな一品より度数は上級で、彼女はそれが受けつ
けなかったようだ。(同時に、それが僕が早々に就寝送りになった理由でもあった)
ワイン3本が空き、料理やケーキも食べ終わると、彼らは高揚感そのままに二次会へ向
かった。
しかし、菜月だけは彼らの輪から外されることになってしまう。
「菜月は雄二を介抱してあげないとダメでしょ」
左雄子が先駆けて言する、「言する」というより「仕向ける」といった方が正解だった。
菜月を僕の部屋に残す⇒菜月が僕を介抱する⇒そのまま愛の儀式へ一直線
彼らの中では、きっとこんな経路を空想していたのだろう。ただ、僕は完全に堕ちてし
まっていた。菜月も酔いが漂う中で押入れにあった2セットの布団を洋室に敷き、そこへ
自分より重い僕の身体を寝かせると、仲間内が散らかしていった食器類をキッチンのシン
クに運び、沸かした湯を注いでおく。
「でね」
と、彼女は先を続ける。
「一応、あなたを起こそうかなとは思ったの」
「その・・・・・・」
と、次の一文を発するのにためらう素振りを見せる。
「折角の友川くんの誕生日だし」
「うん」
「いろいろ・・・あるじゃない?」
あぁ、そうだね。
「でも、あなたを起こすのは止めにしたわ」
「もう深いところまで堕ちてたし、私もなんだか眠くなってたから」
「あぁ、そうだね」
それで今に至る、ということか。
「記憶はちゃんと注入された?」
「うん、お蔭様で」
ありがとう、と一連の事柄についての感謝の念を告げた。
ちょっと待っててね、と菜月は朝食の支度に取り掛かった。
2人とも酔いが覚め切っていないため、さほどの食欲は持ち合わせていなかった。なの
で、フルーツやヨーグルトや昨晩の残りのケーキを中心としたメニューを食することにし
た。
「これ、夏川さんと新垣さんが買って来てくれたんだからね」
それは覚えてるよ、と該当の品を食しながら返答する。
「なのに、友川くんったら ケーキも食べないで寝ちゃうんだから」
買って来てくれた人に失礼よ、と注意混じりに諭される。
「うん、そうだよね」
と、反省を交えて返す。
「次会ったとき、ちゃんと謝っておくよ」
美喜が「特別なもの」と購入してくれたのは、ブルーベリーケーキだった。僕がブルー
ベリーやレーズンなどの系統の味が好みであることを把握してる、彼女ならではの選択だ。
そして、もう一人謝るべき人がいた。対象はすぐ目の前にいた。
「菜月もさ、ごめんよ」
と告げると、彼女は
「何が?」
といった様相でいた。
「わざわざ、僕の家に泊めさせちゃって」
あぁ、と僕の言動の意味をようやく受け取る。
「いいのよ、最初から泊まるつもりだったから」
「最初から?」
「うん、最初から」
と、僕を見てこうべを下げる。
「僕の家に泊まるって言ってたっけ?」
元から彼女が宿泊する予定があり、僕が昨晩の記憶と共に忘却しただけなのだろうかと
訊いた。
「うぅん、言ってはなかったけど」
「けど、私の誕生日を祝ってくれたときみたいに・・・・・・」
そう僕を見つめる彼女の瞳から届いた線で、頭部の電球が明るく光った。
みなまで言うことはないと掌をかざし、彼女の先の言動を遮る。そうか、彼女はその期
待を持って僕の自宅を訪れていたのか。例の愛の儀式、それが彼女の期待だ。それならば、
僕は彼女の期待を多大に裏切ったことになろう。申し訳ない、と期待外れな恋先である己
のことを詫びた。
「大丈夫よ」
と、菜月は先頭に置く。
「私もすぐ寝ちゃったし」
口元を緩めて見遣れた彼女の笑みは本物であるのか、気遣いによる偽者であるのか判別
がしきれなかった。
大体、女の子をその気にさせておいて応えない男なんて低度なこと請け合いだ。おそら
く、菜月の中で僕への評価は1ランクダウンしたことだろう。(祝会の主役が真っ先に酔い
つぶれる、女性陣の用意したケーキを食せずに眠り続ける、この2つもあわせるなら2ラ
ンクか3ランクも減点の対象となっていたのかもしれない)
ホントに申し訳ない、と重ね重ねに詫びを入れる。
彼女は口を噤ませて、上目遣いで僕に視線を送る。彼女との1年弱の交際で、この仕草
が菜月の特徴的なものであることを僕は判じていた。若返ったように子供っぽい面を垣間
見せる菜月の身体反応の中で、この動作は「鼓動の高鳴り」と同義である。僕の誠意を混
同させた言の葉に、彼女は僕の誠実さを受け止めたのだろう。
「じゃあ・・・・・・」
と、勿体振るように間を空ける。
「今からしちゃう?」
「今から?」
「ダメ?」
「いやっ」
と、一刻ばかしの時間を稼ぐ。
「えぇとね」
と、もう一刻を足す。
右手の掌を頭部に添える。二日酔いという理由付けはもちろん通用するだろうが、彼女
の期待を昨晩に続いて2度も其方退けにしてしまうという行為が問題だった。ただでさえ、
ランクダウンしていた僕の格はまたも降格となる。それは譲ってOKとしよう、しかしこ
れは彼女の顔に泥を塗るようなものだ。
答えあぐねる僕を見て、前屈みだった彼女の姿勢は背凭れを必要とした。
「そうよね、頭もズキズキするもんね」
分かったわ、と彼女はミニフォークに苺を刺して口へ運び入れる。
菜月は下唇をクッと上げて、目線を下げる。子供の不貞腐れ方だ。
30分後、菜月の態度は180℃真逆に変化していた。
理由は、いたって簡単だ。僕らは、愛の儀式を慎ましく進行したのだ。互いに絶頂を迎
えると、時間差でそれぞれの快楽に達した。
隣室の住民に気づかれないように声量などを最大限に配慮した営みではあったが、眼前
の彼女は潤みを帯びた瞳に煌めかしいほどの顔色で自身と僕の汗まみれの額を右の掌で拭
っていた。そして、物足りないというように 幾度と僕に身体を摺り寄せては唇を合わせ続
けていく。唇を合わせる度に彼女の吐息が僕の口の中へ入って来る。さっき食していたフ
ルーツの香りが主であり、僕の方もそうであったはずだ。
そんなふうに30分ほど戯れると、そろそろにと布団を出た。(その布団は昨晩の寝床で
敷いたままにしてあった2つの布団の僕の方である)本当はいつまでもそうしていたかっ
たがそうもいかない。明日は試験が控えており、その勉強にそろそろ取り掛からないと試
験は待ってはくれない。
菜月は帰宅せず、そのまま僕の自宅の折り畳み式テーブルで勉強に取り掛かる。ちゃん
と勉強道具まで持参する用意周到さだった。
さらに、彼女への関心はもう一段階上があった。褐色のトートバッグからメガネケース
を取り出すと、スカーレットの縁のメガネを両耳に掛ける。新調品だった、僕と2人きり
のシーンを見計らって用意したのなら相当な周到さだ。
彼女はそれについて何も言しない。「私がメガネ変えたのに気づいてよ」という、無言の
言及だった。
「メガネ」の3文字を言い終える前には、彼女の眼の線はこちらを向いていた。
「変えたんだね」
「分かる?」
と、スカーレットのブリッジをクイッと指で上げる。
「そりゃあ、まぁ」
「メガネ変えたんだね、って言ってって顔してるから」
デリカシーの配慮が足りない発言は意識的だったのだが、彼女は気持ち程度に頬を膨ら
ます。まただ、子供の不貞腐れ方。
「でも」
と、菜月の顔色を変えようと先を言する。
「かわいいね、とっても似合ってるよ」
「ホント?」
と、こちらの思惑の通りにパッと彼女の表情が明るくなった。
やっぱり、子供だ。子供っぽさを前面に押し出すときの彼女の行動は微笑ましくて愛ら
しい。
「はいっ、お誕生日おめでとう!」
夕闇に街が覆われる時刻になり、菜月は帰宅することになった。その際、彼女から誕生
日プレゼントを贈られた。昨日、僕の部屋に来訪したときに提げていたレジ袋の中に隠し
ておいたそうで、良い頃合を見計らってそれを取り出そうとしたところ、僕が思いの外に
早々と潰れてしまったので昨晩の誕生日当日に渡すことが出来なかったんだそうだ。
「友川くんのせいよ、昨日あげようと思ったのに」
と、また口を噤ませる。
「ホントだよね、申し訳ない・・・って何回言ったんだろう?」
2人で笑みを浮かべながら、有りがたくプレゼントを受け取った。
レジ袋に入れられていた贈り物は、僕が欲しがっていたDVDプレーヤーだった。自宅
にあった物に不具合が生じていたのを彼女は憶えていてくれたようだ。
「ありがとう、助かるよ」
「うん、友川くんのプレゼントより全然値段は低いんだけど」
菜月的には僕からの誕生日プレゼントと同じアクセサリーが本命だったそうだが、僕に
はそういった類の飾り物は似合わないのを考慮して実用的な物へシフトチェンジしたよう
だ。
「じゃあ」
と、帰路につく菜月の姿を玄関から見送る。
戸口を閉めると、試験勉強へ戻る前に菜月を除く仲間内全員へ昨晩の謝罪メールを送っ
た。もちろん、美喜と新垣佳奈にはケーキの件の謝罪も重ねた。(2人からは全然気に掛か
ってない旨の返信が届いたが、美喜の本心は文章では掴めなかった)
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