第39話
瞼を開くと、これまでの寝起きで見遣ったことのない空間にいる自分に瞬間的にハッと
した。そいつはあくまで「瞬間的」であり、すぐに僕はその理由に気づくことができた。
昨晩の聖夜の営みを終えると、僕はそのまま菜月のベッドで朝を迎えていた。僕の記憶
は彼女と身体を抱き合わせたところが最後となっており、そのままの姿形を続けていたの
で寝相としては余りに不自然な状態で眠りについたのだろう。
菜月の姿は、既に彼女の部屋にはなかった。
僕の身体には先刻まで重ねていたように彼女のなまめかしい肉体の記憶が宿ってあり、
彼女のベッドに独りきりでいる現在の状況にどこか空虚な感覚すら覚えていた。
着替えは持参してなかったため、昨日ここへ着て来たままの衣服に身を通す。(元から菜
月の部屋に泊まるつもりでいたのだが、着替えまで用意してある僕の周到さに彼女から「最
初からそういうつもりで来たのね」と笑われてしまいそうだったので止めておいた)
リビングへ行くと、キッチンで調理中の菜月の姿を見遣れた。
「おはよう、早いね」
早いといっても、時刻は10時に掛かろうかという頃だった。
「おはよう、もうちょっと掛かるから待ってて」
インディゴのエプロン姿の彼女はロングの髪を後ろで一括りに結っていた。彼女も9時
頃に目覚めたそうで、モーニングシャワーなどで心身をともに快調にさせてから2人分の
朝食の調理に取り掛かっているところであった。
料理が完成するまでは、洗面所で顔を入念に洗って頭を起こさせ、リビングで朝の情報
番組などを見ながら朝刊に目を配らせていった。そこにはなんだか菜月との同棲生活を送
ってるような錯覚も得ることが出来て、僕はその錯覚を利用して同棲生活を妄想で拡大に
させていた。
リビングのスタイリッシュテーブルにはストロベリージャム・マーマレードジャムのト
ーストとポテトサラダとコーンポタージュスープ、そして菜月が注いでくれたブレンドコ
ーヒーが並んだ。(朝用にと、頭をきちんと起こさせるように糖分は少なめにしてあった)
「じゃあ、いただきます」
と、両手を合わせて彼女へ目線を遣った。
普段の朝食は独りきりでしか食さないので、眼の前に他の誰かがいる朝食は久方ぶりで
奇異な心的要素を持たせた。
「どれも美味しいよ、普段の朝食より多めだけど全然お腹に収まるよ」
「ありがとう、でもどれも失敗しようがないメニューではあるけれどね」
そう微笑を浮かべると、彼女は見慣れた僕のグレーのセーターに着目した。
「着替え、持って来てなかったの?」
と、僕の着ているセーターを左手の人差し指の裏側で指した。
「あぁ、そうなんだよ」
「・・・・・・もしかして、昨日泊まる予定じゃなかったの?」
「違うよ、最初から泊まる予定だったけど」
「そう、だったら着替えを持って来ればよかったのに」
「あぁ、一応の保険のつもりだったんだよ」
「保険?」
と、彼女は疑問系を含ませた眼の線を僕に送る。
君にもしも聖夜の営みを拒否されたとしたときの保険で、着替えを持ってなければ「最
初から泊まるつもりはなかったし」と自分の中で押し殺すことができ、着替えを持ってた
ら「最初から泊まるつもりなのに断られた」と諦めをつけることができなかったと、己の
中での精神的な切りの付け方の準備を伝えると 菜月は目を伏せてフフッと笑みを零した。
「大丈夫よ、友川くんの誘いを拒んだりしないわ」
「それに・・・・・・」
と、彼女は微かに発言をためらう仕草を見せつつ先にある言の葉を踏んだ。
「好きな人に押し倒されるのが嫌なわけないじゃない」
と、気持ち目を伏せて告げる。
「うん、それを聞いて安心したよ」
と、次からは着替えを持参することを静かに決めた。
僕は夕刻を迎える頃まで彼女の家にいた。
DVDで映画を見たり、彼女の冬季休暇の課題で不明な部分を手伝ってあげる間に時間
は過ぎていった。
空色に夕景色を次第に見遣れる頃合になると、昨日も着用してたモスグリーンのダウン
ジャケットを着て帰路につく準備を始める。黒のスニーカーに足を入れ含ませていると、
玄関口まで着いて来てくれた菜月が
「これ、本当にありがとうね」
と、左手薬指に煌かせたピーチゴールドのリングを僕に向けてかざした。
「あぁ、大事にしてあげてね」
「もちろん」
と、彼女は口の端っこをクッと上げる。
「一生大切にするわ」
「一生なんて大袈裟だよ」
と、不明瞭な彼女の発言を指し示す。
「大袈裟じゃないわよ、少なくとも今はそうしたいと思ってるんだから」
逆に僕の指摘を撥ね退けると、彼女は口元に右手の人差し指を添え付ける。
「キスして」
と要望が伝えられると、それに応えて触れる程度に唇を合わせた。
これも彼女の憧れる「テレビとかで見てて 憧れてるシチュエーション」であり、出掛け
る彼にいってらっしゃいのキスをおねだりするというシーンなんだそうだ。
「いってらっしゃい」
「うん、じゃあお邪魔しました」
菜月はマンションの通路先の角を曲がるまで手を振ってくれていた。僕も2回ほど振り
返り、それに応えた。
この日はコンビニのバイトがあったので、菜月宅から一度自宅へ戻った。
制服などを収めたショルダーバッグを斜め掛けに提げると、バイト先へは直行せずに毎
回右折するはずの十字路を直進した。
僕が向かった先は、美喜の自宅のマンションだった。昨日のシフトに半強制的に入って
もらい、その理由の一因として僕も存在していたため、お詫びの言葉の一つでもと思って
クリスマスプレゼントを持って行った。
彼女の自宅のインターホンを何度かプッシュしたが応答はなく、どうやら現在は外出中
のようだ。僕はその場でバッグに入れていたメモ帳の一頁を切り破って、
「昨日はイヴなのにバイト入ってもらっちゃってごめんよ。去年は美喜から貰っておいて
お返しもしてなかったから今年は僕から贈らせてもらうよ。
Merry Xmas! 友川雄二」
と、書記した切れ紙をプレゼントを入れた提げ袋の中に忍ばせた。
バイトを終えて、夜半に自宅への帰路につく。
すると、遠目から自宅のいつものドアに一つの飾りつけがされてるのに気づいた。その
飾りはドアノブから提げられた紙製の提げ袋で、僕は菜月から間接的に受け取ったバレン
タインチョコのときのワンシーンを思い起こした。
ただ先ほど別れたばかりの彼女からの宛てでないことは判断でき、その提げ袋の中身を
取り出すと中に忍ばせてあった切れ紙から贈り主が美喜であるのを知覚した。
「家に来てくれてたのね、出掛けてたから留守にしててごめんなさい。プレゼントありが
とね、ホントに嬉しいです♪ 実は雄二へのプレゼントも買ってあって、いつ渡そうかな
って考えてたの。明後日のバイトの帰り道が無難かなって思ったけど、二日も遅れて渡す
のもなって思ってて。雄二からのプレゼントのおかげで良いきっかけが出来ました。
じゃあ、私からもMerry Xmas! 夏川美喜」
と、書された文面を黙読すると提げ袋の中にあった一冊の本を取り出した。
それは以前に鑑賞して感動を覚えていた、映画「Love Again In Hea
ven」の文庫本であった。
DVDを購入するほど嵌っていた美喜とこの映画の話題になったとき、この映画には原
作があって日本語に翻訳された文庫本もあることを聞いていて、「それは是非読んでみたい
な」と美喜にも話していたのを覚えててくれたようだ。
入浴、夕食(というより時間帯的に夜食?)を終えると、洋室の壁に凭れ掛かりながら
早速にと美喜から贈られた文庫本に眼を通し始める。
細やかで清浄な風情ある街々の景観、主人公の男女が互いの想いを露わに出来ない歯痒
さ、恋先の前になると逆転的な意思表示をしてしまう隔靴掻痒の感、そして最愛の花の弁
が散ってしまった際に生じる狂おしいほどの喪失感、長く強く願いを続けた先に齎された
恋先との再開など、映像では捉え切れなかった細部に渡る筆写に再び感動を湧き起こらさ
れ、序章ぐらいをと思って読み出した贈本をインターバルも置かずにラストまで読了して
いた。
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