第31話・その1
小樽の朝は心地好かった、まだ30℃に満たない気温の中で浴びる海風はなんとも僕の
心を和らげた。
僕が眼を覚ますと、菜月は既に着替えとメイクに余念のないように身なりを飾り立てて
いた。寝ている間にはだけていた浴衣を直すと、上体を起こして痒みの生じた背中をポリ
ポリ掻く。
時期的に朝方といえど東京では寝苦しくて本意といえぬ眼の覚まし方をすることが多い
が、小樽の海風は蒸し蒸しさをどこぞに追いやってくれて、久方ぶりに涼しげにすら記憶
できうる涼夏の空気が漂う一室で僕は相当に深い眠りに堕ちていた。
「おはよう、友川くん」
「うん、おはよう」
小樽の澄んだ景観をバックにした菜月はいつもの2割増ほど爽やかに僕の瞳に映り込む。
僕の視線を気に留めた彼女は、自分に寄せられた集中的な眼の線上の軌道に沿うようにし
て返した。
「何か顔に付いてるかしら?」
「・・・・・・うん、付いてるね」
深い眠りによって寝惚けていた僕は視界がまだはっきりと定まっていなかった。
僕の言葉に彼女は眼の前に立てていた手持ちサイズほどの大きさの鏡に顔を近づけて自
分の面を隈なくチェックしたが何も見つけ出すことは出来なかった。
「ウソっ、何が付いてる?」
「・・・・・・ファンデーションが付いてる」
一瞬そこの世界の構造が停止した。5秒ほどして菜月はじわじわと脇腹に打たれたボデ
ィーブローが効いたように笑い出す。
「ビックリしちゃったわ、友川くんがそんな冗談言うなんて思いもしなかったから」
「ごめん・・・・・・寝惚けてるから」
「最高よ、そのままずっと寝惚けててもらえないかしら」
さすがに無理だよと囁く程度の小声で発すると、顔を水で冷やして気を正気に戻らせた。
当然なのだが眼を覚ますと僕と同じ一室に菜月がいる、でもそれがなぜか僕を違和感に
浸らせていることを彼女に伝えた。
「私も同じだわ。朝、瞼を開くと、すぐそこで友川くんが寝てるのよ」
浴衣がはだけてて目線のやり場に困ったわと付け足すと、僕の就寝状況を続けて話して
くれた。
「そのうちにあなたは寝返りを打って向こうに姿勢を変えてしまったの。まるで私と向か
い合ってるのを嫌がってるみたいだったわ」
それはごめんと謝罪すると、謝らないでよと彼女はクスッと笑みを浮かべる。
「あなたは単に無意識のうちに寝返りを打っただけなんだから」
「あぁ、そうだよね」
早く着替えて行きましょう、という彼女の言葉通りに動いた。
朝食はレストランのように広がる優雅な造りで旅館内では異色と捉えられるポイントで
バイキング形式の料理を頂いた。
菜月の選び取ってきたお皿はエスニック系の単品料理が多く乗せられていた。対して、
僕のお皿にはスクランブルエッグなど日常的に食せるであろう単品料理が乗っていた。
「そういうのでいいの?」
と、菜月が訊く。
「うん、結局これが落ち着くんだろうね」
冒険心がないよねと言うと、彼女はそんなことないとかぶりを振る。
「友川くんらしいと思うわ」
「でも、菜月みたいに普段食べれないようなやつを選ぶのが正解だと思うよ」
「こっちのは賭けよ、美味しいか美味しくないかも区別できてないのにチョイスしてるん
だから」
実際に美味しくないのもあるわと眉に皺を寄せると、でも残せないしねと自分のお皿の
上を一つ一つ片づけていく。
「美味しくないの、僕が食べようか?」
「大丈夫よ、喉が受け付けないほどじゃないし」
優しいのねと彼女は僕に微笑みを送る、僕はただ興味本位で食してみたかったことを言
い留めた。
この日は旅行のプランを立てる上での要点にも挙がった、海水浴へと出掛けた。
夏休み中ということもあって、その混雑ぶりは予想できる範疇ではあった。
僕らは海水浴客がひしめく隙間を掻い潜って、なんとか2人分のスペースを確保出来る
ポイントを探し出した。
この時間にもなると、遥か大空にて輝きを放つ陽から差し込む射光は刺すように僕らを
突く。しかし、晴れ渡る夏空が彩るスカイブルーの光景は、眼の前に永遠に続いてゆくか
のようなオーシャンビューを一段と美しく色取っていた。
砂浜にビニールシートを広げると、そこへ極力の手荷物は省いてきたビニールバックを
置いて、着用していた衣服を脱ぎ出した。衣服の下に着込んでいた紺のハーフパンツの水
着を見せた僕のことなどどうでもよく、菜月の衣服を脱いでゆく姿を横目にすると早くも
息をゴクリと一つ飲み込んだ。ドットフリルスカートのブルーのビキニ姿を披露した彼女
は、煌びやかに射す射光さえ飾りに加えては余りにも眩しいシルエットを僕に提供してく
れた。
心の臓に小型針が柔らかくチクリと刺さったのが判った。
なぜに僕はこんなにも興奮してたのだろうか、昨夜に彼女の着用しているビキニの中身
にある生肌まで体験したというのに。
菜月の水着姿は上品で、元気が良くて、このビーチにおいてその色合いは著しく映えて
いた。
「どうかしら?」
「健康的で明々としていて菜月にはよく似合ってる、ちょっとドキッとさせられたよ」
「本当? 撃ち抜いちゃった?」
菜月は右手で鉄砲の形を作り、僕の胸先へそれを添え当てて「バンッ!」と確実に仕留
めた。僕は彼女の鉄砲弾にやられたフリをしてあげた、きっと大根な芝居だったのは間違
いないだろう。
「それはあれかな、オーストラリアで着てたやつだったり?」
「そうよ、キャンベラで現地のみんなとビーチに行ったときにも着てた水着よ」
以前に彼女が短期留学で訪れた豪州で遊びに行ったというビーチの話を聞いて、菜月の
水着姿はとっても素敵なんだろうなと遠回しに今夏にでも一緒にビーチに行きたいなとい
う誘いを提言していた。彼女もそれに前向きに応えてくれ、今回の旅行の計画には海水浴
が盛り込まれた。
しかし、菜月は僕も忘れ去っていたような細事まで記憶していた。
「友川くんのは普通のハーフの水着なのね」
「うん、何か可笑しいかな?」
「うぅん、似合ってるわよ」
その一言には何か続きがありそうだと直感が働いた、僕はそれをそのまま彼女に訊ねた。
菜月はなにやら恥ずかしげな顔色を見え隠れさせ、俯くように僕から視線を外して続けた。
「その・・・まさかとは思ったのよ」
井川くんが言ってたじゃないと言われたが、彼の言動の詳細が一切思い起こせなかった。
「あれよ・・・ブーメランがどうだとかって」
そこからも僕はあれこれ思考を巡らせ、ようやく彼女の言わんとしてたことを理解した。
もう4ヶ月半も前の他愛もない仲間内の会話の一部分など忘却していた。
菜月が示唆したのは彼女の留学時に現地の仲間とビーチに遊びに行った話の際、井川が
外国人の逸物がビッグサイズだとかくだらない低俗な言動をした中での一コマだ。井川は
僕に対して「この中だったら(逸物がビッグなのは)お前だよな」と悪質な駄弁を述べて
おり、菜月はそれを冗言と飲み込みながらも万が一の0.01%という確率を気に懸けて
いた。
「思い出した、あんなの嘘八百に決まってるじゃない」
「そうよ、私だって鵜呑みにしてたわけじゃないんだから」
もしも僕がブーメランのビキニだったらどうしたのと、興味を抱いたので直接投げ掛け
てみる。
「そんな・・・きっと友川くんに目線を遣るときは不自然なくらいに上半身だけを見てた
と思うわ」
この不安定が漂う状況に決まりが悪く感じたのか、菜月は行って来るとだけ言い残して
さっさと海に浸かりに行ってしまった。
僕らは交互に10分ずつぐらい海水に身を浸けに行った。海で遊ぶ者と荷物の見張り番
に分かれなければいけなかったので、1人で遊ぶ空しさに駆られて結局2人でシートに座
り込んでる時間が十中八九は占めていた。
昼食は僕が海の家で購入してきた焼きそばと飲み物という質素なメニューだった。ただ
質素な食事でお腹を満腹にさせるのも勿体無かったので少なめにした。
何一つとして特別な催事のない5時間だったが、僕ら2人にはそれがたまらなく楽しく
思えた。要は想いを寄せ合う恋仲の相手と一緒にいる時間がなにより大切で大事な事柄だ
ったのだ。
15時には僕らは着て来た衣服を再びまとってビーチを後にした。
旅館へと戻ると部屋の浴室のシャワーで身体に沁み込んでた海塩水を洗い流した。
外出着に身を包ませると、16時過ぎには2人で観光スポット巡りに繰り出した。
菜月は白と青のボーダーのキャミソール・ネイビーのスカート・カーキのミュール、僕
は白のブロードシャツ・デニム・茶系のスニーカーという出で立ちだった。
右隣に歩幅を揃えて歩く彼女の左手を取ると、こちらから恋人つなぎで五本の指を絡め
た。彼女は満足感を面に出して微笑んだ、僕もそれに応えるように彼女の瞳を見つめて微
笑んだ。
まずは小樽の名産というオルゴールと硝子を扱う建物に足を運んだ。
オルゴールを扱う洋館のショップに入ると、たちまち音階板に触れては奏でられる自鳴
琴の音色に迎えられる。世界中のアンティークの品が並ぶ館内にはお手軽品から高級品ま
で様々な小箱が飾られていた。
「欧州の国に招かれたようだわ、心の内の琴線に触れるように流れるメロディーね」
本当だねと言い応えると、僕らはお土産用と2人の御揃い用にお手軽品の方へ属する物
を購入した。
続けて硝子製品を扱う館内に入ると、国内外の和洋硝子器がズラリと置き並んでいた。
製品の向こう先が手に取るように分かりうる透明度に富んだクリスタルの輝きは、僕らの
心の内を洗い清めるように数多な色彩を放っていた。
先刻のオルゴールもそうだったが、これらの芸術作品を自作で生み出す体験コーナーが
あり、無論に折角の機会なのでという思いも持ち合わせていたが時間の計算上によると断
念せざるを得ない状況だったので、ここでも僕らはお土産用と2人の御揃い用にお手軽品
を購入した。
この日の最後に訪れたのは、小樽の観光スポットとしては余りに有名な運河だった。
大正12年に歴史の幕を開けた運河は大正から昭和にかけて街の繁栄を支えた。小樽港
が埠頭形式に変化してその役割を終えると、運河に沿った遊歩道などを整備して現在の形
を見出した。昭和初期の面影を残すノスタルジックな風景、昔ながらの石造倉庫が並ぶレ
トロ感にあふれる風景、夕暮れ時には散策路に沿って設置されたガス灯がライトアップさ
れる演出、そのどれもがここを訪れる者の心をあらわせては洗練させてくれる。
僕らが到着して15分ほどが経つと、置き並んだガス灯に色が灯された。その景観とい
ったら、ロマンティックに僕らの心の内を彩って離そうとしなかった。
菜月が恋人つなぎにしていた手を解き、右の腕を僕の左腕に絡めたのも自然な流れだっ
たのだろう。そこに佇むカップルの甘美な心持ちを引き出すには十分なムードが漂ってお
り、僕らの間には言葉を交わすことも目線を合わせて見つめ合うことも必要とはしなかっ
た。
僕はふと昨日の一件を思い出した、右隣の菜月の口元に眼の線を遣ると心の内で舌を打
たせる。
「今日は開いてないね、上唇と下唇の指一本分の隙間」
「フフ、これでも気にして意識してるのよ」
なんだと溜息でもつきそうな残念がった一言を漏らすと、彼女はまたフフッと笑みを浮
かべた。
2日目の夕食には寿司を選んだ。
港町の小樽は至当に魚介類の宝庫であり、「小樽寿司屋通り」なるものがあるほどだ。1
30軒もの店があるという寿司の街では、漁港からの新鮮なネタの鮮度の良さと値段の安
さが光る。
正直、回転レールの無い寿司屋の暖簾を潜るのは初めてで少々の緊張は隠せなかったの
が本音だった。しかし、こういった店では嘗められたらいけないという変な抵抗感があり、
為るべく毅然とした様相に集中をしようと終始心掛けていた。
2人ともオーダーした同じ3000円のセットが並べられると、口内に入れた寿司は溶
けるかのような食感で僕を幸福の世界へといざなう道先案内人のようだった。これからも
足繁く通うであろう回転レールの上を流れる円皿に乗った寿司の店を悪くは言わないが、
これまでそれを食してきた自分を否定されるかのような味の格差をしかと確認できた。隣
の菜月もまた案内人に幸福の世界へと導かれ、左手を口元に添えていたく感激してる様子
だった。
旅館への帰り道でも僕らは夢見心地でその世界に留まっており、余韻にひたひたと浸っ
ていた。
「本当に美味しかった、またあんな御寿司を食べてみたいわ」
「うん、ただ東京では無理そうだね」
経済的にと付け加えると、菜月はコクリとこうべを垂れた。
「たまには敷居の高めなお店も行ってみるものね、私の中で御寿司の可能性が大きく拡が
ったわ」
「そうだね、たまには食費に多く投資してあげるのもいいのかもね」
そうよと菜月が応えた、それは僕に遠回しに次回のおねだりを提案してるようにも聞こ
える。
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