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短編:社会人の話

八尋とななせ

作者:森崎緩
 彼の名前は椎葉八尋、私の名前は辻ななせ。

 私たちは同期入社の四年目社員だ。
 配属先も同じ営業課で、営業課長と初めて顔を合わせた時、物珍しそうにされたのを覚えている。
「八尋とななせ? 何だお前ら、連番か」
 その言葉は屈託のないただの軽口だったけど、図らずも私たちの運命を決定づけた。
 八と七。
 一つ違いのその数字を、私たちは意識せずにいられなかった。
「大きさで言うと俺の方が上かな」
「順位で言えば私の勝ちだけどね」
 最初の頃は、その程度の冗談も言い合える間柄だった。

 だけど共に働くうち、私たちの関係はおかしな方向へ変わっていった。
 同期入社というだけでも比較されがちなのに、営業課は仕事ぶりがはっきり目に見える部署だ。私と椎葉は何かにつけて比べられ、追い着け追い越せで切磋琢磨しろと言われてきた。私もその重圧と戦いつつ、椎葉にだけは負けたくないと頑張ってきたつもりだ。
 椎葉だって事あるごとに私を煽ってきた。
「俺、辻にだけは負けたくないな」
「私だって、椎葉にだけは負けたくない!」
「七が八に勝てるわけないだろ」
「七位だったら八位より上だけど?」
 それだけならまだ、健全なライバル関係と呼べたかもしれない。
 でもそこに、周囲からの期待の声が加わるようになってきた。
「辻さん! 椎葉さんには絶対負けないでください!」
 ある日、他の課の女子社員から声援を送られた。
 椎葉は見てくれがいいせいか、女性から人気があるらしい。その外見に騙された女子社員が、遂に思い詰めて彼を食事に誘ったのだそうだ。
 ところが椎葉の答えは残酷だった。
『面倒だから先に言っとくけど、俺、社内恋愛する気は一切ないから。そういうつもりならやめてくれる?』
 伝聞だけど、おおよそこんな調子だったそうな。
 件の女子社員はきっぱり振られたショックで大泣き、義侠心に駆られた別の子が私を焚きつけに来たという経緯だ。
「椎葉さんは辻さんに負けるのが一番悔しいって言ってました。大いに悔しがらせちゃってください!」
 そんなエールを嬉しいとは思わなかったけど、私としても椎葉が嫌な奴なら都合がいい。
 ライバルがいい奴なら打ち負かすのも気が引ける。でも嫌な奴なら、心置きなくこてんぱんにできる。
 一方で、椎葉も他の課の社員から声援を受けていたらしい。
「辻さんって生意気じゃない? 人当たりきついよな」
 出る杭は打たれるとでもいうのか、私の仕事ぶりは一部の社員からはよく思われていない。それでなくとも営業課は花形部署、よその課からすればうちだけが目立つのは気に入らないだろうし、そのうちの一人がたかだか四年目の女子社員ともなれば更に、だったのだろう。
 かくして私と椎葉の争いは単なるライバル関係から、仇討ちもしくは代理戦争めいたものへと変貌しつつあった。
「椎葉、辻さんには負けるなよ!」
「辻さん、椎葉さんなんてやっつけてください!」
 ほうぼうからの声援を背に、椎葉と私は事あるごとに睨み合い、噛みつき合った。
「悪いけど今月は俺が勝つから。泣くなよ、辻」
「泣くのはそっち! せいぜい今のうちに調子乗ってれば?」
 お蔭で仕事に張り合いができたし、お互いの営業成績もうなぎ上り。うちの上司も部下の成長ぶりに大喜びで、よかったと言えばよかったのかもしれない。

 だけどある時、椎葉が大口の契約を取りつけた。
 それ一件だけで我が営業課の月間目標をゆうにクリアできる、それはそれは大きな契約だった。
 もちろん課長は大喜びだ。
「やったな椎葉! 何でも奢ってやるから好きなもの言え!」
 大いに椎葉を褒め称えたし、社内表彰されるという話にまでなった。
 椎葉は澄ました顔で、
「ありがとうございます。課長のご指導のお蔭です」
 なんて応じていたけど、内心は大喜びだったみたいだ。
 その日の残業で私と二人きりになった時、わざわざ近寄ってきてこう言った。
「辻、ごめんな。今回ばかりは俺の大勝だわ」
 それは、事実だ。
 認めたくなかったけど、今月はもう何をしたって椎葉には敵わない。それどころか私が同じように表彰を受ける機会を得られるかどうかすらわからない。完敗だった。
 悔しかった。私を応援してくれた人たちをがっかりさせたのも悲しかった。正直、残業なんて放り出して家帰って自棄酒したいくらいに嫉妬していた。
 だけど私は、あえてそれを顔に出さないよう努めた。
「そうみたいだね」
 もちろんただの虚勢だ。だけど椎葉の前では絶対に、絶対に悔しがってやるものかと思った。椎葉が私を悔しがらせたいと思っているのなら、意地でもそんな顔はしてやらない。
 そう思って、あえて笑ってこう言った。
「おめでとう、椎葉。頑張ったんだね」
 無理やり浮かべた笑顔は引きつっていたに違いない。
 なのに椎葉はそこで虚を突かれたような顔をして、すぐに私から目を逸らした。
 それから言いにくそうにもごもごと、時間をかけて返事をした。
「……あ、ありがとう、辻」
 その時、椎葉が見せたのは、四年の付き合いで一度も見たことがなかった照れ笑いだ。意外と武骨な手で前髪をかき上げながら、思わずといった様子で顔をほころばせた。その顔だった。
 私は彼のその顔に、思いがけずときめいた。
 椎葉って、こんなふうに笑うんだ。普段の澄ました顔とは全然違う、あどけなさの残る優しい笑顔だった。驚きに思考が全部持っていかれて、私は、他には何も考えられなくなった。
 二人きりでいる職場の空気が、急に蒸し暑くなったのを覚えている。
「えっと……」
 私が言葉に詰まっていれば、椎葉が慌てて口を開いた。
「辻、たまには飲みに行かない? 俺の表彰祝いで」
「今度、課長と行くんじゃないの?」
「今日のうちに行きたいんだよ。奢るから、付き合えよ」
「なんで椎葉が奢るの? 椎葉のお祝いなのに」
 そうは言いつつも私は彼に付き合うことを決め、残業を終えた後、初めて二人で飲みに出かけた。

 その夜、椎葉と、初めて素直に話をした。
 二人でお酒を飲んで、酔っ払ってふざけて笑って、昔から仲が良かったみたいにじゃれ合ったりして。
 そのまま朝まで飲み明かして――。

 今では椎葉が私の彼氏だ。
「ななせちゃんの精一杯のお祝い、可愛かった」
 付き合い出してからも、椎葉はしょっちゅうあの日の話をする。
「素直になったらあんなに可愛いんだって初めて知った。即落ちだったな」
 あの夜、私は椎葉から告白された。
 言われた瞬間は頭が真っ白になったけど、気づけば頷いていた。憎きライバルだと思ってたのに、一緒にいたい、誰にも渡したくないって思うくらい落っこちてしまった。
 以来、私たちは休みの日毎に会っている。外を出歩けば誰かに見つかる可能性があるから、デートは車で片道三時間かけて隣の県まで行く。往復だけで結構な時間がかかるけど、椎葉となら平凡なドライブさえ楽しいから構わない。
「惜しいことしたな。もっと前から気づいてれば、いがみ合うこともなかったのに」
 運転席の椎葉が髪をかき上げる。
 その手の武骨さが今では好きで好きでたまらない。助手席の私は、しみじみ呟く。
「遠回りしちゃったね、私たち」
「『面倒だから社内恋愛しない』とか、どの口で言ったんだかな」
「その口でしょ。何で宗旨替えする気になったの?」
「理想の彼女に出会えたからに決まってんじゃん」
 からかうつもりが真面目に返され、私は思わず硬直する。
 だけど椎葉はお構いなしで、楽しそうに続けた。
「でも気づけてよかった。今、すっげー幸せ」
 それについては全く同意だ。私は椎葉ほど、余裕ありげには振る舞えないけど。 
 ただ、営業成績を巡って常にギスギスしていた私たちだ。社内では今でも険悪な仲だと思われていて、当然ながら付き合っていることは社内の誰にも言ってない。まさか自分が秘密の社内恋愛に陥るとは思わなかった。
「当面、社内ではライバルのふり続行だね」
「いろいろ面倒だし、しばらくはしょうがないな」
 私の言葉に椎葉がぼやく。
 でも仕方のないことだ。この間まで喧嘩していた同士が実は相性最高で、手のひら返して付き合い始めました、なんて恥ずかしくて言えない。
「オフではめちゃくちゃ仲良しなのにな」
「本当だよね。喧嘩もしたことないくらいなのに」
「明日にもラブラブ同棲生活始めちゃいそうな俺たちだからな」
「そ、そこまでではないから!」
 さすがに交際三ヶ月で同棲は早すぎる。もちろんいつかは、そうなるのかもしれないけど――椎葉と暮らせたら、こんなふうにこそこそデートする必要もなくなる。ずっと一緒にもいられるし、いいことずくめだ。
 その為にも、まずは『椎葉と付き合っている』という事実に慣れたいところだけど。
「椎葉って強心臓だね。私はまだ慣れてないのに」
 運転中の彼に、私は打ち明けた。
「今でも、椎葉に名前で呼ばれるだけで動悸が酷いよ」
 切実な悩みのつもりだったのに、ハンドルを握る椎葉はなぜか嬉しそうだった。
「意外とうぶだな、ななせちゃん」
 微笑む横顔にからかわれ、
「そ、そんなことない!」
 私はむきになって言い返す。
 こう見えても彼氏くらいいたことあるし、何もかも初めてってわけじゃない。
 ただ、椎葉だからだ。ずっといがみ合ってきた椎葉が相手だと、初めての恋みたいに訳がわからなくなる。
 それはどうやら私だけのようで、椎葉はいつでも余裕綽々だ。
「俺のことも名前で呼んで」
 急にせがんできたから、私は慌てふためいた。
「えっ、い、今?」
「今。この場で」
「いきなり言われても……」
「駄目。呼んで」
 椎葉はその仕事ぶり同様、プライベートでもちょっと強引だ。
 二人きりの時はなぜか逆らえなくて、結局照れながら、呼んでみた。
「えっと、や……八尋さん……」
「……う」
 椎葉がそこで低く呻いた。
 横目で窺えば、椎葉の横顔は心なしか紅潮していた。
「……さ、さん付けとか、ずるくない?」
 訂正。
 椎葉も余裕綽々、とまではいかないみたいだ。

 そんな私たちの目下の悩みは、近々行われる飲み会のことだった。
「幹事に釘刺されまくったよ。『辻さんも誘うけどいいか?』って」
「私も。『椎葉は来るって言ってたけど』って何度も確認されちゃった」
 それはいわゆる同期会で、同じ年度に入社した面々が久し振りに集まり、お酒を飲んで親睦を深めようという企画だった。私と椎葉は同期だから、どちらにもお声がかかったというわけだ。
 私はもともと欠席するつもりだった。同期の子たちとは飲みたいけど椎葉のこともあるし、皆に気を遣わせてまで出たいとは思わない。
 だけど椎葉は私に出て欲しいようで、
「飲み会済んだら二次会はパスして、二人で飲み直そう」
 ということらしい。
「あいつらだって面白がって煽ってるとこあるし、気なんて遣わなくていい」
 確かにそれも一理ある。
 何より、昔の私なら思っただろう。椎葉が行くからという理由で行かないのは癪だって。
「よし、周りにバレないようにサインを決めよう」
 長いドライブを終え、遠くの街のカフェで一息ついた時、椎葉がそう言い出した。
「サインって何?」
「飲み会で引き止められないうちに帰れるよう、俺が合図をする。ジェスチャーでな」
「メールですればいいんじゃないの?」
 私が突っ込んだら、わかってないなって顔をされた。
 そんな椎葉が妙に楽しそうなので、乗ってみることにする。
「例えば、どんなのにする?」
 すると椎葉は少し考え込んでから、仕種つきで言った。
「俺がネクタイ緩めたら『頃合いだから一緒に帰るよ』」
「あ、いいかも」
「袖をまくったら『まだかかりそうだからお互い頑張ろう』だ」
「なるほどね」
 そのくらいなら覚えやすいし、いいかもしれない。
 納得する私に、彼は更に続けて曰く、
「前髪かき上げたら『ななせちゃん今日もすごく可愛い大好き』って意味な」
「そ、それは要らない! 知らせなくていい!」
「何でだよ、大事なことだろ」
「飲み会に集中できなくなっちゃうから!」
 恥ずかしくて断固抗議したら、椎葉はますます面白がっちゃってあれこれ考え始めて大変だった。
 本番でやらないといいけど――やるだろうけど。

 飲み会の会場は、駅前にある雰囲気のいい洋風バルだった。
 久々の集まりだからだろうか、会費設定も少々お高めだ。椎葉と一緒に飲めないのは残念だけど、せっかくだから楽しもうと思っていた。
 私と椎葉は空気を読んで、あえて離れた席に座った。それでも飲み会の間はお互いが見えるよう、斜向かいの位置を陣取った。こうすればサインを見逃すこともない。
 ただそのせいで、椎葉とその隣に座った女の子との会話が聞こえてきたりはした。
「ねー椎葉、こないだうちの課の子振ったでしょ?」
「振ったって言うか、食事に誘われたから断っただけ」
「断り方が冷たすぎるの! フォローする方も大変なんだよ」
「いいよフォローとか。言ってもわかんないなら仕方ない」
 そして筒抜けの会話が、ちょっと気になったりもした。
 椎葉の女子人気は相変わらずらしい。二人でいる時の彼は優しいし不安なんてないけど、複雑に思うことはある。もし付き合ってることを公表してたら、ああいうのもなくなるんだろうか。
 私はと言えば、右隣の男子社員にやたら話しかけられたりした。
「辻さんの評判、よく聞くよ。すごいよな、営業で頑張ってて」
 彼はそこでちらりと椎葉を見て、
「あの椎葉とも互角に渡り合ってるんだろ? 格好いいな」
 私を笑顔で誉めてくれた。
 椎葉の名前を出されると戸惑うけど、愛想笑いはしておく。
「ありがとう。実は結構、いっぱいいっぱいなんだけどね」
 それから私も椎葉を見たら、あの武骨な手でしきりに前髪をかき上げているところだった。
 例のサインだ。でも顔に出るから、程々にして欲しい。
「辻さんって、付き合ってる奴いるの?」
 お酒が進むと、隣の男子社員がふとそんな話を切り出してきた。
 椎葉は例の女の子と話しながら、これ見よがしに腕まくりをしている。私はそちらを一瞬だけ見てから、曖昧に濁して答えた。
「……何で、そんなこと聞くの?」
「いないといいな、と思って」
 意外と真面目なトーンで返されて、ぎょっとする。
「俺、前から辻さんのこと気になってたんだ。もしよかったら……」
 そういう話を飲み会の席でされても困る。
 どこでされても困るけど、今は特にまずい。現に、反応が遅れた私を見かねたように、今度は真向かいに座っていた男子社員が声を上げた。
「うわ、辻さん口説かれてんじゃん! どうすんの?」
「ど、どうって……」
「皆の前でとか勇気ある! 辻さん、考えたげなよ!」
「ええ!? ちょっと、何で!」
 左隣の女子社員まで調子を合わせてきて、私は一層うろたえた。
 同期ばかりの飲み会という気安さも手伝ってか、あっという間を公開告白を歓迎する空気になりつつある。皆が身を乗り出すように私を注視し、私の答えを待っている。だから想像がつく。私が正直に答えたら、この熱狂的な空気もたちまち白けてしまうんだろう。
 でも、だからといって嘘はつきたくない。
 ここには椎葉もいるのに。
「ごめんなさい、私――」
 私が、胃を決して口を開いた時だ。
「辻、うるさい」
 耳によく馴染んだ、だけどいつもより冷ややかな声が、場の空気を一瞬で凍らせた。
 椎葉だ。
 席を立った彼は、皆の戸惑いをよそに私を真っ直ぐ睨んできた。例のジェスチャーなんてもうすっかり抜け落ちたように怖い顔をしている。
 かと思うと、テーブルを回り込んで私のところまで歩み寄ってきて、
「あとスカートの裾ほつれてる。直してやるからこっち来い」
「え? 急に何?」
「いいから!」
 椎葉は私の腕を掴んで立たせると、力ずくで飲み会の場から連れ出した。
 半ば引きずられるように連れ去られる私が見たのは、揃ってぽかんとしている同期たちの顔だった。

 外まで連れ出されて、店の横の路地まで来ると、椎葉はいきなり私を抱き締めた。
「ちょっ……椎葉、ここ外……!」
 潰されそうなほどの腕の力に、私は思わず呻く。
 だけど椎葉は手加減せず、私の肩に顔を埋めながら呟いた。
「悪い、俺ちょっと余裕ない」
「……椎葉」
「もういっそ俺が言おうかと思った。それ思い留まっただけ、誉めて」
 どうやら椎葉をとても不安がらせてしまったみたいだ。
 私は彼を抱き締め返して、その頭を撫でておく。
「ありがとう、椎葉。私も、彼氏がいるってことは言おうと思ってた」
 でもそれを言ったら場の空気は白けるだろうし、『彼氏』についても突っ込んで聞かれたことだろう。どうすれば丸く収められるのか、わからなかった。
 だから無理やりにでも連れ出してくれた椎葉に、とても感謝している。
 換気扇の音が響くお店の外で、私たちはしばらく静かに抱き合っていた。
「俺がそうしたかったから、しただけ」
 やがて椎葉が溜息をつくと、微かにお酒の匂いがした。
「けど『スカートの裾ほつれてる』はまずかったよな。どこ見てんだって話だ」
「そもそも、ずっと座ってたのにね」
「だよな。あれで気づかれたかな、皆に」
「それならそれでいいよ。嘘つくよりずっといい」
 皆の目を気にして、それでお互い傷つくくらいなら、正直に言ってしまう方がいい。
 それでいろいろ言う人もいるだろうけど、椎葉がいるから私は平気だ。
「聞かれたら、ちゃんと言うよ、私」
 そう告げたら、椎葉はようやく顔を上げ、こつんと額をぶつけてきた。
「俺も。何か言われてもいい。ななせちゃんを取られるよりずっといい」
「うん。そんなこと、絶対ありえないけどね」
 私が笑うと、彼はなぜか目を瞬かせる。
 それから、改めて私をきつく抱き締めた後、耳元でこう囁いた。
「この後、二人で飲み直そうかと思ったけど、やめた」
 お酒のせいか熱く感じる吐息が、私の耳と首筋をかすめる。
「ななせちゃん、今夜、帰さなくていい?」
 告白された日の夜と同じく、頭が真っ白になった。
 気づけば頷いていたのも同じだ。迷わなかった。

 結果的に言うと、私たちの関係はまだ露呈していないようだ。
 あの飲み会では中座したことを不審がられつつも、突っ込んで尋ねられることはなかった。もちろん疑ってかかっている人もいるみたいだけど、今のところ直接聞かれてはいないし、聞かれたらその時こそ正直に答えると決めている。
 それと告白まがいのことをされた彼には、改めて『ごめんなさい』を言っておいた。

 社内での私たちの評価も、ほんの少しだけど変わり始めているようだ。
 いつも私を焚きつけてくる後輩が、ある日こんなことを言い出した。
「椎葉さんって、実は辻さんのこと好きなんじゃないかって噂あるんです」
 あの飲み会での出来事が、尾ひれはひれをつけて泳ぎ始めたらしい。椎葉が私のことをやけによく見ていると噂になっているそうだ。
「辻さん、椎葉さんを惚れさせて手酷く振ってやってください!」
「それはできないかなあ」
 私はやんわりと、その懇願を退けた。
 椎葉を振るなんてあり得ない。あんなに格好よくて一途な人、きっと他にはいないから。

 椎葉の耳にも噂は入っているようで、だけど彼も、慌てず騒がず構えている。
「いざとなったら認めるまでだ。いいよな、ななせちゃん」
 二人きりの時に、彼は上機嫌で語っていた。
「と言うか、そのまま結婚報告でもいいよな。椎葉ななせ……辻八尋? どっちがしっくり来るかな」
「どっちって……」
 そんなことを聞かれても困るんだけど――けど、嬉しくないわけじゃない。
 むしろ、すごく嬉しい。
「どっちにしても連番だね」
「だな。並んで書いたら、これくらいベストマッチな夫婦もないな」
「運命ってやつかな、これ」
「そう思っとこう。大好きだよ、ななせちゃん」
 言いながら彼が前髪をかき上げたので、私も同じように、自分の髪をかき上げてみた。

 彼の名前は椎葉八尋、私の名前は辻ななせ。
 いつか違う名前になっても、連番のまま、一緒にいよう。

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