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第二話 意地と笑顔と可愛さの基準
 ある日、席に着こうとしても彼女は僕に気が付かなかった。
 ずっと本に向けられたままの視線。
 気付かれないのも、なんだか悔しくて、椅子を引いたまま座らずに、じっと彼女を見つめていた。
 切れ長の瞳と、ショートカットの深い黒髪、少しだけ頭を傾けて本を読む姿勢、時折口元を撫でるように過ぎていく彼女の人差し指。

 やわらかい斜めの日差しが、窓から差し込む図書館。
 小学校帰りの、五時までの寄り道。

 最初は、拗ねるような気持ちもあった。
 だけど、それはすぐに消えた。
 本当に些細だから、気付けなかったことに瞳と心を奪われて。
 ほんの少しだけ、ほころんだり、それを堪えたりして動く口元。とても小さな表情の変化。端正で、綺麗な顔立ちだからこそ、表情に乏しいようなイメージがあったから。
 そういえば、人が夢中になって本を読んでいる姿を見たのは、これが初めてだったかもしれない。

 でも――、なんだか、それがとても可愛くて、自然と頬が緩みそうになる。
 微笑ましいっていうか、なんか、こそばゆいような、枕を抱きしめて布団を転がりたくなるような気分。

 しばらく見詰めていると、視線に気が付いたのか、前の席につこうとしている僕を見つけ、慌てて澄ました顔を作って会釈をして来た。その様子がなんだか余計に可笑しくて、堪え切れずににやけてしまうと、彼女は恥ずかしそうな顔で咎める様な視線を送ってきた。『ゴメン』と口パクで伝えると、赤い顔のままで『バカ』と小さく唇を動かす。そうして、二人で静かに笑顔を交わした。
 彼女の冷たそうな印象は、そんな些細で短い時間に崩れてしまっていた。整った顔立ちなのに、少しだけあどけなさの残る笑顔が、凄く可愛いと思った。気付かされた多彩な表情が、胸の奥に焼き付いていた。

 そうして、ようやく僕は席に着いた。
 ほんの少し上気した頬と、努めて視線を合わせないようにしつつも、僕の様子をかなり気にしている女の子の正面の席に。
 またにやけたくなる頬を抑えつつも、少しからかいたい気分もあった。
 でも、それも無粋な気がして、ちょっとの余裕ぶった笑みで本を開いた。
 めくられたページ、本の香りが微かに流れる。

 どこまでも遠い水平線を目指して走る一艘の舟。
 遠い異国の船乗りの物語。
 開かれた『世界』に今日ものめり込んでいく。


 彼女が席を立つのは、閉館の五分前。
 誰の邪魔にもならないように、静かに、そっと。
 僕も気付けるようになるのに、多分、短くない時間がかかったと思う。

 声を掛けようかと思った。
 今日の最初の事は、良い切っ掛けになるんじゃないかって。
 でも、視線を交わして見送ることしかできなかった。
 彼女がゆっくりと小さく右手を振る。
 そっと本から手を放して、僕も軽く手を振る。

 勇気が無い?
 きっとそれもある。
 でも……、もっと別の、言葉が無いから伝え合えているモノの方が大きい気がして、上手い台詞が浮かばないんだ――。


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