黄昏ララバイPDFで表示縦書き表示RDF


黄昏ララバイ
作:rozan


黄昏ララバイ
1−2章            
蘆 山 著
1−1

塀状にコンクリートで築かれた小爆布の滝池前にでて、葉桜に覆われて木洩れ陽がちらちらと彩りを落とすベンチに私は腰掛けた。そして、目前の滴り落ちる幾重もの糸水が広げる僅かな涼を浴びながら中空を見上げると、そびえ建つ新都庁魔天閣双頭の鎌首が、威圧的にもたげかけていた。
 左右二脚ずつ並べ置かれたベンチには、ホームレスと一目で判る風体をした四人の中年男が、それぞれ晩春の微風を受けて長々と寝入っていた。
 その姿に視線を這わせながらも、歩道の前方から一人の男に焦点が定まると、驚いたことに、さっき会ったばかりの万引き少年だと判るにつれて、言い知れぬ心騒ぎを覚えてしまう。だぶついたズボンをばたばた揺らせ、ゆっくりとした足取りの少年から思わず視線を外したい衝動に駆られたが、なぜか瞠若たらしめた。
 量販店内で万引きをした紛れもない少年だと思いながら、四、五メートルほどの距離に近づいてきた少年に平静を装って、「よぉ、また出会ったなっ。偶然、それとも私の後をつけてきたのかい」と、掛けたくもない声をかけてみた。
「先公(先生)見てえに、いちいち煩ぇよ。俺の勝手じゃねんか」
少年はそう虚勢を張りあげて、ズボンのポケットに両手を突っこむと、滝池前で私に背を向けて突っ立った。
「万引き品の立て替え払いをした小父さんを、余計なお節介だと怒っているんかね。もしそうなら謝るよ、悪かった。息子のことを思い出して、他人事とも思えなかっただけなんだ」

1−2
 私は、少年の背に向かって詫びながらも、疑懼ぎくを覚えずにはいられなかった。だが、立ち去るべきだと思うのと裏腹に、ベンチから腰を浮かせられずにいた。それはたぶん、少年の背負う心の重創を感じ取った気がしていたことで、後ろ髪を引かれる思いであったろう。少年は立ち去る素振りもみせずに視線を避けるかのように後ずさりして、そのままベンチの私の傍らに腰を落とし込んで来た。その仕種には、怖さよりいじらしささえ感じられて、おかしくもある。しばらく言葉を失ったまま時を流し続けていると、少年は上着のポケットの中から携帯プレーヤーのようなものを取り出して、連結した両耳用のレシーバーを耳に当てがうと、スウィッチを入れた。そのレシーバーからは軽快なリズム音が微かに漏れ出して、私の耳をくすぐりだした。
 話す気もなさそうで、私を無視するかのようにミュージックを楽しむだけの少年には業を煮やしてしまい、ベンチから立ち上がると「じゃなっ」と、少年に別れを告げた。
 すると少年は、咄嵯に私の右腕を掴んできて再びベンチに坐れとばかりに強い力で引き下げる。仕方なくベンチに坐り直してしまったが、すると彼はレシーバーを耳から外しとり、スウィッチを切った。私は、のっびきならぬ事態へと引き込まれてしまいそうな予感を抱き、多少身構えた。
「これ、小父さんのカセット・テープだよ、返す」
 そう少年は唐突にいいながら、携帯プレーヤーの中からカセット・テープを抜き出して、私の膝上に突きだした。
「さっきの万引きしたやつかい?」
「…………」
 小父さんにはいらない物だ。気にしないで君が聴いたらいいさ。とにかく、店側で事を荒立てないでくれて本当によかったよなっ」
「別に欲しかねえんだ、こんなもんはよぉ」
「でも、欲しかったからあんな事したんだろうが?」
「こんなこと、気晴しに何時もやってんだっ」
「気晴らしだったというのかい?小父さんだって憂さぐらいはあるんだがなっ、そんなことで収まる憂さではないから始末におえんのだ。本当にたちの悪い憂さだから」
「たちの悪い小父さんの憂ってのは、トラックー杯盗んだとしても晴れやしないのさ」と「人目を盗んで物をかっさらったらよっ、汚ねえもんなんて、皆ぶっ飛ぶんだぜっ」
言った。

1−3
 この少年は、何かに恨みを抱いているようだ。
 量販店に対してか、それとも学校の先生、あるいは両親か仲間などへの面当てなのかは解からぬが、でも、出しゃばって立て替えた私に対しての怒りではなさそうだ。
 新宿駅西口量販店から二十分ほど歩いた中央公園内の入り組んだこの場所なのに、たいして時間差も無く少年と再会したのは不自然すぎる。
 もしかしたら後を付けてきたのでは……。そして今、同じベンチの隣に腰掛けているということは、何かの企み、いや目的があるに違いないとも思えてしまう。
 長い茶髪を後頭部で一つに束ね、眉毛を半分ほど剃り落とした風貌から察するに、とうてい礼言葉を掛けに後を追ってきたとも思えない……。
 テープを返すだけなら、こんな場所まで付いて来なくても容易に返せたはずだ。たぶん、お人好しと思って執拗に後をつけ、ずうずうしい願い事でもする積もりでは……。でなければ恐喝か、因縁をつけにきたという可能性だってあるかも知れないが、口の重い突っ張り少年の幼い横顔を垣間みると、つい私の疑念は消える。
 人一倍気の弱い私の息子とて、一度はこの少年と似たような風体をしていたこともあったから、驚きよりも親しみさえ覚えてしまう。だとしても、見ず知らずの少年に無防備で心まで許してしまうという訳にはいかないが、少年の苛立ちと、晩年を迎えて振り返る我が半生の虚しき心情とどこか共通している気さえして、出現した少年を無二の親友ではなどと、新鮮な感情でとらえてしまう。
「君は腹を空かせてないか……。良ければ何かごちそうするぞ」
「こいつらと一緒にすんじゃねえよっ」そう粗野振っていう少年は、左右のベンチで寝そべっているホームレスたちに視線を向けて、顎をしゃくりあげて見せた。「たちの悪い小父さんの憂ってのは、トラックー杯盗んだとしても晴れやしないのさ」と「人目を盗んで物をかっさらったらよっ、汚ねえもんなんて、皆ぶっ飛ぶんだぜっ」
言った。

1−4
 この少年は、何かに恨みを抱いているようだ。
 量販店に対してか、それとも学校の先生、あるいは両親か仲間などへの面当てなのかは解からぬが、でも、出しゃばって立て替えた私に対しての怒りではなさそうだ。
 新宿駅西口量販店から二十分ほど歩いた中央公園内の入り組んだこの場所なのに、たいして時間差も無く少年と再会したのは不自然すぎる。
 もしかしたら後を付けてきたのでは……。そして今、同じベンチの隣に腰掛けているということは、何かの企み、いや目的があるに違いないとも思えてしまう。
 長い茶髪を後頭部で一つに束ね、眉毛を半分ほど剃り落とした風貌から察するに、とうてい礼言葉を掛けに後を追ってきたとも思えない……。
 テープを返すだけなら、こんな場所まで付いて来なくても容易に返せたはずだ。たぶん、お人好しと思って執拗に後をつけ、ずうずうしい願い事でもする積もりでは……。でなければ恐喝か、因縁をつけにきたという可能性だってあるかも知れないが、口の重い突っ張り少年の幼い横顔を垣間みると、つい私の疑念は消える。
 人一倍気の弱い私の息子とて、一度はこの少年と似たような風体をしていたこともあったから、驚きよりも親しみさえ覚えてしまう。だとしても、見ず知らずの少年に無防備で心まで許してしまうという訳にはいかないが、少年の苛立ちと、晩年を迎えて振り返る我が半生の虚しき心情とどこか共通している気さえして、出現した少年を無二の親友ではなどと、新鮮な感情でとらえてしまう。
「君は腹を空かせてないか……。良ければ何かごちそうするぞ」
「こいつらと一緒にすんじゃねえよっ」そう粗野振っていう少年は、左右のベンチで寝そべっているホームレスたちに視線を向けて、顎をしゃくりあげて見せた。
「小父さんは優しいから、汚かねえ」
「へえ、君がそう思ってくれたとは意外だよ。息子に言われたようで嬉しいが、年がいもなくテレくさいよ」
「本当だよ」
「でもなっ、この歳まで精神を汚し続けてきたし、外見では判らんだけさ。こんな都心の公園に散歩という訳でもなく来てなっ、生気を失ってベンチに坐っている姿なぞ、ホームレスと何ら変わりゃしないのさ。だから君、こんな小父さんだと知ったいじょう、殴ってみたくはならんのかい……」
 知らず知らずのうちに打ち解けて受け答えしていた少年は、急に押し黙る。

1−5
 多感な少年の心の傷に触れるのは、もうこれ以上は止そう。私はそう思いながら、再びベンチから腰をあげだした。
「何かおごってくれんじゃねえんか、小父さん」
 少年は再びそう言った。
「だから、さっきも言ったろう、おごってやるってさっ」
 私は、急に素直さお感じだした少年を従えて中央公園裏の成子坂下通りに出ると、目前にある天然温泉ビル一階の、食堂に入っていった。
「君が良ければだけど、ここの風呂にも入っていいんだぞ。食事の後でも先でもいいが」
 私は、少年を友人とも息子とも思いをダブらせて、心の浮き立つのを覚えていた。少年の言葉の反応はなかったものの、満更でもなさそうな素振りだけは感じとれていた。
「よしっ、食事の前に一風呂浴びようや」
 そう言って、私は一方的に浴場に向かいだした。
 少年は、裾を極度に絞ったダブ付いたズボンのポケットに両手を突っ込んだまま付いてきた。そして周囲の老人客から奇異な視線を浴びだした少年は、プレーヤーのレシーバーを耳に当てがって、仏頂面で後に従っていた。
 脱衣場で臆する風もなく裸になる少年は、大きめなシャツとズボンを着けた姿からは、とうてい想像し得ない華奢な体を露出した。だぶついた衣服は、体の小さなエリマキトカゲが襟を大きく逆立てて威圧して見せるのと同様に、防衛本能かも知れないと連想してしまう。
 隣に坐る少年の洗い桶湯を何げなく横目で見ると、酷い汚れで黒ずんでいた。
「君、風呂は何日振りなんだい?」
「いいじゃんよっ」
「おいおい待てっ。そのままで湯船に浸かったら駄目だぞ。その髪も先に洗ってからにするんだ。他人を汚いというからには、まずは自分を奇麗にすることだ」
 私はそう言いながら立ち上がりかけた少年の腕掴んで再び坐らせて、備え付けのシャンプー容器を掴みとると、彼の頭髪にたっぷり掛けた。

2−1
 六十歳になる私の頭髪は粕尾であるが、いまだに若々しいと思い込んでいる。その毛髪を指先ですき挙げながら、天然温泉前で少年と別れて青梅街道方面に歩きだしていた。
 別れたばかりの少年が気になって振り返って見ると、驚くことに、またしても飼い犬が付きまとうように、私の後をついて来る少年の姿があった。
「君、君っ。家はこっちの方角かい?」
 十四、五メートルほど離れた後方の少年に、声を投げてみた。
 少年は、両手首をズボンのポケットの中に突っ込んで凧のようにズボンを伸ばして広げ、ぷあぷあと風をはらませて足早に駆け寄ってくる。
 我ながら生まれて初めてちょっかいを出した難解な行為であるが、些かの辞易感と、ちょっぴりの去りがたさもあって、複雑な心情だった。とはいえ、何時までも知らぬ未成年者を引き摺り廻しているわけにもゆかず、きっぱり突き放そうと思いもするが、「小父さんと一緒に帰るよ」と言いながら傍らに擦り寄る少年には、苦笑いを浮かべてしまう。
「そうか、家はこっちの方角なのかい?」
「家は代々木だよ」
「えっ、何だ、それじゃ反対の方角じゃないか」
「いいんだ、小父さんの家にいくよ。困るんか」
「……独り暮らしでさして困ることはないないが、でも、来てどうしたいんだい?」
「別に」
「……まぁいいさ、きたけりゃ来いよ。すぐそこの柏木通り沿いで、古びた安アバートなんだ」
 私は少年の真意が掴めぬままに、そう言った。

2−2
――私の住むアパートは、大家が地上げ屋に売却したと半年ほど前に初めて通知があって、居住は今期の契約期限までと一方的に決められていた。だが、一、二階を含めて八つ有る部屋のうち、七部屋に居住している(水商売に携わっているだろう)女たちの誰一人として、いまだに退室しないでいるようだった。
 私の契約期限もすでにきているが、一週間ごとに手紙や葉書などで、退室をしつっこく迫られ続けてもいた。
 
 九年前に私が経営していた測量会社は倒産を余儀なくされて、残務整理後に運よく残された杉並区の小さな住まいを処分した。そして得た金は、別れを求めた妻と息子の養育費に渡し、私は僅かに残った金を手に、このアパートに入居した。そして嘱託としてある測量会社に勤めだしてはいたのだが、それも辞めねばならぬ歳で無職となった。
 宛も無く気の進まぬ仕事探しが日課となって半年余りが経過している今は、心許無い蓄えであるにも拘わらず、憂さ晴らしだけに小金を注ぎ込んでいた。
 
 アパートに着いた私は、郵便受けから一通の葉書を取りだして読み、「またか」と一言つぶやいた。
「金の催促かよ、小父さん」
「まぁ似たようなことだ。こんな葉書のことはどうでもいいことだから、君は靴を脱いで早く上がれ」
 玄関の上がり框に腰を据えながら少年にそういうと、背後の階段を駆け降りてきた三十歳位の女が少年をしげしげ見据え、「あらっ、息子さんなの」と訊いてきた。
 その女は、隣部屋に住む水商売の慶子であった。
「いや、違うんだ」
 私が答えると、慶子は怪訝そうな顔をしたものの「そう、私、いま買物に行ってくるんだけど、何か美味しい物でも作ってあげようかしらっ」
 慶子はそう言ってバイオレット・マニキュアの指先に挟んだ煙草をル―ジュの唇に軽く添え、大きく吸い込む煙を燻らせながら、路上に出て行った。

2−3
 私の顔を訝しげにのぞきこむ少年に、「隣の住人なんだ」と言った。
 アパートは調理場が二階と一階に一つずつ有るだけの共同炊事場で、以前、豚汁に似たごった煮をしたことがある。
 鍋をとろ火のガス台に掛けてグツグツと煮込んだまま、部屋に戻ってうたた寝をしてしまった私だが、目を覚まして大急ぎで廊下にある台所に駆け寄ると、何と、ごった煮は程よく味付けされて、ガス台から下ろされていた。
 すると、背後の部屋に住む女がドアを開けて「それで味は良かったかしらっ」
 淡いピンクの透けたネグリジェ姿のままで声をかけてきた。
 夕方頃に、派手な化粧顔で夜の店に出勤する女とは以前に何度か擦れ違ったことはあるにはあるが、女はそのつど目線を伏せて、言葉を交わすことを避けるかのようにした。さして興味を抱かぬ女であったから私も挨拶一つしないでいたのだが、素顔にネグリジェをしどけなく纏う彼女は別人のように艶かしく見えて、隣室にこんな魅力的な女性が住んでいたのかと、当時は驚きもした。
 そんな彼女と煮物を通して親しくなって、しかも肉体関係まで持つようにもなった。だが、そんな慶子は間もなく小金を何度もせびりだし、私は其の都度お金を渡していた。
 そんな関係が続いていたある日、やくざっぽい風貌の三十半ばだろう男が慶子の留守部屋を訪れてきて、鍵で部屋のドアを開け入った。そんな光景を私は偶然目撃してしまったことで、それ以来、不安を感じて慶子とは二度と関係をもつまいと意識的に顔を合わすことさえ避け続けていた。だが、いま再び逢瀬を重ねてしまう切っ掛けにもなりはしないかと、新たな不安が過ぎる。
「小父さんの部屋は二階だよ。どうした、帰りたくなったのかい」
と躊躇する少年の肩をボンと叩いて言った。
 すると少年は、スニーカーを素早く脱ぎすてると、勝手知ったかのように私の前の階段を駆け上がっていった。
「この部屋なんだ」
 私がそう言ってドアを開けた。

2−4
 少年は八畳部屋の中にずかずかと入りこみ、狭くも整頓してある部屋の中をぐるりと見渡してから、窓際に置かれた和風文机にもたれかかるように、畳の上に両脚を投げだして腰を据えるのだった。
「わび住まいで驚いたかい。物には執着しなくなってしまったから、贅沢品など何一つない部屋だろう。だがね、小父さんだって君の歳ぐらいには人の物であれ何であれ、欲しい物は手に入れたいと思う衝動を抑えきれなくなったこともあるよ。いま思えばずいぶん無茶をしたもんだが、あの頃は人の痛みなんて考えられなかったんだろうなあ」
「小父さんもスリルを味わったんか?」
「いやなっ、物質が乏しい時代だったから、悪戯にスリル感を味わったんじゃなくて、生活必需品が欲しかったんだと思うがねっ。
 それでも歳を重ねて罪悪感が身に付くにつれて、馬鹿をしないように自然と身に付いていたってわけさ。だから君だって、心を養う体験をしたまでだろうけど」
 少年の胸中には後悔という痛みだって抱え込んでいるに違いない。だが、実の息子であったとしたら、こんなに寛容な対応ができたのか……。物だけでなく、人に危害まで及ぼしたと少年が言ったとおりなら、激怒していたに違いない。
 そして再び少年に、「今日は学校を休んだのかい?」と訊ねてみた。
「昨日は行ったんだ。大体一日置きくらいだよ」
 少年は、相も変わらず無表情顔でそう言った。
「それでも先生や親たちは、何にも言わないのかい?」
「……殺人鬼のいる家なんて、帰りたかねえんだよ」
「聞き捨てならんなっ。殺人鬼って誰のことなんだい?」
「親父がババアとできちゃって、それに汚職騒ぎが続いたからおっ母、死んだんだ」
「婆さんと?」
「家にいる今の後妻のババアだよ。自殺だと言ったって、親父がおっ母を殺したと同じじゃんか」
「…………」

2−5
 私は言葉を失ったまま、少年の微かな目頭の潤みを見て取った。そして幾重にも絡まった知恵の輪が、一挙に解かれだしていた。
 殺風景なこの部屋には唯一、退職時に会社から贈られた、小粒の花が連なるヒスイ宝石のような光沢を放って描かれた、絵画を壁に掛けていた。
 一度こんなヒスイの輝きに似た花があるのなら、本物のヒスイカズラを見てみたいと思いもしていたのだが、今は何となく、くすんだ色調に見えている。
 そのとき部屋のドアがノックされて、同時に無遠慮に開けられた。そして片手に袋をぶら下げたままの慶子が入ってきた。
「本格的なカレーを作ってあげるんだから、弟君はすぐ帰っちゃ駄目だわよっ」
 そう慶子はいうと、背を向けて再び部屋から出て行った。
「それじゃ夕食を済ませてから帰ってもらうことにするよ。悪いなあ」
 私は仕方がないと思いながらもドアの外の慶子にそう言うと、再びドアが開けられ慶子が顔を覗かせながら「辛口も甘口もできるのよ。君はどっちがいいのっ」と訊いてきた。
「…………」
「どっちでもいいんだろうよ、でも仕事に行くのが遅くならないのかい」
 私が答えた。

2−6
「今日は休みを取ったのよ。それより、どういう二人の関係かは訊かないけれど、弟君の名前ぐらいは知りたいわよ」
 慶子は少年に興味をもったのか、なれなれしく弟君と勝手な呼び方をして、執拗に声をかけてきた。
「そういえば小父さんも」と名前を訊いていなかったことに気付いた私は、少年の顔に視線を向けた。
「甥御さんだったんだ……でも何で名前を知らないのさ」
 慶子は、小父さんという言葉に反応してそう訊いた。
「小父さんと言ったって、親族なんかじゃないよ」
「平池慎二」
 少年は、重い口調で名乗った。
「ステキな名前なんだけど、私は慎君って呼ぶわっ」
 そう言って、半開きのドアを閉めて炊事場に再び向かう慶子の、「あらっ」という小声が聴こえてきた。そして「おめえの留守、部屋ん中で先から待ってたんだがよっ、隣の部屋から、おめえに似た声が聴こえてくるじゃねえかっ。まさかとは思ったが、矢っ張りおめえだったんかい。そんな部屋ん中で何をさらしくさってたんだい」
 ドアの向こうから、慶子を責め立てる男の声も聴こえだしてきた。以前に目撃したことのある、やくざ風の男であろう。ついに恐れていた事が差し迫ったと、私は固唾を呑んだ。
 慎二は、悠然と両脚を畳の上に投げ出したまま、文机を背にして坐っていた。
 「ちょっとそこを退けや。奴の面、拝んでやっからよっ」
 私の部屋に来ようとしている男を、慶子が止めているのだろう。喚き立てる男の声と、「住んでいる皆に迷惑だから、止めてよっ」
と制止する慶子の声も聴こえてきた。そして、「うるせぇや」という男の言葉に続き、ドアが荒々しく開け立てられた。

2−7
 男は無言で部屋の中を見回すと、「おっと、おめえじやねえか」というなり部屋の中に踏み入ってきて、慎二の襟首を強引に掴みとりだした。
「子供に何をする。手を離すんだ」
 男は私の声など無視して少年を引き倒し、顔面を拳で殴りだしていた。
 私はあわてて止めに入ったが、体力の勝る男に撥ねのけられた。「慶子、警察を呼べ」とっさに私が叫ぶと、慎二の顔を殴りつけていた男は腕をとめ、私の方を振り返る。
 慶子と呼び捨てにしてしまったことを後悔するが、その反応はすぐに男の表情と、部屋の中に入ってきていた慶子自身にも表れた。その慶子は、危険な状況を察知したかのように、部屋の外へ逃げるように飛び出していく。
 男は馬乗りになっていた慎二の体から離れると、鋭い視線を私に突き刺しながら近づいてきた。そして襟首を掴まれるとねじ伏せられて、眉間に拳を何度も見舞われだした。
 何でもない男が親しげに「慶子」などと呼ぶわけもなく、もはや弁解などは頭には浮かばない。じたばたせずに気の済むまで殴られているしかあるまいと、観念せざるを得なかった。
 何発も殴られた顔の神経はマヒしてしまい、年でもろくなっている骨など一たまりもなく打ち砕かれて間もなく死ぬかも知れないと、思いもする。
 すると、「あっ、ううっ……」というような呻き声と同時に伸し掛かっていた男の体の重みが、ふわっと宙に浮いたように軽くなる。恐る恐る目を細く開けたが男の顔はなくて、代わりに慎二の見下ろす顔が視界に入る。
 顔をもたげようとはする私だが、畳に張り付いてしまったかのように重く感じられて上げられずにいると、すかさず私の背に腕を回してきた慎二に抱き起こされた。
 そして私の眼に映ったのは、縮こまった体勢で畳の上に横たわる男の姿であった。
 男は、自らの掌で血の流れ出る脇腹を押さえ込んでいるのがわかり、さらには、血糊の付いた登山ナイフが畳の上に転がっていた。

2−8
 窓を背に呆然と突っ立ったままの少年の眼に視線を当てるが言葉にはならなくて、目まぐるしく動揺する思いが頭の中を駆け巡る。
 とりあえず救急車を呼ばなければならないと思うのだけれど、その前に、慎二を守らねばと思いたつ。
「今、救急車を呼ぶが、君は小父さんの部屋に来ていた事など忘れ、家に帰ってしまうんだ。そして二度とここには来るなっ。巻き添えにしてしまった君には本当に悪いことをしてしまったが」
「小父さん、俺が悪いんだよ。このゲン兄ぃはシャブの売人やっていて、そのことで俺とトラブったことが前にあったんだ。その腹いせで俺が察(警察)に垂れ込んでアジトをばらしたから、察に追われてたのに達公から俺がばらしたことを聞きだしたゲン兄ぃが、未だに俺をしつこく追っかけ回してたんだ」
「そうだったのか……」
「だから、一日置きに学校に行っているなんて言ったの嘘なんだ。待ち伏せされるのが怖いから、休みっ放しだったんだ。だから、こんなところで偶然ゲン兄ぃに出合ってしまったから、もう許されねえし「殺られるに決まってる」と思ったんや。けど、チャンスがあったんで、俺の方から刺した。だから庇ってなんかくれんでいいんだ」
「そういえば、多少変だと思ったよ。いきなり関係ない君に襲いかかったんだから。でも、君には判からない事だけど、小父さんにも原因があったんだ。だから後は小父さんに任せて、君は帰ってしまえ」
「…………」
「この男の傷が快復して君の存在を警察に話されたとしてもだよ、女にちょっかいを出して男と諍い合う内に、部屋に置いてあったナイフで『小父さんが男を刺した』と言い張るよ。たとえ傷害致死などの罪を問われることになったとしても、一つの人生を終えている身で、悔いはない」
「警察に話されて捕まるよりは、自首の方が小父さんはいいんだよ。この男が快復しても、どうせシャブの売人の罪であれ何であれ刑務所には間違いなく入る男だろうからさ、あえて、君の存在を主張して、自らの不利を招くことはないだろうから」
「どうして、そんなに俺を庇うんだよ、小父さん」
「いいかい、先のある君をこんな事に巻き込みたくはないだけだ。もう君は逃げる必要もなければ安心して学校にも行ける。それでも警察に問われることにでもなればだが、事件は見ていただけだと、君の得意とする突っ張りを見せたらいいのさ」
 そう慎二に言い聞かせて横たえた男に視線をあてると、その顔面は蒼白で、気絶しているかのようにも見てとれた。

2−9
 私はナイフを拾い上げると、タオルで慎二の指紋を入念に拭いとり、そして自らの掌にナイフを握り締め直す。
 窓から射し込む落陽を背に立つ慎二の肩口は、小刻みに揺れていた。
 一刻も早く慎二をこの場から遠ざけて男を治療させなくてはと、焦りを覚えだす。
「君は早くこのアパートから離れろよっ。それに今日のことは忘れてしまうんだ、いいなっ」
 慎二の肩を抱え込みながらそう言って、追い払うように部屋のドアを開けて廊下に押し出した。
 慎二のいなくなった部屋で電話の受話器を耳に押しあててはみるが、プッシュフォン・ボタンに触れる指先は、どうしても躊躇する。
 テレビのニュースなどで知る息子の衝撃や将来への影響を思ってしまい、何て自分勝手な決断をしてしまったのだろうかと、身の震えが襲う。だが、脇に転がる痛ましい男の現実に打ち消され、力強くポタンを押した。
 間もなく救急車と同時にパトカーも駆けつけて、私は緊急逮捕されて手錠をかけられた。そして二人の刑事に両脇を抱えられながら、アパートの外に連れ出されてバトカーに乗せられようとしした時だった。どこからともなく飛び出してきた真二が縋り付きだして「小父さん、俺がやったんだろうよ。どうしてだか解かんねえ。ポリ公、俺を捕まえて小父さんを放せよっ。放せって。本当に小父さんは悪かねえんだ。本当なんや」
 少年は涙ながらに必死に訴えだした。
「あんたの知り合いかい?」
 刑事が私に訊いた。
「公園で知り合ったけど、私の名前も知らないはずの、何の関係もない少年ですよ」
 私がそう否定すると、刑事は連れの刑事と一瞬顔を見合わせるが「そこを退きなさい」と慎二をパトカーから遠ざけた。
 リャーウィンド越しに振り返って見る慎二は涙を榜佗と流し、またしても犬のように追い鎚って来る。だが、その姿も腫れあがった眼で追う視界からは、次第に遠ざかっていった。
「慎二、頑張れや」と呼びかける胸中、不思議と孤独感や憂さは消えうせていた。
 取調べが続く二日目に、私は傷害致死罪に切り替えられた。
 私の怠惰な生活がゆへ、少年や男を巻き添えにしてしまったことを悔い、男の成仏を密かに念じた。その瞼の奥底で、息子と少年の熱い涙が重なった。
この物語はフィクションである。














ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




◆BACK
小説家になろう