第21話:安らぎは泡沫のように。
ベリアがオーアの血に冒され、床に伏せるなか闇夜に浮かんだのは闇と同じ色を纏った誰か。
全身を黒い布と急所だけを守る鉄で覆い、顔面には黒い面をつけていた。
影――その言葉がこれほど似合うものがいるだろうか?
月明かりに照らされたその姿はまさに夜の化身。
「歴代最強の魔王と呼ばれた男も侵血の聖毒には勝てないとはな……」
クックックという低い嘲笑が部屋を支配する。
影が両腕で空を掃うと腕を覆う布を食い破り一対の刃――カタールと呼ばれる暗殺者の武器が現れる。
影はベリアの頬をその刃で愛おしげに撫でると素早く首へと刃を突きたてる。
そして――
「!?」
突然影が動きを止めた。
理由は簡単だ。
部屋を覆っていた己の魔力が掻き消え、同時に開くはずの無い扉が開いたから。
「なん……だと?」
「甘いですね……たとえ魔法といえど、このセバスチャンには通じません」
そこに立っていたのは執事、主の為ならば己の身一つさえも厭わぬ絶対忠誠者。
あらゆる不足をその腕で足で肉体で魂で振り払う真の騎士。
その白髪まじりの髪をゆっくりと撫でつけながらセバスチャンは敵である影へと宣告する。
「「殺す」」
奇しくもそれは影の言葉と同一であった。
無機質な声とともに影はその魔手を振るい、セバスチャンへと肉薄する。
セバスチャンは余裕の笑みを浮かべながらその攻撃を避け、白い手袋で覆われた拳による軽い殴打で牽制する。
影はセバスチャンの拳を避けると両腕をクロスさせ、身を丸めながら懐へ潜り込み全身のバネをもって両腕を振り抜く。
咄嗟にセバスチャンは後方に下がり、勢いもそのまま拳、肘、膝、足、肩の全身を使った連続攻撃を影へと叩き込み、最後に魔力と闘気を込めた掌底を腹部へと打ち込み、影を吹き飛ばした。
「がぁ…………く……ふぅ……」
呻きを漏らしながら幽鬼の如く立ち上がる影。
更にそこへ疾風を追い抜き襲い掛かるは金剛の如き拳、影は身を捻り何とか回避するが早すぎる拳が生んだ旋風は魔力を孕み影の身をゆっくりと傷つける。
影も傷の痛みを気にせず刃を振るうが連続したセバスチャンの拳と旋風により疲労と傷は重なっていく。
――明らかな劣勢だった。
「諦めて逃げてはどうですか? 追うつもりはありませんよ」
「調子に乗るな……フゥッ!!」
影は短く息を吐き、全身の調子を瞬時に確かめると両手のカタールを振り上げながら壁を蹴り、セバスチャンへと一息に距離を詰める。
毒を塗らず、急所を突き反撃も許さずに一撃で命を断つことに特化された刃は風を切る音とともにセバスチャンの喉元へ迫った。
血飛沫が月夜の部屋を濡らした。
首に迫る刃を身をひねることに肩に突き刺したセバスチャンはその体勢のまま不適な笑みを浮かべる。
「少々油断しました……さすがは勇者、というべきでしょうか?実力はほぼ五分と五分……急所を回避するのが手一杯でしたよ」
そう言いながらも、もう片方の刃を拳で砕き反対の拳で影のあばら骨を砕いたセバスチャンの言葉に影は不愉快そうに息を漏らしながら目の前の老紳士を嘲笑した。
「哀れ、この程度で傷を負うようなら貴様もまだまだ……だが、そろそろ日の出の時間が近い、貴様ごとその魔王を吹き飛ばす」
そういうと影は床を蹴り、窓際まで一気に後退すると両腕を広げ全身から魔力を漏らす。
セバスチャンは即座に距離を詰めようとするが魔力の圧力が強すぎて後数mというところで立ち止まってしまう。
「限定炸裂」
その声とともに影の身体から莫大な光と高濃度の魔力が溢れ、音も無く炸裂した。
光が消えるとベリア達のいた部屋がその場から完全に消滅していた。
隣接する部屋や他の部分への損傷は一切無い、それはまさに限定的な絶対破壊。
だが、影は困惑を露にしていた。
何故なら、先ほどの魔法で欠片も残らず消滅したはずのベリアがまだそこに居たから。
そして何より先ほどまで居た人物の代わりと言わんばかりに巨大な何かが影の前に立ちはだかっていたから。
「あ…………」
荒い息が巨大な何かから漏れる。
影はやっとその巨大な何かを視認した、否――気づけた。
それは山羊、いや人にも見える。
漆黒の体毛に覆われた体躯に人一人くらいならば軽々飲み込んでしまいそうな顎、人間のような指とそこから伸びた鋭い爪、そして赤く爛々と光る血のような瞳。
その頭から伸びるのは鋭く禍々しい山羊の角――――バフォメット、その名前が影の脳裏に過ぎる。
「バフォ…………メット?」
「ああ……そう語られることも、あるといえばあるな」
山羊の口から漏れたのは男にも女にも聞こえる高く低い美声とも醜声ともつかぬ声。
全てに等しく全てと異なる二つの旋律であり戦慄、悪夢の二律背反、生命への冒涜とすら感じられる悪魔。
男だろうか?女なのだろうか?
影は何故かそんな疑問に駆られてしまった。
「さて、どうするんだ?てめえに残された道は少ないぞ」
狂気を、殺気を、怒気を、陰気を、あらゆる負という負が山羊の身体からあふれ出し、不可視の爪となって影の魂を抉る。
「あ……あぁ……」
根本的な生命の恐怖、魂が、本能が、己の全てが警報を鳴らし泣き叫ぶ。
だがその恐怖が余りに強大なせいだろうか?影は逃げることさえも忘れてその瞳に魅入られる。
影のそんな姿にセバスチャンは落胆を隠さずに低く言った。
「はん……結局は"血族"止まりか、期待外れを通り越して憎悪すら沸くぞ」
山羊はその腕を振り上げる。
何も言わぬ壊れた人形となった影をこの世から完全に消し去る為に。
だがその前にふむ、と一度だけ逡巡すると言った。
「我が名はセバスチャン、後にも前にも名を与えられずただその横にて主を守る者にして名を与えてくれた我が主に未来永劫傅く者」
そう言ってから「バフォメットは俺にてめえらが勝手に付けた名前だ、その名前で呼ぶんじゃねえ」と言うと、既に負の気にあてられ発狂し糸の切れた操り人形になった影へと死神の鎌よりも恐ろしい破滅的な暴力の一撃で影を跡形も残らないほどに消し飛ばした。
セバスチャンはその山羊の姿のまま月夜を仰ぎ、己の主の無事を再度確認する。
「…………」
そしてその姿のまま満足気に微笑んだ。
それは悪魔の微笑みとは思えぬほどにあまりに清く美しい笑顔で。
「その姿は久しぶりだな……」
「ッッ!!ベっベリア様!?」
突然の言葉に山羊の姿のままあたふたと慌てるセバスチャン。
ほんの少し前までの姿とは余りに対象的でその慌てふためく姿は滑稽ですらある。
そんな姿を見た魔王は申し訳なさそうに微笑みながら、告げた。
「すまんな、余が不甲斐無いばかりに」
「っ…………いや、気にするな……これは……その、勤めだ」
思わぬ主の労いと昔の面影にさらに困惑しながらセバスチャンは主へと忠実に答えを返した。
魔王は依然として優しい微笑みを浮かべたまま、眠たそうに呟く。
「ふっ…………変わらんな、悪いがまだ眠いんだ、後は頼むぞ?」
「勿論だ、我が愛しき背の君」
呟くと共に怠惰な眠りに身を任せた主にそう返すと山羊は闇の溶けるような黒い長髪のヒトガタへと変貌し、横たわるベリアを愛おしげに、まるで宝物を扱うかののように抱き上げ、背後で笑みを浮かべる男へ一言。
「いつから…………見ていた?」
「黒い奴が魔法使ったあたりからだなぁ……」
男――総一郎はそう言って夜空に浮かぶ満月を眺める。
そして愉しげに言った。
「まさか満月の晩に狼男じゃなくて山羊女を見ることになるとは」
「最も、狼男なんて非じゃないくらい恐ろしく強い奴だけどなぁ」と肩を揺らして笑った。
セバスチャンはその態度に苛立ちを隠さずに舌打ちしてから聞きたいことだけを聞くことにした。
「先ほどの刺客、てめえが送ったんじゃねえんだな?」
「勿論。拙者や拙者の身内、東亜の人間全員がそこで寝てる魔王さんに対して害を加えるつもりはないぜ?むしろ歓迎しても良い、その人は拙者達にとっての切り札とも言えるからな」
「……誇りと忠義を何よりも尊重する東亜の人間とは思えねえ言葉だな」
そういうセバスチャンに対して総一郎は嘲りを隠さずに小さく笑った。
「東亜の人間は汚いぜ?拙者が良い例だ。誇りと忠義、善意に好意。人が求めて与えられれば喜ぶ感情を全面に押し出して周りの人間を、物を、全てを利用し尽くす。そして邪魔になれば放り出す。ある意味じゃあ殺すより性質が悪いだろう?責任も全て押し付けて知らん顔するんだからなぁ……」
総一郎はニヤリと笑い、影に身を溶かしながら言った。
「魔王には戦ってもらうぜ?それが拙者達が唯一アンタ等に科すことだ、そして拙者達は最後には知らん顔をする」
「ふんっ…………その程度、陛下なら乗り切ってみせるさ」
「そうだな。だが関係無いさ、アンタ等が戦いの末に死のうと生きようと。残るのは副産物とつまらない人間の足跡だ」
それだけ言うと総一郎は踵を返し、そして思い出したように振り返って言った。
「そうそう、セバスチャンちゃんっていうのも変だけど今度拙者とデートでもしないかい?結構嫌いじゃないぜ?アンタみたいな女の子も」
消えた。
先ほどの刺客が夜の化身ならば、総一郎はまさに夜そのものなのかもしれない。
うつろい、決して知る権利を与えず、とどまっているように見せながら絶えず動き続け、時に嘲笑いながら他の生命を手の平の上で弄び真の表情を隠し続ける夜そのもの。
「狐が…………」
忌々しげに呟くと、ベリアを抱き上げたままセバスチャンもまた黒い長髪を靡かせながら闇の中へと溶けた。
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