風薫る五月。
清々しい空に心地よい春風がベランダから吹き抜ける。
心地良い春風はベランダに整列した洗濯物を揺らしたり、カーテンを靡かせ、僕の髪と僕が読んでいる漫画のページをめちゃくちゃにしたりと何気ないいたずらをして立ち去った。
そんな麗らかな午後の日曜日。
しかし、それは母さんの唐突な言葉に壊された。
「ハレ。ちょっといい?」
「んー?」
僕はさっき読んでいたページを探しながら気のない返事をした。
「あのね、急なんだけど母さん。『母親』を辞めようかと思うの。」
ソファに寝そべている僕に母さんはにこやかな口調で言った。
「ふーー…ん」
あまりに普通に言うから僕は生返事をしたが、すぐに間違いに気付いた。
んっ???
母親を辞める……?
「はぁ??」
ガバッと身体を起こし母さんを見たけど、母さんは至って緊張感のない表情で、にこやかな笑みを浮かべていた。
口調はとってもあっさり。まるで、゛コンビニにちょっと行ってくるから゛と言っているみたいだ。
「…な、何言っているの……?」
意味が分からない。全く状況が理解出来ない。
僕はとりあえず、母さんに目と身体を向けた。
「え?だから言ったまんまよ。『母親』を辞めようかと思ってるの。」
そう言って母さんは僕の隣に腰を下ろした。
急に神妙な顔を浮かべ、ハァー……と深い溜め息を吐きながら。
「……母さん、最近いつも思うのよ。毎朝、ハレを起こして朝ごはん作って学校に送り出して家事やって買い出し行って夕飯作って片付けて寝る、こんな生活に。あたしの人生そんな物なの?ハレ中心に回ってていいの?って。ハレを産んだらあたしの人生はおしまいなの?って」
母さんは遠い目をしながらそう語った。
知らなかった。
母さんが自分の事を『あたし』って言うなんて。
ただ、それだけなのに母さんの少女のような一面を垣間見た気分だ。
僕は、そんなどうでもいい事に感心しながら母さんの顔を覗き込んでみた。
何か、心の病かも知れない。正直、心配になった。
「か、母さん……?」
うなだれる母さんの肩にそっと手を置いて、極力優しい口調で声を掛けた。
すると、ゆっくり母さんは顔を上げて僕の目を見つめてこう言った。
「飽きちゃった。子育て。ぶっちゃけ、面倒臭いんだよね?」
はぁぁっっ?
「な、何だよ!それ!!」
つか、面倒臭いって母さんいつもそれ言ってない?
朝ごはんだって毎朝、コーンフレークじゃん!
ひどい時は、朝昼夕の三食全てコーンフレークだった事もあったし。
全然料理じゃない。
そもそも、母さん朝起きてこないじゃん!
ていうか、家の事だって『ハレ、今時の男は料理くらい出来なきゃモテないわよ!』とか『ハレ、今時の男は自分のパンツはもちろん母親のブラとショーツくらい洗濯出来なきゃモテないわよ!!』とか『ハレ、今時の男は掃除の一つや二つ出来るのは当たり前!百くらい出来なきゃモテないわよ』って言って全部僕に押し付けてたし。
なのに、何だよ?飽きたって。飽きる程やってないだろう!!
言いたい事は山ほどある。
けど、きっと今日一日じゃ足りない。
つか、言葉にならない。理不尽過ぎて。
「……そもそも、ハレが悪いのよ。」
暫く黙り込んでいた母さんだったがポツリと小さな声で言った。
「はぁっっ??」
「だって、母さん子供作る気はなかったのに、父さんが避妊しなかったからだし、気付いた時には六ヶ月だったから降ろせなかったんだもん。そもそも、あたしのあんな不規則な生活リズムに流れなかったハレが――…」
えっ……そんな裏背景があったの?
てか、それ、言い過ぎだよな……?
「とにかく、母さん―……。ううん、あたしは自分の人生を生きたいの!分かってくれる?」
そう言って母さんは僕の手を取り、キラキラした瞳で僕を見つめている。
いや、分からないから!
悪いけど、理解する気なんかさらさらないし。
だって、どう考えたって横暴だし、理不尽じゃん!
僕は無言で母さんを睨むように見据えた。
けど、母さんは僕に構わず口を動かす。
「ハレ、そんなワケで母さん暫く家を留守にしたいの。」
「はぁ?」
どんなワケで留守?つか、どこに行くんだよ?第一、仕事は?
たくさんの疑問……てか、ツッコミが頭を過ぎる。
「場所はそうね……?まだ決めてないけど、とりあえず、誰もあたし『雨月晴子』の事を知らない土地に行こうかと思ってるの。」
無駄にニコニコと笑って話す母さんが無性に幼稚に、そして、ひどく憎く見えた。
「それにハレも、もう14歳。四捨五入したら20歳。立派な大人でしょ?大丈夫!一人でやっていけるわ!」
「……いや、四捨五入したら、10歳だよ」
ランランと目を輝かせボールの様に弾んだ声で僕を見据える母さんとは対照的に僕は冷ややかな声色と鋭利な視線を向けた。
「つか、仕事はどうすんの?」
僕は、ソファの上で胡座をかいて問い質した。
かなり、苛立ってたからキツめの口調で。
けど、構うもんか。
ていうか、マジで仕事どうする気だよ?
母さんは、マンションの管理人をしている。
仕事内容はよく分からないけど、確か住民の苦情や不満を聞いたり、マンション近辺を掃除したりして住民が暮らしやすい場を作るんだっけ?
けど、母さんがそんな風に働いてる所一回もみた事ないけど……。
「そう、それなんだけどぉ〜ハレちゃん代わりにやってくれない?」
「はぁ??」
「大丈夫、大丈夫。ハレなら出来る!何てったって、あたしの自慢の子だもん!」
オイオイ、さっき流れちゃえば良いって言ったのは誰だよ……?
「つか、無理だよ!中学生の管理人なんて聞いた事ないし!」
「大丈夫よ。だって、ハレ中学生に見えないもん!」
「ウッ……!」
その一言に僕のガラス細工で出来た心はガシャーンと音を立てて砕け散った。
「……………」
気にしている事をズケズケと……。
デリカシー以前に人間としての常識はないのか?この人には!?
「老け顔っていうよりハレってさー、瞳に中学生らしい光とか希望とか全く無いんだもん。なんか、人生に疲れきった中年って感じ?苦労してんのね?若いのに。」
……誰のせいだよ?
てか、家事の次には管理人の代理?僕の時間は?虫が良すぎるんだよ!
僕の中で、何かブチっと切れた。
「……しろよ……。」
「えっ?」
「いい加減にしろよ!!!」
ニコニコと笑顔を浮かべる母さんをよそに僕は声を荒げて怒鳴り散らした。
「……っ!ハ、ハレ……」
滅多な事じゃ怒鳴らない僕にさすがの母さんもびっくりしたのかポツリと僕の名前だけ呟いては口をつぐんでしまった。
「いつもいつも『ハレ、買い物行って』とか『ハレ、ご飯作って』とか『ハレ、母さんのブラとショーツ洗濯して』とか!母さん、母親として何一つまともにやってないじゃん!なのに、何が『母親辞める』だよ?ふざけんなよ!」
口が止まらない。14年間分の怒りや怨みが溢れ出てくる。
「……………もぅ、いい。どうでもいいよ……好きにすれば……?」
僕はいつもより低い声でそう告げ、ソファから立ち上がりキッチンに向かった。
冷蔵庫から牛乳を取り出しそのまま飲んだ。
少し、突き放せば母さんも頭が冷えるだろう。
僕は、そう心のどこかで期待していた。
が、どうやら甘かったみたいだ。
「………………」
リビングに居る母さんから何の反応が無い。不気味な静けさが走る。
さすがに気になってチラ見をした。
「えっ?あれ……?」
母さんが居ない。辺りをキョロキョロ見渡すがやはり居ない。
ウ゛ー… ウ゛ー…
絶妙なタイミングでケータイが震え出す。
ポケットから取り出すと、『受信メール一件』と。
ケータイを開いてメールを見て絶句した。
何故なら、予期せぬ人物からのメールだったから。
『ハレへ。
心良く許してくれてありがとう〜(^0^)/とりあえず、あたしは南に向かいたいと思います☆何故って?それは、灼熱の太陽が呼んでいるから!(^^)!いつ帰るかは未定だけどその間管理人よろしくね!マンションの住人さん、個性的でキャラ濃いけどいい人達だから上手くやれるよ!(^^)お土産いっぱい買ってくるからね〜。ハレの元ママより。』
「……………」
僕のあの態度をどうやって心良くと受け止めれるんだろうか?
そもそも、個性的ていうか人間の領域を越えたあの母さんに『キャラが濃い』だなんて言われる人達がこのマンションに居るなんて…………。
まだ見ぬ住人、それから、先行き分からぬ明日に僕はただ立ちすくむしかなかった。
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