ランニング・ハイ
はじめまして。瀬上夕と申します。
拙い短編ですが、どうかよろしくお願いします。
「あと、いっしゅーう!」
声がした。今にも途切れてしまいそうな思考に鮮明に響いてくる声。
呼吸が喉に引っ掛かる。嗚咽が荒くせり上がってくる。ふき出す汗が白地のユニフォームをぐっしょりと濡らした。
躯が、脚が、燃えるように熱い。熱い。熱い……。
一人、また一人と自分の横をすり抜けていく鮮やかなランニングシャツが、目にちらついた。色彩が煩い。
「かんちゃん!」
ぼくを呼ぶ声がする。
出発点から千五百メートル地点を示す白線が霞んで見えた。
耳奥にこだまする金切り声。リアルだ。ぼくの上がる息と共鳴し合い、頭に響く。
ぼくは、その声を頼りに、もつれる足を引きずって白線の内側へと倒れ込んだ――。
◇
「はい、おつかれ」
ふっと花のような香がして、ぼくの目の前にタオルと飲み物が差し出される。
桜色のジャージをまとった紺野メグミが立っていた。彼女の顔を見るだけで、左胸が温かくなる感じがした。
「ありがとうございます」と小さく礼を言って、それを受け取る。
「まだ上がらないの? もうみんな更衣室行っちゃったけど」
男子更衣室に目を向けながら、彼女は言った。
「先輩は上がっちゃってください。ぼくはもう少し走るから」
「そうはいかないでしょ。あたしは、かんちゃんのマネさんなんだし」
かんちゃんのマネさん……。
紺野さんの何気ない一言に、ぎくりとした。
そういう一言がぼくをどれくらい惑わせるかってことに、いい加減気づいてもらいたい。おかげでぼくの心臓が走り終わったばっかりのときみたくバクバクしてる。
ぼくは「紺野さんは……陸部のマネージャーですよ」と真っ赤になりながら言い返した。
紺野さんは曖昧に微笑んだまま何も言わない。しばらく二人で黙っていると、彼女は思い出したように手を打った。
「さっきは坂井たちにずいぶんと離されちゃったね」
「うん」
「いつもはトップ集団に絡んでるのに、めずらしいよね。本気で走んなかったの?」
「買いかぶりすぎですよ。ぼくは、坂井先輩たちについていくのも、いっぱいいっぱいなんです」
「相変わらず腰が低いわね。かんちゃんの実力は坂井だって認めてるよ」
ぼくは、苦笑した。
「あたしがかんちゃんって呼んだの、分かった?」
面白そうに言う紺野さんに、ぼくは困ったように眉をひそめる。
「……先輩、あの、人前でかんちゃんって呼ぶのやめてもらえませんか」
ぼくがそういった瞬間、紺野さんの表情が一瞬凍りついた。思わず目を逸らす。
「どうして?」
「ぼくらに変なウワサがたってるのって、それが原因だと思うんです」
「変なウワサってなに?」
紺野さんだって知らないはずないのに、わざわざ内容をぼくの口から言うようにうながした。
意地悪なヒトだ。いつも思う。
綺麗な顔をして、花の香を纏って、いつだってぼくの欲しい言葉をくれる。だけど、肝心なところでぼくを見ていない。
とんでもなく、魔性の女。
紺野さんは真剣そのものの顔をしていた。ぼくは、ごくりと唾を飲み下す。
「だから、その……」
「うん」
「怒らないでくださいよ」
「怒らないよ」
「ほんとに?」
「絶対に。このデータ表にかけて、誓う」
「データ表ってそんなに効力なさそうですけど」
「あら。あたしにとっては効果アリアリなんだけどな。なにしろみんなの汗と努力の結果がつまってるんだから」
紺野さんがにっこり笑った。
「それじゃ、言いいますけど……ぼくたちが、その、付き合ってるんじゃないかって」
ひばりが鳴いた、気がする。ぼくは恐る恐る紺野のさんの顔色を伺った。
だけど紺野さんは顔になんの表情も浮かべていない。怖いくらいの無表情だった。
もちろん、ぼく達の間にそのような関係はこれっぱちも存在しない。実際は、先輩と後輩、もしくはマネージャーと部員。それだけの間柄だ。
やっぱり、怒ったかな。
心配になったぼくは、ハハハと思わず乾いた笑いを零していた。
「な、なんでそうなるんでしょう、ね。ぼくと紺野さんがそんな風に見えるはずないのに」
「あたしが、かんちゃんって呼ぶからなんでしょ」
ぴしゃりと言い返された。ぼくは情けないくらいまごついて「そ、そうか」と答えることしか出来なかった。
紺野さんは、そのまま暫く押し黙った。彼女の横顔が小さく揺れる。長いまつげが、パチパチと交差する。
紺野さんはいつの間にか「陸上部のマネージャー」の顔から、「紺野メグミ」の顔になっていた。
ぼくの心臓が小さく鼓動を刻み始める。花の香がきつくなった。
「イヤだった?」
長い沈黙を破ったのは彼女の方だった。
「は?」
「あたしとウワサになって、かんちゃんイヤだった?」
紺野さんが真っ直ぐにこっちを見て、訊いた。ぼくは、目を伏せる。
「紺野さんこそ、こんな後輩とウワサになったりして、迷惑……ですよね。先輩には、坂井先輩っていう人がいるんですもんね」
言葉を待ったけど、彼女は何にも答えなかった。ただ、小さく肩を揺らしただけ。
自分で言ってて虚しくなってきた。
彼女には、ぼくの傍らでもう一人、お似合いだって言われてる人がいる。陸上部部長で、ぼくと同じ長距離走者、部内エースの、坂井カナメ。
長身、美形。性格もよくて、部員にも慕われてる。ぼくも坂井先輩にあこがれて、種目を長距離に決めた。
そんな人にぼくなんかが太刀打ちできるわけもなく。ただ、仲のよい二人を遠くから見ているだけで、一年過ごした。
だから、不思議でたまらないのだ。坂井先輩ならともかく、どうしてこんな冴えないぼくと陸部のマドンナとの間に「付き合ってる」などというウワサが生じたのか。
ぼくの態度は、そんなにわかりやすかったのだろうか。
「ねえ、かんちゃん」
ふいに紺野さんが言った。顔を向ける。
「はい」
「あのさ」
「はい」
「付き合っちゃおうか」
「はい…… えっ」
予想していなかった爆弾に、ぼくは目玉をひんむいて、大きく後ろにのげぞった。
「い、今なんて?」
声を裏返して、たずねる。聞き間違いだと思った。
「あたしたち、付き合っちゃおうか。ウワサじゃなくて事実にするの」
紺野さんはあくまで冷静だった。ぼくはというと、驚きすぎて金魚みたいに酸素を求めて口をパクパクやっていた。うまく呼吸ができない。
「イヤ?」
イヤなんてこと、ない。絶対に、ない。
だけど、ぼくには言語障害があるみたいで、うまく言葉が口をついて出てくれない。
なんだよ、くそっ。言えよ。イヤじゃないって先輩に言えよ。イヤなんかじゃない。イヤなんかじゃない。イヤなんかじゃ……
くすり。笑い声がした。顔をあげてみると、紺野さんが笑っていた。口のはしをちらりとめくっただけの、ひどく大人びた表情だった。
「ほんと、クソ真面目なんだから」
紺野さんはぼくの横からすっと立ち上がり、小さく言った。
「今の忘れていいからね」
「え? あの」
「ほら、走るんだったら早く走ってきなよ。あたしは今から着替えてくるけど、更衣室閉めるのは待っててあげるから」
「あ、はい」
「じゃあ、頑張ってね。神田くん」
そう言うが否や、紺野さんはぼくに背を向けて歩き出す。その後姿は、もう「陸上部のマネージャー」であって、最後の言葉はひどく冷たい響きだった。
ぼくは、ゆっくりとトラックを回りはじめた。
◇
紺野さんがぼくを「神田くん」と呼ぶようになって、気づいた事がある。
ぼくは彼女に、かんちゃんと呼ばれることを、実はさほど苦に思っていなかったという事。むしろ彼女にそう呼ばれる事で優越感にひたっていた事。
後悔先に立たず。あれから、一週間ほど経った今も、ぼくは「神田くん」だった。
他の部員に「紺野先輩と何かあったか」「とうとう破局かよ」などと騒がれたけど、検討違いもいいとこである。
そもそも、ぼくと紺野さんにはなにもないんだから。
さらに腹立たしいのは、ぺしゃんこにへこんでいるぼくと対照的に、紺野さんにはあの会話を気にしている様子が全くない事だ。
呼び方こそ変わったものの、先輩はいつもどおりぼくに話しかけてくる。
所詮ぼくは彼女にとってそれほどの存在なのかと、悲しいやら、悔しいやらで、この一週間の部活中は小さく唸ってばかりの、ぼく。
「神田」
そして、ふやけたぼくは、当然のことながら部長からのお叱りを受けていた。
「なんだよ、このタイム」
「……すいません」
「すいませんじゃなくってさ。大会近いんだぞ。わかってる?」
坂井先輩は、眉を思いっきり顰めながらデータ表を指で弾く。
「紺野も心配してたぞ」
その言葉を聞いた瞬間、ずしんと重たいものがぼくの胸の奥に降ってきた。
坂井先輩の口から紺野さんの名前を聞きたくなかった。
部長とマネージャーなんだから、接点が多いのは当たり前なのに。唯の部員のぼくなんかよりずっと多いに決まってるのに。そんなの分かってるのに。
心臓が痛い。ぼくはおかしいんだろうか。
「お前がそんなんだとこっちも調子でないんだ。長距離でおれと張り合えんのお前くらいしかいないんだから」
「そんな、ぼくなんて、全然です」
先輩は、大きくため息をついて、ぼくの頭をくしゃくしゃにした。
「謙虚なのはいいけどさ、弱気なのはどうにかしろよ」
「すいません」
「それだよ、ソレ。すぐに謝るのはアスリートとしてどうかと思うぜ」
「でも、スポーツマンシップは守ってます」
ぼくが言い返すと、先輩は面食らったように目を張ったあと、もう一度息を吐いた。
「生意気が言えるんなら、もっと我侭言えよ」
「我侭……ですか」
「お前には貪欲さが足りないんだよ。もっと早くなりたいとか、勝ちたいとか、そういう気持ち。神田。お前はさ、本気で欲しいものってないわけ?」
ぼくは、答えない。答えられない。
坂井先輩は言うことを言い終えると、トラックに戻っていった。長身の体が一度大きく揺れ、白線に向かい合う。「よーい」と紺野さんのよく通る声が響き渡る。次の瞬間、坂井先輩は、ピストルの音と共に地を蹴っていた。
美しい。なんて綺麗なんだろう。
人が走る姿ほどこの世で麗しいものはないんだと、この人の走りを見て初めて知った。入部したてのぼくが受けた衝撃は今でも健在だ。
坂井先輩にだけ憧れていられたら、どんなに良かったか。きっと、走るのが大好きでしかたなかった。少しでも先輩に追いつきたくて、部活が最高の楽しみになっていた。
でも、ぼくは。
ぼくは、入部して違う「憧れ」を知ってしまった。しかも、坂井先輩のオンナに対して。
こんな思いを知らなければ、劣等感に苛まれることもなかったかも知れないのに。
――本気で欲しいものってないわけ?
ありますよ、ぼくにだって。でも、それは全部あなたのモノだから。
「サイテーだ」
思わず呟いて、空を仰ぐ。空は皮肉にもからっと晴れ渡っていた。その時、ぼくの鼻腔にやわらかい花の香りが広がった。ぎくりと身が固くなる。
「なにが最低なの?」
その声を聞いて、なぜか泣きそうになった。桜色のジャージが目の前をちらちらする。
なんだよ。なんで、こう、タイミングよく現れるんだよ。狙ってるとしか思えない。
「……なんでもないですよ」
「あー、拗ねてる。かわいいなあ」
「拗ねてなんか!」
勢いよく振り向くと、紺野さんがくすくすと笑っているところだった。ぼくは、ますます不機嫌になる。
「隣、座るね」
座っていい? と疑問形なのではなく、断定的に言い切ったのが紺野さんらしい。宣言どおり彼女はぼくの隣に静かに腰をおろした。
紺野さんは肩に落ちた髪をさらりと持ち上げて、耳にかけた。そんな何気ない行動でさえ、ぼくの全身は緊張で硬直する。
紺野さんは、何も言わない。ずっと黙ってるのも不自然だから、ぼくは、仕方なくボソボソとしゃべりだした。
「……ふつう、メランコリーな男子は放っておくんですよ」
「うん。知ってる」
「知ってるなら」
「でも、あたしは神田くんのマネだから」
紺野さんは顎を上げてぼくを見て、嬉しそうに目を細めた。こんな笑顔を見せられて、いつものぼくなら絶対恥ずかしさにおかしくなってる。
だけど、今日は胸が熱くならない。顔に熱が集まる感じがしない。腹の奥が、しんと静まり返り、かわりに寂しさとも悔しさともつかない、そんな気持ちが襲ってくる。
紺野さんは、一瞬でぼくから視線を逸らした。逸らす前に一度、瞬きをした。
「言わないんだね」
「え?」
「紺野さんは陸部のマネです、って。いつもならそう言うじゃない」
「……なんか今日は、そういう気分じゃない」
「勝手」
「紺野さんこそ」
蜻蛉が目の前を遮った。羽音が煩い。雲が太陽に被さって、辺りが少し暗くなった。
「さっきの気にしてるの?」
「さっきの?」
「坂井に何か言われてたでしょ。欲しいものがどうとか」
「ああ……」
「あいつもさ、期待してるんだよ、君に。坂井があんな風に後輩に言うの初めてだし」
頬の筋肉が引き攣ったのが分かった。口内で血の味がした。知らないうちに、唇を噛んでいた。強張った頬を無理やり動かして会話を続ける。
「……よく見てるんですね。坂井先輩のこと」
紺野さんは答えない。いつもの曖昧な笑みを浮かべて、細い肩を揺らしただけだった。うまくかわされた感じがして、思わずため息が出る。
「気にしてるって言うか……落ち込んでます」
「正直だね」
「こういうのカッコ悪いのはわかってますよ」
「そんなことないわよ。自分のこと曝け出せるのは全然カッコ悪くなんかない」
ちりっと胸の奥で火が灯った。痛いくらいに、熱い。強張った頬に血が上る。ぼくは思わず目を伏せた。紅く染まった顔を紺野さんに見られたくなかった。
「……坂井先輩は、ぼくの憧れなんです」
気がついたら、胸の奥の火に煽られるように言葉がずるずると口をついて出ていた。次から次へと吹き出して、止まらない。
「仮入部で初めて坂井先輩を見たとき、感動っていうか、興奮っていうか、とにかくすごく刺激されたんです。先輩みたいになりたくて当然のように長距離を選びました。でも」
声が掠れて喉に引っかかる。
「最近走るのほんとキツイくて。坂井先輩の背中見ながら走ってると、なんか……泣けてきます。何もかも持ってるあの人が眩し過ぎて、目が眩んで、ゴールが見えない」
俯き加減だった顔を上げてみる。意外と近くにあった紺野さんの視線とぶつかった。
大きな目、反り返った睫、さらさらの髪、艶やかな薄桃色の唇。細部にまで目が行く。
こんなに近くに居て、ぼくは紺野さんの目にどう映ってるんだろう。
お互いに暫く相手をじっと見ていた。結構、長い時間が経ったように感じた。
ふっ。
突然、紺野さんが吹き出した。
「なーに言っての。ばっかだなあ」
からからと気持ちよく笑う。ぼくは、ただぼうっとその笑顔を見ていた。
「なに詩人気取っちゃってんのよ。ぜんっぜん似合ってないよ。そんなのただの言い訳にしか聞こえない」
紺野さんの言葉は辛辣な筈なのに、なぜか心地よく耳に響いた。小さな鈴が鳴るように、リズム良く、ぼくの心臓と共鳴する。だんだんとぼくの頭は桜色に侵食されていく。
「でも、ぼく作文とか得意ですよ」
何かを誤魔化すように憎まれ口を叩いてみたけれど、紺野さんの真っ直ぐな表情は変わらない。ぼくは覚悟を決めた。
「神田くん―― かんちゃん」
どくん、と心臓が高鳴った。紺野さんはもう笑っていなかった。
「かんちゃん」
「はい」
「辞めないよね」
「は?」
「部活、辞めたりしないよね?」
顔を傾けて、ぼくを覗き込むように紺野さんが訊いた。彼女の目は行き場をなくした子供みたいに不安げで、今までぼくが見たこともないほど可愛らしかった。いつもの凛として、どちらかというと美人の部類に入る先輩からはとても想像できない。
思わず、笑っていた。
紺野さんはキョトンと目を丸くする。それがまた面白くて笑いが止まらない。
「ちょっと、なに。どうしたの」
紺野さんの一言一言がぼくの中を駆け巡る。ぜんぶきらきら輝いている。
この人を、どんなことであっても不安にさせちゃいけない。急にそんなことを思った。
「辞めませんよ」
「え?」
「坂井先輩に負けないくらい、好きですから」
「走るのが?」
「はい」
それから、貴女のことも。
「そっか」
「はい」
「うん、そうだよね。ばかなこと聞いちゃった。ごめん」
「いえ」
紺野さんは、何度も、何度も満足そうに頷いて立ち上がった。ぼくの手が引っ張られる。
「じゃあ、走ろ」
「へ?」
「好きなんでしょ。だったら走らなきゃ」
「え、ちょっと」
「ゴールなんてないんだよ、かんちゃん」
「はい?」
「五千メートル走りきったって、そこで終わりなわけじゃない。一万だって二万だって走ろうと思ったらいくらだって先がある。だから、こんなトコで腐んないで」
繋がった手から熱が伝わってくる。
じんじん、じんじん。
ぼくは、走るのが好きだ。
坂井先輩が好きだ。
この土っぽいグラウンドが好きだ。
花の香が好きだ。
ぼくは――迷わず頷いていた。
◇
「水分取った?」
「はい」
「テーピングは?」
「大丈夫です」
「それじゃあ、いきますか」
紺野さんの後ろをついてトラックに出る。
全体での反省も終わり、他の部員はもうみんな上がっていた。
グラウンドにいる生徒は三人。ぼくと、紺野さんと、そして坂井先輩。
制服に着替えた坂井先輩は顧問用のベンチに座って、さっきからぼくと紺野さんのことを黙ってじっと見ていた。
時折、坂井先輩がぼくのタイムが書かれた記録用紙に目を通しているのが分かった。
傷心中のぼくは、自分で思っていた以上に、部長に心配をかけていたらしい。
「神田くん」
振り向く。紺野さんがストップウォッチを首にさげた。
「無理しないでね。夕方って言ってもまだ気温高いし、今日熱中症で倒れちゃった子多かったじゃない。神田くんも」
「あの、紺野さん」
「うん?」
「取り消します。それ」
「え?」
「かんちゃんって呼ばないで下さいって言ったの、取り消します」
紺野さんが目を見張った。そして、くすりと笑って、ぼくの眉間を小突いた。
「ほんと、勝手」
「すいません」
「でも、良かった。あたしも、神田くんって呼びにくくって」
辺りが暗い分、真っ白なスタートラインが際立つ。そこに足を揃えて息を詰めた。久しぶりの高揚感に体が震える。
「そういえば」
ふと、紺野さんが言った。ぼくの集中を妨げないようにしているのか、控えめな呟きだった。
「はい?」
「坂井が持ってなくて、かんちゃんが持ってるもの、知りたい?」
「あるんですか、そんなもの」
紺野さんは、にやっと含み笑いをする。
「あたし」
時間が、止まった。風が、草が、土埃が、雲が、すべて止まった。
止まったと思った。
視界の隅にいた坂井先輩が小さく身じろいだ気がした。
「なーんてね」
いたずらっぽく笑った紺野さんは、細い指でカチカチとストップウォッチをいじった。彼女の薄桃色の唇が笛を加える。白い歯が唇の間から、ちらりと覗いた。
今更になって、ぼっと、ぼくの顔から火が噴き出した。頭が真っ白だ。こんなので集中なんて出来っこない。
心臓が狂っているみたいに早鐘を打つ。ぼくは必死で何か言おうとしたけれど、口からでた言葉は擬音語というか、ぜんぶ意味不明なものばかりだった。今まで使ってきた言葉を全部忘れてしまったようだ。
「はっ、え……こっ、こんのさ……なっなに」
「ほら、何してんの。早く位置について。よーい」
紺野さんの右手が上がる。ぼくはあわてて白線に向き直った。
ぼくの目の前にはトラックが続いている。集中できないと思っていたのに、ぼくの意識はもう白線の先に引き寄せられていた。
最初のコーナー、直線、そしてそのずっと先、一周したところにいるのは桜色のマネージャー。そのサイクルに終わりなんて、ない。
笛の音がした。
ぼくは、花の香りを肺に押し込めて、力一杯地面を蹴った。