こちら異世界総合病院
「や、やめろ……そんなものをっ……私に向けるなッ!」
それが近付いてくるにつれ、彼女の美しい顔がみるみる恐怖に染まっていく。
しかし彼女がいくらそれを拒絶しようと、喚けど、助けを求めようと、彼女を押さえつける手が緩むことはない。良く響く彼女の声が呼び寄せるのは野次馬ばかり。そう、いくら呼んだって助けなど来るはずもないのだ。
「そんな汚らしいもので貫かれるくらいなら死んだ方がマシだ、いっそ殺せッ……殺せーッ!」
必死の抵抗もむなしく、それはゆっくりと白い柔肌にあてがわれ、滑らかに彼女の体内へ滑り込む。数秒と間を置かずして彼女の中へと勢いよく液体が注がれていった。
「あああああああッ!!」
「うるさいですよ、静かにしてください!」
強い口調で叱りつけながら、フロールが彼女の腕から手早く針を抜き、アルコールをたっぷり含んだ綿で穿指部位の消毒を行い絆創膏を貼る。
以前に比べればだいぶ注射の腕が上がっているようだが、患者の反応を見る限り一人前には程遠いらしい。
俺は思わず苦笑いを浮かべながら大袈裟に歯を食いしばって痛がる患者に声をかける。
「すみませんね、痛かったですか? でもここ一応病院ですから、殺すだの死ぬだの物騒な単語は控えてくださいね」
「そ、そんなこと言ってたか?」
「ええっ……あれ無意識に言ってるんですか?」
フロールが引き攣った表情で言うと、患者はバツの悪そうな顔で明後日の方向に視線を飛ばす。
「……注射は苦手なんだ」
「女騎士が何言ってるんですか。こんな細い針で刺されるのが剣で斬られるよりも痛いんですか?」
フロールがそう言って口を尖らせると、患者もフロールに釣られたように口を尖らせる。
「し、仕方ないだろう。もともと私は尖端恐怖症なのだ。恐怖を糧に敵と戦うことで戦いに勝利してきた。それにこの娘の注射はなんだか危なっかしくて……できればこれからは先生に打ってもらいたいところだ」
「ええっ、そんなぁ!」
「あはは、すいませんね。彼女新人で」
俺が患者にそう弁解すると、フロールは不服そうな表情を浮かべて頬を膨らませる。
「ち、違いますよ。これでも上手くなった方で……っていうか、彼女がわーわー喚くから集中できなかったんです!」
「患者さんのせいにしちゃダメだよ」
「ううー……」
ただでさえ赤みがかったフロールの肌がみるみる紅潮していく。
とはいえ、フロールの言う通りこれでもだいぶ上手くなった方である。以前の彼女ならば力加減が分からず、針を腕から貫通させて薬液を地面にぶっかけていたところだ。
何度か死を覚悟した場面もあったが、練習台になった甲斐があったというものだ。俺は自分の腕に残る傷の数々とフロールのナースキャップの脇から覗く2本の角を眺めて微笑む。
まさかオーガである彼女がここまで器用に仕事をこなせるようになるとは思わなかった。
ここは種族も職業も身分も立場も問わず、等しく患者を受け入れる病院。
今日は俺たちの仕事のほんの一部を紹介したいと思う。
********
例の女騎士の患者が注射のたびに叫び声を上げ、近くの病室の患者たちを困らせたのも最初だけであった。
注射に慣れたのではない。あんなに大きな叫び声を上げる元気がなくなったのだ。
「失礼します」
「こんにちは、調子はいかがですか?」
できるだけ明るい声を上げて、俺とフロールは病室へと足を踏み入れる。
しかし患者の状態はあまり良くないらしい。
天井を見つめる目には覇気がなく、その顔は蝋人形のように白い。
テーブルには昼食のパンやシチュー、サラダが手つかずのまま載っている。
「病院の食事は口に合いませんか?」
「そういうわけでは、ないのだが……」
注射が嫌で絶叫していた時とは比べ物にならないほど小さな声で呟きながら、彼女は昼食から目を逸らす。
ここ最近吐き気が酷いらしく、思うように食事を摂れていないらしい。
「このままじゃ体がもちませんよ」
そう言って、フロールはお盆からスプーンを取ってシチューをすくい、彼女の口元へ運ぶ。彼女は一瞬口を開きかけたが、すぐに口を閉じ、結局首を振ってシチューを拒否した。
「ちゃんと食べないと!」
フロールは心配そうな表情を浮かべながらも、少々強めの口調で彼女に口を開くよう促す。何事も力づくで解決しようとするのが彼女の悪いところだ。このままでは無理矢理口をこじ開けてシチューを流し込んだりしそうである。
俺はフロールにスプーンを下ろさせながら、できるだけ優しい声で患者に声をかける。
「いいですよ、無理に食べなくて」
「先生! それじゃあ体が――」
「大丈夫だよ、いずれ吐き気も収まって食べられるようになるから」
すると彼女は目だけをこちらに向け、訴えかけるような視線で俺を射抜く。
「ほ、本当か? もう吐き気が酷くて、眠れないくらいなんだ」
「もう少しの辛抱です。食べたいもの、食べやすいものを好きな時に食べてくれればいいんですよ。果物とか、ジュースとかね。どうしてもダメなら、水分補給だけでも」
俺は笑顔で彼女にそう告げる。すると彼女は緊張が解けたように安堵の表情を浮かべ、ほんの僅かながらお盆に載った水を口に含んだ。
どうやら、徐々にその時は近付いているようである。
*********
「おはようございまーす、注射の時間ですよー……ん?」
病室に足を踏み入れた俺の目に飛び込んできたのは、来客者用の椅子に座ってジッと窓の外を見つめる患者の姿だった。
彼女が物憂げな表情で視線を向ける先にいるのは、中庭にて暴れる女騎士とそれを羽交い絞めにするフロールである。
この静かな病室では、耳を澄ますと窓ガラス越しに微かに声が聞こえてくる。
「やめてください、傷が開きますよ!」
「殺せッ! あんな屈辱的な薬を使うくらいなら死んだ方がマシだ! いっそ殺せぇっ!」
「分かりました、分かりました! 座薬はやめます、飲み薬に変更するよう先生にお願いしてみます! だから落ち着いてぇっ!」
……フロールの姿が見当たらないとは思っていたのだが、こういった事情があったとは。
「女騎士って、みんなああなんですか?」
「うわぁっ!」
俺が病室に入ってきたことに全く気付いていなかったのだろう。
彼女はやや大げさに悲鳴を上げながら見開いた眼をこちらへと向ける。
「な、なんだ先生か……脅かさないでくれ。危うく心臓が止まりかけたぞ」
「大丈夫ですよ、ちゃんと蘇生させますから。それより、やっぱり同業の方は気になります?」
フロールに引きずられながら屋内に入っていく女騎士を指差し、俺は苦笑いを浮かべる。
彼女は戦闘により腕を骨折し、運ばれてきた患者だ。入院してはいるものの、病気ではないため見ての通り非常に元気であり、度々フロールと戦闘を繰り広げている。
そんな現役女騎士を眺めながら、彼女は少しだけ寂しそうに笑った。
「ああ、まぁな。私も一度、酷い傷を負ってこの病院にお世話になったことがある。……まさかまた、しかもこんな形で舞い戻るとは思わなかったが」
「どうしたんですか、柄にもなくしんみりしちゃって。やっぱり女騎士として敵を蹴散らしていたころが恋しいですか?」
「いや、そんなことは無いさ。私の戦いはまだ続いている、敵が変わっただけでな。しかし、それもじきに終わるだろう」
「なに言ってるんです、戦いはまだまだこれからですよ」
「ふっ……それもそうか。私としたことが、もっと気を引き締めねばな」
彼女はそう言うと、静かになった中庭を見下ろして力無く微笑む。
そう、彼女は今まさに戦いの真っ只中……いや、真の戦いはまさにこれから始まるのである。そしてその時は、すぐそばにまで迫っているようだった。
********
彼女が入院してからおよそ数か月。
とうとうその日は訪れた。
「殺してくれ! こんな痛いのはもう嫌だ!」
「大丈夫です、もう一踏ん張りですよ!」
「あああああああああああああああッ!!」
痛みと疲労で錯乱しているのだろう。
彼女の物騒な叫びが久々に院内へ響き渡る。
彼女は今、長く辛く、そして耐え難い痛みと苦しみに耐えているのだ。
一体その状態がどれくらいの時間続いただろう。
そして――
「ど、どうなった!? 大丈夫なのか!?」
処置室を出た俺に、巨大な体を持つ緑の魔物が駆け寄ってきた。彼はその豚に似た顔を俺に近付け、不安そうな視線で俺をじっと見つめる。
俺は彼に微笑みかけ、彼の妻の無事を伝えた。
「ええ、元気な双子の赤ちゃんですよ。母子ともに健康です」
「ほ、本当か! よく頑張ったなぁ!」
彼は意外とつぶらな瞳から大粒の涙を零し、愛すべき家族の待つ処置室へと飛び込んでいく。
長い長い戦いに勝利した妻は、号泣する夫に優しく微笑みかけた。
「ふっ……これくらいで泣いていてどうする。育児は戦争だと聞く。いよいよ気を引き締めていかねば、そうだろう先生?」
「ええ。これから忙しくなりますよ」
父となった男は、滝のような涙を流しながら俺たちの言葉に何度も何度も頷く。
異種族間カップルの出産は難産になることも多い。今回の出産もやや長丁場になったが、無事に生まれてくれて本当に良かった。
赤ちゃんを抱く二人を見ていると、自然と笑みがこぼれる。まさに魔物と人類の融和、平和の象徴のようである。
「それにしても、オークと女騎士のカップルって多いですね。今年に入ってもう三組目ですよ」
不思議そうな表情でそう尋ねるフロールに、俺は笑顔で首を傾げた。
「あはは、なんでだろうなぁ」