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国境の空
作:JUS



首都編 7章


 実家に戻ると、母親が驚いた様子で俺を出迎えた。それはそうだろうと思う。大体が軍に勤務する以上、休暇でもとらなければなかなか実家などに帰れるわけではない。ましてや、今朝、休暇もらったら帰ってくるなどといって出かけて行った息子が、夜も遅くにまた帰ってくれば驚くのも当たり前だろう。
「あのさ、勤務地が近くになって、実家から通えって命令された」俺がそういうと、あんた部屋どうするの、と母親が言う。俺の部屋は母親によって既に年頃の娘さん仕様に改装済みだ。リーフもいる。
「納屋で良いよ。納屋の屋根裏空いてたろ。マットレスの余った奴と毛布があればそれでいいよ」母親はその言葉を聞くと、じゃあ、ちょっと準備するわね、と言って慌ただしく納屋の方に駆けて行く。

 リビングに入ると、リーフが例の猫の足跡柄パジャマを着て、ちょこんと座っている。俺の姿を認めると、嬉しそうな笑みを浮かべて立ち上がり、俺の側まで足早に歩いてくる。
「どうしたの?」そう聞くリーフに、俺は、実家から通えってさ、と伝える。
「あ、でもどうしよう、私、カイルの部屋使ってる」リーフは目を伏せて何かを考え込む仕草を見せる。俺はリーフの肩を軽く叩く。
「納屋の屋根裏部屋が空いてるからいいよ。あそこは昔から俺の部屋みたいなもんだったからさ」
「でも、」そう言いかけたリーフに、俺は冗談まじりに、じゃあ一緒の部屋で住むか?、と声をかける。リーフの顔が一瞬で真っ赤になる。
「冗談だよ。それにしても夜更かしだな。リーフも母さんも。もう十一時だぞ」俺がそう言うと、まだ顔に赤みが残っているリーフが手にしていたメモ用紙数枚を俺に見せる。
「パンの焼き方とか、生地の仕込みとか教えてもらってたの。私も手伝おうかなって思って」メモ用紙には生地のこね方や、焼き方が事細かに記してある。
「店に出るのか?」俺がそう聞くと、リーフは頷く。
「なんにもしないでいるのは、嫌」そう呟いて、リーフは恥ずかしさからか逸らしていた目を、やっと俺に向ける。
「あんまり無理するなよ。結構重労働なんだぞ。あれ」俺が笑顔でそう言うと、リーフが、うん、と可愛らしく頷いた。

 屋根裏部屋のベッドメイキングを終えた母さんが、リビングに戻ってきて、俺とリーフの分の紅茶とスコーンを用意してくれると、俺は家に帰ってきた実感がやっと湧いてきた。熱い紅茶と香ばしいスコーンを口に含むと、疲れが体から抜けて行くような気がする。
「やっぱり、お父さんのスコーンが一番よね。あんたもそう思うでしょ」母さんがそう言って、無言でスコーンを食べている俺を見て笑う。
「ああ。美味しいよ。やっぱり」俺がそう答えると、リーフが俺の横で同意するように頷く。並んで座って黙々とスコーンと紅茶を口に運ぶ俺とリーフを、母さんは楽しげに眺めている。
「やっぱりカイルのお嫁さんはカエタナの娘が良いわよねえ」俺は口にしていたお茶とスコーンを吹き出しそうになる。むせかけて咳き込んだ俺が、リーフの方を見ると、リーフは赤面して目を伏せている。
「まだ俺は二十一だし、軍隊なんて男ばっかりなんだぞ。結婚なんていつ出来るか解ったもんじゃないよ」俺がそう言うと、母さんは眉をひそめる。
「軍、ねえ。あんた大体向いてるの?」そんな根本的な部分を問われても、と俺は困惑する。
「向いてるかどうかは知らないよ。でも、それなりには働いてるし、まあ、パン屋になるよりは向いてるんじゃないかな」俺がそう答えると、母さんはため息をつく。
「うちはあんた一人しか子どもがいないんだからね。いざとなったら、誰がパン屋をやるの?」
「知らないよ。従業員だっているだろ。おばさんばっかりだけどさ」
「私はこんな薄情な息子じゃなくて、リーフちゃんみたいな可愛い娘さんが欲しかったわ」母さんはそう呟いて、ねえリーフちゃん、などとリーフに同意を求める。リーフは俺と母さんを戸惑いながら交互に見て、顔を伏せる。
「リーフが困ってるだろ。妙な事ばっかり言うなよ」俺がそう言うと、大事なことよ、と母さんが抗議する。
「わかった。今やってる仕事が一段落着いたら、パン屋の件はどうするか考えるよ。結婚の件は俺一人でどうこうできる事でもないんでいつになるかは解らない」母さんは俺の言葉にため息をついてリーフを見ると、こんな子なのよねえ、と呟く。そんなことを呟かれたところで、俺にもリーフにもどうしようもないのだが。

 俺は、リビングでパンの作り方講座を開講した母親から逃げて、庭を挟んだ納屋の屋根裏部屋に移動する。子どもの頃によく遊んだ部屋だ。狭いが、南向きの大きな窓もあり、あまり閉塞感は無い。俺がそろそろ風呂にでも入って寝ようかな、などと即席のベッドに寝転んで考えていると、窓に何か石のようなものが当たる音がした。俺がベッドから立ち上がり、窓際まで歩くと、二メートルほど下の納屋の入り口の前には、俄には信じ難い光景があった。あの時と変わらないダークブルー、ピンストライプのスーツ。ボスト外務省のあの男がそこには立っていた。

 半ば転がるようにして階段を下り、納屋の入り口までたどり着いた俺は、男に挨拶するよりもまず周辺を確認した。幸い周辺には誰もいないようだった。
「場所が悪い。移動したいが、それでいいか」俺がそう言うと、男は皮肉まじりの笑みを浮かべる。
「かまいませんよ。私もそちらの方が望ましい」俺は男の腕を引き、母さんたちに気付かれないよう家の敷地を出て、商店街の中で唯一の二十四時間営業をしている酒場に入る。小汚いテーブルに通された俺たちは、しばらく無言で、出された水を飲む。平日の夜は客が少ない。幸いな事に既に酔いつぶれた男数人しか店にはいなかった。
「さて、どこから話したものでしょうね」男がそう口火を切った。
「まずは礼をいいます。クリス少尉の働きのおかげで、セルーラもエイジアもレーダーサイトの警戒態勢を近いうちに整えてくれそうです。私の得ている情報の範囲内で言えば、まあ、ボストの特殊部隊は防げそうなレベルでね」
「礼を言われる筋合いはないよ」俺がそう答えると、男は困ったような笑みを浮かべる。
「我々も助かっているのです。どうやら、ボスト陸軍の計画した侵攻作戦は、このままいけば、中途半端なもので終わりそうだ。たぶん、われわれの想定する形でね」
「国境地帯に釘付けにするっていうやつか」
「はい。陸軍がボストの中心部にいては、なにかと都合が悪いものですから」
「あんたらの都合なんて知った事じゃないよ。で、用件はなんだ。わざわざ礼だけ言いにきたのか」俺がそう言うと、男は楽しそうに笑った。
「……我々の目的を知っておいていただきたいと思いまして」
「目的?」そう聞き返した俺に、男は目を細め、真剣な表情を浮かべる。
「そう、目的です。いまのままでは、あなた方も私の言う事を信じて良いものかわからないのではと思いましてね。我々の目的がはっきりすれば、多少は互いの信頼関係の構築に役に立つのではと」
「……話してみろ」男はポケットから煙草を取り出して、火をつける。あまり馴染みのない銘柄の煙草の様で、甘いそれでいて若干の香ばしさの感じられる香りが漂う。
「我々は、最終的に現ロシュビッチ政権の打倒を目指しています。今のボストの現状はロシュビッチに負う部分が非常に大きい。政権の転覆なしに変革は難しい」俺は、自分の煙草を取り出し火をつける。一息に煙を吸い込んで吐き出すと、多少は気が落ち着いたような気がした。
「で、その目的とやらを聞いて俺はどうすりゃいいんだ。」
「……以前に、お話しした際、あなたは疑問に思ったはずです。なぜ、ラシュディの居場所を私が知っているのか、クリス少尉やあなたのことがなぜわかったのか、とね。違いますか」男が俺の目をまっすぐに見る。心中が見透かされているようだと俺は思う。底の知れない男だ。俺は確かにその疑問を抱いていたし、クリス少尉も内通者の存在を示唆するようなことを言っていた。
「違わないよ。内通者が誰かはわからないけどね」俺がそう答えると、男は、内通ではない、と言った。どういうことだ、と聞き返す俺に、男は相変わらずの鋭い、真剣な眼差しのまま、話し始める。
「我々の一派は連邦の成立前からセルーラの支援を得ています。あなたは、連邦の成立時にボスト国内のカエタナがセルーラに内通していたという話を聞いたことがありませんか」俺は、リーフが以前に語った、ボストでカエタナが迫害されている理由を思い出す。
「それは知っている。」
「内通していたのは、カエタナだけではない。我々の一派はカエタナや、クライドと言った下層階級と一部の上層部から成立しています。連邦の成立のとき、我々の一派は、セルーラと連動して、ボストの政権転覆を画策したと私は聞いている。そのときは失敗に終わった訳ですが」
「で、終戦後にカエタナだけが内通者として迫害の対象になったと」
「そうですね。おかげで、と言ってはいけないのでしょうが、我々の一派は細々とではあるが生き残った。セルーラとのラインもね」
「そのセルーラのラインってのはなんだ」俺がそう聞くと、男は煙草を灰皿に押し付け、一つため息をついた。
「セルーラ軍内部、あなた方が諜報部と呼ぶ所に、ボストの反政府活動を支援するセクションがあります。我々はそこに情報を提供し、諜報部のそのセクションは我々に資金や、情報を提供する。これは、セルーラの諜報部が独断でやっている訳ではありません。極秘ではありますがセルーラ軍の上層部の認可を得た正式な工作活動として、行われていることです」
「要は、セルーラは、好戦的な現ボスト政権の転覆を、あんたらと共同してずっと画策し続けていた、という事か」
「あなたは、飲み込みが早い。ビンゴです。」男は楽しげにそう言うと、俺に一枚の名刺を渡す。そこには、一行だけ名前が記載されている。肩書きも何もない異常にシンプルな名刺だった。
「グスタフ、ラザフォード。私の名前です。」
「名前を教えてくれるのはありがたいが、これをどうしろと」俺は名刺をテーブルの上に置き、そう言った。
「諜報部のボスト工作セクションと、あなた方のいるレーダーサイトを防衛するセクションに情報と目的を共有して欲しいのです。特に、ケビン大佐、クリス少尉といった方々に。特殊作戦群との強いパイプを持ち、情報分析、作戦立案能力どれをとっても、一級品の人材です。これは、私を通じたセルーラ諜報部からの意向ととっていただいてかまいません」
「この名刺がその役に立つのか」俺はテーブルに置いた名刺を手に取って、眺めてみる。どう見ても普通の、まあ、多少は上質なものではあるが、ありふれた名刺にしか見えなかった。
「その名前を、R二五に伝えればいい。そうすれば彼女は理解するはずです。私からの働きかけをね。あとは彼女と動けばいい」
「わからないな。あんた、諜報部にラインがあるんだろ。なんで諜報部から直接ケビン大佐に働きかけないんだ。おかしいだろ。普通に考えて。俺は相当下っ端の兵隊だぞ。罠としか思えない」俺がそう言うと、男は眉間にしわを寄せる。
「諜報部内部にはボストの息がかかった連中もいるのです。誰かはわかりませんがね。あなたから、クリス少尉を経て、ケビン大佐にアクセスするのが、一番安全であろうと我々は判断しました。諜報部のトップ周辺にはおそらく本来の意味でのボストとの内通者がいる。我々のような現政権に対抗する人間ではない、ロシュビッチの意向を受けた人間がね」
「あんた、軍にパイプを持ってないって前に言ってたよな。」
「そうです。より正確に言うのであれば、諜報部の一部以外には、という事です。セルーラ国内で、私が直接接触できる人間は諜報部のR二五だけです。あのとき、あなたにボスト特殊部隊の侵入を伝えたのは、諜報部から参謀府に伝える事が、危険だったからです。諜報部から参謀府を経由して動けば、どこかでボスト現政権の内通者に感知される恐れがあった。あなたからクリス少尉、そしてクリス少尉と関係の深い参謀府のケビン大佐というルートで情報を伝えるのがベストだと我々は判断しました。もちろんセルーラ諜報部も同じ判断です。」
「俺たちがあんたからああいう形で情報を伝えられれば、内通者がいる事を警戒して動くだろう、と判断した訳か。」
「そうです。ケビン大佐もクリス少尉もうまい具合に動いてくれました。セルーラ軍内部にいるボスト現政権のスパイは、まだ私の存在を掴めていない。ボスト外務省の一部と言う部分しかわかっていないようですね。無関係のボスト外務省の人間ばかりを締め上げているようです。かわいそうではありますね」
「あんた、あのとき休暇で来たとか言ってなかったか。一番先に疑われるんじゃないのか」
「サンドシティに行くなど私は上に伝えていませんよ。適当な場所をでっち上げています。私についている監視の男は、あの時もお話しした通り、我々に弱みを完全に握られていますからね。どうとでもごまかしがききます」
「まあ、簡単にいってしまうと、あんたは俺にクリス少尉やケビン大佐へのルートがあるから、そして、俺がボストのスパイの連中が気にもしない下っ端の兵隊だから、俺に話を持ちかけた、と言う認識でいいんだな」
「そうですね」男は表情を崩して、笑顔を浮かべる。

「一つ、質問したい」俺がそう言うと、どうぞ、と男が答える。
「クリス少尉が、ラシュディさんの居場所を隠すために、諜報部と共同して、首都にラシュディさんがいるように見せかけたことがあっただろ。サンドシティであんたとあった時に、あんたは、ボストのスパイは首都を血眼になって探していると言ってたよな」
「言いましたね」
「あれは、クリス少尉が諜報部に頼んだ工作だった。諜報部内にボストのスパイがいるとしたら、どうしてそれを感知できなかったんだ」
「我々の一派とつながりがある諜報部の人間、要は、私たちに携わっている人間は四名しかいません。諜報部長、R二五、あとは、M三五、D二七です。このうち、あなたが知っているのはR二五ですね。M三五、D二七の二名は首都にいます。あのとき、クリス少尉からの依頼を受けた諜報部は、通常ルートで諜報部長に報告を上げています。その時点で、ボストのスパイはそれを感知していたようです。諜報部内のスパイを騙すために、諜報部長は一般の諜報部員にラシュディの隠蔽工作を指示すると同時に、諜報部内での情報工作を極秘でR二五、M三十五、D二七に指示しました。」
「どういう事だ」
「簡単な事です。首都での隠蔽工作を行う際に、諜報部は首都の数カ所にラシュディの影武者を立てています。そのうちの一名は諜報部内では、本物のラシュディであると認識されていたのです。国境にいるラシュディこそが影武者だと、諜報部内で情報工作が行われた。この諜報部内の情報工作を行わされたのが、R二五、M三五、D二七の三名です。ボストのスパイはそれを鵜呑みにして、首都を血眼になって探すはめになった訳です。影武者の尋問場所、潜伏場所は諜報部長からの直接指示による事となっていましたから、場所を探してかけずり回るのは、大変だったでしょうね」
「ラシュディさんの護送は隠せないだろう。まさか、護送中に狙われたりはしてないんだろうな」
「護送はエイジア、セルーラ両軍の厳重な警備のもと、行われています。これをボストが強襲したところで、メリットがない。他国へ無断で軍を侵入させて、しかもいまさらラシュディを確保したところで、どうなるものでもありません。以前お話しした通り、ボストではラシュディが考案した破壊工作技術は使われない事が決定した訳ですから」男はそう言って、ため息まじりに笑う。

「俺の返答はこの間と同じだ。あんた個人を、俺は信用する気にはまだなれない。今聞いた話にしても、うまくできすぎている感じもするし、単に辻褄合わせの様な気がしないでもない。むしろ、そっちの感の方が強いくらいだ。ただ、クリス少尉には伝える。後の判断をどうするかはあんたには話せないし、命令がない限りは伝えるつもりもない。それでいいな」俺はそう言って席を立つ。男は、構いませんよ、と短く答える。

「カイル伍長、最後に一つ」会計をすませた俺が、店を出ようとすると、背後からそう声が聞こえた。振り返った俺に、男が近づいてくる。
「私が、サンドシティで言った事を覚えていますか」覚えているも何も、聞いた事が多すぎて、いったい何を男が言おうとしているのか、俺にはわからない。
「目的を達成したいのなら、手段を選ぶな。と言った件です」
「覚えてるよ。また説教か」俺が苦笑いを浮かべてそう言うと、男はなぜか妙に真剣な表情で俺を見た。そして、酒場の入り口近くのスツールに腰かけ、俺にも座るように促す。俺はまだ何かあるのかと半ば食傷気味になりながらも腰を下ろす。ふと、店を見回すと、酔いつぶれた数人の客がだらしなくテーブルに突っ伏して眠っている他は客の姿が無く、店員もどこかに出かけてしまっているようだった。店の中でまともに目を覚まして会話をしているのは、俺とこの男の二人だけだ。

「あの娘、リーフをあなたが預かっているそうですね。諜報部からは、あなたとリーフは深い信頼関係にあるように伺われる、と聞いています。あなたが、もし、あの娘を本気で守り通すつもりなら、覚悟を決める事です。私が言う筋合いの事では無いかもしれませんがね」男は真摯な目つきのまま、そう話を切り出した。
「どういうことだ」俺は無意識に自分の目つきが険しくなるのを感じる。リーフに危険が及ぶようなことを、ボストが画策でもしているというのだろうか。
「別にボストは特にあの娘をどうこうしようという気は無いと思います。ただね、異国の地で、ボストに帰ることも叶わない。まあ、帰りたいとも思っていないかもしれませんが、あの娘は一人です。セルーラ参謀府が守ると言っても、ボストと交戦状態になれば、どんな状況が訪れるかはわからない。最悪、私は処刑され、セルーラは侵略され、エイジアは負けるかもしれない。そうなっても、あなたがあの娘を守る覚悟をしておけ、という事です」
「あんたが、そういう心配をするってのも意外だな。裏でもあるのか」俺は男の真剣な表情に違和感を覚えつつ、そう言った。ただ、そう言いながらも俺は、今の男の言葉は、多少ではあるが信頼に値する気がしていた。
「……昔、ボストにね、馬鹿な貴族階級の男がいました。男は行政官として下層階級であるクライドとカエタナの居住区の監督をしていた」俺は男がどこか寂し気にそう語りだすのを黙って聞く事にした。男は俺から目をそらして、酒場の古びた黄色い壁の一点を見つめて話を続ける。
「男は、ふとしたことからクライドの女性と恋におちました。まあ、ありふれた話といえばありふれた話です。物語なら、二人は困難を乗り越えて一緒になりました、で終わりなのでしょうね。でも、その男は、女を守りきれませんでした」男は煙草を取り出し、火をつける。そして、俺にその煙草を勧めた。俺は一本をもらい、火ををつけて、男の話の続きを待つ。
「その女はね、最後は売春婦にまで身を落としました。女がそこまで苦境に陥っても、その男は、身分を失う覚悟で助ける覚悟を持たなかった。ボストではね、そういう階級の人間と関係を持ったなどということになれば、身分を一瞬で失うのです。結局、男は身分を失う事や、自分の小さな身の上が結局は大事だったのでしょうね。気にしつつ、悲劇の主人公のように苦悩しながらも、自分自身が助けるために踏み込もうとはしなかった。情けない話です。」
「……あんたの事か」俺がそう聞いても、男は何も答えない。しばらく沈黙が続いた後、男は口を開く。
「最後は流行病でその女は死にました。一応、悲しかったのでしょうね、その男は泣いてはいました。ただ、喪失感だけが強く残った。年月が経つほど、あのとき、自分が捨てられなかった身分や、小さな身の上が、本当は自分にとってどうでもよいものだった事が実感されたのでしょうね。女の笑顔を思い出す日も、女がやせ細って街路に立って客を引く姿を思い出す日も、増えていった」男はそう言って、俺を見る。俺の目を刺すような視線で凝視する。
「いまさら、男が、クライドやカエタナのために働いたところで、ボストの腐った体制をひっくり返そうとしたところで、その女への贖罪にはならない。結局は自分の自己満足に過ぎない。例え、それが、ボストを変えたとしてもね。あの時に覚悟ができなかったというその一点は永遠に残る。男は何一つ取り返せるわけでもない、臆病な自分を誇れるようになる訳でもない。それでもね、その馬鹿な男はそうすることでしか生きられなくなった。喪失感を埋めるために」俺は言葉を発する事ができずに、ただ自分に向けられる男の強い視線から目をそらす事が出来ずにいた。
「あなたが、あの娘を守りきれなければ、そうなりますよ。きっと。本気で守ろうと思うなら、身分も、国も、プライドも、捨てる覚悟を持つ事です。目的を達成するために、手段を選ぶな。私は、その男のことを思い出すたびにそう思いますよ。あんな男を見るのはつくづく憂鬱になる。だから、忠告です」
「わかった。」俺はそれだけを答えると、いたたまれない気持ちで席を立つ。男も表情を和らげ立ち上がり、俺の後に続いて店を出る。

「それでは、またお会いすることもあるでしょう。それまでお元気で」男はそう言って、俺の家とは反対方向に、大通りを歩いていく。俺はその背中を見ながら、男が何度も繰り返した覚悟という言葉を思い出していた。リーフの手を離さないという覚悟。俺はひどく静まったブルームの町並みを歩きながら、男が言うような覚悟を出来るようにならなければならないと強く思った。どうあっても折れる事の無い覚悟を。







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