第四話 敗戦
サソリは信じられない気持ちでその光景を見ていた。
次々に倒れていくのは、自分で選抜した兵達だ。
どうしてこんな事になった?
サソリは深い沼に引きずり込まれるような脱力感に陥って行った。
完全な敗北だった。
村を出て三日で森を抜けた。
犬神族の足であればもっと早く着いたはずなのだが、獣神族に合わせての進軍ではこれが精一杯だった。
森を抜けるとすぐに、赤茶の乾いた荒野が広がっている。
兵の多くはそれに大きな衝撃を受けたようだった。
この広々とした乾いた大地は、昔は森の一部だが、戦争の最中、人間に徹底的に焼き払われたのである。
未だに木の芽一つ出ない、不毛の地となってしまった哀れな地帯なのだ。
今夜の野営が攻める前の最後のキャンプになりそうだった。
ここから先に進むのは兵のみで、軍医や兵糧を守る者達はここで兵の帰還を待つ事になる。
医師の診察用に立てられたテント内で、薬師として従軍したガランはゆっくりと、薬草を配合する作業をしていた。
真っ白な白髪をワシャワシャとかき混ぜるようにかく。手ではなく、尻尾で。
ガランは袁神族だった。
袁神族は身体的には手足が長いのと、尻尾が生えているのが特徴である。犬神族より戦闘力は劣るが、爪や牙は鋭い。、顔の肌が赤く、長く駆ける才はないが、身のこなしの良さは犬神族と同等かそれ以上だ。
手先の器用な者が多いので、服や装飾品を作って売るなど、森の物流を担っている一族である。
ガランが犬神族の村に来る事になったのは、当時の村長と親しかった薬師の父が一家ともども引き連れて犬神族の村に移り住んだのがきっかけだった。
父も母も故郷へ帰ることなく犬神族の地に還った。自分もそろそろ、両親と同じ命運を辿るだろう、とガランはこの白髪頭を見ると思う。
ガランはこの従軍はもっと忙しくなると思っていたが、優秀な助手の参入で、心配していたほどではなかった。
その助手とは、まだ村長の息子と同い年だという、何故従軍を許されたのかよく分からないが、ルリという黒髪の美しい少女だった。
薬草を潰して一日中煮詰めたり、擦っては乾燥させ、練っては煎っては、と地道に時間のかかる事ばかり、文句どころか、常に笑顔でそれをやっている。
しかもそういう作業に慣れているようだ。ガランが薬師の経験があるのか、と聞くと、父親が薬師のような事をしていて、手伝いをよくしていたのだという。
何でも、元いた村は人間に焼き滅ぼされて、はるばる犬神族の村に逃げ延びたのだそうだ。
あまりに屈託もなくその話をするルリに、ガランは最初冗談かと思ったほどだったが、村長付きの護衛シュンから聞けば真実であるらしい。
「ガラン先生、この薬、ドリアムさんのですか?」
「あぁ、うん。」
ガランは苦笑した。またドリアムが来ているか。
この獣神族にしては体格の小さめなドリアムという青年は、余程ここが気に入ったのか野営の間中このテントに遊びに来ている。
「はい、ドリアムさん。」
丸い顔をクシャっとさらに丸めるように笑ったドリアムは、ガランとルリに丁寧にお辞儀した。
「ありがとう。この薬ほんとよく効くよ。俺は緊張するともう、絶対に眠れなくて寝不足になるけど、今回は薬のおかげでぐっすり眠れてる。」
患者は大体若い戦士で、症状はみな、緊張による不眠や腹下しだった。
ただでさえ今回進軍する兵は初陣である者ばかりなのだ。
薬をもらいに来る者は多かった。
「薬を飲みすぎるなよ。動きが鈍るからな。もうそろそろ隔絶の壁が近い。」
ガランは長い尻尾で遠くにあった薬草を引き寄せて、混ぜ合わせていた薬に加えながら言った。
「隔絶の壁?」
ルリとドリアムが同時に聞いた。
「…なんだ、この呼び名を知らないか。二人はまだ若いものな。…このまま真っ直ぐ進めば、人間が森に対する防衛線として築いた、背の高い石の壁が見えて来るんだよ。そこを、わしのような老人は隔絶の壁と呼んだりする。もう何百年と崩されてない、人間と異形の世界を隔絶する壁なのだよ。」
もっと戦火が激しく燃え盛っていた時代は、そこを巡って毎日何百人と死んでいたという。
隔絶の壁は厚く、異形の力を持ってしても崩れる事がなかった。
ドリアムは少し身震いしたようだった。
「ドリアム、お前は獣神族にしては随分大人しい性格なのだな。わしはてっきりガブのような奴ばかりかと思っていたぞ。」
笑ってガランは獣神族長ガブの怒った時の凄まじい形相を真似してみせた。
しかし、ドリアムは笑うどころか元気なくうつむいた。
獣神族にしては小柄といっても、ガランやルリに比べれば二周りくらい大きい体が、少し縮まったようだ。
「そうだ。俺は臆病者なんだ。皆にもそういって馬鹿にされる。」
「いや…、そんなつもりで言ったんじゃないんだが。…悪かった。」
ガランは白い毛の混じった眉を寄せた。
薄々、雰囲気は感じていたが、獣神族内では、彼は孤立しているらしい。こう大人しいだけで、獣神族からは軽蔑の元なのだ。
「いや、いいんだよ。本当の事だ。俺は戦うのが怖い。今度の進軍だって、集落に残って臆病とからかわれるのが嫌で加わったようなもんだ。」
ルリは黒曜石のように黒く光る目をドリアムに向けて、じっと黙っていた。
「ガラン先生、ルリ。俺、ここにいると故郷にいる時よりずっと居心地良く過ごせるよ。二人とも優しいもんな。」
ドリアムは朗らかに笑った。
「…冷えますよ、火に当たってください。」
クルリはぼんやり立っているフウマに言った。
彼は声をかけられたのに驚いてクルリを見、「…あぁ。」と呟いた。
クルリは夕飯の調理のために焚いた火の番をしている所だった。
「入らないんですか、テント。」
クルリはさりげなく聞いた。
クルリの焚いた焚き火のすぐ近くに医務用に立てられたテントがある。
ルリはそこにいるはずだった。
フウマは沈黙したままだ。無視されたのかと思ったが、しばらくして答えが返ってきた。
「…中に患者がいるようだから。」
クルリは意外に思ってフウマを見た。
ルリに会いに来た事を、彼は素直に認めた事になる。
クルリの顔に微笑みが浮かんだ。
彼はもう気が付いたのだろう。自分の気持ちに。
ルリに好意を持っているという事に。
その時、テントからのそりと誰か出て来た。
獣神族の男だった。
「あの男、毎晩来てるな。」
フウマがそう言ったので、クルリも男の顔を確認してみたが、どうだったかよくわからなかった。テントは人の出入りが激しいのだ。いちいち顔を覚えていない。
クルリは思わず意地悪っぽく言っていた。
「心配ですか。ルリ様に気があるのかもしれないし。」
フウマは心なしか渋い顔をしてクルリを見返した。
このクルリという男、人見知りが激しいが、近頃は大分慣れてきたらしく本来の性格が見えてきた感じがする。
「最初に言っておこうと思いますが、フウマ様。今ルリ様のご両親代わりが出来るのは私しかいません。その責務を重く受け止め、果たして行く上で、フウマ様の動向を注意深く拝見させて頂こうと思います。」
クルリはにこやかに微笑んで言った。
このセリフを年頃の娘を持った親父風に言えば、うちの娘に下手な事したらぶっ飛ばすぞこの野郎、と言った所だろうか。
「……。」
フウマはしばらく絶句してクルリを眺めていた。
隔絶の壁は、名に相応しい、巨大な石壁だった。
獣神族の二倍はある高さに、横は小さな集落なら丸ごと包み込めそうなほど長く続いている。
一体どれ程の労力を上げて築き上げたのだろう。
隔絶の壁前に、人間が隊列を組んで待ち構えていた。
その数、ざっと千人はいそうだった。
数はいつも人間が上回る。
その目と鼻の先に、異形の者も隊を敷いて今か今かと突撃の合図を待っていた。
ガランやルリのいる陣ははるか後方である。ドリアムはそっと振り返った。
陣の中心に高い棒が据えられていて、その先端に赤い旗が掲げられている。
もし万が一にも敗走したら、その旗を目印に逃げ込むのである。
遠く、乾いた起伏の激しい大地に、ぽつんと見える赤いのがそれだとドリアムは思った。
それだけで何となく心が落ち着いた。
「おい、仕掛ける前から逃げ出すんじゃねぇぞ。」
「いや、逃げてもらった方が俺達の邪魔にならなくて助かるぜ。」
後ろを振り返っているドリアムに、左右に並ぶ獣神族兵が口々に罵り立てた。
唇を噛んでドリアムはうつむいた。
ドリアムは両親や兄弟にまで臆病である事を罵られて生きてきた。
自分の何分の一の大きさでしかない鹿を一頭狩るのに、冷や汗でビッショリになる。
戦のための鍛錬で牙の使い方を習うと、恐ろしくて夜も眠れない。
獣神族たるに必要なステータスは唯一つ。
勇猛果敢であること。
逆に言えば、そうでなければ獣神族として生きる資格も剥奪される。
ドリアムは獣神族の中で生きてきて、一度も心が安らかになった事がなかった。
何の心配もなく、初めて心から笑ったのは、獣神族の集落を遠く離れた、陣中の医務用テントの中だったのだ。
笑顔が魅力的で、笑いかけられるとついこちらも笑顔になってしまうルリや、いつも面白い話を老人独特の穏やかな口調で話してくれるガランが、ドリアムは大好きだった。
罵っていた兵が不意に口をつぐんだので、ドリアムが顔を上げると、犬神族の村長サソリが隊列の先頭に歩み出た所だった。
この戦場でただ一人の女性であるため、その姿はかなり目立つ。
さらにその後ろから背の高い茶髪の男と、小柄な銀髪の少年が付いて行く。
ドリアムは戦場にどうしてあんな幼い少年を連れて行くのかと驚愕して見守っていた。
サソリが高々と右手を上げる。
それが合図だった。
一斉に犬神族百名が風のように飛び出した。
ドリアムは鳥肌が立った。
一人一人が矢のように人間の隊列に突っ込んでいく。
これが犬神族の戦い方。
獣神族とは全く異なるものだった。
目で追いつかないほどの早い動きで相手を撹乱し、石にすら突き刺さる鋭く頑丈な爪を見舞う。
その様はまるで踊るようだ。一舞いする度に血煙が吹く。
千人の人垣が、たった百人に乱されていく。
その時、凄まじい雄叫びが戦場を貫いた。
獣神族長、ガブが吠えたのだ。
それが、獣神族突撃の合図だった。
「さっさと進め!」
硬直して動けないでいたドリアムの後ろにいた兵が叫んだ。
しかし、ドリアムはそれでも動けない。
「ほっとけそんな奴!」
誰かがそう言い、ドリアムの後ろの兵は次々にドリアムを突き飛ばして人間の隊列に突き進んでいく。
獣神族の戦いは、犬神族とは間逆の力勝負だった。
獣神族にとって、人間が放つ矢の一、二本は刺さってもどうという事はない。
猛進して行き、手当たり次第その丸太のような腕で相手をなぎ倒し、牙で肉を骨を噛み砕く。
不気味に静かだった戦場は、獣神族の参入で、一気に怒号と唸り声で一杯になった。
ドリアムは、震えながらその様を見ているしか出来なかった。
獣神族が隔絶の壁に体当たりを始めた。
一発二発とやるうちは、揺らぎもしなかったが、体当たりをする人数が五、六〇名程にもなると、壁はだんだん、大きく揺らぐようになっていった。
十度も当たった頃だろうか。隔絶の壁が恐ろしい音を立てるのを聞いた。
「あっ!」
ドリアムは思わず声を上げた。
少し離れたドリアムの目にも、壁に大きな亀裂が生じたのが見えたのだ。
もう一押しで、壁は崩れる。
嬉しさでドリアムの目は思わず、ガランやルリのいる陣のほうに向かった。
しかし、思いも寄らないものが目に飛び込んできた。
土煙が上っている。
赤茶色の大地を疾走する、おびただしい数の人間の騎馬隊が一直線に森へ向かっているではないか。
森の前には陣がある。
赤旗は土煙で全く見えない。
叫んだ。
ドリアムの頭は真っ白になった。
かなり経ってから、自分が陣に向かってずっと走っていた事に気がついた。
鈍足な獣神族は我を忘れると、驚く程俊足になると誰かに聞いたが、自分が今きっとそうかもしれない。
ドリアムは思わず泣きそうになった。
これを言っていたのはガランだった事を思い出したからだった。
サソリは違和感をずっと消せずにいた。
戦況はほぼ一方的にこちらが押している。
しかし、どうにもおかしい。
手応えがないのだ。
「村長!」
「!シュンか。」
剣や槍をヒョイヒョイ避けながらシュンがサソリのすぐ横にまでやって来た。
「こいつら戦う気あんのか?なんっつうか抵抗がないっていうかさぁ。」
シュンが自分の思っているのと同じ事を言った。
それでサソリは自分が思っているだけでないことを理解した。
「俺も戦争としてまともに人間とぶつかったのは初めてで、よくわかんねぇけど、今の感じはどうも良くねぇと思…」
突然ズシンっと地響きがして、二人が顔を上げると、ガブが隔絶の壁に体当たりをかましているのだった。
また違和感が増えた。
長年、隔絶の壁と呼ばれた、戦争の象徴であるこの壁に簡単に攻撃を許すとは。
それとも、これが人間の実力なのか。
嫌な予感がした。
ついに壁にヒビが入った時だった。
ガブにも負けない凄まじい雄叫びが戦場を駆け抜けた。
「?!」
誰だ?何を知らせる雄叫びだ?
サソリは声の主を探した。戦場ではない。少し離れた位置から聞こえた。
声の主は見つけられなかったが、代わりのものがサソリの目を釘付けにした。
「全軍撤退!!」
次の瞬間サソリは大声で叫んでいた。
事情の飲み込めない異形の兵達に動揺が走る。
「この人間どもは囮だ!各自、追撃を撒きつつ即刻、陣に帰還せよ!」
サソリの目線を追ったシュンの目に、遠くの大地で大きな土煙が上っているのが見えた。
大勢が移動している証拠だ。
真っ直ぐ陣へ、そして森へ向かっている。
異形の者が撤退を開始した途端、人間の猛追が始まった。
サソリは大きく舌打ちを打った。
全て作戦だったのだ。掌の上で転がされていた!
突如、隔絶の壁の上から矢が雨のように降って来た。頑強さを誇る獣神族がハリネズミのように全身に矢を受け次々倒れていく。
「村長!伏兵だ!」
シュンの報告にサソリは耳を疑った。
「馬鹿な!犬神族の鼻と耳を持って、何故見破れなかった?!」
そういっている間にも、道の左右の起伏から湧き水のように、見た事のない黒い鎧に身を包んだ人間がドッと溢れて来た。
サソリは直感した。出兵前にクルリの言っていた鉄の鎧だ。
「気をつけろ!爪が利かないかもしれない!」
サソリは大声を出したが、もう遅かった。
犬神族は初めて爪の通らない堅い防具を前に、混乱に陥った。
思考が止まってしまえば、いかに犬神族といっても、人間の方が数で圧倒的に勝っているのだ。取り囲まれ、四方から槍で突かれれば一たまりもなかった。
サソリの目の前で、同胞が次々に倒れていく。
敗戦。
「血路を開け!一人でも多く村に戻るんだ!」
村から遠いこの地で、村の守り手は打ち倒され、大軍の人間が目の前で侵攻に向かっている。
なんておぞましい光景。
その時、肩にズシッと重い衝撃が走った。矢が刺さっている。
刺さって尚、サソリは信じられず、その矢を見つめていた。
私が、のろまな人間の矢を自分が受けたというのか。
「母さん!!」
ハッとしてサソリは目を上げた。
自分に向かって剣を振り上げていた黒鎧の人間の首が飛んだ。
首を切り落とした人物がサソリを庇うようにして傍に立っていた。
神秘的な美しい銀髪が舞う。
サソリは思わず涙が出そうになるのを必死でとどめた。
後姿がそっくりじゃないか。
いつの間にか、この子はこんなに父親に似たのだ。
サソリは刺さった矢に手をかけ、一気に引き抜いた。
痛みで頭が一瞬痺れ、すぐにスッと冴えていく。
戦場で感傷的になるなど、どうかしていた。
「助かったフウマ!私はもう大丈夫だ!お前は急いで村に戻ってくれ!」
フウマが少し戸惑ってサソリを振り返った。
「村長は俺が守って村まで行くから!お前が一番足速いし、無事に村行き着いた兵をまとめる奴がいるだろ。俺達はここで追撃食い止める!」
シュンがどこからか取ってきた人間の武器の鉄剣を担いでやって来た。
よく見るとシュンだけではない。フウマも、今戦って踏みとどまっている者は皆人間の武器を奪って戦っている。
「へへ、皮肉なモンで、人間の作った防具には人間の武器が一番ってね。」
サソリの目線に気付いて、シュンが担いでいた剣を一本サソリに渡した。
なるほど、異形の者の筋力なら、人間よりもずっと強く鋭く剣を振れる。
剣の殺傷力が人間にとって仇となったのだ。
「フウマ!行け!!」
フウマはゴウッと風を唸らせて飛び出した。
一瞬で遠のいた息子の背中をサソリはもう振り返らなかった。
「爪や牙が通じないなら、人間の剣を奪って戦え!一人でも多く生き延びて村に戻るぞ!」
サソリの号令に、異形の兵達がオオーッと応じた。
こんな結果になると、誰が予測しただろう。
こんな大敗戦になるとは。
ギリギリと歯を噛み締める。
全速力で走りながら強く噛み締めたせいで、口の中が切れて血の味がして来た。
馬の蹄鉄の跡が、大地に敷き詰めたように隙間なく広がっている。
人間の通った上を走っているというだけで、フウマの心は燃えるような憎しみに包まれた。
フウマの鼻には、もう臭ってきていた。
木や布の燃える臭い、さらには血の臭いも肉が燃える臭いも。
陣に立てた赤い旗は燃え落ちて、黒煙が昇っているのが見えるばかりだった。
「…殺してやる…!殺してやるぞ…!」
村も母も心配だが、今心を占めるのはただ一人だった。
あの黒髪が血に染まっているのを見たら、自分はもう正気を保ってはいないだろう。
「人間を一人残らず殺して回ってやる…!」
フウマは搾り出すように呟き続けた。
そうしなければ口の中が自分の牙で血だらけになってしまう。
フウマには永遠に思えるほど長かったが、実際、陣に辿り着いたのはあっという間だった。
「ルリ!ルリはいるか?!」
一つ残らず焼かれたテントの燃えカスを縫うようにフウマは陣の中を回った。
ひどい炎だったのだろう。地面も黒くすすけている。
薄い黒煙の中、陣の中を回っていたフウマは驚いて目を見張った。
一つだけ、炎を逃れて無事に立っているテントがある。
奇跡のようだった。焼けていないのはそのテントだけなのだ。
記憶と照らし合わせれば、そのテントは医務用に立てられたテントだった。
垂れ幕をめくって中を覗いた瞬間、フウマはのど元に短剣を突きつけられた。
「…フウマ?」
ルリはフウマを見ると、慌てて短剣を引っ込めた。
ルリは少し青ざめているが、今朝、出陣を見送るために顔を見せた時と同じ格好のまま、どこも怪我なく、無事な姿だ。
「フウマ?平気?」
へたり込むように座ったフウマを見て、ルリはさらに慌てて、フウマの顔を覗き込んだ。
「ごめんね、また黒い鎧の人かと思って…。」
短剣にビビって座り込んだように見えたらしい。違うと言いたかったが、フウマは安心のあまり全身の力が抜けて、しばらく口すらうまく動かせなかった。
「よく……、よく無事だったな……。」
やっとそれだけ言った。
するとルリは、ゆっくり頷いて、テントの奥に顔を向けた。
奥には二、三人の患者を寝かせるだけのスペースがあり、見てみれば、ルリの他に、クルリと薬師のガラン、他に給仕係で従軍していた村の者四人が身を寄せ合っている。
これが生存者全てらしかった。
そして、その中心に、獣神族の遺体が安置されていた。
ひと目で、眠っているのではなく、死んでいると分かるほど、体の損傷がひどかった。
手足は火傷で皮膚が黒く、どこかおかしな方向に曲がっている。
おそらく骨が幾重にも折れているのだ。馬に踏まれたのだろう。あの硬い鎧と戦ったなら、殴りかかって折れたのかもしれない。
胴体は真っ赤に血で染まり、矢を抜いた跡が幾つもあった。
しかし、こんなにも凄惨な姿で死んだこの獣神族の顔は。
「笑って死んだよ。顔だけ見れば、まるで良い夢でも見ているような表情だろ。」
火に当たったためか、縮れてしまった白髪を尻尾で撫でながら、ガランが静かに口を開いた。
「信じられるか、村長の息子。こいつはな、ついさっきまで生きていたんだよ。この怪我でだぞ。」
身を寄せ合っていた四人がすすり泣くのが聞こえ始めた。
「このテントを守りきって、安心したんだろうな。嬉しそうに笑って、死んだ。」
フウマはこの青年が、毎晩このテントに来ていた獣神族だと気がついた。
「名を、覚えてやっておいてくれ。…ドリアムという。獣神族に聞けば誰もが知ってる、一族で一番の臆病者だそうだ。…たった、たった三晩薬をやって、話し相手になっただけのわし等を、魂を捧げて守ってくれた。」
フウマはドリアムの傍らにそっと片膝をついた。
焼け焦げて、肌の触感を失った腕に触れる。胸一杯に何か流れ込んでくる。
あんたは手本を見せてくれた。
憎いからでなく、守るために戦って命を捧げる事の偉大さを教えてくれた。
引き継ごう。
俺はあんたが守ってくれたものを命を懸けて守る。
だから、安らかに。
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