第二話 心の傷
温かい。
閉じた瞼の裏が、こんなに明るい。
日差しが自分に降り注いでいるのだ。
日差し?
という事は、今は昼なのだろうか。
最後の記憶を探ってみる。覚えている最後の場面はクルリの背中。
あの飲み込まれそうな闇夜に不気味な赤光の月が浮かんでいたのを見上げた時から先、記憶がなかった。
クルリ。クルリはどうしたのか。
ルリは目を開けた。
石造りの壁が視界に飛び込む。
少し冷たい風が、フワフワしていた自分の意識を現実世界に固定した。
ルリはがっちりした木製のベッドに寝かされていた。
頭の方に日光の降り注ぐ大きな窓が、足を向けている方に部屋のドアがある。
ルリはゆっくり指を動かしてみた。
かじかんで力が入らなかったのが嘘のように、滑らかに動く。上体を起こしてみる。
動ける。怪我も、病気もなく、動いている。
生き延びたのだ、私は。
その時、部屋の外で話し声が聞こえた。話すというより、一方的に一人が喋っている。
「だから、フウマよぉ。ふて腐れんなよ。いいじゃねぇか、たまには殺し合いなんて物騒な事から離れて暮らしてみろよ。」
楽しげな話し声だ。男の人らしかった。
「じゃあな、フウマ。達者でやれよ。」
部屋に入る前に話しかけていた方の男は、部屋の前で離れていくようだった。
離れて行ったらしい後もしばらく、部屋には誰も入って来なかった。
ドアの前で気配が止まっている。
木造りのドアがギッといって開いた。
ルリは少し目を見張った。入ってきたのは、月の光のように見事な銀色の髪の少年だったのだ。
クルリも父も母も黒髪だった。もちろん自分も。それ以外の髪色は見た事がない。
銀髪の少年はうつむき加減で、こちらを見ていなかった。
ルリが目を開けている事も気付いていない。
無表情にも見えるが、ルリには悔しそうな顔に見えた。
「あなたが私を助けてくれたの?」
少年がハッと顔を上げた。
ルリは思わず笑った。
すごい。もしかしてここは見た事もない色の目や髪の人物で溢れているかもしれない。
金色の瞳が、訝しげに笑っているルリを見つめ返した。
フウマは集落に戻ると、思いも寄らない事を命じられた。
拾って来た異民族の世話をしろというのだ。
確かにフウマも、気にならない訳ではなかった。
村の薬師によれば酷い疲労状態ではあるが、それ以外は健康だと言いう事だった。
気にならない訳ではないが、だからと言って、これ以上関わる気はなかったというのに。
だというのに。
いきなり自分に笑顔を向けた少女は、嬉しそうに声を上げてベッドを飛び降りた。
「ねぇ、ここは何族の村?すごい!石造りの家なんて初めて見たの私!」
大きい窓に取り付くとまた、声を上げた。
「岩場ばっかり!私が居た所は湖ばかりだったよ。同じ樹海でも雰囲気が全然違うのね!」
少女の無邪気な様子に、フウマは言葉に詰まった。
何なのだこの明るさは。
この少女は人間に襲われ、命からがら、ここに来たのではなかったのか。
頭の奥がザワザワした。気分が悪い。
「騒がしくするな。ここは村長の家だ。」
予想以上に自分の声が冷たい気がした。
少女は笑みを消してフウマを見つめている。目が大きかった。真っ黒な瞳だ。
居心地が悪くなって、フウマは目をそらした。
「ごめんなさい。怒らないで。」
「怒ってなんか、いない。」
そんな感情、自分にはないのだ。そう言い掛けてやめた。
確かに、自分は怒っている。
「お前は親を亡くしたはずだ。人間に殺されて。悲しくはないのか。」
自分と似たような目に遭ったはずの少女が、こんなに明るく振舞えるのが、フウマには我慢ならなかった。
もっと、悲しんで、苦しんで、憎むはずだ。自分と同じようになるはずだ。
十年経った今もそんな風に笑えない自分が、弱く感じた。
少女は何も答えない。
フウマは目をそらしたままだったので、少女の表情すら分からない。
突然、体に柔らかい何かが触れた。
フウマが驚いて振り返ると、少女が自分に抱き付いていた。
「なっ……!」
とっさに声を出そうとして、息が続かなくなった。
驚きのあまり息が吸えてなかったのだ。
「よく分からないけど、私はあなたを傷つけたのね。ごめんなさい。」
少女はそう囁くと、何事もなかったように、また嬉しそうに笑った。
周りの空気ごと引き込むような鮮烈な笑みだった。
フウマは燃えてるんじゃないかと思うほど体が熱いのを感じた。
「そうだ、私お礼を言ってなかった!私の名前はルリです。助けてくれてありがとう!」
そう言って、ルリと名乗った少女はフウマを解放すると部屋を飛び出した。
「ねぇ、クルリもこのお家のどこかにいるの?」
廊下でルリが言う。
フウマは半分以上聞いてなかった。
抱き付かれている間、吸えなかった息を補給するのに必死だったからだった。
シュンは開いた口がふさがらず、その様子を眺めていた。
ルリという少女は、楽しそうにあちこちに歩き回っているし、クルリと呼ばれた翼神族の男は、幸せそうに赤銅色の目を細めて笑っている。
はしゃぎ回る二人の後ろで、フウマがトボトボと(シュンにはそう見えた)歩いていた。
もの珍しそうに見つめてくる村の者達の目線に耐えている。彼らが珍しがっているのは、異民族より、村を歩き回るフウマなのだ。
実は犬神族の集落で異民族を見るのは、さほど珍しい事でない。
異形の中でも戦闘能力が高い犬神族は、村から村への貿易が盛んな所では、森を通る時の護衛として異民族に雇われたりする。
しかし、フウマが村を歩くのはほとんどない。家にいるか、森にいるかのどちらかなのだ。
隣の部屋で寝かされていたクルリは、夕方近くになって目を覚ました。
傍に元気なルリを見ると泣いて喜んだ。
クルリの翼や鱗は見る影もなく消えうせていた。
ウォルによると、それは一瞬の出来事だったらしい。
運ぶにも、本人の体の二倍ある翼をどう扱ったものか、しかもウォル以外の自警団の連中は怖がって近付こうともしないのだ。
とにかく、道を確保しようと、長い草を踏みならしたり、運ぶ時引っかかりそうな枝を切ったりして戻ってくると、翼も鱗もなくなっていたという。
こうなるとクルリは、ほとんど普通の人間のようだった。
普通の人間と言えば、ルリもそうだった。
犬神族はみな、爪や牙が長く鋭い。走る速さや跳躍力が普通の人間の何倍もあるといった特徴がある。ルリは民族的な特徴が何もなく、見た目では何族か特定できなかった。
「村を見学してきたのか?」
「あ、はい!…えと…」
「シュンだ。村長直属の護衛をしている。よろしくな。」
ルリはニコッと微笑んだ。幼げだが、魅力的な笑みだった。
「私はルリです。こっちはクルリ。お世話になってます。」
「その事なんだが、今から村長が二人に会いたいと言ってる。大丈夫か?」
「はい!もちろんです。」
ルリとクルリが村長の家に駆けていくのを見届けて、シュンは問題のフウマを振り返った。
顔が何となく疲れている。
「ど、どうした、お前…。」
「俺はあの女、嫌いだ。」
「……はあ?」
フウマが好き嫌いの話をするのは珍しい。
「あの女って、ルリちゃんかよ?」
名前を聞くのも嫌、というようにフウマは顔をしかめた。
シュン呆気に取られてそんなフウマの様子を眺めている。
「俺は、もう自警団に戻らせてもらう。村長の命令でも無理だ。」
「え……っ、おい待てよ!」
フウマは風のように駆け去っている。
シュンは反論する暇もなく、遠ざかる背中をポカンと見ているしかなかった。
「フウマ様、村にいらして良かったのに。」
ウォルは眉を八の字にして言った。
彼はさっきから、フウマの顔を見ればそればかり言っている。
フウマもその度に無言になるので、会話が何も進まない。
樹海の夜は、周りが黒いと言って良いほど暗かった。
夜目が良い彼等は、そんな暗さでも松明一つ灯さずにいる。
「俺がここにいちゃ、悪いのか。」
フウマが初めて、言葉を返した。
「そんな事ないですけど…、だってフウマ様はあの翼神族と女の子の事、任されたんでしょ?シュンさんが、だからフウマはしばらく自警には加わらないって言ってました。」
軽い舌打ちが聞こえてきた。
さすがにこの闇では表情の機微までは分からないが、明るみで見れば、憎々しげなフウマの表情が見れただろう。
「シュンさんはフウマ様を自警に加えるのに反対なんですよ。戦とはいえ殺し合いは、心の何か柔らかい所を削ってしまうから。」
フウマはウォルを見た。
フウマには、表情が見えているかもしれないとウォルは思った。
夜目の効き具合も、フウマに敵う者はいない。
ウォルも自警に入って二年経つ。人間は何人も殺した。
それでも、初めて殺した時の事は未だに覚えている。
「あの女、俺がどれだけ人を殺しているか知ったら、どんな顔をするだろうな…。」
囁くような声だったが、森の静けさと犬神族の聴覚の良さが手伝って、ウォルの耳にフウマの独り言はしっかり届いた。
「…あの女って誰です?」
「だからル…」
言うつもりもなかったのに、口から出てしまったのだろう。
闇の中でフウマは大いに慌てたようだった。
ウォルには、フウマの慌てように首を傾げるばかりである。
「ル…なんですか?」
「何でもない!!」
フウマの大声に、木に留まっていたらしい鳥が驚いて飛び去った。
ウォルも腰を抜かすほど驚いている。
しかし、一番驚いているのは大声を出した本人らしい。口元を手で覆っている。
「あ、あぁー、あのもしかして、あの女って、異民族の…」
先にクルリを担いで村に帰っていたウォルがその少女を見たのは、薬師を呼んで戻ってきた時に一瞬ベッドに寝かされていたのを見たのみである。
そのあとすぐ、自警に森へ戻ってしまったのだ。
「その方にどう思われているのか、気になるんですか?」
「なっ…!?何でそうなる!?」
「だって、自分でそう仰いましたよ。どうこう言ったら、あの女どんな顔するかって、ボソボソと。」
フウマは戸惑って言葉を失ったようだ。
ウォルは思わず笑った。
こんなに率直なフウマの感情に触れたのは久しぶりだ。
「…俺は、あの女が嫌いだ。だから……」
「……気になった?」
「……。」
フウマの殺気を感じ、ウォルは即行で「ごめんなさい。」と言った。
これ以上こだわると、本当にヤられかねない。
フウマはまだイライラしているようで、居たたまれなくなったウォルはフウマから顔を背けた。
その時、ウォルの顔色が変わった。
フウマがその異変に気付いて、素早くウォルの視線を追う。
表情が凍る。
村の方向。
煙。
ザッと血の気が引く。頭の中が真っ白になる。
一つだけ鮮やかに思い浮かんだ。
人間の襲撃。
言葉もなく二人は駆け出していた。
いつもより息が上がるのが早い体を、フウマは他人の物のように感じていた。
二人が村に辿り着いた時には、襲撃は止んでいた。
目に映るのは、炎よりも崩れた石積みが目立った。
石造りの家の壁に大きな穴が、あちこちあいている。
炎が上っている家もあるが、大して激しい燃え方ではなくなっていた。
ウォルが消火に当たっている者の一人を捕まえてきた。
「何があった?」
「わからねぇ。急にドカンドカン音がしたんで外に出たら、黒くてでかい鉄の玉が飛んで来ていやがった。下敷きになった間抜けはいないが、壁を壊されてこのザマだ。」
どうやらこの男の把握する限りでは、死人も怪我人も出てないようだ。
「手伝おう。」
ウォルが消火の作業に加わろうとすると、男は少し首を振って、フウマに向き直った。
「ここはいい。それより、さっき村長の家から火が上ってたみたいなんだ。」
「村長の家が!?」
フウマは最後まで聞かず、走り出した。
はじめに母の顔が浮かんだ。
そして、あの異民族の黒髪が頭をかすめた。
村長の家は、炎は消されていたが、もうもうと黒煙が立ち昇っている。
サソリは家の前に立っていた。
サソリもフウマの顔を見つけ、少し泣きそうな顔になった。
「フウマ!無事だったの。」
「村の襲撃を許すとは、面目も在りません。」
フウマが頭を下げて、再び上げた時には、サソリは村長の顔に戻っていた。
「いいや。それよりフウマ、ルリを見なかったか?」
フウマの動きが一瞬止まった。
「今、クルリとシュンが探し回っているが、どこにも姿が見えないんだよ。少しの間だけど火が上ったから、家の外に出たとは思うが……。」
「探します。」
フウマは迷う事なく黒煙の上る家に踏み込んだ。
後ろでサソリが何か叫んでいたが、構わなかった。
外にはいない、という確信があった。
もしいたら、一番に自分が見つけているはずなのだ。
フウマは村に着いた時から、自分の目が、あの闇より黒い漆黒の髪を探す事を止められなかった。
何故かは分からない。
そんな事を考えるのは後で良い。
ただ今は、あの黒髪を目の届く所に入れて、この頭のイラつきを静めたかった。
家の中は、黒煙ですぐ傍の自分の手すら見えない。
フウマは舌打ちを打った。
これでは目が良くても悪くても一緒だ。
人間の何百倍ある嗅覚も、今は焦げた木や布の臭いばかり鼻について、邪魔に感じるほどだ。
「―――おい。」
フウマは手探りで進んでいく。
これまで生きてきた中で最大に五感を研ぎ澄ませる。
空気の動き、息遣い。
フウマは微かなその気配だけを頼りに進む。
「……おい!」
名は意地でも呼びたくなかった。親しみたくなかったからだ。
部屋の入り口らしい所に行き当たった。
ここだ、とフウマは思った。
位置的に村長の部屋だろう。
「そこにいるんだろ?返事をしろ!」
気配があるのに返事がない。
焦りがフウマの胸をふさいで行く。
不意に、色んな意地がどうでも良くなった。
「返事をしろ、ルリ!」
闇雲に部屋を突き進むと、淀んでいた空気が動いて、黒煙が希薄になった。
黒髪の少女がうずくまっているのがはっきり見えた。
「ルリ!」
フウマはルリの細い腕を掴んで引き上げた。そして、ハッと息を呑む。
ルリは泣いていたのだ。
フウマの存在に今気付いたように、ルリは目を見開いている。
「あ、あはは。フウマさんだ。あ、名前、聞いたんですよ村長様に。フウマさん、名乗ってくれないから…。」
すす汚れた顔をクシャクシャにして、ルリは笑った。そんな顔も魅力的に見えた。
「名前なんかいい。何をこんな所でうずくまってる。早く外に…」
「ダメ!」
強い調子でルリは叫んだ。
「待たなきゃ…!待たなきゃダメ…!」
「待つって何を……!」
フウマも強く聞き返そうとして、ピンときてしまった。
すぐピンと来たのは、同じような傷をフウマも持っているからかもしれない。
ルリが待っているのは、父親と母親だ。
「…お前の家も、こうやって襲われたんだな?」
ルリはぼんやりフウマを見返す。何の光もない黒い目。
「家が燃えて、お前は親に家から逃がされたんだな……?」
ルリは今、黒煙を見て、その時の記憶が蘇ったのだ。
連れて逃げようとするクルリに、ルリは何度も言ったのだろう。
お母さんとお父さんを待たなきゃ、と。
フウマは腕を持つ力を強めた。
「ルリ。」
ルリの大きな目がゆらっと動いた。
もうその目には光が戻ってきていた。
ゆっくり微笑む。
「外に、行こう……。クルリにまた心配掛けちゃう。」
フウマは頷いた。
その時の自分の表情に違和感を感じて、フウマは頬に手を当てた。
間違いない。
自分は今、微笑んだのだ。
|