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こうかんカテキョ

作者:藤沢みや


 世の中には、神様とかいう得体の知れないものに、一物、二物、三物、いや、それ以上与えられた者がいるという‥‥‥けれど、得てして、そういう過剰な祝福を与えられた者は、異様な欠落を抱えているとも言われるものだ。
 まあ、残念な美形とか、協調性のない天才とか、そういう感じ?



 なぜ、一介の高校生であるわたし、岡野綾がそんなことを考えているかというと、クラスメイトの井上俊樹の家に招かれて、通常では見ることがないような滑稽な光景を目の前にしているからだ。
「よく、生きてたね」
 これは偽らざる本心。
 ぎゅっと抱きついてくる弟が、その細い眉をしかめている。
 そりゃそうだ。
 まあ、今はだいぶ寒いから匂いは発生していないけど‥‥‥この部屋は、世間一般で言う所謂『汚部屋おべや』というものだったから。



 さてさて、話は戻って、なぜカレカノでもないクラスメイトの部屋に来ているか(しかも弟付き)というと、長くはないが原稿用紙一枚で収まるかは微妙な話だ。
 まあ、せめて五枚くらいで収めてみよう。
 えーと、わたし、岡野綾は北苑きたえ高校という市内ではトップクラスの進学校の一年生だ。で、クラスはA組になんとか滑り込んだ状態。奇跡だ。
 で、隣にいる背がひょろ長い井上俊樹は、この栄えあるA組(まあ、ここまで言えば察しのいい方ならわかってくれるだろう。北苑高校が成績順でクラス分けをしているということに)の断トツ一位の優秀者なのだ。
 噂がIQ二百以上とか言われているが、それが本当だったら笑う。
 超絶笑う~。
 ごめんなさい。今ちょっとギャルぶってみました。
 めちゃくちゃ笑う。笑い飛ばす。
 話を戻して、で、ある日‥‥‥というか、今日、木曜日。偶然にも帰り道が一緒になり、付かず離れずになぜかなり、帰宅してみれば、彼とわたしは同じマンションの階違い・部屋違いというのが判明したのだ。
 あら、ビックリ。
 すでに一年生も三分の二以上が終わり、そろそろ冬休み~。バイトするぜ☆という頃だったので、それまで一度もゴミ捨て場とかで遭遇しなかったのも不思議だ。まあ、この部屋見れば、ゴミ捨ててなかったんじゃないか? とも思う。
 彼が1A(可笑しな話だが、一年A組の井上くんの部屋番号は1A。ぷくく)に入る時に、わたしが階段に足をかけていた。で、気が付けば細い大きな手で手首を掴まれていたのだ。
「岡野さん‥‥‥お願いがあるんだ」
 彼は、頬を染めて、息を弾まして。
「掃除の仕方、教えて‥‥‥欲しいんだ」
 ふっと逸らされる潤んだ瞳。
「‥‥‥」
 わたしは口篭った。
 これ、脳内で台詞入れ替えたら可笑しい。『掃除の仕方』をちょっと違う単語にするだけでいろいろ可笑しい。
「岡野さんが、家のこと、やってるんだろ?」
 縋るような瞳。
 まあ、わたしは隠していないのでクラスでも有名だが、ジョブクラスは主婦なのだ。
 教室でスーパーのチラシを見ることに躊躇ちゅうちょはない。
 もちろん、本当の役職ではなく、我が家は母→勇者(保険勧誘員。めっさ優秀。支所ナンバーワンの売り上げの売れっ子ホステスじゃない、売れっ子勧誘員。けっこう強引。ロックオンされた人々、ごめんなさい)。
 わたし→主婦(家事手伝いなんて名目だけじゃないぜ。家計簿だってわたしの担当だ。おかげで幼少から、あ、うそ小学校五年からめきめき算数は強くなった。数学なんていわない。家計簿は算数だけでできる。たぶん)。
 弟→チームのマスコット(断じて青い哺乳類とかではない。可愛くて愛でてしまうタイプだ。近いのは某お城の猫ちゃんだろうか)。
 と、いう役割を持っていて、日々、それぞれのジョブクラスを上げるために頑張っているのだ。現在、マスコットは家事手伝い見習い。可愛い男の子が家事できるなんて、将来はモテるぞ、弟よ。
「そうだけど?」
 なんで、こんな潤んだ瞳で見つめられないといけないんだ。
 あー、だからクラスの女子(この言い方はどうなのだろう? 一回、彼奴等きゃつらと言ってみたら友達の更紗に呆れた目をされた。亡き父秘蔵の時代劇にハマっていた頃だったから使ってみたかったんだよ。雨の日は古傷が痛むとか、超言ってみたい)が騒ぐんだな。
『井上くんってぇ、背が高いのにぃ、可愛いわよねぇ~』
 とかってヤツだ。
 うーむ、思うんだが、今のうち語尾が延びるのは修正しておいた方がいいぞ、女共。
 もしくはビジネス的な言葉使いとのバイリンガルになっておかないと、就職の時に不便だ。なんで、こんなことを言うかというと、我が家はテレビが映らない(DVDは見れる。テレビはあるんだ。番組が映らないんだ)から、娯楽は母のビジネス書と、亡父の時代劇関連(小説にDVDにビデオといろいろ取り揃っている。レーザーディスクなどという物まである)くらい。
 わたしが小さい頃に買ってもらった絵本やマンガは、今は弟のものだ。
「うち、三ヶ月前に母が亡くなって‥‥‥」
「それはご愁傷様です」
 なるべく棒読みにならないように言って頭を下げる。
「ありがとう‥‥‥で、今は俺が家事をすることになったんだけど‥‥‥」
 言い淀む。
 マンションの階段下で、手首を掴まれている儚い少女(わたしのことだ、文句あるか)と背の高い少年。おー、まるで少女マンガ。わたしは学園物はイッサイ読まないからわからないが、こういうシチェーションじゃあ、ないのか?
 わたしは、マンガ読むなら完全別世界がいい。
 読んでいると本を床に叩きつけたくなるからだ。お前、母親がどんな思いで弁当毎朝作ってると思っとるんだ! 小さな箱に、大きな愛情。その、ちんまいの作るのに、一時間以上かけてるんだぞ!!
 子育てする根性もないくせにあんなことやそんなこととか、お前ら阿呆か! と時間の許す限り誌面に対して罵りそうだからだ。幼稚園児の子育てだって大変なんだぞ! まあ、可愛いからその大変さもかなり癒されるから無問題だがな。
 なので最近は、母が暇つぶしとか仕事上のネタ提供として買っている主婦向け雑誌や、超超超大金持ちとかIT企業の社長とかお貴族様とか俳優とかが相手役の物語の半分以上愛を囁いているか遠慮して泣いているかの恋物語ばっかりのマンガ雑誌とかが多い。
 下手なホラーマンガより、主婦向け雑誌のが怖い。めっさ怖い。めさめさ怖い。
 一時期、ご近所に顔面縦線の女が竹箒持って立っているんじゃないかとビクビクしたくらいに怖かった。
「岡野、話、聞いてる?」
「聞いてるもなにも、井上クンが黙り込んでるだけじゃん」
 一刀両断。エクスカリバー。
 わたしは可愛い弟の待つ部屋に帰って、今夜の夕食の仕込をしたい。
 頑張って見上げれば(ヤツは背が高い)、井上は困ったように首を傾げた。
「言いたいことの続きがあるならさっさと言う。だけど、お金だけは貸せないよ、ウチ、ビンボーだから!」
 まあ、ちょっと大袈裟に言ってみた。
 貧乏じゃないもん。
 清貧だもん。
「金なんて、いきなり借りないよ!」
 井上は憤慨する。まあ、それはそうだろう。
「岡野、頼む。俺の家庭教師になってくれ!!」
 ――― 掃除の仕方だけじゃないのか?
 勢いよく下げられた頭を見ながら、そう思ったことを誰も責められないだろう。



 で、冒頭に戻る。
 あ。原稿用紙五枚以内に収まったかな? わたしにとって原稿用紙五枚は大切なのだ。読書感想文も裏が白い広告に先に文字数を計算しつつ書いてから清書している。
 パソコン? なにそれ、美味しいの? ってヤツだ。
 まあ、就職目指してソロソロ中古でも買って、たっちたいぴんぐっちゅーヤツは習得しておかないと駄目だろう。就活の本とか本屋で立ち読みしてると眩暈がしてくるぜ。
 まあ、その前に目の前の汚部屋だろう。
 この部屋みたいに、とっ散らかるわたしの思考はとりあえず置いておいて、目の前に集中する。
 一点集中はわたしの得意技。
「とりあえず、井上って呼んでいい?」
「まず、そこ?」
「そう。井上に尊称とか敬称つけるのモッタイナイ」
「はあ、そうですか‥‥‥」
 井上が遠い目をしている。
「遠くなんて見ないで、現実見ろ。なんだ、この積雪七十センチ。雪じゃないな、積汚物七十センチ」
「うわ、容赦ねえ」
「お姉ちゃん、くさい」
 容赦のない追撃。
 井上、撃沈。
「まあ、これは一日で解決は無理ね。三ヶ月でこの汚部屋ってどういう生活しているのよ、あんたら親子は」
 はあ、と溜息を吐く。
「とりあえず、明日、依頼内容を聞く。家庭教師と言えど全部を一度には無理だから優先順位を考えておいて。優先一位は掃除ね。あと、今からスーパーに行って大きな段ボール箱五つと、全種類のゴミ袋大を購入しておくこと。特に燃えるゴミの袋は大で五つは買っておくのよ。それ以外の掃除道具とか便利そうな道具とかは一切買うな。いい?」
 見上げれば、井上は素直に「うん」と頷いた。
「お姉ちゃん、ボクも手伝う」
 つんつんとスカートを引っ張られる。
「そっか、諒はいい子だな。あ、じゃあ子供用の手袋がいるから、ついでに買い物に行くか。井上も来る?」
「あ、助かる」
 歩いて五分のところに百円ショップとスーパーがあるのだ。便利、便利。
 そのまま、なぜか弟の諒を中心に三人で歩く。おてて繋いでまるで親子のようだが、高校の制服なのがいたたまれないな。
 百円ショップで案の定、井上は掃除道具を見つめる。
「いらん」
 視線で尋ねられたので一刀両断。エクスカリバー。これは、友達の更紗が好きなゲームの主人公の台詞だ。
 我が家はゲーム機がないので、更紗の家でさせてもらった時に気に入った。
 ちなみに技の名前は『一刀両断。エクスカリバー。』の丸まで全部だ。
 わたしはきょとんとする井上を見上げる。
「掃除道具は、掃除できる状態になったら買うものなの。あんたんちは、まだ魔窟。モンスター退治してからじゃないと清掃業者は入れません」
 はさみ、ビニールテープ、ガムテープ、黒の太目の油性ペン、軍手三人分(もちろん弟も即戦力だ)、濡れティッシュと詰め替え用の濡れティッシュ。
 ぽいぽいっと籠に入れて井上に押し付ける。
 続いてスーパー。ここでも他のものには目もくれず、ゴミ袋だけ大量に買い漁る。
 燃えるゴミ(大)の在庫が少ないですよ、店員さん!
 あとは、そこで解散。
 ダンボール五箱運ばなくちゃならんというのは無視。勝手にガンバレ。途方に暮れた顔も無視。世の厳しさを知れ、青年。
 わたしは弟の手を引いて、野菜売り場に向かう。
 井上は大きな背を項垂れさせて、お惣菜・お弁当コーナーへ向かった。
「あ、そうだ。掃除手伝ったら、あのおにーさんが、なんかお願い事、聞いてくれるって」
 小さな手を握って諒に言う。
 そんな約束はしていない。だが、わたしはただ働きなんてするつもりは一切ないのだ。わたしからの報酬は『勉強を見てもらう』ことだ。学年一位の頭脳は使わせていただこう。
「ボクね、キャッチボールしたい」
 元気な笑顔が返ってくる。
 すまん、弟よ。姉はキャッチボールだけは、というか球技全般が下手なのだ。なぜ、ボールというものは思った方向に進まないのだろう。不思議。
「よし、明日頼んでおくね」
「うん!」
 うん、可愛い。今日の夕飯は、諒が好きなハンバーグにしよう。






「岡野」
 名前を呼ばれて見上げれば、そこには不肖の教え子がいた。
「呼び捨てかよ」
「じゃあ、おかん」
「なんでオーが減る。それにうら若き女子高校生にのたまう台詞じゃないぞ」
 スーパーのチラシの束から、裏が白い広告を取り出す。
 最近は裏が白い広告は減った。後、フルカラーの広告。意外と二色とか三色刷りが多い。こういうところに不景気は出るらしい。
「ほれ、依頼主。依頼内容は?」
「お前‥‥‥てんで、事情とか聞かないんだな」
 朝早い教室は、二人しかいなかった。
「へ?」
 首を傾げる。
 事情?
 そんなわたしを見て、井上は盛大に溜息を吐き出した。
「まあ、俺が言いたいから言うけど、俺の家、三ヶ月前に母さんが病気で死んで、仕事漬けの父親には家事はしてもらいたくても出来ない。で、俺が家事をしないといけないんだけど、正直、家事はやりたくない」
「ふーん。まあ、家の立地から考えれば料理はしなくても生きていけるもんね。コンビニも、ちょっと坂はあるけど自転車で五分の距離だし。でもね、できたらご飯だけは自分で炊いた方がいいよ。市販のお弁当とかおにぎりって油入ってるから、太る。今はいいけど十年、二十年後に来るからね」
「はあ? 米に油? 信じらんねー」
 井上はわたしの前の席に座ると、椅子の背もたれに項垂れた。
「市販品を買う時は、せめて裏の原材料名を見て買うのよ。なるべくカタカナとか少ないのがベスト」
「へー」
「と、いうことはまずは掃除ね。あとゴミ捨てルールを作って、井上のお父さんにも実行してもらうようにして、それからは洗濯か。洗濯は買う時にクリーニングとアイロンが必要のない服を買えば解決よ。井上のお父さんはスーツとか仕事で着てる人?」
「いや、研究者」
「じゃあ、白衣? 白衣だったら、それはクリーニングね。時間をお金で買うと思えばいいし。中はYシャツとかなの?」
「さあ、全部クリーニングだから」
「うわ、セレブ。嘘セレブ。まさか、パンツもクリーニングに出してるんじゃないでしょうね。クリーニング屋さんに謝れ、全力で謝れ!」
「うっせーな」
 顔を逸らすところを見ると、どうやら事実なのかもしれない。
 あーあ。
「まあ、とりあえずは魔窟の掃除からだから、ウチの地域は燃えるゴミは月木回収だから、明日の土日でやりましょうか」
「明日?」
「うん。母には昨日、バイトすることになったって了解得てる」
「手回し早~」
「そうよ~。報酬は、次のテスト前に、勉強教えてね。あ、あと弟がキャッチボールして欲しいって」
「そんなんで、いいの?」
「まあ、料理教えてとか長く続きそうなら、別の報酬考えるけど、魔窟掃除と掃除の仕方の指導くらいならそれくらいでしょ?」
「え、もっと長い依頼もOKなの?」
 瞳を瞬かれる。
「だって、料理なんて一朝一夕じゃ身に付かないわよ。それにスーパーで安値で買ったものを料理するんだから、スーパーでの買い方とかもあるし。主婦業への道は一日にしてならずなんだから」
「‥‥‥お前と話していると、自分の頭がいいのか悪いのかわからなくなる」
 またもや、どーんと落ち込んでいる。忙しいやつだ。







 で、決戦当日。
 いや、戦いはしないが‥‥‥いや、戦いか?
 わたしと諒はリュックを手にして井上家を訪れる。
「おはよー」
「パジャマかよ! って、おはようじゃねーよ、さっさと着替えて来い!」
「おはようございます」
 律儀に挨拶する弟が愛おしい。
「ういー。今、着替えてくる」
 ヤツはぼりぼりと首筋を掻きながら、部屋に戻っていく。
「お邪魔しまーす」
「おじゃましまーす」
 二人で入って、諒に指示をする。
「諒隊員、君にはまずこの段ボール箱に、洋服を探して突っ込んできてもらいたい。崩れても気にするな。壊れても気にするな。衣類だけ集められるだけ集めてくるのだ!」
「あいさー!!」
 弟はしっかりとキャラクターの絵柄の付いたマスクをすると、布類を引っ張ってダンボールに詰めていく。
「悪い! 岡野」
 よれよれの長袖Tシャツに穴の開いたジーンズという井上は、笑いながら顔の前で手を動かす。それが悪いと思っている態度か。
「ほれ、井上はトイレ担当」
 真新しいトイレ掃除用のスポンジとそのスポンジを置くケース、ゴム手袋(LL)を渡す。ついでに小さな買い物籠のようなプラスチックの入れ物も渡す。白い粉が入った瓶と水スプレーが二種類、使い古したタオルを半分に切ったものが大量に入っている。
「後で三百十五円返せ」
「了解です」
「トイレにあるいらないものはすべて捨てろ。掃除の仕方は後から指導するから、まずは捨てることから始めろ」
 井上にトイレを任せたのは意味がある。
 小さい場所ほど終わるのが早く、達成感があるからだ。
 掃除が終わる→達成感が湧く→掃除楽しい。となって欲しい。いや、なれ。
 ほどなくして「岡野~。捨て終わった」と呼ばれる。行けば、トイレには物がなくなっていた。
「よし。じゃあ、上から拭き掃除ね」
 水スプレーの赤色と使い古したタオルを渡す。
「これ、重曹と水が入ってる。タオルに吹きかけて、上から拭き掃除。ある程度汚くなったら、タオルはどんどん捨てて行く。まだ風呂とリビングとキッチンっていっぱいあるから、適当でいいから」
「適当でいいのか?」
 わたしはエプロンのポケットからストップウォッチを取り出す。
「時間は五分ね。タイマー鳴ったら次は便器だから」
「了解です! 先生」
「うむ、よい返事じゃ」
 リビングに戻ると、諒が部屋中の衣類をまとめ終えたところだった。お姉ちゃん、見て! という得意そうな笑顔が可愛い。愛いヤツじゃ。
「じゃあ、次は紙ね。紙だったら雑誌でも広告でもなんでもいいから、全部この中に入れるのよ」
「わかった!!」
 元気な返事をして諒は積汚物に挑む。
 若人よ、逞しくあれ。
 さて、弟には見せられない様相を呈しているキッチンに挑みますか。
 まずはてきぱきとシンクを空にする。水を流せないことにはどうにもならないので。
 そして、重曹をコップに適当に入れ、持ってきた酢を流し入れる。ごぽごぽと白い泡が吹き上がるのを内心面白いな~と思いながら、排水溝に回し掛けしていると頭上から「すげー」という感嘆の声が聞こえてきた。
「岡野先生、拭き掃除終わった。ところで、それなにやってるの?」
「これは、消毒みたいなものよ。重曹に酢を入れるとこんなふうに泡になるの。じゃあ、キッチンはこれでしばらく放置だから、トイレの次の段階ね」
 見てみれば、便器の中以外はほとんど綺麗になっている。
 硝子の瓶に入った白い粉を手渡す。
「これ、重曹ね。まず、これを振り掛けてトイレブラシで磨く。ある程度綺麗になったら、古タオルに黄色の水スプレー、これは酢水ね、をかけて、窪みとかまで綺麗に拭く。OK?」
「頑固な汚れは?」
「もし、重曹だけでダメだったら、重曹振り掛けてから黄色のスプレーをかけてちょっと待ってみて。じゃあ、次がまだまだあるから十分経ったら諦めてね」
 ストップウォッチを十分に設定する。
「了解、隊長!」
 明るい隊員の声に見送られてキッチンに戻る。とりあえず、洗う場所は出来たので、ゴミを捨てつつ洗うものを選別していく。そして、洗ったものを入れる場所も確認する。
 井上母は凄い。
 見ながらそう思う。
 使いやすいように配慮された並び方。調味料とかも丁寧に別容器に移されていた。
 きっと、今はこんもり物が溢れているけれど、生前のこの家はやさしさとか気遣いとかに溢れていたのだろう。ストック食材とかもあんまりないので、きっと料理も整頓も上手な人だったに違いない。
 我が家の母に爪の垢を煎じて飲ませたかった。我が母よ、再婚するなら料理上手としろよ。しみじみ。







 一度、三階の我が家に戻って昼食にする。
 仕方がないので井上も呼ぶ。大型犬が尻尾振って着いてきた。お前、お菓子あげるからって知らない人に付いて行くなよ、と妙に心配になる。
 仕込んでおいた炊き込みご飯が出来上がっているので、これまた仕込んでおいた具沢山味噌汁と一緒にお昼ご飯だ。
「うわ~。まともな飯だ」
 驚くポイントがそこか。
「ご飯は、だいたい冷凍が出来るよ。ちなみにこれもできる。出来るように、こんにゃくが入ってない」
「こんにゃくはダメなのか?」
「舌触りが変になるから、お勧めしない。あと、炊き込みご飯とかはラップが安物だと破れやすくなるから、ラップだけはちゃんとしたもののがいい」
「へー。お前って、本当に凄いな」
 井上がぱくぱく食べながら感心している。
「お姉ちゃん、おいしー」
 必死に食べる諒のほっぺのご飯を取って口に運ぶ。すると、井上の手がなぜか止まっていた。
「おかわりなら、まだあるぞ」
「あ、大丈夫」
 お椀に持ち替えて、味噌汁をずずっと啜る。
「‥‥‥凄いのは、井上の母親だよ」
「は?」
 わたしは、炊き込みご飯を口に運ぶ。そう、凄いのは彼の母親だ。
「たぶん、井上の母親は、物凄く家族を大事にしていた人なんだな。キッチン見ると、その場所の使い手の性格がわかるとわたしは思うんだが‥‥‥化学調味料を使わない。味噌も手作り。梅干が仕込んであって、糠床があって。梅酢があって。生きてらしたら、いろいろ料理を習いたい方だったよ」
「‥‥‥キッチンで、わかるのか?」
「わかるよ。家族のことをきちんと考えた食材。冷凍庫のストックとか‥‥‥食べれないだろうけど、ちょっと感動した」
 そう、冷蔵庫・冷凍庫の中を見るのは失礼な気もしたが、見なければ掃除のしようもないので見た。
 きちんとフリージングされた食材。ポストイットで日付が手書きされ、見たことのない海外の調味料とかもあった。その話をすれば、井上は瞳を丸めていた。
「家族のことを考え、しかも家事を楽しんでやっていたんだろうな‥‥‥きっとゴミ捨て場とかで会ってたと思うんだけど、惜しいことをした。わたしこそ、井上の母親を隊長って呼びたいよ」
 井上はお椀と箸を置くと、そっぽを向いた。
 大きな手のひらで目を覆っている。
 かける言葉が見つからずに、わたしはご飯を食べ続ける。まだ三ヶ月‥‥‥母親が亡くなってから三ヶ月しか経っていないのだ。
 わたしの父が亡くなったのは随分前だけど‥‥‥未だに父親のことを思い出すと目頭が熱くなる。もっとお話すればよかった。肩叩きしてあげればよかった。うつ伏せになった足の裏に乗ってマッサージされるのが大好きだった父。じょりじょりの頬を擦りつけて来るのをホンキで嫌がったのを今ではちょっと悔やんでいる。だって、痛かったんだ。剃ってからなら文句言わなかったかもしれない。いや、わたしの性格だから文句を言っただろう。
 もう一口ご飯を食べる。今日の味付けは大成功だ。
 井上が落ち着くまで、わたしはお茶を飲んで、タッパーに味ご飯を詰めて粗熱とって冷凍庫にしまう。
 それでも泣き止まなかったので、仕方がないので頭を叩いてやった。
「掃除終わってから感傷に浸れ!」
 潤んだ瞳で見上げられて、なんだかちょっとばかり後悔したが、まあ、母親のことを思うならまともな生活に戻るべきだ。うん、そうだ。
 だるだるした大男を追っ立てて、部屋に戻り、ガンガンとこき使う。
 まあ、意識改革されたのだろう。手つきが急に素早くなったのが素晴らしい。
 わたしはカビの生えた鍋と懸命に格闘しながら、男の子の成長って凄いわ~となんだか妙な感慨に耽っていた。







「お前、なんでこんな簡単な計算式で躓くんだよ」
 呆れた先生様の指摘に肩を竦める。
 うう、試験勉強見て、なんて頼むんじゃなかった。
 その後、わたしが井上家の文字通りの『家庭教師』、井上がわたしの勉強の『家庭教師』になっている。しかも諒付き。だいたい夕飯も家で厚かましく食べて行き、父親用の夕食は器で持って帰っている。
 今は陶器の上にプラスチックの蓋でする器が数多く出ているので、それを井上は持ってきているのだ。男二人分、料理を多く作らなくてはいけないので材料費と光熱費は負担してもらっている。当たり前だ。必要経費だ。甘やかしてやらん。
 わたしはじと目で背の高い、ひょろ長い男を見上げる。
「そんな目で見ても、問題は終わんないぞ」
「‥‥‥わかってる」
「そういやさ、前にお前が言ってた糠床とか、梅酢とか味噌とか、全部近くの母方のばーちゃんの家で作ってて母さんはその味を受け継いでたんだって」
「それ、ホント?」
 思わず顔を上げる。
 糠床はさすがに毎日混ぜるのは面倒だから無理だろうが、梅干は漬けてみたかったのだ。
「今度、ばーちゃん紹介するよ」
「うん!」
 わたしはほくほくと頷く。
 まあ、この時は知らなかったんだな、自分の周囲がどんどん井上で埋め尽くされていることに‥‥‥
 交換家庭教師の代償は、けっこう大きかったのかもしれない。
 と、気が付くのは、さらに何年も経った後だった。





おしまい

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