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欲求願望

作者: 筐咲 月彦

直接的な描写は在りませんが、バッドエンドが苦手な方はお引取り下さい。

【1】


 闇の中。

 外を拒絶する黒色のカーテンと、薄汚れた白とも言えない白の壁紙とに、赤や青や黄や緑や紫や橙がくるくると、目まぐるしく映される。

 着いていけない、と感じる。

 着いていくことが出来ない。立ち止まってしまう。とても無理だ。どうしても。

「……こちらに住んでいらっしゃるスガワラシンタくんは、他の人には出来ない特技をお持ちだというんですねぇ。それは大の大人でもなかなか出来ないっていうアレを、いとも簡単にしてしまうらしいんです!! それでは、おじゃましますね~……」

 例えば、テレビのこの女性キャスター。

 見覚えが無い。

 そんなわけが無い。この部屋でテレビを見るかパソコンをするしか出来ない僕が、常に、寝るときだってテレビを点けているのに。この番組だって毎度では無くとも見ている。このキャスターだって何度と無く見ているはずなのに。

 もしかすると、髪型を変えたのかもしれない。メイクを変えたのかもしれない。そうじゃないかもしれない。新人かもしれない。

 なんにせよ、見覚えが無い。

「シンタくんですか? シンタくんは何歳かな~? 8歳ですか~。シンタくんは、他のお友達には出来ない特技があるって聞いたんだけど、どんなことが出来るんですか~? えっ、それが出来るの! 凄いですねぇ!! それではこの後、シンタくんにその特技を見せていただきます……」

 覚える、ってなんだ。

 そもそもで、ものを覚えるのは苦手だ。日々は漫然と過ぎていくばかりで。

 覚える、っていうのは経験の蓄積だ。それは何の為かと言えば、同じことが起きたときに対応するためだ。体験や経験でなくとも良い。知識であったとしても、いつの日か自分に関わるであろう知識を取り込み、訪れたその日に有用に使うのだ。

 僕には何一つ想像できない。未来も将来も、“来”って漢字が使われているだけにいつかは襲い来るのだろうけれど、それがもし今と何一つ変わらない未来だとしてもそれは未来と呼べるのか。

 僕には、今と違う自分など、何一つ想像できない。変わることなど。

「それでは、公園にやってきました! ここでシンタくんの特技を見せていただきます。必要なものは……この靴だけ! 私も試したことありますけど、出来たこと無いんですよね~。今ここにいるテレビスタッフの中でも出来る人間は居ないんです! そんな特技を、八歳の少年が今から見せてくれます!! さぁシンタくん、お願いします……」

 変わる、って何だ。

 この髪型を変えたかもしれない、メイクを変えたかもしれない、人自体が変わったかも知れないキャスターを僕は判別できない。覚えていないし、覚える気もない。

 人は覚えたことを活用し、変化し、進化する。おそらくは、対応するために。

 何に?

 それは、敵に。抗うべきものに。

 社会に、学校に、会社に。他人に、親に、友人に。イメージに、不可能に、限界に。それらに対応し、対抗し、打破するために。

 それは、生きていくために。

 社会や学校や会社の中で生きていかなければならないから、対応する。親と友人と他人と接しなければ生きていけないから、対抗する。そして、イメージを不可能を限界を打破しなければ先に進めないから、先に進めなければ壊れてしまうから、先に進めなければ腐れてしまうから、先に進めなければ…死んでしまうから。だから、覚えたことを使って変化し、打破する。

「お? おぉ……お~~~っ!! スゴイ、スゴイです! 見事に、見事に成功してみせました! 大人でも、成人男性へのアンケート調査でこれが出来るのは1割ほどらしいんですが……すばらしいです! 見事に、空中を歩いています!!」

 僕は、どうか。

 既に壊れて、既に腐れて、既に死んでいる僕は。

 いや、死んではいない。死んでなんかいないんだ。まだ確かに、こんなにも面倒なほどに苦しみながら生きている。苦しんでいる。壊れている。腐れている。けれど生きているんだ。

 けれど、どうだ。

 覚えればいいのか、変わればいいのか。対応できなかったからこそここに居る僕に、これ以上何が出来るというのか。必死に覚えようとして、必死に変わろうとして、それでも出来なかった僕に。

 画面の中で少年が、その獲得した能力を披露している。それが努力の賜物か才能ゆえかは分からない、けれどもそれは認められる才能だ。こんなにも、テレビに出演するほどに希少で、誰もが求め憧れる能力だ。

 そしてその能力を持つ人間は、それ以外でも何でも良い、何かを持つ人間は言うのだ。「誰でも出来ますよ」と。教師も言った。親も言う。テレビの中でも。

 そんなわけが無い。そうだとしたら憧れられるわけが無い…憧れというのは単純に、自分が出来るか出来ないかでその度合いが決まる。もし努力で叶うものだとしたら、その努力が出来るかどうかが、そもそもで壁なのだろう。

 テレビの中でも、少年がご他聞に漏れず「やったら出来た」などと語っている。更には「3つ年上の兄も出来る」などと、呼ばれた兄も空中を歩いている。ますます、血族による才能かそれでなくても親の英才教育の賜物だろうと思えてしまう。

 ……僕の家には無かった。そんなものは。

 けれど。そして。

 ……僕の家にも、ある。その靴は、ある。

 あるけれどそれは英才教育などではなく、僕が学校での流行りに乗ってねだり、両親は無駄に壮大な期待をしただけのこと。当然僕は、一ヶ月ももたずに挫折した。二週間だったかもしれない。

「本当に凄かったですね。8歳で空中を歩くなんて、将来何になるのかがとっても楽しみになっちゃいます! どこを歩くことになるんでしょうねぇ。こちらは、シンタくんと一緒にお送りしました~。スタジオにお返ししま~す……」

『S-WA-R-D』という名の靴。

 それは、空を歩く靴。


【2】


 今、いや、十年ほど前から世界中で流行っている靴がある。

 それは、足を振り上げたときに足の甲側から取り込む空気を、踏み降ろす瞬間に足裏の噴射孔から噴き出すという冗談のような技術により、とてもバランスを取りづらいものの人によっては空中を歩くことが可能になるという。本当はもっと複雑な技術なのだろうし、なにやら圧縮空気のカートリッジの取替えが定期的に必要だとか、それに発売されて以来の技術の発展により前後左右へも噴出してバランスを取りやすくなっただとか色々あるが、まぁつまりは選ばれし人間の、夢のような能力と技術というやつだ。

 正式名称は『Sky Walk of Refused Despair』略して『S-WA-R-D』。

 剣を意味する単語に寄せたのは、人間のこれまでの限界や制限を切り裂く存在になればと名付けた、らしい。名前に関しては、まぁ少なくとも日本では不評だ。

 その以前から商品としてはあったらしいが、その困難さはあくまで“大人向け”とされ、何かが起きても自己責任となれば、マニアの蒐集物が関の山だった。

 が、流行のきっかけは、それが子供向けとして発売されたこと。

 考えてみれば子供のほうが体重も軽く、身長の低さから重心の制御も容易く、なおかつ身体操作の覚えも早いと来ては、大人向けとして出すほうが馬鹿馬鹿しい。確か最初は8歳から10歳を対象年齢として。その後、8歳以上に変更されたようだ。

 今となっては、スポーツ感覚で大人が使ったりもする。人間自体が進化している訳でもあるまいが、社会に浸透し映像や知識として小さい頃から取り込む環境があるからか、年齢でグラフにすれば逆三角形の形に、歳が若いほどこの靴を使いこなせる人間は徐々に多くなっているらしい。

 比例して事故も増えているらしいのだが、その類の報道は三年ほど前を境に、見なくなった。


 自虐する。僕は、引きこもりだ。

 間違えた、自白する。引きこもりだ。どちらでも意味は変わらないかもしれない。

 高校を中退して、それから半年もしたら立派な引きこもりに成長した。母も泣いて喜ぶほどに、立派に。

 自虐する。僕は引きこもりだし、対人恐怖症だし、自己中心的だし、頭の狂った童貞だ。

 間違っちゃいない。これは自虐だよ。

 自分を虐める行為。他人の虐めから逃げた末に、己で虐めることになるなんて。まるで必然のような流れにも思えるが、むしろそれを言うなら偶然のようなものだろう。ここに居るのが僕である必要性も必然性も見出せない。虐めが僕の性格や見た目から来るものだとしても、それすらもきっと必然では語れない。こんなにも自分を嫌いで変わりたがっているのに、引きこもっている自分が嫌なのに、それでも変われないのを必然と定めるのでは、何を願えば良いか分からない。

 親に迷惑掛けたいわけじゃない。死にたい訳でもない。

 外に出たいと思っている。ここにずっと居たいなんて思っていない。

 変わりたいと願ったこともある。変わろうとしたことも、ある。

 それでも変われなかった。僕は劣っているのか?

 ……そうかもしれない。そうだと思う。でも、同じような人間だって多いはずだ。

 この世界は、流れが速すぎる。台風の次の日の河といった風情か。知らないけれど。

 なんにせよ、その濁流は人や人のコミュニティや人の感性や、それに人の絆みたいなものも押し流す。一瞬繋がったはずの相手との距離はあっという間に開き、お互いに流されるだけの存在なのに、より流される人間は流されない人間を責め、逆もまた然り。人はこの世界では、優しくなれない。

 着いていけない。

 そんな僕を、きっとどこかで指差して笑う人間もいるだろう。その誰かも、別の誰かに笑われながら生きている。

 この世界は、流れが速すぎる。


 僕はある日、カメラを親にねだった。

 会話は無くて、メモ用紙だけの一方的な発信だったけれど。

 親はこれまでに無い具体的かつ、外部を取り入れる手段とも言えるアイテムに希望を抱いたのか、その日の内にノックがあった。しばらく気配を窺ってからドアを開けると。

 そこには箱があった。

 そこに会話は無かった。

 心が痛む。引きこもった当初の、「人の声を聞きたくない」という理不尽な要求を、両親は護ってくれている。今となってはそんなことは思っていないし、話しかけられて中で暴れるなんてことしないのに。

 きっと期待してくれている。

 僕だって期待している。

 変化していく世界を、恐ろしくて、着いていけない世界を、僕は切り取ることから始めることにした。


【3】


 部屋に、写真が増えていく。

 もともとプリンターはあった。パソコンと一緒に買ってもらいつつも、使わないで本やゲームやティッシュ箱やゴミに埋もれていたけれど。

 構図はどれも同じ、この部屋の窓から見下ろした画。マンションの七階、地上20メートル近い場所からの画。

 人や、街。電信柱や猫や、電線にとまった雀や、木々が風にそよぐ姿。朝の山になったゴミ袋、遊ぶ子供たち、公園の遊具。川のきらめき、学校、ビルに反射した朝日。いちゃつくカップル、夜中の自動販売機、コンビニから出てくる瞬間の女子高生、スタイリッシュな自転車。花壇に、野良犬の喧嘩、ベンチ。住宅街を疾走する車、ぼーっと歩いて溝にはまるサラリーマン。強風に煽られるパチンコ屋のノボリ、遠くに見える電車。空を映した隣のガラス窓。

 そもそも七階の窓からでは被写体を捉えることがまず難しいが、それでも高性能のデジタルカメラは人間の目など……言い方は可笑しいが、それこそ目じゃないくらいのズームアップ機能で、僕の意欲を満足させた。

 僕の部屋の壁は、あっと言う間にプリントアウトされた風景写真で埋まった。

 それはさながら、僕の願望の表れだった。

 外に出たい、と。

 外に出たいという欲求を持ちたい、と。

 壁を写真が埋め尽くせば、ここが“外”になるかのように。僕自身の心が、外へ向かうようにとの自己暗示の意味もあったのかもしれない。

 が、しかし。

 東西南北四方の壁を様々な写真で埋め尽くしたところで、そこまでで、ここは“外”にはならなかった。なるわけもなかった。

 それはリアルな話じゃなくて、ただただ象徴的な話。ぱっと外に瞬間移動するような、魔法のような超能力のような非現実的なことを望んでいるんじゃない。部屋の壁がそのまま僕の欲求を、心に占める願望の度合いを意味したとして、それが100パーセントを埋めたならば、きっとそれで僕は外に踏み出すことが出来るだろうと妄想したんだ。

 変化を恐れ、変化に怯え、変化を切り取り閉じ込めることで僕は願った。あの風を、葉の揺らぎを、人の歩みを、時の移ろいを。さながら映画のフィルムをひとコマだけ鋏で切り離して手元に置くような、卒業写真に青春のきらめきを思い起こすような、そんな思い込みを望んだ。

 しかし。

 世界の欠片が四方の壁を取り囲もうとも、無機質な天井が、僕を押し潰した。白ともいえない白が、僕のそんな淡い願望を閉じ込めた。

 天井にも写真を貼れば良いのに。空の写真を、貼れば良いのに。それだけで良いのに。

 ……空だけは、撮りたく無かった。

 移ろう世界の中で、ただ空だけは、いつだって変わらなかった。

 変化することでしか存在し得ないこの世界で、雲は流れ色は刻々と変わっていき、時にはまるで別物のようになってしまう空は、いつだってもう一度空色に輝いた。

 僕が見ていなくとも、覚えるまでもなく、切り取るまでもなく、空は空だった。円環として、空は常に終結していた。完成していた。

 空になりたかった。

 そんな空を、僕は撮る訳にはいかなかった。撮ってしまえば円環は途切れ、きっと空は空で無くなる。切り取った空を天井に貼り付ければきっと、その一部の隙も無く停滞しきった世界から、逃れられなくなってしまうから。

 だから、空を撮るとしても隣の部屋のガラスに反射した画だけ。そして、部屋の壁は徐々に分厚くなっていった。撮られた写真は、四方の壁が埋まれば天井へ向かうことなくまた重ねられ、一枚、二枚、三枚、四枚と少しずつ“外”がむしろ遠くなっていく。

 五枚、六枚、七枚、八枚と重なり、意識しても分からない程なのに、部屋が狭くなっているのを感じさせた。

 僕は、ここを出たい。“外”を歩きたい。

 写真に撮ったあの世界を、間近で見たい。三年越しで忘れてしまったアスファルトの感触や、傍らを駆け抜けていく子供の足音、見上げる木漏れ日に、花の香り。そして、頑張れば両手で抱えられそうな程度がせいぜいな空じゃなく、全天に広がる空を見たいのだ。

 親が居ないときのトイレや風呂やキッチンだけじゃなく、この家の中だけじゃなく、近くて遠い、ドアを二つ隔てただけの“外”。

 空を歩きたい、なんて願ったこともあったけれど。僕は今、それよりも、それ以上に、普通に街を歩きたい。普通の人と同じように。

 それに必要なのは、空を歩ける靴なんかじゃなく……ただ、勇気と自信だ。

 そのために僕は、景色を切り取り続ける。

 変化を留めて、覚えることではなく集めることで、僕は世界に触れていく。僕の部屋は少しずつ狭くなっていく。空が無いままに、停滞した世界が迫ってくる。

 空になりたい。

 僕は、願った。


 ある晴れた日のこと。

 じー、かしゃり。

 聞きなれた音が、いつもの姿勢の先の、いつもの感触から伝ってくる。

 じー、かしゃり。

 空を、いや、空を映した窓を撮りたい時にはいつも同じ体勢になる。隣の部屋の窓まで、約3メートル。こちらの部屋の窓から、危ないけれど半身を乗り出して、片手を伸ばしに伸ばして撮る。いつも同じ構図で、同じ窓枠の中で写る空だが、それでもいつも違う表情を見せてくれる。

 じー、かしゃり。

 ほんの一瞬の違いでも。

 じー、かしゃり。

 最近、とみにこの写真を撮ることが多くなってきた。

 必然、部屋の中もその写真で埋め尽くされていく。

 ニセモノの空。言ってしまえば、フェイクの更に写しな訳だから、価値など欠片も無い。

 それでも、空色。空の色。

 じー、かしゃり。

 もう少し。もう少しな気がしているんだ。きっと、もう少しで。

「さっきから何撮ってんのよ!!」

 びくっ!!

「あっ」

 かちゃん。がしゃっ、どさどさ、どんばたばさりどさ。

 突然聞こえた声に驚き、身を引く。一瞬見えたのは、隣の部屋の住人らしい薄着の女。

 窓の外でカメラを取り落とさなかったのは幸いだったのだが、バランスを崩して床に尻餅をついてしまった。カメラが跳ね、腕が当たって積み上げられていたゲームや本やティッシュ箱やゴミが、連鎖的に全部崩れる。

「ふん、ヘンタイ!次撮ったらコロスよ!」

 久々に掛けられた人の肉声は、罵倒だった。

 鼓動が治まらない。いや、確かに考えてみれば他人の部屋の窓を撮るということは、反射して何も写っていないなどと弁明したところで理解されずに、盗撮と誹られるだろう。だが、あぁ、だが。

 僕は、胸を押さえる。久々に高まる鼓動は、実際に痛みすら伴って、心を苛む。

 女の声が、耳から離れない。

 ヘンタイ。コロス。

 引き篭もっていた間停滞していた僕にとって、三年前はそのまま現在に連続している。その僅か二言は、過去を呼び覚ますに充分だった。

「はっ、はっ、はっ、はっ」

 呼吸が荒い。鼓動がいや増す。

 シネ。イラナイ。キエロ。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ」

 体が震えだす。いけない。頭の端で理性が警告を発する。

 思い出すな。

 キライ。キエチャエ。ドッカイケ。キタナイ。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ」

 焦りが呼吸を浅くする。酸素が取り込めない。心臓が激しく血液を送るのに、脳が動かない。停滞したままの脳は、呼び覚ました記憶を目の奥に叩きつける。何度も。何度も。何度も。

 焦り、辺りを見回す。

 何もない。色々あるのに、ごちゃごちゃと、ぐちゃぐちゃと何でもあるのに、何も。

 ――いや。

「はっ、はっ、はっ、はっ」

 一面の、空色が。

 ニセモノの空だけれど。ニセモノの空だからこそ。

「はっ、はっ……」

 安心を、覚える。その安心すらも、ニセモノかもしれないけれど。

「……ふぅ」

 鼓動が落ち着くのを待つ。

 ゆっくりと、ゆっくりと呼吸をする。空に雲が流れるように。

 それから、辺りを見回せば。

「あちゃあ」

 ごちゃごちゃの、ぐちゃぐちゃ。崩れた山は一つや二つじゃ無かった。

 掃除することも無く積むに任せていた物たちは、僕が倒れた窓辺のスペースを除いて、本当に足の踏み場も無いほどに散らばっていた。遮光カーテンを閉めっぱなしだったしばらく前とは違い、最近は日に晒される度に目に付いていたのだが。

 汚い。汚すぎる。

 汚すぎるところからさらに散らかって、これはもうカオスとしか言い様が無い。

 これは、いくらなんでも片付けなくちゃあ。……もしかすると、ちょうど良い機会なのかもしれない。これで部屋が片付けば、きっとまた外に出ることに繋がるはず。空色に囲まれ、そんなことを思う。

 まず溜まっていたゴミを捨てるところから始めよう。かがみ込む。

 と、足元に転がるカメラに気付く。

 いけない、壊れてはいないだろうか?あれくらいなら大丈夫とは思うんだが。

 拾い上げ、微かな焦燥感といつの間にか芽生えた楽観とを伴い、画面を覗く。そこにあったのは。

 空色。

 一面の。

 いつもと違う構図の。

 倒れた拍子にシャッターを押したらしい。

 部屋の床から見上げた形で。

 切り取ってしまった。

 空色。

(コロスよ)

 ……どくん。

 ひとつ、心臓が大きく、血を吐いた。


【4】


 カメラは、壊れてしまっていた。あの時撮られてしまった写真が、どうあっても画面から消えなかった。ボタンが壊れたのか、画面がいかれたのか、データなのかシステムなのかは分からない。それに、そんなことは問題じゃない。

 空を、切り取ってしまった。

 もしかすると、今は電源ボタンも利かないが、電池切れの後に電源を入れなおしたら普通に戻るのかもしれない。修理に出したらあっという間に直るのかもしれない。でも。

 そうじゃない、そうじゃないんだ。

 空は、空だった。

 自由で、単純で、円環で、変化に富んで、空である以外にありえなかった。

 空に、なりたかった。

 切り取ってしまったことで、自由じゃなく、単純というか決まりきったものになり、円環ですらなく、停滞した存在になってしまった。僕の中で。空である以外にも“写真にもなりえる”ということが実証されてしまった。

 憧れは消えてしまった。

『空になりたかった……昔から、ずっと』ではなく。

『空になりたかった……今はもう違う』になった。完全に過去形だ。

 当たり前だ、と言われるだろう。写真に撮った程度のことで、と。何も変わってはいないし、幻滅したとしても昔からそうだったのだ、と。

 ――僕は、外に出ようと思う。

 ここに居ることに希望は無くなった。いや、正しく言えば、外に出ることに希望が無くなったから、ここに居ることに意味が無くなったのか。

 空ですらも切り取ることが出来てしまった僕は、唯一の希望を無くした僕は、外に出て何かを見つける以外には生きる道が無くなったんだと思う。

 だから、僕は外に出よう。

 今現在は少なくとも、外にひと欠片の希望も見出せないけれど。願望も無いけれど。

 あぁ、本当に、あと少しだったんだ。あの道を歩きたいとか、あの花を間近で見たいとか、そんな微かな願いと望みとが、強い衝動を伴って希求され、やがて欲求へと昇華されるはずだった。あと、ほんの少しで、きっと。

 僕にとって怯えの対象でしかなかった世界を写真で切り取ることで、その美しさや輝きを思い出そうとした。空だけは切り取るまでも無く美しく、空だけは切り取るまでも無く輝いていた。それを切り取ってしまったら……世界は等しく同等に、恐ろしい。

 ――僕は、靴を履く。

 親の居ないタイミングを狙ったのは、色々言われたくなかったのと、あとは風呂に入って身奇麗にして出たかったから。今は真昼間、大概の人が仕事しているだろう時間で、マンションの前にも人通りは無い。

 外に出るには、絶好の機会だろう。

 窓から見える空も、美しく、蒼く輝いている。

 靴を履くのは、何年ぶりだろうか? 随分と手間取ってしまった。

 おそらくは、引き篭もり始めた当初はコンビニくらいは出ていたように思うので、二年ちょうどぶり、といったところか。

 まぁ、ただの靴を履くだけなら、流石に手間取りはしないはずだけれど。

 ――僕は、出口の前に立つ。

 ここが、僕が怯えた世界への出口だ。

 今考えてみれば、怯える必要など無いことは明白だ。なぜなら、人も風も空も、全て切り取れてしまうものだったから。

 何故あんなにも恐れたのか、理解に苦しむ。

 空はこんなにも青いけれど、そこに意味などは無い。僕が感じることなど何も無い。

 出口……少なくとも、ここは“入り口”では無いだろうと思う。

 ちょうどいつかの日に尻餅をついた場所、壊れたカメラが転がっていた場所に立ち、思う。

 あの日切り取ってしまった構図の空を見上げ、美しいなと、そんなことを思う。

 その感動にも、意味は無いけれど。

 ――僕は、窓枠に足を掛ける。

 がしゃり、と金属音が鳴る。さっき部屋の端から歩いてくる時にも鳴って、煩かったものだ。けれど、それはまあ当然だ。この靴は、部屋の中を歩くためのものじゃない。

『S-WA-R-D』。空を歩くための靴。

 裏側には、よく分からない金属の部品が色々付いていて、見ると気持ち悪い。どんな仕組みかは知らないが、ここから空気を噴出する訳だ。

 スイッチを入れる。電池切れの心配もしていたが、履く前にも確かめてある。軽い振動と鈍い低音が、足元から伝わってくる。軽く足を振ると、空気を吸い込む音と吐き出す音がする。呼吸音のように聞こえて、生きているようにも思えて不気味だ。

 大丈夫。十年前は出来なかったけれど、それは怯えていたのが原因のように思える。世界に、空を歩くことに。

 大丈夫。今は、等しく価値が無いと思えるから。

 ただ足踏みをするだけのこと。それだけのことだ。それだけで、歩きたくも無い空を歩けるはずだ。大丈夫。大丈夫。

 大丈夫。それでもし落ちるだけでも、この窓から見える空よりはほんの少しだけ広い空が見られるから。

 僕は、部屋を振り返る。

 白とも言えない白と暗闇、それに写真とで構成された部屋。押し潰されそうな、僕の世界。

 さよなら、僕の世界。

「いってきます」

 いってきます。お父さん、お母さん。

 正面を向き、強い風を浴びる。まるで、着いていけない世界の流れを象徴するようだ。今となっては、着いていくまでも無い。

 気持ちいいけれど意味の無いそれに向かって、僕は。

 一歩を、踏み出した。

 視界を埋め尽くす、青空。

……友人の見た夢を元ネタに、重たく書きました。

会話が無く、一人で沈んでいくだけ、の話。

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