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北苑中学校シリーズ

放課後修行

作者: 藤沢みや






「では、二時間の人」

 担任のオッチーの言葉にクラスの半分くらいの人が手を挙げる。

 きょろきょろと左右を見渡して、自分が過半数を占める位置にいるか心配をする人も中にはいた。

 朱実は顔の横にある力なく開かれた自分の手を見て苦笑いを零す。

 ――― 毎日、何時間勉強をしていますか?

 背がひょろりと高くて、よれよれのジャージを着た『オッチー』こと落合孝之先生は、ちょうどあたし達の十二歳年上。春には初めての中学三年生の指導ということで緊張しているという噂を聞いたことがある。

 あんな若い先生で大丈夫かしら? きちんと高校に合格できるような授業をできるの?

 家に帰れば母がそんなふうにオッチーに対する心配を口にする。朱実の母は彼女を見るたびに「勉強しろ」「宿題やったの?」「そんなんじゃ高校浪人になるわよ」とまるで呪文のように繰り返す。

 そう何度も唱えれば、自分の子供は希望の高校に合格すると信じているのだろうか。

「昨日、何時間勉強しましたか?」

 朝のホームルームで繰り返される、この質問。

 それは三十分から始まって、一時間、一時間半、二時間、二時間半、三時間、と三十分単位で増えていく。

 だいたいが二時間でクラスの大半が手を挙げ、三時間から挙げられる手はまばらになり時折『五時間』とか『六時間』という、自分の耳をよーく掃除したくなるような信じられない答えが一人、二人から飛び出して来る。

(六時間も勉強するなんて、いったいいつ寝るんだろ)

 朱実は手のひらに顎を乗せて、黒板を眺める振りをした。

 一時間目はオッチーの数学。はっきり言って、算数が数学に進化して以来、朱実の通信簿の数学の欄に5が出現することは稀になった。

 ―――わからないところがわからないんだよね‥‥‥

 先生、ここがわかりません。と、聞きに行くこともできないような状態。聞きに行っても、どこから教えてもらえばいいのかわからない現状。

(聞きに行って、オッチーに中一からやり直せとか言われたら泣いちゃうかも)

 朱実は目を細めて黒板を眺める。

 あの黒板に書かれていることが、大好きなゲームの呪文や武器の名前だったらすぐに覚えられるのに‥‥‥現実世界の地図は覚えられないけれど、今三回目のロードをしているクラッシュ・ファンタジアの世界だったら空で描ける。

 どうすれば武器が進化して、どの場所でどのモンスターと対戦すれば手に入れた新しい武器が必殺技を閃くかも完璧にバッチリ。

「ここ、ノートに書いておけよ!」

 オッチーがチョークで黒板を叩く。

 カツカツカツ。

 硬い音につられるように朱実は開いてもいなかったノートを開き、出してもいなかったシャープペンシルを取り出して、たどたどしく公式という理解のできない朱実の世界では使わない魔法の呪文を書き写した。











「アッカ!」

 水泳部の更衣室、で肩を叩かれて振り向くとそこには学校指定のジャージをきっちりと着込んだ『ハルちゃん』こと上野晴乃が立っていた。

「来週の月曜日にプール開き、だって」

 そう言うと、本当に嬉しそうに、名前の通りの清々しい晴れの日のような笑顔を浮かべた。

「先週にプール掃除したんだから、もっと早くに入れればいいのにね」

 朱実はセーラー服を脱いで、下に着ていた体操着の上にジャージを羽織る。さすがに前のファスナーを締めるのは暑い。

 学校のプールは冬の間は、水を貯めたままだ。

 だからプール開きの前に掃除をするとかなり汚れている。水泳部のみんなで掃除をした後に、殺菌も兼ねて何日か干し、それからプールに水を入れる。

 その水も基準となる水温まで温かくなるまで何日かかかるので、雨が続けば温まるのも遅くなり、冷たいままプール開きを迎えることになる。

 それを覚えていてハルちゃんは両肩を体操のように竦めた。

「すぐに入ると冷たいよ‥‥‥去年なんてさ、むちゃくちゃ冷たかったじゃん」

「‥‥‥ああ、去年はね~」

 去年のプール開きは雨の中。

 本当だったら、水温が十七度以下の場合は延期することになっている。

 だが顧問の『コンちゃん』こと近藤郁恵先生の「ちょうど十七度よ、大丈夫」の一声に、みんなが雨の中ぶるぶるぶるぶる。まるでマナーモードの携帯が着信したみたいな状態でプールに浸かったのだ。

 その日は具合が悪くて見学していた先輩が後から「コンちゃんね、水温計の下のところ指でこすって温度を上げていたんだよ」と教えてくれた。

 とんでもない教師だ。

 コンちゃんのことは嫌いじゃないけど、自分が中学生の時に全国大会に出場したようなものすご~~く速い平泳ぎの選手だったせいか、部活に心血を注いでいて付き合わされる方は正直言ってシンドイ。

「去年のコンちゃんはひどかったけど、でも泳げるのは嬉しいよね」

 ハルちゃんは泳ぐのが本当に好きなのだ。

 背がそんなに高いわけじゃないし、手のひらだって大きなわけじゃない。

 でも、とにかく泳ぐのが大好きで、去年は二年生なのにクロール四百メートルの正選手になった。市の大会は優勝。地区大会は三位。県大会では予選落ち。

 自分より速い人が世界どころか、県内にもたくさんいると知って、泳ぐ量を自主的に増やしていた。

 ハルちゃんは凄い。

 やりたいことが決まっていて、どうしたらいいのか考えて、自分で親を説得して行動している。

 部活の後に、市内にある二つのスイミングスクールに入会して、曜日が合えばそのどちらかに泳ぎに行っているのだ。

 朱実もその二つの内のひとつ、北苑スイミングスクールに入会しているがあまり熱心な生徒ではない。

 小学校一年生の時に母親に放り込まれてから、なんとなーく続けているだけなのだ。

 朱実はスクールに通っているせいか、四泳法がすべて泳げるという理由だけで百メートル個人メドレーの選手だ。選手といっても正選手ではなく、自分と同じくらいに速い二年生が二人いるので、今年も選手として市の大会に参加できるかは怪しいところ。

 去年は四位だった。

 フライングが出たせいのマグレの四位だったけれど、でもどうせマグレならば表彰状が欲しかった。

 自分の名前が大きく書かれた金色の鳥に縁どられた華やかな白い紙。あれを受け取って、コンちゃんに渡して『おめでとう!よくやったわね、木田さん』と言わせてみたい。

 そんなことをぼんやり考えていたら外からホイッスルが聞こえた。

「やばいよ、アッカ! コンちゃんが来た」

「うん!」

 朱実は慌ててロッカーを締めた。

 その瞬間、指を挟んでしまう。「った!」と小さく呟いて、挟んだ指を見もせずに更衣室を飛び出した。










 梅雨の蒸し蒸しした天気の中、部活でランニングをしたせいか、家に帰ったら眠気が絶好調だった。

 もう、とにかく眠い。

 疲れて眠たいし、やる気だって起きない。

 部活で疲れていなくても、やる気はまーったく、これっぽっちも全然芽生えてこないけれど。

 受験生としてヤバいかな。

 とは思う。もっと切羽詰まって、あたふたとしなくてはいけないんじゃないかな‥‥‥と他人事のように思う時もある。

 やる気もなくて、目標もなくて、したいこともない。

 最近は、以前だったら大好きな、毎月発売されるお気に入りのゲーム雑誌を読んでいてもちっとも面白くない。

 どうせ買えないし、買ったとしても母親の厭味をBGMに大好きなゲームをするのは精神衛生上、よろしくないと思う。

 そんな、楽しいことを楽しくなくしてしまうのなら、いっそしない方が自分のためだとも投げやりに思う。

 勉強するフリをして、適当に入れそうな高校に入学して、次の大学受験が本格化するまでゲーム三昧。それが今の自分にとってのベストな選択だと朱実は考える。

「朱実、あんたの当番でしょ。食器洗いなさい!」

 階下から母親の甲高い声。

 その声を聞くと本当にイライラしてくる。毎日毎日命令ばかり。あたしはあんたの言うことをなんでも聞く奴隷じゃない! そう強く思うけれど、そんなことを口にすれば、まるで躾のできていない無駄吠えばかりする隣の家のコリー犬のようにうるさくなり、ホラー映画の霊現象のようにバッタンバッタン扉を開け閉めしてやっかいで、料理がとてつもなく手抜きになるというおまけ付きになるのでぐっと自分が大人になって我慢する。

(あたしは、あんな子供に当たり散らすような大人にならない)

 そう強く思うけれど、二十年、三十年経った自分が今の両親のようにならないかは断言ができない。

 でも、できることなら覚えていたい。

 子供のあたしは、こんなことを言われて嫌だったという、その真実は。












 台所で最後のお皿を拭いていると、父が弁当箱を持ってきた。

「朱実。終わった後でごめんな」

 人なつっこい笑顔を浮かべて父は笑う。

 父が持ってきた空の弁当箱を開けると中には栄養剤の空き瓶。

「いいよ。お父さん、こういうのって効くの?」

 あまり背の変わらない父を見つめて朱実は首を傾げる。テレビでこういう栄養剤のCMはよく見かけるけれど、でも大人が疲れた時に飲むものというイメージがある。

「効くぞぉ。最近、残業が辛くてな」

 ひらひらと手を振って、父は眠たそうな足取りで居間に向かった。

 そこまでして仕事をしなくてもいいのに、と思う反面、そこまでしてでもやりたい仕事があるということがある種羨ましくなる。

 蛇口を捻り、小瓶の中に水を注いで朱実は呟く。

「こういうのの、お世話になるくらいやりたいことが‥‥‥」

 その後は続かなかった。

 見つかればいいのに?

 本当にそう思う?

 朱実は茶色の小瓶を適当に水で濯いでシンクにひっくり返して並べた。けれど、茶色の小瓶たちは細いせいか不安定で硝子のぶつかり合う高い音をさせて、ゴロゴロと倒れてしまった。












「アッカ、知ってる?」

 教室に入るとハルちゃんがばたばたごつごつと近付いてきた。それは比喩的な表現じゃなくて、本当に机にぶつかりながら近付いてきたのだ。足取りがおぼつかない感じ。

「おはよー。ハルちゃん、どうしたの?」

 ハルちゃんは噂話とかにはあんまり詳しくない。水泳ばかりしてるからテレビもあんまり見れないし、クラスメイトのくだらない噂話に混じるくらいなら机につっ伏して眠っているような子だから。

 だから、ハルちゃんがこんなふうに息を切らしてなにかを教えようとしてくれるのは本当に珍しい。

「あのね、コンちゃんとオッチーが結婚するんだって!!」

 ハルちゃんの言葉に朱実は瞳をこれ以上は開けない!というくらいに見開かせた。

「は?」

 出てくるのはこんな短い言葉だけ。

「は、じゃないよ!昨日、スイミングスクールの先生から聞いたんだけど、来年の三月に結婚するの!」

 コンちゃんとオッチーが。

 朱実はぱちぱちと音がしそうな程ゆっくりと瞬きをした。

「そっか~。ビックリしたぁ。コンちゃんとオッチーか‥‥‥」

 なんだか自分の語尾が必要以上に伸びている気がしたが、でもビックリしたのだからこうなっても仕方がないのかもしれない。

「でしょでしょ?アッカもビックリしてくれて嬉しいよ!あたしも驚いたんだぁ。昨夜から誰かに話したくてっ」

「でも、本当なの?」

「本当だよ。北苑スイミングスクールの杉浦先生って知ってるでしょ?あの人、コンちゃんのお友達で、本人から聞いたって言ってたもん」

 少しばかり威張った感じでハルちゃんは言う。

「よかったね! これでオッチーも破けたジャージを着てこなくてもよくなるね~」

 なんだか胸の中が、甘ったるいシェイクを飲んだ後みたいにどろどろしてすっきりしなかったけれど、朱実は冗談めかした口調に涙を拭うジェスチャーまでつけて喜んだ。

 喜ぶ以外の反応なんてあるわけない。

 だから、朱実は喜んだ。

 そうしているうちに朱実とハルちゃんの周りには人垣が出来、どんどんとおめでたい話が広がっていく。

 同じ学校の、生徒に人気のある先生たちが結婚する。

 それは毎日、毎日同じような生活を繰り返す生徒たちにはとても新鮮で刺激的で、突然起こったワイドショーのような展開にざわめいていた。

 ざわざわと、まるで田んぼの中でカエルががーがー言っているようなざわめきに朱実は不思議な気持ちになる。

 ―――なんで、あんまり嬉しくないんだろう。

 コンちゃんは朱実が二年生の時に水泳部の顧問になった。それまで指導してくれていた先生も優しかったけれど、本人がアスリートではなかったからかとても単調なメニューで長距離をだらだらと泳いでいることが多かったから、短距離を泳ぎまくるメニューが増えて疲れるけれど、楽しくもあった。

 オッチーも毎朝変なことを聞いてくるけれど、それ以外は気さくで笑顔が可愛くて、少しばかり声が高いけれどまあまあわかりやすい授業をしてくれると思う。朱実にはわからないことが多いけれど、ハルちゃんが「オッチーの数学は面白い」と褒めていたから確かだ。

(あたしたちは、受験生なんだよ‥‥‥)

 ふと思う。そう、朱実たちは中学三年生。受験生だ。その受験生を受け持っている担任が結婚だなんて、どうだろう。

 非常識とか、酷いとか、そこまでは思わないけれど、でもあたしたちは受験で毎日イライラしているのに、その担任が結婚するとイライラしている生徒の前で浮かれているのはどうかと思う。まだオッチーの顔を見ていないから彼が浮かれているかどうかはわからないけれど、でも、それでも、やっぱりズルイんじゃないかと思う。

 あたしたちはこれから毎日毎日、机に嫌でも向かわなくちゃいけない。朝から『昨日、何時間勉強した?』とその勉強の中味よりもただただ時間だけを優先させるような質問をして、あたしたちをたぶん爽やかな朝から、暗~い気分にさせるオッチーは、結婚できるって浮かれている‥‥‥

 なんだか無性に口の中が苦くなった。

 まるで苦い苦い風邪薬を、水も飲まずに飲み込もうとするような苦さに、朱実は眉をひそめた。

「アッカ?どうしたの?」

 ハルちゃんののんびりとした声も、今の朱実の耳には届いていなかった。













 コンビニで、朱実は立ち尽くした。

(こんなにあるの?)

 栄養剤コーナーの前で朱実は口をぽかんと開ける。

 小さな小瓶が右から左、下から上と、びっしりと並んでいるのだ‥‥‥とりあえず、一番よく見るCMの小瓶を二本と、夜食にカップのうどんを買った。レジでバイトのお兄さんが不思議そうに見てきたけれど心臓をバクバクさせながらも表面上は平静を装って支払いを済ませる。

 外に出ると真っ赤な自転車に跨がって自宅を目指す。

 とにかく今日は勉強する。

 明日の朝、ホームルームで今日はずっと生徒に質問攻めに合い、それでも嬉しそうで幸せそうなオッチーを驚かせるのだ。

 毎朝、小さなどうでもいいようなことを大事そうに聞く、オッチーから『頑張ったな、木田』という言葉を吐き出させてみせる。

 朱実は力の限りに階段を駆け上がって、そして大きな音をさせて扉を閉めた。

 部活が終わったのが五時半。

 それから帰宅して、コンビニに向かった。

 急いで帰ってきたが六時になっていた。でも夕食まで少し時間があったので机に向かう。

(十五分‥‥‥と)

 机の前にメモを貼って、そこに時間を書き込んでいく。

 母のかけ声に慌てて階下に降り、夕飯をかき込む。「ゆっくり食べなさい!」という注意にも「勉強するの!」と言い返せば母は目を見開いて口を噤んだ。

 十分で食べ終って二階に駆け上がった。

 とりあえず宿題からやろう、と今日の授業で出された宿題から手をつける。

 朱実の机の前には量販店で買ってきた目覚し時計が置かれている。その時計はカチコチカチコチうるさくて、宿題が終わると同時にその目覚し時計の電池を抜いて、ベッドに投げつけた。

 そして開くのは理科の参考書。

 朱実は化学が好きだ。

 数学と一緒でまるで呪文のような言葉が並ぶけれど、なにかの仕組みを知る、ということは想像以上に面白い。基礎問題から順に、次々と解いていく。

 ひとつ、わからないことが出てきた。

 一生懸命に頭の奥から習ったことを呼び出そうとするけれど、全然出てこない。

(これがゲームだったら、召還魔法で必要な妖魔が呼び出せるのに‥‥‥)

 いったんシャープペンシルを置いて、参考書の後ろについている解答をめくる。該当する問題の答えを必死に探していると、扉が小さくノックされた。

「なに?」

 ぶっきらぼうに答えると扉を開けたのは案の定、母だった。

「あーちゃん、大丈夫?」

 母が手にしているトレイには朱実がいつも使っているマグカップが載っている。

「大丈夫って、なにが?」

 口調が思わずきつくなる。

 知りたい答えが見つからない。そのことにもイライラしてくる。

「学校でなにかあったの? 珈琲淹れたの、飲む?」

 いつもの母らしくない、どこかぎこちない調子だったが、朱実はそのことにはまったく気付かなかった。

「いらない。悪いけど、早く部屋から出てって。あたし勉強がしたいの」

 机に向かい直して、朱実はようやく見つけた解答を読み出す。

「でも、あーちゃん」

「なんでもないから出てって!!」

 朱実は振り返りもせずに叫んだ。

 そして、扉が閉まる。

 化学を終え、国語に取りかかり、公民に入る。

 夜の十時を過ぎたあたりから、目に薄いレースのカーテンが下りてきたかのように霞んできた。

 仕方なく、コンビニで買ってきた栄養剤を開けて喉に流し込む。初めて飲んだ栄養剤はなんだかどろりとしていて、甘ったるくて苦くてとんがった味がした。

(まっずい‥‥‥こんなの、美味しく感じるのかな)

 こんなまずいの飲まなくちゃいけないくらい大変なんだ。

 父の仕事はサラリーマンというだけで、どんな職種なのかは朱実はよくは知らない。でも、頻繁にこういうのを飲まないと体が持たないくらい忙しいのだろう。

 飲み終ったら、なんだか胃がカッカッしてきた。

 そして、グルグルもする。

 それに合わせてか目が冴えてきた‥‥‥ような気がする。

 朱実は、やりたくなくて残してきていた、数学の参考書を仕方なく開いた。そこには‥‥‥まるでわからない、異界の呪文。

 数学なんて嫌いだ。

 眠くて仕方ない頭を強く振って、朱実は数学の参考書に目を戻す。

 いつからわからなくなったんだろう。

 参考書を開いていても手がちっとも進まない。それで三年生の教科書の最初の方を眺めていたのだが、どうにもこうにもわからない。

 この教科書の前のページを開いた頃、オッチーの数学は理解ができた。テストでも半分くらいは解けた。いつからだろう‥‥‥どんどん、見るのも嫌になってきたのは。

(あ‥‥‥)

 ただぼんやりと眺めるような状態で一問が鮮明に目に留まる。一学期にすんなり解けて凄く嬉しかった基礎問題だった。

 暗い室内にカリカリとシャープの芯がノートを踊る音が響く。

 壁にかけてある時計を見ると深夜の二時になっていた。大晦日以外にここまで起きていたのは初めてで、眠たい気持ちと興奮している気持ちが半々だ。

 胃の中では、まだ栄養剤が踊っている。

 ぐるぐる、ぐるぐる。

 頭の中も胃の中も、ぐるぐるぐるぐる踊っている。

 朱実は、それでもどうしても瞼が閉じるのを押さえられなくて‥‥‥ベッドに崩れるように倒れ込んだ。

 先客に、先程投げつけた目覚し時計と電池がいらっしゃった。












「アッカ!おはよう」

 ハルちゃんの元気な声に、朱実はのそりと振り返った。朝陽とハルちゃんの笑顔が眩しくて、仕方がない。

「どうしたの?」

「‥‥‥昨夜、八時間半勉強した」

 ぼそりと呟くと、ハルちゃんは口をぱかーんと開いた。

「八時間、半!? アッカ、あんたバカ?」

 ハルちゃんの反応は、当然だろう。言い返す気力もない。

「うん、バカだよね」

 だから力なく笑い返すしかなかった。

 本当に笑うしかない。

 朝起きて、解きかけの問題をふと目にしたら、なぜだかわからないのだけどすんなり解けた。それと同じかどうかはわからないけれど、どうしてあんなにムキになって勉強しようと思ったのかもわかった。

(あたし、オッチーのことが‥‥‥ほんっのちょっと、ホントのホントに本当のちょっとだけ、好きだったんだ)

 だから、悔しかった。裏切られたような気分になった。だったらせめて勉強しまくって見返してやろうと思った。

 クラスで一番になって、ビックリさせてやろうと思ったんだ‥‥‥そういう自分の気持ちに気付いたのは、朝になってからだったけど。

「オッチー、驚くかな?」

 隣でハルちゃんが楽しそうに笑った。

「驚くよ!でも、これから毎日続けるの?」

 いつも笑っていることの多いハルちゃんがふと不安気に朱実を見ていた。

 その心配そうな顔を見て朱実は首を左右に振る。

「もう、しないよ」

 そう、もうしない。 

 こんなお金がかかって大変なこと、もうしない。

 忍者や僧侶じゃないんだから、修行みたいに八時間半も机に噛り付くなんてこと、一度経験すればたくさんだ。

 ――― まだ将来やりたいことはわからないけれど、とりあえず身近で切実にしたいことは見つかったから。

「あたし、個人メドレー頑張るよ」

 そう、オッチーは今日驚くだろうから、次はコンちゃんだ。

 来年四月に花嫁になるコンちゃんに「木田さん、凄い」と言わせてみたい。

 本当にやってみたいことは、その後にきっと見つかるはず。朝、問題がすんなり解けたみたいに‥‥‥









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