14
あれから数ヶ月の時が経った…
今もまだ汐弥はあの宿にいる。これからもそれが変る事はないだろう。
たった数ヶ月しか過ぎていないその場所で、何か特別な変化が訪れる訳もなく、平凡に…静かに時は流れていった。
変化があったとすれば、些細な事が三つ…
ひとつは琳子…
「汐弥はん、これはここでええのん?」
首だけを汐弥の方に向け、両手一杯の荷物を持って問い掛けたのは琳子だった。
「あぁ、そこで構わないよ」
それを確かめてから琳子はその両手一杯の荷物を床へと置いた。
琳子の姿は少しだけ変っていた。元よりそう派手ではなかったものの、やはり遊郭で働くなりの化粧をしていたが、今のそれは打って変わった様に地味なものだった。
「思ってたより肉体労働やわぁ」
その場にへたり込むように座り、琳子は笑う。それに汐弥も優しい笑みを返した。
今、琳子は汐弥の宿で働いている。遊郭で働いていた筈の琳子が「雇ってくれ」と来た時は、正直汐弥も驚いた。
遊郭はそう簡単に止められるものではない。ずっと幼い頃から育ててもらった恩を返さなければならない場所である。それこそ一生をかけて…
だからさすがの汐弥も聞かずにはいられなかった「どうしたのか」と…
詳しい事を琳子は口にしなかった。ただ一言だけ、『土下座して、お金は一生かかっても払いきるから…辞めさせてくれって頼んだんです』と言って笑った。
どうして今更それを選んだのか…その理由だけは聞いてくれるなと、琳子の目が訴えていたから、汐弥はそれを聞かなかった。
ただ静かに頭を下げた琳子に「いいよ」と手を差し伸べた。
「汐弥はん…」
「なんだい?」
呟くような琳子の声に汐弥は首を傾げる。
「うちは汐弥はんに感謝してるんよ…だから、一生かけて返すから…」
その目は汐弥には向けられていなかった。じっと足元だけを見つめている。
「そんな事しなくていいよ、琳子は琳子の為に生きな」
穏やかな柔らかい声で返事が返され、琳子の頭を優しい手が撫でた。
その優しさが琳子にとっては痛い。汐弥が知らぬ裏切りを心に閉じ込めてしまった故の痛み。
「ごめんな…」
これからもずっと仕舞い込む。琳子は知っていたから…事実を知っても、汐弥が同じ様に笑うだろうと言う事を…
だから優しく微笑む汐弥の隣で、想いを閉じ込めて、口を閉ざして…声を精一杯殺して泣く事しか、その時は出来なかった。
もうひとつは櫻花…
数ヶ月間もの間家出をしていた櫻花だったが、ある日突然に思い立ったように家に戻ると口にした。
けれどそれは思いつきでもなんでもなく、櫻花がずっと考えていた事だった。
「わたくしは…好きな事が出来ない人生なんて無意味だと思っていました」
宿を出る時、櫻花は可憐にはにかみながら汐弥にそんな言葉をもらした。
「そんな意味のない人生は嫌だと、わたくしはずっと自分の全てを拒み続けてきました」
自分にはどうして自由がないのかと、どうして思う通りに生きてはいけないのかと…ずっと思い続けてきた。
「でも…それはただの言い訳でしかないと、ここに来て、琳子さんや汐弥さん…それに千寿さんを見ていて、気がつきました」
自分の望まない人生を今まで歩むしかなかった琳子。
ただずっと待つしか出来なかった汐弥。
やっと大切なものに気がつけた時にはもうすでに時間を失っていた千寿。
それは、櫻花が否定し続けていた『望まない姿』のはずだった。けれどいつからか、その姿が綺麗だと思えた。それは…
「皆さんが必死に今を生きて、それを大切にしていたから…」
「櫻花…」
この宿にはじめて訪れた時の沈んだ顔が嘘のように、櫻花は晴れやかに笑った。
「ちゃんと…戦ってきます」
自分の思いを遂げる為に、はじめて櫻花は自ら一歩を踏み出す。危なっかしく、手探りながら、ゆっくりと進んでいくと決めた。
「…がんばりな」
汐弥が優しく頭を撫でると、櫻花は嬉しそうに目を細める。
「いつでも…帰って来て良いから」
もし躓いても、ここに帰る場所はあるから…その言葉に返す言葉は決まっていた。
「いってきます!」
もうひとつの些細な変化…それは汐弥。
千寿がいた部屋に飾られた一枚の絵、それをじっと見つめる汐弥の指には古ぼけた指輪が嵌められていた。
「知らせなきゃいけない事があるんだよ」
他に誰もいない部屋で呟く。穏やかな声で、優しい目でその絵に語り掛けるように…
「千寿がアタシを愛してくれた証…もうひとつ増えたんだ」
薄い笑みを浮べたままの汐弥の目には涙が浮かんでいた。そっと指輪が嵌められた手がお腹に触れる。
「ここに…小さな命があるんだ、何より大切な証があるんだ…」
愛しそうに、慈しむように汐弥はお腹を撫でた。
大切な…何にも変えられない愛の証。
「千寿…アタシはもう、大丈夫みたいだ」
にっこりと笑う。
あの日からずっと、心に穴が空いたようだった。自分の一部を失ったようだった。
それが…新しい命と出会って埋まった。
これからも、笑っていられると思う…
この、愛しい貴方が最期に残した優しい愛の証がある限り
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