12
その日は気が付けば日が暮れていた。
朝からずっと絵を描き続けていたのだ。途中汐弥が顔を見せ昼飯を置いていった気がする。
無論、今俺の腹が減っていないと言う事は用意された昼飯は食べた…のであろうが、あまり記憶にない。
恐らくは意識が別に傾いていたせいだろうとは思う。
「あーっ」
ぐっと背伸びをして、そのまま倒れ込んだら、頭上に汐弥の顔があった。
「そんな勢いよく転がったら、頭を打つよ」
呆れたように笑いながら汐弥は俺の傍に腰を降ろす。
「仕事はもういいのか?」
「夕飯時がすぎれば、そんな急がしいもんでもないさ」
自然と口をついて出た疑問を予感していたかのように、汐弥がよどみなく答える。
「それよりも、朝からずっと絵をかいていたのかい?」
汐弥が視線を移したのは、今まさに俺が書いていた雪景色だった。
「あぁ…まだ完成してはいないが」
言うと同時に起き上がって、同じ様に絵に視線を向ける。ずっと考えている言葉がある。いつか櫻花が言った『風景に溶け込む人』の事だ。
俺の生まれ育った雪景色…その景色が一番似合うのは、やはり汐弥ではないかと思う。
(初めてだな…人を書きたいと思ったのは)
声には出さぬがそう自分を笑った。こんなにも綺麗な女が側にいたと言うのに贅沢な話だ。
「優しい絵だね…」
薄く微笑みを浮べながら汐弥は呟く。
「優しい?」
「優しくて綺麗だ…でもなんでだろうね、どこか儚い…」
そう言った汐弥は俺の肩に頭を乗せた。寄りかかったその重みが心地良い。
汐弥には分かっているのかもしれない。まだ確かに言葉に出来ない絵に込めた想いを…
「汐弥…好きだ」
汐弥の手を取って、その体を引き寄せ口付けをした。
ただ側にいるだけだというのに、その温もりを感じただけだと言うのに、抱きしめたくなる。
その想いに対して軽すぎると分かっている言葉を紡がずにはいられなくなる。
「アタシも好きだよ…アタシは千寿じゃなきゃ駄目だ…」
そっと離された唇から呟くような声で汐弥は囁く。そしてすぐに再び口付けをした。
どうしていいのか分からないんだ。
愛しくて、離したくなくて、もっと伝えたい言葉があるのに…俺も、汐弥もその術を知らない。
だから抱きしめる。出来うる限りの愛しさを込めて、俺はその細い体を抱きしめる。それしか想いを伝える術を知らないかのようだった。
翌朝、目が覚めて隣で眠る汐弥の穏やかな寝顔を見て安心した。
まだ側にいる事ができるのだと…
窓の外に視線を向けるが、まだ夜は明けていない様で、少しだけ薄暗い空が目に映った。昨日の二の舞にはならなかったかと少しばかりほっとした。
(綺麗だな…)
ぼーっと汐弥に視線を移してそんな事を思う。
俺の記憶の中にあった汐弥はまだ少女だったというのに…いや、少女は言い過ぎか…
「お前だったら…嫁の貰い手なんて余るほどあっただろうに…」
昔から綺麗だった…今思えば汐弥は昔から整った顔立ちをしていた。だから恐らく、二十歳を越えた辺りから引く手数多だった筈だ。
うぬぼれかもしれないが、汐弥が誰も決まった相手を見つけなかったのは、俺を待っていたからなのかと思う。
不謹慎ながら、少しばかり優越感を感じずにはいられなかった。
もし俺にまだ時間があったならば…こんなにも汐弥を愛せているなら…共に歩む人生を選んでいたかもしれない。
その言葉を汐弥に告げていたかもしれない。
「汐弥…」
名を呼ぶ、それ以上の言葉は出てこなかった。
「千寿…?」
ゆっくりと目を覚ました汐弥が俺の名を呼ぶ。それだけで息が詰まりそうになる。
「まだ朝じゃないぞ?」
「…そうみたいだね」
まだ薄暗い部屋の中で笑いあう。なんてこと無いこの時間がずっと続けばいいと思う。けれどそれは不可能だ。
もう時間は限られている。だというのに…
「千寿…」
汐弥の優しい指が頬に触れた。
「無意味なことかもしれないけど…アタシは…」
その手が肩にかけられ、汐弥が寄り添ってくる。
「千寿と結婚したい」
「……」
思いがけない言葉に文字通り固まった。どう返事をしていいのか判らなくなる。
「そんな顔されると困るよ…別に本当に結婚式を挙げたいなんて言ってない」
「どういうことだ?」
儀式としてのそれを望んでいないのならば、何を望んでいるというのか…
「ただ繋がりが欲しいだけ…千寿がアタシを愛してくれたんだって言う…証が欲しいだけ…」
俺が生きた証を、汐弥との時間の証を残そうとしていたのと同じように、汐弥も俺との証を望んでいた。
すぐそこに…別れがあると判っているからこそ強く望んでしまう。
「…愛してる、結婚しよう」
望まれるなら、俺はそれを汐弥に与えるだけだ。汐弥が俺にずっと与えてくれていたように、俺はそれを返すだけだ。
「ありがとう…千寿」
優しい笑みを浮かべながら汐弥が泣いていた。
その涙を止めたくて、汐弥を強く抱きしめる。
どうしようもないその現実に、胸の奥が軋んだ。
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