二人の朝に
「うぁー……気持ち悪、べとべと……」
「お前ほんとに襲われるんだな」
「なんでクロードがまったく被害を受けてないのか不思議なんだけど!」
「運が良かっただけだ」
確かにそうだ。
あのインキュバスたちが来てくれなければ今頃は干からびていたはずだ。
サキュバスたちは一度や二度程度では満足しないし、次々と代わる代わる複数で攻めてくる。
恐らく、そう言わずに耐えきれる”男”というものは世界にいないだろう。
「つか、オレの服は?」
クロードが明かりを撃ち上げる。例によって例のごとく超危険な物体に変わりない。制御を誤れば、その瞬間に星の表面が消し飛ぶ可能性もある。
照らし出された暗闇の平原には無残に打ち捨てられたレイズのシャツとパンツと、そして魔物の乾物だ。
これはあの騒ぎの途中で近寄ってきた、哀れな魔物のなれの果てだろう。
レイズが服を拾い集め、着ようとしたところで自身の体がべとべとだと気付く。
魔術で水を出そうにも吸い尽くされてもうなにも出ない。
「……温泉、掘るか?」
「……頼む」
磁力走査を地中に向けて行う。
以前村の者と約束した通りに井戸を掘った際、ついでに周辺の地下水脈を完全に把握しているため、後はマグマ溜まりに近い場所から引っ張ってしまえばいい。
マグマについても地下迷宮を何やかんやで崩落させたときに、最深部がどうも流れに干渉して変なことになったため調査済みだ。
「…………、」
「どうだ?」
「温水を引っかけた。来るぞ!」
ズゴゴゴゴォォォォ……と重苦しい音が響き、次いで大地が揺れる。
「お、おい? お前一体どこのお湯を引っ張った?」
「え? 地下六キロのだけど?」
「バッキャロ!!」
その瞬間、爆発が起こった。
大量の土砂と熱水が混ざり合った死の雨が降り注ぐ。
推定温度は二百度前後。
本来の気圧下ならば約百度までしか熱くならないが、高圧の地下ならばどうなるだろうか。
比較的浅い場所でも軽く三百度は超えている。
そんなものを減圧によって気化したり冷却されたりするよりも早く、無理やりに押さえつけながら引き寄せたならどうなるか。
答えは簡単。
大気に触れた途端に爆発的に水蒸気に変わりながら約九十九度まで冷めた熱水の雨が降り注ぐだけだ。
「わぎゃぁぁぁああああああっ!!」
「…………これ攻撃にも使えるな」
叫ぶレイズ、冷静なクロード。
即座に頭上には重力場による”傘”が広げられた。
それでも地面に落ちた跳ね返りが襲う。
服を着たうえで、斥力の壁で全身をガードしているクロードはいいが、素っ裸のレイズはノーガードだ。
「熱い! 地下水混ぜろ、はやぁぁぁくっ!!」
この死ぬかもしれない状況下で叫びこそするが解決策を出せるあたり、一般人の範囲からは抜けている。
クロードはすぐに地下水脈に干渉し、水を流れに混ぜ込む。
混合水栓でお湯と水とをちょうどいい割合で調節するように、噴き出す水柱の温度を調節する。
「こんなもんか」
「……クロード、お前わざとだろ。最初から調節できただろ!」
「さあ? なんのことかな?」
掴みかかってくるレイズの腕を捻り上げて体勢を崩し、膝立ちになったところに足払いをかけて完全に押さえつける。ということを片手間に、噴き出した岩や砂を集めてちゃんと浸かれる温泉を作っていた。
見事な温泉だ。濁り湯ではなく透き通った湯、底は砂の中に岩を固定してしっかりと座れる形だ。
「…………そろそろ放してもいいんじゃないか?」
「下手なことをしたら次は神経を斬るからな」
「わーった、わーった、やらないから」
降参を受け入れ、押さえをやめる。見ようによっては美少女を今まさに無理矢理……なのだが。
まあ、魔力がないからこそ今は簡単に勝てた。
魔力があり、且つ本気ならば常に相手の真後ろに転移し続けるなどの反則のもと瞬く間に負けてしまう。
「しっかしなぁ……お前あの頃と比べてさらに強くなりやがったな」
「別世界に飛ばされて……まあ結構経ってるし」
「数えてないのか?」
「いや、州軍相手にケンカ売ったら数で負けて冷凍されてたから」
「何やってんだお前は……」
昔話をしながら湯に足を浸ける。
先ほどの熱水であちこちに火傷を負ったためか、顔をしかめながらもゆっくりと全身を浸けていくレイズ。
じんわりと温かさが身に染みる。そしてやけに濃度の高い魔力水だな、とも思う。
アルビ二ズム。先天的な色素の欠乏。真っ白な肌には痛いほどに火傷で赤くなった部分が強調されてしまう。
もとより色素が薄いため、日中屋外に出るときは必ず体表面を魔力障壁で多い、紫外線などを弾かなければすぐに日焼けしてしまう。視力についても何らかの補助がなければ通常の明かりですら眩しく、生活に支障をきたす。
「お前さ、魔力がなかったら生きていけんの?」
言いながらクロードも、いつの間にか服を脱いで泳いでいた。
意図的に深い場所を作っているのだ。
「魔力がなければこっちに頼るから」
そう言って差し出された手には真っ白な、神聖な力の塊が儚く浮いていた。
弱い風が吹いただけで簡単に散ってしまう力だ。
「それは?」
「お前も……いや、どっちも無理かな。これは天使と関係を持つ者か、あの忌々しい神どもが使う力だ。なんでオレが使えるかは分かるよな」
「メティの奴隷だからか。んで俺が使えないのは?」
「ズバリ言おう。素質がない、それだけだ」
「…………(ぶくぶくぶくぶく)」
クロードは目を開けたまま、重力に引かれるままに沈んでいった。
普段重力を支配する彼が逆らわずに引きずられることは、地上を普通に歩く以外ではないだろう。
温水が噴き出す水底まで沈むと、体にかかる重力を反転。浮力を増大させてそのままの格好で浮かび始めた。
途中、レイズの白い肌が温泉の熱で火照り、皮下の血液で薄く赤みを帯びている光景が目に入った。
「なに沈んでだー……おーい」
「おかしくない? 他に転移した奴らは普通に魔術を使ってたのになんで俺は使えないわけ」
「だから素質がないんだって。あいつら日本生まれだからいいけどさ、お前セントラだろ?」
「まあ……もとを辿ればステイツなわけですが」
「ステイツとかその辺はどうでもいい。お前がもといた世界、セントラ側の人間は科学に走ったからな。その過程で魔を制御する能力は衰えていった。てな感じか」
「先祖返りとかないのか!」
「魔力制御に関してはまずないな」
「…………(ぶくぶくぶくぶく)」
真っ暗な空を眺めながら、クロードは噴き出す温水を背に感じて沈んでいった。
「おーい……」
身体の力の加減で浮かんだり沈んだりはできるのだが、このときクロードは自身の体に加重を掛けていた。
浮力を上回る力で水底まで沈み、三分ほど静かに目を閉じて沈んでいた。
静かに浮かび上がる。
全身の力を抜いて背を下にして浮かぶ。
「どんだけ潜ってられるんだよ」
「代謝を落として血中のヘモグロビンを操作すれば二十分は余裕」
「……化け物」
「お前に言われたかねえよ」
ほとんど水没状態、ギリギリ顔が沈むか沈まないかという状態でクロードは浮かぶ。
先の一騒動のお蔭か、周囲に近づいてくる悪魔も魔物もまったくいない。
本当に、久しぶりに警戒を解いてのんびりとしている。
お互いに警戒するような間柄ではない。
もっとも古い関係を引っ張り出せば、クロードがまだまだ小さかった頃に死にかけたところを助けてもらったことまで遡る。
思い出そうと思えば、レイズが単独で守備隊を蹴散らして押し入ってきたときのことも思い出せる。
「レイズ、お前さぁ」
「……(ぶくぶくぶくぶく)」
「のぼせて溺れてんじゃねぇ!!」
綺麗に土汚れを洗い落とした岩を並べ、温泉から引きずり出して寝かせる。
全体的に白い体は茹で上がったタコのように真っ赤だ。
別のルートでよく冷えた地下水をくみ上げ、自分のシャツを湿らせて額に乗せる。
体温を早く下げるならば脇や股にも置いた方がいいのだろうが、生憎と使える布がない。
レイズの着衣は今のうちに洗っておかなければかなり土で汚れているから使えない。
「まったく……。そういやこいつは色々と弱かったな」
例えば自分よりも小さな少女に焼かれて海に落とされたり。
例えば遺書を残して拉致られて帰ってこなかったり。
例えば上司に逆らえずに借金を押し付けられたり。
例えば定期的に体調を崩したり。
「はぁ……これはうちの上司よりもダメかもしれんな」
ある程度、落ち着くまで介抱し、服を着せてからクロードは草の上に寝転がった。
先の熱でノミやダニといった厄介な生き物は軒並み死滅している。
1
翌朝。
鳥のさえずりも聞こえない場所で、寝ぼけた状態のクロードは妙な感触を体に受けていた。
普段の彼ならば睡眠時であれ常に警戒し、近くに害意があればすぐに飛び起きるのだが、昨日の警戒を解いた状態のまま寝入ってしまったのが原因だろう。
何かが上に乗っている。
重さとしては人が一人分ほど。
触れてみればシルクのように柔らかい肌触りで、鼻孔をくすぐる薄く甘い香りが散る。
背中は地面に生えた草の上ではない。
やけに固く、冷たい。
「なん、だよ……」
うっすらと目を開いた瞬間に、意味不明な物体がそこにあった。
「…………、」
驚いて叫びをあげるほど、今のクロードの精神は柔ではない。
「…………稠密結合繊維?」
それは大きな黒い球状の何かだ。
まったくむらのない黒一色。
真球と言っていいほどに丸いそれはクロードの腹の上に鎮座している。
一体いつの間にこんなものが置かれたのか。
そして……いつの間に真っ白な空間に運ばれたのか。
見渡せば作業台や大型の端末が並べられており、壁のラックにはアサルトライフルが掛けれて、リンクベルトで繋げられた弾薬が垂れ下がっている。
クロードはまず、腹に上に乗っている重さ約五〇キロもの未確認暗黒物質を持ち上げて横にドスンと置いた。乗られていた箇所がじんわりと熱を持つ。重さで血行不良になっていたようだ。
鎖で縛って振り回せば立派な凶器に……建物の解体工事にも使えそうだ。
しかし触れば金属ではなくシルクのような柔らかい肌触りで、押し込めば凹んで放せば戻る。
それなりの柔軟性を備えつつかなりの重量を誇る謎物質。
もしかしたら下手に刺激を与えるとビッグバンが起きたりしても……魔術が絡むと笑えない冗談ですら本当にあり得るため、まずはそれ以上触れずに距離を取る。
「…………。悪魔が擬態して……いや、それなら変な感じがするもんな」
これが一体何なのか。一切合財不明である。
確かなのは類は友を呼ぶというように、おかしなものはおかしなものを呼び寄せるということだろう。
この直径一メートルほどの黒い謎の球体。
膝を抱えて丸くなれば人が一人は入ることができるし、重さから考えても妥当ではないだろうか。
とりあえず処理に困ったクロードは、近くでへそを丸出しで寝ていたレイズの腹に蹴りを入れて起こした。
仕返しに中途半端な加速の術で壁に叩き付けられたが……。
「随分な起こし方だな、えぇ?」
「……………………、」
現在クロードは悶絶中である。
加速の魔術はいくつかの工程に分けられる。
状態の変更、方向性の変更、この二つで加速して移動。そして再び状態の変更で減速をするのだが、三工程のうち方向性の定義を省いてしまえばそれは砲身無しで弾丸を撃ち出すのと同義。
変な角度で急所(下腹部のあれではなく額)を思い切り、あり得ないほどに頑丈な壁に打ち付けてしまったから……まあ、アレだ。頑丈な壁の方が凹むほどの速度ではあったと言っておこう。
「…………ふぅ」
「回復が早い……」
頭から流れ落ちる血の跡はあるが、すでに傷は塞がっている。
「そんなことよりだ。これはなんだ? お前なら知ってるんじゃないか」
「……………………、」
「どうした?」
「クロード、お前、魔力を吸い取った時に何を使った?」
「何って……」
思い当たるのは、スコールに手渡された黒い珠だ。
真珠程度の大きさながら、それに見合わないほど強大な何かを感じ取れるあの珠だ。
「卵だ。肌身離さず持っていればそのうち孵化するだろう」
そんなことも言われたし、その後で、
「正確には卵ではない、水子の魂だ。魔力を吸わせていけば大きくなるだろう」
とも言われた。
慌ててポケットの中を探るが、ナイフ以外には何もない。
思い出せば昨日、大量の魔力を吸わせ、魔力の籠った温泉を浴びている。
まさか……?
それをレイズに話すと、途端にうつむいて黙り込んだ。
「おい?」
ぺたん、とその場に座り込んだ。
「く、うぅ、ふふふっ……。そうか……スコールめ、よくもまあ禁術なんかに手を出しやがっ……ふふふははっ……」
「どうしたんだよ」
横から顔を覗き込めばぽたりぽたりと落ちる雫まであった。
「ははっ……確かにそれもありか……魂だけを確保して身体を後で創りだせば……」
ゆらりと立ち上がったレイズの背には、純白の翼が生えていた。
第九位、最下位の天使たちとは違い、高位の天使たちが背に背負う大きな翼が一対二枚。
どうしてよいのか迷ったクロードは伸ばしかけた腕を中途半端にしたまま、その後ろ姿を見送るしかなかった。
「ははっ……そうか、あのとき堕ろした睡魔の……」
幽鬼のようにゆっくりと、黒い球体に近づき触れた。
背中の純白の翼まで使って優しく包み込むと、そっと告げる。
「起きろ、リリィ」
すると、謎の黒い球体は螺旋状に光を放ったかと思うと、リンゴの皮を剥くようにしゅるしゅると帯状に解けていく。
球体の中は空洞で、そこには小さな女の子が膝を抱えるようにして眠っていた。
ただし普通の女の子ではない。
うっすらと開かれた瞳は紅く、髪は白く、皮膚の色はクロードと同じ。
頭にはちょこんと突き出した獣耳、背中には黒く小さな悪魔の翼、お尻には猫のような黒い尻尾。
クロードは思った、どう見ても睡魔の血を引いている。
「おはよう、リリィ」
「ん……ぅ?」
目を覚ました睡魔の女の子、リリィを抱き上げたレイズは、黒い球体を形成していた帯に向けてさっと腕を振る。
すると帯は浮かび上がり、妙な光を纏ったと思えば瞬く間にさらに解け、紐で肩から掛けるワンピースの形を作っていく。
色は元が黒だから真っ黒なものができるかと思いきや、紺色で裾周りが白いフレア、前面には刺繍やボタンといった飾りまで付いたものが出来上がった。下半分はボタンの付け外しで締めたりゆったりしたりと。
一体どこからボタンが……というか布以外のパーツが?
そんなことを思う間もなく、リリィが発した一言がクロードを混乱させた。
「ままぁ!」
その言葉は間違いなくレイズへと向けられたものだが、まずレイズが一般的な生命体であるかどうか、性別的にどうかとかの議論は蹴り落として考えても、見た目からしてそれは無いと言える。
レイズの背には天使の証である翼。まあこれは鳥人族やら竜人族やらでも似たようなものがあるのだが。
対してリリィの背には悪魔の証である翼。まあこれも竜人族やら爬虫類系魔族に似たようなものがあるのだが。
というその辺の事情を考えると、こどもがいたとして種族的にあり得ない。
天使と悪魔は相反するものだというのが現在の教本に載っている常識だ。
「え? 今、確かにおまっ、レイズ?」
「ああ、確かに……オレの子であり、そしてそうでもない」
「…………。」
ブンブンと頭を振って、思考を纏めようとしたクロードだったが更なる追撃があった。
レイズから離れたリリィがトテテテと、短い距離ながら走る。
そして満面の笑みでクロードに抱き付いた。
その瞬間、クロードの中には複数の策が浮かび上がっていた。
睡魔だから触れただけでも吸い取られる→回避する。
まだ小さいからそこまで危険ではないだろう→とりあえず片手で頭を押さえる。
満面の笑みということは害意はないだろう→受け止める。
エトセトラエトセトラ。
考えをまとめ上げ、神経を伝い、体の筋肉を動かすまでのタイムラグは、本物の戦場ならばすでに殺されているほどに長かった。
つまり、固まったままの状態で真正面から飛びつかれて後ろに倒れ、後頭部を強打。
「ぱぱぁー!」
凄まじい痛み(二回目)を無視して、いま最大の疑問を吐き出した。
「ま、待てよ。お前は一体なにをもとにして俺を父親だと」
「ぱぱっ!」
その疑問は完全に吐き出される前に遮られた。
嬉しそうな顔で胸にうずまってくる知らない女の子。
しかもこの子は自分のことを父親であると認識している。
どう対応していいのか、こどもの面倒を見るという面では、反抗期真っ盛りの相手を年単位でやったことがあるからいいにしろ、ここまで懐いているとなると下手に否定するわけにもいかない。
(どうすればいい!? 俺はこれでもまだ■■歳なんだぞ!!?? ……たぶんだけど)
悩みながら解決策を探し、さらに分からないことを出してしまって曖昧に……。
顔を横にずらして眺めているレイズに、助けて、と救援を求めるが、諦めろとジェスチャーが返ってくる。
このまま意識だけを別の場所に退避させてしまいたいが、生憎と幽体離脱はできない。
もう一度助けを求めてみると、仕方ないなぁという感じで承諾してくれた。
「はいはいリリィ、その人はパパじゃない。クロードっていうんだ」
「ぱぱはぱぱっ!」
「みんないるところじゃ、クロードって呼ぶんだよ。いいね?」
言いながらリリィを後ろから抱き上げて、クロードから引き離す。
言葉遣いというか、なにかこう含まれていたトゲトゲしたものまで完全に変わってしまっている。
髪を切って染めてしまえばもう誰か分からないくらいに変わってしまうほどだ。
「むぅー」
「いう事を聞きなさい」
「はぁーい」
「うん、いいこいいこ」
髪をすくようにして撫でると、リリィを放す。
「くろー、くろお、クロゥ!」
「ドはどこに行った……?」
「クロゥ!」
「ドは?」
「ぱぱはクロゥ!」
「ド」
「もうやめとけ」
流れで名前が短縮されてしまった。
クロードは静かに思った。
せめてスペルの短縮でクロにしてくれ、と。
クロゥはちょっとばかり、なにか気に食わないというか、響きがアレというか……。