チートをこじらせた勇者に選択肢を与え賜う
「勇者よ、世界を救ってくれ」
はい
>いいえ
ゲームでぐぬぬってなった人はきっと多いよね。
かく言う5分ねばった私がそうだ。
大体そういう話なので、力がある人は世界を救うべき派の方はご注意下さい。
覚えのある揺らぎと共に、一面真っ白だった視界に色が戻る。
広がるのは広大で豪奢な空間。高い天井から降りるシャンデリアに目を焼かれて眉を寄せた。
玉座を陣取る丸々と肥えた身体を無機に見て、取り囲む人々の中央で、私は色を乗せたばかりの唇を開く。
「あなたが倒して欲しいのは魔王ですか、それとも憎いあんちくしょうですか」
「え、あ、どちらかといえば、憎いあんちくしょうであるが」
「自分で倒せ」
暗転。揺らぎ、捻り、巻き戻る。
ぱちりと開いた視界を次に埋めたのは、見慣れた妹の姿だった。
光り輝かんばかりに愛くるしいロリコン垂涎の容貌。色素の薄い大きな瞳と、縁取る長い睫毛。形の良い小さな鼻の下で、つんと尖らせた桜の花びらに似た唇が鈴の音を漏らした。
「もー、お姉ちゃん、せっかくあたしとデート中なのに!」
「ごめんごめん」
開きすぎない襟刳りから覗くたわわな実りの見え具合も清楚な膝丈スカートも、記憶と違わないのを確認する。妹の胸元から下がるウォッチペンダントを拾い上げると、およそ記憶より5度ほど針を進めたところだった。
虚空から突如現れた姉、私ことかなたに、妹、こなたは苦言する。
「いっつも突然行っちゃうんだから。行くときは行くよって言ってって、いっつも言ってるじゃん」
そんなの私に言われてもなあ。
眉尻を下げて言い訳を口にしようとした矢先、またも眩暈に襲われて、私はぐらりとたたらを踏んだ。
数瞬の後。
「ま、魔王である!」
「正直者じゃないあなたにはもっと強くて憎い魔王なあんちくしょうを差し上げましょう」
「な、なんじゃその溢れんばかりの力強い魔力の塊は!うわー、アッー!」
広がる再度の光景を瞬く間にブチ壊し、私は悠々と凱旋するのだった。
ヒートアップして腹立ちを振りまく、世界一可憐な妹の前に。
おお、勇者よ、よくぞ来てくれた!
一生の内一度、万が一そのセリフを耳にすることがあるとしよう。それは恐らく、創作舞台の鑑賞だとか、ゲームを楽しむ最中であると推察する。
そしてもし、日常風景で、本気の本気でそれを口走るいい年こいた大人を見かけたことがあったら、私は絶対にあなたとは友人になりたくないと宣言しよう。
なぜなら類は友を呼ぶの体言になり果てたくはないからだ。友を呼んで友を呼んで類友を呼んで、うわー類かー、なんて目で見られたらどうする。普通に傷付くだろう。
日常茶飯事である。1週間に1回、その言葉を耳にしていた。のうのうとほざく輩を2桁で足りないほどにこの目に映していた。
今となっては過去形であるところが唯一の救いだ。
人に話せばつまらん冗談だと失笑され、たたみかければ黄色い救急車を呼ばれるだろう。だが真実だ。
渡部かなた。肉体年齢18歳。
私はただひたすらに勇者として異世界に召喚され、ただひたすらに世界を救い続けた、冗談のような女子高生である。
「たっだいまー」
「もー、お姉ちゃん、話の途中なのに!」
垂れた目を吊り上げて唸る、極上の美少女。渡部こなた。純然なる15歳。
私の容姿は上の部類だけれど、この子の顔面の整いっぷりときたら半端ない。やや美形な父とそこそこ美人の母が絶妙なバランスで合わさった奇跡の少女である。嫉妬より可愛さが先に立つので、姉妹仲が悪かったことは生まれてこの方一度もない。
「3分も待たされた!10人……と、ちょっとに声かけられた!」
「ここどこの路地裏?」
「いっぱい歩いたからわかんない!」
「不用心よアンタ。傾国の美少女が路地裏歩いて無事でいられるほど、世界は甘くないんだからね」
「お姉ちゃんが知ってる異世界より日本はすっごい治安良いから大丈夫だよ」
「何言ってんのッ、人間一皮剥けば野獣ばっかよ!?そんな甘ったれた認識で無事に80年を生きれると思わないでおきなさい!」
「それに5分もすれば世界最強が帰ってくるし」
「それもそうね」
『彼方』が渡り『此方』に戻る。その法則が覆ったことは一度もない。
100度を超える召喚の度、私は常に妹の隣に戻ってきた。人目があろうとなかろうと。
案外、人というのは簡単なものだ。信じられないものを見ると信じない。突然誰もいなかった空間に女が現れたって、瞬間移動なんぞどこの誰が信じるというのか。
そんなわけで、帰還は思うより平穏である。問題になったことはない。少なくとも今までは。
「でも久しぶりだよね、召喚されちゃうの。2週間ぶりくらい?最近は反発できるようになったって言ってなかった?」
「できるようになったわよー。こう、魔力的なもの感知したら、全力で魔力ぶつけてやんのね。そうすると魔法陣壊れて術者は反発で大なり中なり被害食って、しばらく強制自粛タイムよ」
「何で召喚されちゃったの?」
「横やりが入んのよ!ここんとこずっと、10秒に一回ちょいちょいちょいちょい引きずられて、うっとーしいったらないわッ!」
「あー……アリさん?」
「あったりまえでしょこんな狙いっぷり!おかげで意地でも行ってやるもんかって──」
弾いた魔力に被さる、色の違う魔力。弾き損ねて食らうホワイトアウト。
揺らぎ、捻れ。
少し暗い話をしよう。
初めて異世界に拉致された、唾棄すべき勇者一回目。私は脆弱と呼ぶのもおこがましいほど脆弱で、魔術が使えないどころか、剣の握り方一つ──肉を貫く感触にすら耐えられないほど役立たずだった。
事態の理解が追い付かない15歳のか弱き私を周囲は責め立てて、勇者のくせにと罵倒した。奮起したのは、負けん気が強かったせいではない。愛しい家族のもとへの帰還をほのめかされて、一縷の望みにすがったからだ。
当たり前である。ただの女子高生だった。世界丸ごと失って、どうして拒絶を貫ける。
疑う疑わないではない。やるやらないでもない。やらなければ、知らぬ世界で一人、絶望に落ちてただ死ぬのだ。魔物の手で、あるいは身勝手な異世界の住人の手で。
そうしてひたすら我武者羅に己を鍛えた私は、それでも勇者の資質というものか、段飛ばしに腕を上げ、やがて感謝されつつ先を行くようになった。
感謝を払いのけながら脇目も振らずに一進したのは言うまでもない。
感謝されたからどうだというのか。人攫いが身代金を得て感謝を告げたら、人質は快く礼を受け取れとでもいうのか?
花を渡そうとした子供の手を退けたことに、未だ湧く罪悪感はない。蹴り飛ばさなかっただけありがたく思うべきだ。
右肩上がりの成長が止まって、拉致からおよそ5年。
辿り着いた魔王の城で、私は一人剣を振った。魔法魔術の類は得意じゃなかったから、聖剣と呼ばれた煌々と発光する気に食わない勇者の剣とやらも、いまやしろがねの面影なく赤黒い血を纏っていた。
仲間などいなかった。途中まで同行した騎士も聖女も魔法使いも、信用できずに置いてきた。もっと前に離脱した奴らとは違い、彼らは多分、心から魔王を倒したくて、心から私に協力してくれていたのだと思う。けれど置いてきた。
信用と信頼は違う。何番煎じか知らないが、これほど当てはまる言葉はない。過去を信用はしよう。けれど未来を信頼はできない。所詮人攫いの仲間だ。何を信頼しろというのだろう。
一人になった私に、やはり現実は牙をむいた。
わかっていた。ある程度。覚悟ではなく、見ない振りをしていた。
魔王を討ち果たした。事切れる直前、魔王は言った。
お前は帰れない。
絶望に至る一歩前、仏の垂らした気紛れの糸は切れた。無残に落ちた感情で、砕けた骨、千切れた肉の手当てなどする気は起きない。
血に塗れた床に着いた膝。そのまま身体を横たえて、できることなら魔王になりたいと虚ろに考えた。でもそれより死にたい。帰れないのならここで朽ちたい。この世界を怨みながら呪いになりたい。
万の憎しみを胸に、うずくまるほどの力も残らなかった私は強く強く目を閉じた。
──刹那、2度目の召喚に飲み込まれた。
「やーい、ばあぁぁぁっか!師匠と俺の愛のダブルアタックに引っ掛かってやんの!バカ勇者!アホゆう」
「あ?」
「やややめろー!俺の愛くるしい喉仏を亡き者にしようと吊り上げるのはやめろーッ!」
視界も正常に戻らん内に受けた理不尽な罵りには、天使のごとき私の堪忍袋も破裂せざるを得ない。天使と呼ぶには少しばかり羽が黒っぽいかもしれないけど、まあ、妹が生粋の天使なんだから、姉である私も大体天使と呼んでやぶさかではないだろう。
ネックハングで人一人を吊り上げることなど、誇張偽りなしに歴戦の勇者たる私には朝飯前だった。軽々と天に掲げる細腕の先、一人の少年がぶら下がる。
青髪碧目の目に冷たい少年は、名をディグという。初めて出会ったときには鳩尾辺りに頭頂部を構えた生意気なショタであったが、今では163cmの私と視線を合わせる程度に細長く伸びたクソ生意気な少年にまで成長した。青色はクールキャラという概念をぶち壊す迷惑な野郎でもある。
白い顔色が髪の色に染まってきた辺りで、締め上げる手に邪魔が入った。
深く低い声が耳介を侵す。
「かなた様、お久しぶりです」
「うん、久しぶり。特に会いたくなかった」
「ご冗談を」
「いや全くほんとってわけじゃないけど、大体ほんとなのはあからさまよね?」
「?」
溜息につられて手の力を緩めると、床の悲鳴と、蛙が潰れるような音がした。うるさいからそのまま浮いてれば良いのに。
首を傾げる老年の男には、毎度のことながら頭痛を覚える。
見上げる角度は首が痛い。200cmに届く場所に、凪いだ泉のような琥珀色があった。彫りの深い顔に刻まれた皺が年輪を思わせる。支える首の太さや胸板の厚みも相変わらずで、岩だか大樹だかよく分からん男だと、やはり視界に入れるたび思う。
こなたは「アリさん」と呼ぶ。私は「アーリ」と呼ぶ。本名は、寿限無ほど長くはないが引き合いには出る程度に長いので忘れた。アーリファンディレクトなんとかかんとか。どう足掻いても忘れた。
この世界最高の魔術師たる彼は、魔術師という冠からは想像できないほどの、マッチョである。その豪腕は岩をも砕く。本当だ。嘘じゃない。
筋骨逞しい魔術師がいたって良いじゃない。異世界だもの。
いつしか気を失っていた。死を迎え入れていなかったことがたまらなく悔しくて、目が覚めた瞬間に気が狂ったように絶叫した。
のどが破ければいい。肺が爆ぜればいい。やけっぱちに放たれた闇夜を切り裂かんばかりの咆哮は、しかし数秒もせず空気を吐き出す徒労に変わった。
「困りますな、折角拾い上げた命を無駄にされては」
ぎょろりと見開いた空虚の視線に身じろぎもせず、初対面の老人は言った。老人、とただ一括りにしてしまうには余りにも立派な体躯の持ち主だったが、煮えた思考に配慮の二文字は浮かばない。
こいつが、と私の中の巨大なホロに、ドス黒い焔が産声を上げた。
アンタ、なに、してくれてんの。
声帯を震わせる筈の音は、やはり吐息に変わる。折れた肋骨が肺に埋まっていた。ヒュウと嫌な音がのどを通るのが煩わしい。
「消音を。私の鼓膜が破れてはいけないし、あなたの命に障っては面白くない」
何してくれてんの、と再度意思を表示した。
しばし首を傾げた男は、意図を解したかと思えば、朝食の献立を答えるようにあっさりと言葉を吐いた。
「いきなり死体が現れたので、蘇生を。生涯で一度だけ使える魔術を試してみたかった」
彼は本気だった。気遣いや妄言ではなく、本心からそう思って、私で実験を行っただけだった。
それで──そんなことで。台無しにされた。私の憎悪を、呪いを、世界の破滅を引き起こせたかもしれない奇跡を。
渦巻くのは言い表せない衝動だった。私に施されたのは蘇生の他は止血のみだった。にも関わらず、肘から下を失った手を振り上げて、腱の切れた足を酷使して、バネの勢いで老人に肉薄して。
途轍もない力に踏み潰された。地面に叩き付けられた私を、我侭な幼子に向けるような目で見下ろして、男はほざいた。
「暴れると身体に障りますよ」
死にたいと、言っているのだ!
私の耳は奇妙に感情の読めない男の一言をきちんと捉えている──面白くない、などという面白くない理由で、何故この意味のない命が留められなければいけない!
爆発した。文字通り。魔術魔法の類が非常に苦手だった私の、底を這いずるような魔力が、突如膨れ上がって。
切れ長の目を丸く見開いた男には溜飲が下がる思いをした、と、思う。この辺りは記憶が鮮明じゃない。何せ、頭に血が上りまくっていたので。
かえせ、と喚き散らした。声はいつの間にか戻っていた。理不尽な重力の枷も、私の邪魔をしようとはしない。
上方を覆っていた天井は消えていて、満天の星空がこちらを見下ろしていた。風を遮っていた四方の壁は幻だったのだろうか。バキバキに折れて無惨な姿を晒した森の木々は遠巻きに、大きなクレーターを境目にしてこちらを見守っていた。
「ていうか、何でこんなに長く来なかったんだよ。師匠がちょっと常識弱いの知ってんだろ?」
「そりゃ、愛弟子が虐められてんのあったかく見守ってるとこ見りゃ知ってるとしか答えらんないけど」
「お前虐めてる自覚あったのかよ!」
「ここまでしてて虐めてる自覚なかったら問題じゃない」
「虐め自体が問題だろ!極まりないだろ!虐めかっこわるい!駄目ゼッタイ!」
この期に及んでいまだ吠え散らかす子犬の首をまた絞める。引き攣った声で謝罪が飛んできた。謝るくらいなら吠えるんじゃありません。
渋々手を放し、眉間の皺を解きほぐす。
この世界は嫌な空気に満ちていた。いつものことである。私を呼び付ける世界は、常に嫌な空気に満ち満ちているのだ。なぜならば、それを解決させるために私を召喚するのだから。
今回召喚されたのは、相変わらずのアーリの家らしい。金は腐るほどあるというのに、究極に質素。古びた家具はすでに天に召される準備を整えているようで、口が半分以上開いたまま中身を晒している。
ぐるりと見回して、こちらも開きっぱなしで閉まらないと噂の窓へ寄る。
外を覗くと、予想以上に黒々とした雲が上空一面を埋めていた。何やら雲に突き立つ得体の知れない搭のような建造物もうかがえる。
「アーリ」
「勇者様が中々召喚に応じて下さらなかったので」
「何で応じる必要性があんのよ」
「応じて下さらなかったので、手塩にかけた悪の芽が、あれあのように」
よく見れば、建造物ではなく大きな木のようだった。この木なんの木。知りたくない。
「うっかり花を付けるほどに育ってしまいました」
「ちょっと、何でアンタのうのうと呼吸してんのよ」
「俺!?」
師匠の失態は弟子の失態に決まってるだろう。どうして言い掛かりを付けられたように顔を紫色に染めるんだ。色彩バリエーション豊かな皮膚しやがって。
「いい加減、アーリの暴走途中で制止に入るくらいの根性見せなさいよねー。そんじょそこらの魔王なら倒せるくらいの実力あるんじゃないの?」
「え、マジで。俺そんな強い?強い?」
紫から喜色の赤に変わる。それだけ激しく色が移ると脳卒中にでもなりそうなもんだけど、くらくらしたりしないんだろうか。
そうね、と少年の魔力を検分して、告げる。
「全力で来れば私の髪を靡かせることくらいできるんじゃない」
「なるほど、それは随分な成長です。では、私の皮膚をちょんとつつける程度でもありますね」
「それはそれはううううううううれしいなあああああああああああああああああ……!」
思えば立派になったものだ。最初は瀕死の体でメソメソと道端で転がりながら泣いていた子供が。
「あと、そうそう」
「あ、嫌な予感」
「私に攻撃仕掛けてきやがった身の程知らずなクソガキに制裁を与えるのをうっかり失念するとこだったわ。危ない危ない」
「俺の命が危ない!い、いや、俺、師匠の作戦に便乗しただけだし!」
「はははこやつめ」
「何でお前今日は俺のノドばっか執拗に狙ってくんだよ!喉仏に恨みでもあんのか!?それとも俺の喉仏のファンかッ!」
「ファンだから毟り取って良い?」
「神は死んだ!」
「そんなん最初から分かってるじゃない」
「師匠、師匠たすけ」
「おお弟子よ、かなた様に遊んで貰えるとは何と妬ましい」
「アッー!」
また力が増している。うっかりやり過ぎないように気を付けないと。
怒りは不毛なことに、私の生存本能を刺激したらしい。
腕がなければ殴れない。骨が戻らねば届かない。地が足りなければ動けない。ふざけた理由で私を生かした男に一矢報いてやりたい。修復を願ったのは私の奥底の本能で、叶えたのも同じく、私の中にあった魔力という本能だった。
一瞬で回復をなした自分の力に疑問を持つより早く、私の身体は目的を果たした。堅牢な結界を砕き、勢いの大半をこそげ落とされてなお、握り締めた小さな拳は老人の巨体をすっ飛ばした。
風と地の魔力はおおよその衝撃を緩和したようで、砂利に落ちた体躯は、時を置かずにむっくりと起き上がった。
曇った眼は慣れた流れで男の力量を測る。魔力も、細密に魔力を操る実力も、魔王に匹敵するほどのものだった。
獣のように躍り掛かれと訴える怒りを押し遣り、細腕に剣を浮かべる。驚きの白さを取り戻した忌々しい聖剣は、以前に増して光り輝いていた。目障りが過ぎてへし折りたくなる。しかし、得物なくして勝てる相手ではない。最後の我慢だと思えば、蛍光灯への文句など蚊の鳴き声のようなものだ。つまり限りなく鬱陶しいが、辛うじて我慢が効くギリギリの線ということだが。
古びたローブの裾を払いながら、男は驚愕を隠さず私を見ていた。かと思えば思案の仕草を見せて、ふと空を見上げる。見下ろす赤い月は、ここが私の世界ではないと明示しているようだった。
邪魔だな、と一人ごちる声が聞こえて、顔を地上へと戻す。対峙の中で視線を逸らすなど愚の骨頂だった。思っていたより混乱が酷いのかもしれない。
男は首を傾げていた。
「かえりたい、と。どこへ?」
深い声に感情の色が宿ったように思えた。
答える義理はないけれど、誰かに吐露したい衝動を抑え切れなかった。
「私の世界へ」
「では異界の。なるほど、恐らく、あなたを喚んだのは王宮の魔術師たちでしょう。魔王を倒せと私にも打診がありました」
「……何でアンタはやんなかったの」
「なぜ私が?」
「どうして私がやらなきゃいけないの!」
怒号と共に強風が周囲を覆った。驚いて身を竦める。すぐに猛威は身を潜めたが、木々の傷は増えていた。
身体から何かが噴出する感触があった。魔力の開放。私はそれを感じ取れるだけの魔力を宿していなかったはずなのに、どうして。
こちらの困惑に、男は頓着を見せず淡々と話を進める。
「責任転嫁の場所が遠くへ行っただけのこと。異世界の勇者を求めずとも、貴族だか農村だかはわかりませんが、いずれ生贄が選ばれていたはずです」
「仕方がなかったっていうの?」
「王座に近い人間たちにとっては。あなたは理不尽に憤怒しても良い。自由には義務が付き添います。勝手という自由には憎まれる義務が。そして憎しみに続く行為を退けたければ、それだけの実力を持つ義務が。あなたの憤怒が彼らを害するのであれば、彼らは義務を果たさなかったということ」
「殺しても良いの」
「許可はあなたの中に」
「…………」
黙り込んだ私を見る目は無機質で、少しだけ安堵を覚える。
ロボットと話している気分だった。私に期待しないもの、私に強請しないもの。
何をしていても付き纏う無言の圧力がないだけで、あれだけの爆発的な憎しみを抱いた対象に安堵する自分には呆れるしかないけれど。
「殺したい」
「案内は必要ですか」
「いらない。……殺さない」
「なぜ」
なぜ。わからない。わからないけど、殺さない。
殺せないわけじゃない。剣を持って、突撃すれば、きっと全部殺すことはできる。
でも、それはきっと。
「同じに、なりたくない……」
大半の人間にとって、きっと、私にとっての玉座の人間たちと同じ、理不尽になる。
いつの間にか異世界人を召喚して、勇者に奉り上げた。それには多分、世界のほとんどは関与していない。
享受していた。それは間違いなくても、でも、じゃあ、異世界から巻き込んだ人だから解放してあげようとか、誰がそれを口にして、まして実行できるというんだろう。
国を悪所に導く中枢がいて、それを選んだのはどこかの場所の人たちで、私たちはそれを批判しながら、けれど引き摺り下ろしてじゃあ自分が変わろうと、誰ができるんだろう。
勇者たる実力もなく、勇者を解放して、滅びるのは全ての大切な人たちなのに。
「なによ……なによ、何よ!わかってるわよ、私ばっかり悲劇のヒロインぶって、世の中なんて理不尽で溢れてるなんて知ってるわよ!諦めてあの世界で生きるって決められれば、私より不幸な人なんてきっと一杯いたわよ!でも仕方ないじゃない、私が会いたかったのは家族で、あの人たちを諦めるとか絶対」
「まあそういった機微はどうでも良いとして」
「ちょっと、今いいこと言ってる最中なんだけど!?」
剣を投げ付けると、光速で競り上がった岩壁に突き上げられた。進行方向を閉ざしていれば悠々と切り裂いて老人に突き刺さったに違いないのに、頭の回るジジイである。
憮然とした私の様子をやはり何も気にすることのない男は、無骨な体躯を優雅に折って、骨ばった手を差し伸べた。
「アーリファンディレクトロス=エルグラインヴォイド=マリス何とかと言います。勇者様に興味が湧きましたので、共に魔王の討伐へ向かいましょう」
頷いたつもりはなかったんだけど、気が付けばいつの間にやら旅に出ている私がいた。
そういえば名前は覚えていないのもあるけど、そもそも本人が最後まで言ってないんだった。
アーリは毎度、私を呼ぶために魔王を生む。人々を混乱に陥れる魔王の象徴たる「何か」は、しかし人々に実害をもたらしはしないらしい。
弟子が必死こいて頑張っているためだ。たまに、弟子の頑張りを評価した師が──要は加害者本人が助けに入ることもあるようだ。拾って貰ったからってそんな師匠に懐いているディグのドMっぷりは歴史に残るに相応しいレベルだと思う。
異世界人の召喚を為すには、いくらかのルールがある。その内のひとつが、世界のバランスが崩れかけている必要性である。
例えば、魔王が世界を牛耳って魔物が蔓延るようになると、世界に淀んだ魔力が異常に増える。世界のバランスが悪くなると、召喚の扉の鍵が緩む。ガッチガチに閉鎖されていた扉が緩むと、術が食い込みやすくなる。
簡易錠をこじ開けて、ノブを回すとあら不思議、バランスを取り戻せるだけの実力を持つ人間が、傾いた天秤の高い方から転がり落ちてくるというわけだ。
アーリはそこら辺を上手く利用して、数年に一回、私に会いたくなると魔王っぽいものを作り出す。完成したら、あとは有り余る魔力を指先でチョチョイと使って、扉を開いてやるだけだ。
私は勇者である。歴戦の。帰る場所は、私が消えて数分後のこなた。肉体年齢では勇者になって3年しか経たないひよっこだが、精神年齢は100歳を超える。そして100で足りない回数、ひたすら世界を救い続けた、途方もない実力を持つ勇者である。必然、転がり落ちてくるのは私以外にあり得ない。
「……また、今回は、随分……」
「喚び始めは天辺が見える程度だったんだよ。お前が往生際悪くさっさと来ねェからさー」
「腕が鳴りました」
「もう良いわよ。悪かったわよ」
どうせ気力が続く限り反省を促しても、この鉄壁の前には無駄に終わるのだ。さっさと終わらせて帰るに限る。彼は私に会えれば満足らしく、そう引き止められることもない。むしろ長くいればいるだけ遠回しに帰還をごねる確率が上がるだけだ。
ひらりと右手を振れば、慣れた重さが手のひらに落ちる。白い輝きに煩わしさを覚えなくなったのはいつからだっただろう。刃の形すら見えなくなるほどの発光に、ディグは勝手に「闇殺し」とかいう中二病な名前を付けた。それ広めたら殺してやるからね。
魔力を絡げて天へと突き上げる。閃光は黒い雲を裂き、一筋の光明を大地に落とした。散らばった魔物は勇者の光臨に気付いただろう。すぐに向かってくるはずだ。人里離れたこの場所へ。
ゆったりと足を進めて大樹を目指す。魔物を一層して、木を消滅させて、そして。
アーリ何とかという老人は、見た目以上に年嵩を経ているらしかった。しかし動きは鷹揚でありながら危うさは欠片も見当たらない堂々ぶりである。エルフと人間の混血がふんたら。身を入れて聞く気がなかったので詳しくはウェブで。
旅は拍子抜けするほど順調に進んだ。一回目の苦労とは何だったのか。
この世界の魔王の強さなど知らないが、まあ、実質前回の魔王2人くらいの実力者が連れ立っているのだから当然と言えば当然だったのかもしれない。
加えて、伸び悩んでいたはずの私の強さは、前回を超える勢いで成長を取り戻した。膂力は劇的な変化とは言えなかったが、魔力の増加量といったら。
アーリいわく、世界による私の位置付けが異なるのではないか、とのことである。以前の世界では、戦士の才能を持つ私だった。この世界では、戦士より魔術師の才能を持つのではないか。
才能は加算されて、更なる力を齎した。この世界での才を開花させると、まさかの魔王3人分が連れ立っている計算になる。何それこわい。
雑魚を殲滅し、中ボスを圧倒し、アーリに魔術の手解きを受けながら長いとも言えない旅路を進んだ。
途中、ディグという少年を気紛れにアーリが拾ってくるようなハプニングはあったが、もといた場所に戻しても仕方がないので、責任者の手荷物とすることで落着させた。時々敵に向けて魔術で射出されていた気もする。可哀相に、こんな奴に拾われて。面倒はアーリが見るという約束だったので、私は温かい目で見守っていた。
この頃になると、諦念を経て怒りや憎しみを表層に表すこともなくなった。およそ虚無に占められた私と、常に虚無を纏うアーリのコンビ。シュールな絵面だったんじゃなかろうか。老人と20歳の女、という年齢差も合わさって。しかも子連れになったし。
あっさりと魔王を倒して、初めて私は路頭に迷う心地を味わった。
目的がなくなった。命運は開きっぱなしで、死に掛けることもなかった。後はどうして過ごせば良いのか。もう今更死ぬのもアホらしい。
そんな私にアーリは告げた。
「ああ、やはり」
「うん?」
「導が見えます。これなら帰れるかと」
呆然とする前に抱き着いた。腕の回り切らない厚い胸板に取り縋って、ひとしきり喜んだ。
疑う余地はなかった。アーリは虚無でできている。嘘は吐かない。吐いたことがない。吐く理由がない。
精神の崩壊を案じるディグを優しく蹴り飛ばして、この世界に来て初めて泣いた。わんわんと子供が赤面する勢いで泣き散らし、尻を押さえたディグにオロオロと慰められながら。
「最初は不思議な魔力を持つ方だとだけ。次に、爆発的に増えた魔力に興味を持ち、怒りの鮮やかさに惹かれて目を凝らしたところ、放出する魔力が一点、妙に伸びていることに気付きました」
相変わらずの空気の読めなさである。声を上げて泣く人間が、詳細を頭に入れることができようか。否。後でディグに聞こう。別にアーリに聞けば一言一句違えず言い直してくれるけど、同じ声を同じトーンで何度も聞くの嫌だし。
「魔王の影響で歪んだ磁場では確信が持てなかったので、とりあえず魔王を討伐してみたのですが」
「とりあえずで魔王を討伐できちゃう事実に驚くの俺だけなんだぜ。信じられるか」
「ディグうるさい」
鼻を鳴らす程度にまで収まった嗚咽を噛み殺して続きを促す。
「世界のバランスは正常に戻りました。あなたを失った世界は、ささやかながらもバランスを崩しているはずです。今扉を開けばあなたの世界にも繋がれる。転がる軌道を示せば帰還は確実です」
顎から落ちる涙に、アーリは「勿体ない」と眉を顰めた。涙は魔力の結晶とも言えるものである。言うまでもなく甘ったるい意味での勿体ないとかではない。そんだけあれば新しい実験とかに使えるのにぃ、という意味なので悪しからず。
「かなた様」
「うん」
「帰れます。案内は必要ですか?」
「うん。う、ん。アーリ」
「はい」
「アーリ、ありが、と。ありがと……ありがとう」
「ええ、お元気で」
導とやらに添うアーリの魔力に自分を添わせて、教えられる力の放出に従う。
丁寧に紡がれた、ゆりかごのような網。あの危なっかしく私を突き放した仏の糸とは大違いの安心感を忘れないように脳に叩き込んで。
私はつぎはぎながらも修復した心を持って、こなたのもとへと帰還した。
負った5年の歳月を、記憶と力のみに残して。
「随分と上達されたものです」
のんびりと椅子に腰掛けるアリを尻目に、こなたに伸びる光の糸を確かめる。
「そりゃーそうよ。何回行使してると思ってんの、帰還魔術。糸繋ぐのなんかノーブレスよ。そりゃ、最初は苦労したけどね。魔王倒さないと上手く繋げなかったから、ひたすら討伐の旅だったし」
「全世界で勇者イコールおまえだもんなあ。どの物語漁っても主人公が共通なんだぜ。作者一緒かよっていう」
「今じゃ物語なんて1ページで終わるわよ」
「召喚されたから魔王城ごと蒸発させましたって?」
「何いってんの。引き受けないで帰るのよ」
いつまで経っても物珍しげに糸を見物するディグを、念のため下がらせた。
私は自分の世界に帰る術があるけれど、私の意志ではこちらに来ることはできない。こなたという埠頭にしか、私は降りれないのだ。
帰還に巻き込んだとして、またこちらに喚ばれた際、連れてこれるかどうかは分からない。
「え、引き受けないって」
「どうして私がやんなきゃいけないの」
アーリの言葉を思い出す。
私は憤怒して良い。殺してもいい。
随分物騒な言葉だけれど、後から思えばその言葉にすら私は救われていた。
「自由には義務が付き纏うの。私は選択肢という自由を手に入れた。その世界の崩落を享受して、懇願を跳ね除ける。私はその義務を払う力を持ってるわ。どうして理不尽を受け入れる必要もないのに、理不尽を押し付ける最低な奴らを、私が救ってやんなきゃいけないの」
「いや、かなたがそいつら嫌いなのも断るのも当然だと思ってんだけど」
「……そうなの?」
少し意外だった。捻くれてはいるが、何だかんだでディグは性根の優しい少年である。
世界を見捨てていると言えば批難を食らうかと思って口にしたのに、まさか擁護されるとは。
「当たり前だろ。何でおまえが押し付けらんなきゃいけないんだよ。異世界行って鍛えれば鍛えるほど強くなるんだろ?そしたら勇者の資質が上がって、結局お前が全部押し付けられてさ。何で断らないんだよって、ちょっと腹立ってたんだよ、正直」
「断ってるわよ。私、別に善人じゃないわ」
「でも、おまえ、その、や、やさしい……からさあ。てっきり押し込まれて引き受けてんじゃないのかと」
「どこを見たら優しいのよ」
「まあ優しいとは思いますが」
「何を見たらやさしいのよ」
「殺さなかったでしょう」
「それは優しさじゃなくて自制だわ」
「同じことです」
それこそ理不尽な攻撃を受けた気分だった。
赤くなって優しいとぬかす少年と、無表情に言を重ねる魔術師。悪くはないが、気恥ずかしい。
「おまえ、討伐断って帰ったことなかったじゃん」
「だから」
「ここのさ。師匠の作った魔王。いっつも律儀に討伐してんじゃん。別にもう帰れるんだろ、魔力が歪んでたって。こんくらいじゃどってことないだろ」
なるほど、と納得した。確かにそうだ。
もう10度目になる。この世界に私が召喚されるのは。その上切羽詰っての召喚ではなく、故意の召喚。魔王は私を喚ぶために用意するツールときた。
そんなふざけた討伐依頼を、毎度毎度律儀に消化していっているのである。そりゃ、困って頼りにしてきた世界は救っていると考えるのが普通だろう。
当然、違う。
「私、言ったかしら」
「?」
2人揃って首を傾げた。この師弟は年々所作が似てきている気がする。
ディグにはアーリの象徴とも言える無情さも鷹揚さもないが、些細などこかが似通うのだ。
次回喚ばれたとき、ディグがアーリによく似たマッスルボディの持ち主になっていたら即帰ろうと思う。
取りとめもなく考えながら、作った糸を握り締め、アーリに向き直る。ゆっくりと立ち上がった彼のローブが、帰還の魔力風に揺れるのに目を細めた。
「ありがとう。あの時、私を生かしてくれて」
だから、私はアーリだけは決して恨まない。憎まないし、怒らない。
魔王の討伐なんて指先1つで事足りる。本当に困っているのなら、真剣に頼むなら、顔を顰めながら救ってやっても良い。
不愉快極まりないのは当然だ。トラウマだし、相変わらずそれは拉致に違いないのだから。
まして召喚を故意に行うなんて言語道断で、世界を自分の勝手で巻き込むなんて殺しても気が晴れない所業だけれど、それをするのがアーリなら、私は溜息を吐いて許そうと思う。
他でもない、私を家族のもとへ帰してくれた、アーリであるから。
私の笑顔、というものは、召喚される前に比べて格段に減った。
私が笑うと家族は嬉しそうな顔をする。私が笑うと、ディグは一瞬だけ戸惑った顔をする。私が笑うと、アーリの目が同じように細まる。
それが好き。
「じゃあね」
「ええ、また」
「どっかでトチんなよ!」
再会を迷いもしない男の穏やかさに笑顔を返して、私は今日も世界を跨ぐ。
──途中、ちょっと違う世界への召喚へ巻き込まれたが。
「勇者よ、世界を救ってくれ!」
はい
>いいえ
まあ、問題はない。
「おーねーえーちゃーんーったら!」
「ごめんって!」
選択肢は、私が選ぶ。
マッスル魔法使い大好き。ていうか筋肉好き。
異世界召喚ものは大好きだけど、しっかり書こうとすると終わらなくなるのが難点ですよね。
あと私は異世界召喚はおうち帰りたい派なので交流深めると凄い困る。
連載で「大樹の下で」という侍女ものファンタジーも書いてます。
侍女ものというと少し語弊があるけど。
マッスルがたくさんだよ!ボイン(※筋肉)もあるよ!
よろしければご覧頂ければ幸いです。
http://ncode.syosetu.com/n5219bm/