さっきから携帯電話がうるさい。
―おまえ電源を切り忘れたのか?
彼は自分の手のなかに納まっている、僕の携帯電話にめをむけたまま、淡々とした口調で言う。彼の目は僕を通して遠くを見ている。
深夜二時。夜の屋上の風は冷たい。これから冬になる厳しさを伝える風だ。彼は足元で寝息をたてているだろう、マンションの住人たちに耳を澄ます。夜が明ければ、この箱のなかでそれぞれが起きだし、続きの一日を送る。
この冬を越えてしまえば、もう後戻りはできなくなる。高校最後の、冬だ。
―でなくていいのか、電話。
ならしておけばいいさ。
僕は言う。
―察しがついているわけだな。
彼の口元がゆるむ。甘さを含まない、嘲りを含んだ笑みだ。
―母親って役割は大変だな。おまえみたいなやつの心配をしなきゃならない。
まったく、と彼は言う。
まったくだ。と、僕は思う。
だがおそらく彼女が電話をよこすのは心配からではない。恐れだ。
僕はフェンスに手をかけ、身を乗り出し、遠くの地面を見下ろす。人通りの少ない道は暗く、彼に谷底を思わせる。
学校に行けなくなったのは、今年の春だった。いじめられたわけでも、友人がいないからでもない。気が付くと、僕は毎日家にいた。
―感情の欠落
彼は言う。目が僕をとらえる。
―なにがしたいのか、将来はどうなりたいのか、自分はいま悲しいのかうれしいのか苦しいのか、すべてが消え去ったわけだ。よかったじゃないか。
彼は僕を見ている。
よかったんだ。
僕のなかで彼が言う。僕も言う。
―さぁ、時間だ。
夜が色を深める。僕はそれを吸い込み、飲み下す。どこかに起きている人がいるのだろうか、空気に料理のにおいが混ざっている。何の料理だか思い出せない。そのにおいは、あっという間に空気に飲み込まれて消えた。
僕は胸ほどまでしかないフェンスを越え、彼を見る。携帯電話はもう静かになっている。僕は耳を澄ます。
― 時間だ。
彼がもう一度言う。声がこだまし、僕のなかを何度も何度も跳ね返る。とろりとした深い黒が僕を取り込む。僕は彼の目を見る。淡泊な光が僕を刺す。僕はその光をずっと見ていたいと思う。
― 時間だ。
声がする。光が淡く声を包む。
僕は明日のことを思う。その次の明日を思う。流れがとどまることなくつづくことを願う。
声が幾度となく響き、僕の頭を揺する。やがて痛みは僕の隅々までをむしばむ。
僕は暗闇に手を伸ばす。声がこだまする。僕は甘い夢の手を取り、身をゆだねる。
彼が笑う。僕をみて笑う。
僕も笑う。
携帯電話が、鳴っている。
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