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勿忘草其一 僕の手に銀のロザリオ
作:春功



九月四日 弐


     九月四日 弐


緋歌瑠様の部屋は僕がいる如月邸西から如月邸中心まで移動しなくてはいけなかった。
ふと疑問に思った事があった。
なぜ、緋歌瑠様は今日僕の仕事場までワザワザ足を運んだのだろうか?
こんな長い距離までを歩いて僕に用事があるなんて不思議に思っていた。
なぜ僕のところに?
緋歌瑠様の部屋の前まで来るとどうやら彼女はいないことが分った。
部屋の中が暗かったからだ。

(いないのか…)

僕はしょうがなくもと来た道を戻ろうと思って引き返した。
だが、

「えっぇぇうっ…」

声が聞こえた。それも緋歌瑠様の部屋から。
もう一度障子越しに彼女の部屋を見渡す。
障子が閉まっていたから中は見えない。だが、暗いと思っていた其の部屋に一箇所だけ紅い斑点が揺れていた。ゆっくり暖かい紅い斑点が。

「うっぇぇっひっく…」

間違いなかった。泣いているのは緋歌瑠様だ。
この声、間違えるはずがない。初めて僕は聞いた。彼女の弱々しく泣くところを。
いつも明るいあのお嬢様が。
揺れているのはきっと高杯の灯台の灯りだろう…
その灯りが暗い部屋の中で揺れていた…

「どうして…私が婚約しなければいけないのよぉ…」

そう僕には聞こえた。
彼女は悩んでいた。悩んでいたんだ。

「………」

僕は終止無言だった。声にできる言葉すらなかった。

(出直そう…)

そう思った。このまま彼女を一人にさせておいた方がいい。
いまは泣かせておくのが一番良いと思った。

(緋歌瑠様…)

「だ、誰…?」

「!」

突如声をかけられた。どうやら障子の向こうから月光で僕の影が透けて見えていたらしい。

「あ、あの緋歌瑠様…」

声が詰まってしまった。

「! 峻? 峻なの?」

「緋歌瑠様、その…今日僕の所に来られた時、落としたものをお返しに参りました。」

ゆっくりと障子の扉が開いた。そして緋歌瑠様の顔が覗く。
其の隙間から見えた彼女の部屋はやはり部屋に常備されている高杯の灯台が灯っているだけでとても寂しい雰囲気が感じられた。
そして彼女の眼が赤くはれて、まだ瞳に涙が溜まっていた。

「これを…」

僕は唯一彼女とのつながりだったロザリオを彼女に手渡す。
できるなら返したくない、そう思ったぐらいだ。

「これ…」

緋歌瑠様がロザリオを見つめる。

「それと今日は申し訳ありませんでした。緋歌瑠様を侮辱してしまい申し訳ありません。」

僕は深々と謝って足早に立ち去ろうとした。
これ以上、泣き崩れた緋歌瑠様を見たくは無かった。

「それでは」

そう言って、僕は身を翻し、自分の部屋に戻ろうとした。
でも――

「緋歌瑠様?」

彼女が僕の袖を掴んで僕を止めた。

「見てたのね?…」

確信をつく言葉。

「な、なにをです?」

「……」

何とか平静を保とうとしたが声が裏返った。
彼女は気づいている。僕が、泣いている姿を見てしまった事を。
彼女の表情は俯いていて良く分らなかった。

「峻… うっぅぅっ」

僕の袖を握っている手が震えていた。
何度も。何度も。小刻みに…
隠した顔から涙が頬を伝う。
必死に涙を堪えていたが、涙が止まりそうにも無かった。
僕はなんとか慰めの言葉を探した。
なんとかして慰めてあげたい。其の気持ちはとても強かった。

「緋歌瑠様… そんなに嫌なら、嫌と言うべきです。きっと忠光様も分ってくれます。どんな親
だって必ず自分の娘の幸せを願っているのですから。」

―――――――でも、僕はそれを言う資格なんて無い。
緋歌瑠様が上を向き僕を見つめた。彼女の顔が涙に濡れていて頬がほんのり赤くなっている。
僕の言った事にまだ半信半疑な面持ちをしている。

「……」

「だから、泣き止んでください。僕は貴方の笑った顔の方が好きですから。」

そう言ってポケットからハンカチを取り出して緋歌瑠様に握らせる。
そのまま緋歌瑠様はハンカチをぎゅっと握った。
僕は彼女の様子を見るまでもなくそこから立ち去った。
僕は思う、部屋にあったあの高杯の灯火は彼女の気持ちに違い無いということに。



あれから僕は考えていた。
緋歌瑠様になぜ、あんな事を言ったのか。
僕は彼女に『だれだって親なら娘の幸せを願っている』そう言った。
でも僕にはもともとこんな事を言う資格なんて無かった。
なぜなら僕は自分が愛する人を殺してしまったのだ。
其の人の幸せを僕が。
―――――僕が、奪ってしまった…
本国にいた頃、其の人は僕をいつも支えてくれて下手な絵をどこまでも誉めてくれて。
僕はそれだけで本当に嬉しかった。
其の人は僕の為にいろいろ尽くしてくれた。
僕達は必然と愛し合った。
そして一緒に住み始めた頃、僕はまだ貧乏絵描きだった。
だからこそ其の人の両親が僕と一緒になる事を認めてくれるはずが無い。
仕方が無く僕達は駆け落ち同然で一緒になる。
その生活は貧しかったが、それなりに幸せを感じていた。
其の人と一緒にいる事が何よりも楽しかったからだ。
でも、お金だけはそうはいかなかった。
僕の絵は売れない。
其の人は内職の掛け持ちは常だった。
その時に気づいていればよかった。彼女がどれだけ大変な思いをしていたのかを。
………。
気づいた時にはもう遅かった。
彼女は、疲弊しきっていて過労で倒れた。
僕がお金を借りる為に友人の家々に行っていた時だった。
僕が帰るまで彼女は…其の冷たい床に倒れて
僕の、遅い帰りを、待っていた…



そして、僕は…僕は

『どうして!! 娘の幸せを奪ったんだ!』

父親の言葉すら理解できなかった。
ただ…ただ、泣き崩れるしかなかった。
この僕が! この僕が!!!
この人を愛してしまった為にっ
この人の幸せを奪ってしまったのだ。
………僕が覚えているこの娘の父親の言葉は

『人殺しっ!! 私の娘を返せえっ』

それ以降僕は人を愛する資格を持っていない事を確信した。
そのときやっと分ったのだ。
分っても、もう遅いのに……



いつの間にか自分の眼から涙がこぼれていた。
昔の事をただ思い出しただけなのに。たったそれだけなのに。
やっぱり僕には人を愛する資格などないんだ。
ふと眩しい光が射している事に気づいた。もう朝になっていたらしい。
一晩中考え込んでいた事なんてほとんどなかった。
なんだか仕事をする気にはどうしてもなれなかった。
隅に置いてある僕が書いた絵がなんとなく無機物のようにしか見えない。
僕の心の傷はまだ癒えない。癒えるはずが無いのだ。
愛しても幸せにできないのだから。












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