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上海チャリンコ武侠伝

作者:冬城カナエ
──ポップでキッチュなんだけど硬派なアクション小説。中国武侠ドラマや香港映画好きの方にオススメします。
 方榮ファン・ロンは十七歳。上海市に住み、中心街の東部に位置する浦東高級中学校に通っている。日本で言うところの高校生で、少し冷たい雰囲気のする物静かな少年だ。
 父親は北京大学で教鞭を奮う中国古典文学の第一人者であり、儒教者だった。その父が二十年前ほどに旧ソ連のモスクワに留学していた時に、知り合ったロシア人女学生との間に生まれたのが彼、方榮である。
 彼の通う浦東高中は、中国にはまだ少ない私立校で、中国共産党の幹部を親に持つ方榮のような子供たちが数多く在籍していた。つまり、方榮は将来を約束されたエリートであり、何不自由ない生活をしていた。……たった一つ。両親と離れて暮らしていることを除いては。
 その朝も、方榮はいつものように青い上着の制服を着て、愛用の自転車に乗り、人民公園近くの自宅マンションから外へ出た。上海の朝はそれなりに騒々しいもので、出租車タクシーはけたまましく警笛を鳴らし、工事現場に向かうトラックは黄色い煙を絶え間なく吐き出している。
 歩道を走り散歩する老人たちをよけながら、方榮はふと異変に気づいた。毎朝必ず彼を迎えに来る“ご学友”たちが一人も姿を見せないのだ。もっとも、方榮は彼らを決して好いてはいなかったので、この異変をむしろ歓迎した。
「いい朝じゃないか」
誰に言うでもなく、そうつぶやくと、方榮はペダルをグッと強く踏み、自転車のスピードを上げた。
 シャッ、シャッ。
 ペダルを漕いで大きな福州路を走っていると、新しいものと古いものが交互に見えてくる。新しく出来たカフェ。新築マンションに挟まれた木造の洗濯屋。金色の縁取りのある石造りの古いホテル。そして工事現場。方榮は一人であることをいいことに、気まぐれに工事現場にそのまま自転車を乗り入れた。
 瓦礫やレンガの上を跳ねるように、自転車を自在に操り、華麗に跳び、走り抜けていく。その軽業の腕前は、雑技団も顔負けだ。
 現場の作業員たちが仕事をサボり、賭けカードをしているテーブルに出くわせば、わざとその上を走った。男たちの罵声を鼻で笑い、投げつけられた上着は右手でからめとってボールにして投げ返した。
「この餓鬼!」
ビール瓶が飛んでくると、小窓から外に飛び出してかわす。
 方榮は笑みを浮かべながら天を見上げた。うるさい取り巻きどもが居ないことが心地良い。こんな気分は久しぶりだ。このまま面倒な学校もサボってしまおうか。
 と、そう思った時、サッと日の光を遮るものがあった。
 ──レンガ?
 方榮は、とっさに空中で自転車ごと身体を回転させて、どこからともなく飛んできた石の塊をかわした。ザザァッ、と地面を滑りながらも、そのまま間髪入れず小石を拾って、廃ビルの窓に向かって投げつける!
 黒い影が飛び出し、宙でくるくる回転して地面に着地した。タタンッ、と後方に飛び跳ね、方榮と十分な間合いをとる。
「お前が、“龍殺青眼ロンシァチンヤン” だな!」
方榮は答えず、相手を見た。ダボついた人民服姿で、まるで年寄りのようだが、声は若く、同じ年頃の少年だと思われた。異様だったのは顔に巻きつけた白い布。その覆面のせいで、人相が全く分からない。
 もちろん、相手に心当たりはなかった。
「俺が龍殺青眼だとしたら、どうするんだ?」
 方榮は落ち着き払って、静かに相手に問いかけた。まるでこういった襲撃に慣れているかのように。
「俺の名前は“不帯虎ブーダイフー”! お前の悪行も今日までだ。観念しろ!」
一方、闖入者の少年は声高に叫び、強い視線で方榮を睨み付けた。パッと身体を縮めたかと思うと、バネのように高く飛び、双方の拳を突き出してきた。恐るべき速さだった。
 しかし方榮は、全く動じずにヒョイと前に動いて二撃をやり過ごした。その動きは武術の基本中の基本。自転車の上であったが、相手の死角に入り込む動きであった。
 ──自称、不 帯 虎(何も持たない虎 )。
 その名なら聞いたことがある。確か、静安高中の一匹狼の少年侠客(武芸者)だ。思い出しながらも方榮は、サドルに両手をつき、腰を浮かせて相手の懐に向かって蹴りを放った。
 襲撃者は、両腕でそれを防いだが、威力を殺せずに跳ね飛ばされた。
 方榮は、クルリと回ってまた元のように自転車にまたがった。 不帯虎も猫のように身体を丸くして壁に足を付き、地面に着地し、また構えをとる。左掌を前に突き出し、少しだけ腰を落とす。それは三体式と呼ばれる構えで、形意拳の基本形であった。不帯虎は、動物の型を多く取り入れた“柔”の拳──形意拳を習得しているようだった。
 どうやら……また“刺客”のようだな。方榮はため息をつく。
 “龍殺青眼”とは、確かに彼のことである。誰ともなく呼ばれるようになった二つ名だが、昨年、高中武林(武術会)を牛耳っていた徐江高中の“南天無雙” (ナンティエンウーシャン)こと朱文卓ジュウ・ウェンズオを半殺しにした事件の後に一気に定着してしまったものだ。
 方榮とて、好きで相手をぶちのめしたのではない。売られた喧嘩を買ったまでで、しいて言えば、朱が禁句を言い方榮の逆鱗に触れただけなのだった。
 しかし腕に覚えのある少年たちは彼を放ってはおかなかった。一睨みで龍も殺せるような冷たい視線を持つ方榮は、一夜にして東の帝王──東帝となり、望まずして高中武林界の頂点に立ったのであった。
「死ね!」
 不帯虎は、そう叫ぶと地面から跳ねるように飛んだ。内功による体術を駆使して、五公尺メートルほどの距離をたった一歩で間合いをつめてきた。
 全ての始まりは、小学生のころにまでさかのぼる。方榮は自転車のハンドルを握り締め攻撃に備えながら、昔のことを思い出していた。
 小学生の時、持ち歩いていた母親の写真。それを同級生に見られてしまったのだった。母親はその時すでに方榮の側にはおらず、同級生たちは彼と、彼の失踪した青い眼の母親のことを、様々な言葉でうわさするようになった。
 方榮は、彼と彼の母親に対する侮辱をゆるさなかった。面と向かって言われた侮辱には拳で答えた。勝てない相手には勝てるまで何度も勝負を挑んだ。強くなりたくて、路地裏で知り合ったツァイという謎の乞丐こじきに師事し、拳法を習ったりもした。
 その結果が今だ。母親を侮辱する者は少なくなったが、彼に勝負を挑もうとする者は絶えなかった。──例えば、この覆面の少年のように。
 方榮にとってそれは面倒なこと以外の何物でもなかった。高中武林という考え方自体が馬鹿馬鹿しかったし、帝王の地位などに興味は無く、早く他人に譲りたいと思っていた。しかしワザと負けることは決して出来なかった。それは彼の習得した“華拳”が負けることであり、師匠を侮辱するも同然であるからだ。
 だからこういう時、方榮が取る手段は大体決まっていた。
 突然、彼は自転車の向きをパッと反転させた。後輪を高く上げ、後ろ向きに相手の正面に躍り出る。攻撃をかわそうと不帯虎が屈んだところを、脱兎のごとく走り出す。
 つまり、撤退するのだ。
「に、逃げるのか!」
慌てたのは不帯虎だった。転がるように自転車を追いかけてくる。
 構わず方榮はペダルを漕いだが、なかなかどうして身軽な不帯虎は、ビルの壁や塀の上などを伝い、ピタリと後を着けてくる。
「俺が怖いか、軟弱者め! 龍殺が聞いて呆れるぞ」
「うるさい。お前、変な漫画の読み過ぎじゃないのか」
軟弱と言われムッとした方榮は、後ろを降り向き、鋭い視線を送った。
「俺はこれから勉学に励むんだよ。お前みたいなトンデモと、遊んでる暇はねえの。喧嘩だったら虹橋高中の“毒一孤”や、普陀高中の“黒掌仙姑”にでも相手してもらえよ」
「おのれ! よくもそんなことを!」
逆に不帯虎は頭に血が上ったようだった。「死ね」とか「殺す」などと叫びながら、素早く拳を突き出してくる。
 方榮は、その連戟を自転車の車体を使って、難なく牽制しながら、この少年を徹底的に無視することに決めた。
 それに気づいたのか、不帯虎は「タァッ」と気合の声を発して、空高く跳躍し、壁を二、三歩走って、方榮のはるか前に着地し、立ちはだかった。
「これは復讐だ!」
不帯虎は高らかに宣言するように言った。方榮は眉をひそめたが、自転車のスピードを全くゆるめない。
「忘れたか! お前が辱めた女学生は俺の幼馴染だ!」
「女学生?」
方榮はすぐ思い至って声を上げた。
「あの、静安高中の姑娘か?」
方榮と“ご学友”──もとい、手下たちが普段やっていることは、舞弊カンニングに教師いびり、喧嘩に敲詐カツアゲぐらいなので、女学生が関わった事件といえば一つだけしかなかった。
「そうだ! 俺は彼女の名誉を守るため、お前を血の海に沈めることだけを胸に、修行を積んだんだ!」
不帯虎は、スゥと呼吸を整え、まさに襲い掛からんとする方榮の自転車の猛攻に備え、構えをとった。右手を前に突き出し、左手を顔の前へ。形意拳の型の一つ、“虎形拳”だ。
「お前の手下は全て血祭りに上げてやったぞ。お前が最後だ! 龍殺青眼!」
「……なるほど」
 方榮は、手下が迎えに来なかった理由をそのとき初めて知った。自然と唇が笑みを形づくる。
 それは、凄みのある笑みだった。
「俺も連中をうざったいと思ってたんだ。ありがとよ!」
 キキーッ。方榮は、相手の顔前で急ブレーキをかけた。フワッと跳ね上がった後輪の威力にそのまま乗って、逆さまに空を舞う。
「何!?」
不帯虎の頭上でちょうど二回転。後輪からタッと軽やかに地面に着地して、そのまま走り去る。
 もちろん不帯虎は諦めず、また身を翻して、方榮を追ってくる。すごい執念だった。
 方榮は、手下たちを倒されたことに驚きこそすれ、怒りを感じることはなかった。取り巻きたちもそれなりの武術を使いこなす連中である。負けたならそれまでだったということだが……。さて、この不帯虎。噂よりもずっと腕が立つということか。
 少し興味は湧いたが、相変わらず相手をしてやる気はなかった。とにかく撒いてしまおう。そう思って、方榮は進路を変え、上海城──迷路のような路地が網目のように交錯する旧市街地へ自転車を向けた。
 ちらりと後ろを振り返ると、不帯虎の勢いは少しも衰えていなかった。復讐の念が彼を支えているのだろう。覆面の下から覗く眼から、恐ろしいまでの陰の気が放出されている。
 方榮は彼を見ていて妙な気分になった。そんなにも他人のために尽くすとはどんな気分なのだろうか。
 ──あの姑娘のため、か。
 若き帝王は、半年前のことを思い出していた。あの女学生のことは実によく覚えている。

 半年前の何の変哲もない日の放課後だった。手下の一人が方榮のケータイを鳴らした。
 「ファンさん、面白いものがありますから来てください」そう言われて渋々出向いたところ、連中がいつも溜まり場にしている廃屋に少女が一人。両手を縛られ、天井から吊るされていた。同い年ぐらいの短い髪の女学生で、制服のスカートや灰色の上着がところどころ裂けている。
 何なんだこれは、と少女を見上げ、方榮は手下たち五人を見回した。しかし返ってきたのは全て下品な笑みだった。
「静安高中の一年です」
手下の一人が言った。
「俺たちの小遣い稼ぎを邪魔してきたんで、捕まえました」
 方榮はうんざりし、嫌な予感に襲われた。
「お前ら、この姑娘に何かしたのか?」
「いや、生意気だったんで、少し痛めつけて暴れないように点穴を打っただけです。その後は……その、方さんから先に、と思って」
 ──ガンッ!
 怒りのあまり、方榮は近場の壁に拳を打ち込んだ。
 連中は、自分が“こんなもの”で喜ぶとでも思ったのか。龍殺青眼に無抵抗の女をいたぶる趣味があるとでも思ったのか。
 壁にくっきりと拳の後を残し振り返ると、手下は皆、恐怖に怯えて眼をそらした。それはまさに龍を殺すような視線で、正視できる者は誰もいなかった。
「な、何かご不満でも?」
手下の問いに答えるのも腹立たしく、方榮はそのままの目つきで、吊るされた女学生を見上げた。

 眼が合った。

 彼女は一瞬ひるんだが、負けずに強い視線を返してきた。憎しみのこもった強い眼だった。
 方榮は我に返り、女学生を睨むのをやめた。手下たちに視線を戻すと、呼吸を整え、感情を落ち着ける。
「分かった。彼女をもらっていく」
手下たちは、一転、きょとんとして自分たちの頭目を見る。なぜ、急に怒りを収めたのかが分からない。
 方榮はそんな彼らを無視して、手下の一人の腰にあった小刀を取り、タンッと飛んで少女の手首の縄を切った。自由になった彼女を宙で受け止め、ふわりと地面に降り立った。小刀を放って、少女を肩にかつぐ。
「お前らは付いて来るな」
 少女は身体のツボを突かれており、手足をよく動かせないようだった。後で治してやろう、と方榮は溜まり場を後にした。放心したように彼を見送る手下たちを残して。

 さて。さっさと開放してやろうと思ったのだが、外を歩くには格好がひど過ぎる。別の廃屋の一室に彼女を残し、方榮は自宅に戻り、赤いロングスカートを持ってきてやった。
 それは母親のものだった。
「貸してやるから、着て早く家に帰れ」
短くそう言うと、方榮は彼女を立たせ、背中のツボを数箇所、素早く突いてやった。
 一転、少女は身体をくるりと回し、方榮の顔面を狙って蹴りを放ってきた。息もつかせぬスピードだった。
 しかし方榮はその動きを読んでいた。左腕を上げて、その蹴りを肘で留めると、右手をまっすぐ伸ばして彼女の首をグッと掴む。
「やめろ」
方榮は相手の目を見て、言った。少女も彼を睨みつけながら、ゆっくり足を戻した。
 動きは読んでいたが、実のところ方榮はかなり動揺していた。龍殺青眼だとか東帝だとか呼ばれていても、彼は十七歳。少年の眼に今の蹴りは、恐ろしく刺激的だったのだ。
「苦しい。離してよ」
初めて、声を聞いた。縦に裂けたスカートから覗く白い足に視線を遣りそうになっていた方榮は慌てて手を戻し、彼女から離れた。
「俺たちには、もう関わるな」
顔を背け、少年は部屋を出ようと出口に向かった。ふと振り返ると、少女は母親のスカートをパッと取って両足を隠した。赤面していた。
 方榮が見た、女学生の姿はそれが最後だった。

 彼女の名誉、か。
 相変わらず、自転車を操り、不帯虎という少年侠客に追われている方榮は、女学生のことを鮮明に思い出していた。
 気骨ある娘だった。鈴のような声だった。そして、あの白い足──。あの姑娘のためだったらムキになるのも分かる気がする。そう思い、方榮は途端に不帯虎がうらやましくなった。
 少しだけ懲らしめてやるか。
 方榮は自転車に乗ったまま、跳んで塀に乗り、数公尺メートル走った後、隣の屋根に飛び移る。
「待て!」
追ってくる不帯虎。方榮は相手から見えないように、屋根の向こう側にサッと消える。
 不帯虎が飛び越えようと跳ね上がったところで、待ち構えていた方榮は自転車から飛び上がり、屋根の上に逆さまに手を付いて、相手の胸めがけて強烈な両足蹴りを放った。
「ギャッ」
 不帯虎は方榮の一撃をまともに食らい、踏まれた猫のような悲鳴を上げた。方榮が体制を立て直し、滑り落ちかけていた自転車に飛び移るころには、地上の茂みの中に頭から突っ込んでいた。
「そこで遊んでろ」
方榮は笑って、自転車をまるで馬がいななくように前輪を持ち上げた。返事はない。
 また追いかけて来られたらかなわん。方榮は、少し心配にはなったが、気を取り直して、屋根を飛び移り川へと向かった。
 浦東高中に行くには上海市中心部を横切る川──黄浦江を渡らねばならない。トンネルもあるが、渡し舟の方がいい。一回五角(約六円)だが、彼は無料で渡し舟に乗る方法を知っていた。
 タンッ!
 最も川に近い屋根から、方榮は跳んだ。風を感じながら滑空し、漁船を改造したような無骨な渡し舟の、屋根の上に着地する。
 間に合ったか。
 そう思った時、視界に人民服姿の少年が足や手を盛んに動かし飛んでくるのが映った。
「マジかよ……」
口に出して言うのと、不帯虎が船の屋根の上に着地するのはほぼ同時だった。
「ここなら、もう逃げられないぞ」
ゼェゼェ言いながら不帯虎は言った。さきほどの蹴りが効いているのに違いない。胸を押さえながら苦しそうに、構えを取る。
「もうよせよ、お前の負けだ」
 方榮は表情を消し、自転車に乗ったまま静止している。
「嫌だ。お前に一つ言ってやりたいことがある」
聞き分けのない覆面の少年は、フーッ、フーッと、まるで動物のように呼吸を整え、続けた。

「お前の、気のふれたロシア人の媽媽ママは元気かい?」

「──何?」
 方榮の声色が変わった。
 不帯虎は息を呑んだが、言葉を止めなかった。
「龍殺青眼の母親は気が狂ってるって聞いたんだよ。南天無雙にな。どうなんだよ?」
 揺れる渡し舟の上。カモメが、ひらり。二人の側を掠めて飛んでいく。
「お前、俺をわざと怒らせようと言ってるな」
「気が狂って死んだんだろう? ロシア女はさ」
 カシャン……。
 ゆっくりと、方榮の乗っていた自転車が倒れる。龍殺青眼は自らの足で立っていた。

「殺すぞ、餓鬼が!」

 不帯虎の前で、方榮は大きく足を開き、初めて拳法の構えを取った。彼が習得している“華拳”は、リーチの長い多彩な技を持つ“剛”の拳である。
「一、二、三!」
 方榮は飛び上がりながら、足を運び不帯虎に連続蹴りを三発、放った。
 不帯虎は内側から腕を開くようにして蹴りを受け、威力を外に弾いたが、止めきれず、三発目の蹴りを顔面に食らってバランスを崩した。後ろに尻餅をつきそうになり、ぐるんと床を転がり間合いを取ろうとする。
 しかし方榮のスピードが勝っていた。大きくなぎ払うように繰り出された手刀は不帯虎の顔面をかすり、すれ違い様に放った肘が背中にドンと打ち込まれる。
 「がはっ」
 不帯虎は息を吐き出し、攻撃によって、覆面が取れそうになっているのを慌てて押さえた。
 当然、そんなスキが命取りになった。
 方榮は肘打ちを繰り出した手で床を叩き、跳んだ。宙で回転し、頭上から雨あられのような蹴りを不帯虎に浴びせた。
 覆面の少年は顔を守るのが精一杯で、悲鳴を上げた。だが激昂している方榮に手加減はなかった。地に降り立つと間髪入れず、両手を左右に回し、円形を形作りながら、相手の胸に掌を叩き込む!
 不帯虎はみっともなく船の屋根を転がって、川に落ちそうな端まで追いやられた。
 一瞬の間があって、ガヤガヤと喧騒。乗客たち数人が、二人の戦いに気がついたらしい。下から観客が二人の高中生の闘いにやんや、やんやと声援を送り始めた。
 不帯虎は痛みを堪えながらも、体制を建て直し、低い姿勢で構えを取った。次なる攻撃に備えなければ、それこそ半殺しにされる──!
 しかし、次に続いたのは、妙な間であった。
 見れば方榮は両手を突き出したままの姿勢で、放心したように不帯虎を見つめている。やり過ぎたと思い、我に返ったのか。
 スキだらけだ! 不帯虎はチャンスは今しかない、と咄嗟に悟った。
「食らえ!」
 この一撃に賭けよう。不帯虎は一気に間合いを詰め、右の拳を渾身の力と気を込めて繰り出した。ゆら、と方榮が動いた。ただ突き出していた左手を戻し、掌で拳を受け止めようとする。
 ガツッ。
 鈍い音がして、方榮は体制を崩し、のけ反るように後ろに倒れていく。それは不帯虎の発勁だった。気の込められた一撃により、方榮のブレザーの袖が破れ、ピ、ピ、と腕の毛細血管から血が吹き出た。
 しかし帝王はタダでは倒れなかった。右手を戻し、なぎ払うように横から不帯虎の首を打ち、そのままドタン! 大きな音をさせて地に転がる。
 一方、首を打たれた不帯虎は宙を舞っていた。そのまま気を失い、川へ。放物円を描いて落ちていった。
 水音をさせて、小さな少年は川に落ちた。
 方榮は、左手の痛みに顔をしかめたものの、その音を聞き、慌てて身体を起こした。
 助けなくては!
 迷う間もなく、方榮は川に飛び込み、気を失っていた不帯虎を捕まえ肩にかついだ。ザバァッと、水しぶきを上げて跳び、また元の渡し舟の天板の上に戻る。
「おい、しっかりしろ」
身体を起こしてやり、覆面の上から頬を叩いた。ほどなくして不帯虎は目を開け、ギョッとして方榮から離れた。
「大丈夫か?」
「う、うん」
不帯虎は自分の身体をさすり、恐る恐る方榮を見た。帝王は、濡れそぼった上着を脱いで、ブルンブルンと振り、水気を切ってから、また羽織った。右腕の痺れがまだ取れないといった具合に、右腕を回したり振ったりしている。
 じっと見ていると、目が合った。
「なんだよ」
方榮が問いかけると、小柄な少年は怯み、いきなりわんわんと大声を上げて泣き始めた。
 困ったのは方榮だ。
「な、泣くなよ……」
 そろそろと近づいて、隣に腰を下ろす。
「悔しいよう。あんなに修行したのに!」
悔しい悔しい、と連呼しながら不帯虎は、バタバタと屋根を叩いて全身で悔しさをアピールした。
「いや、お前はよく頑張ったよ。俺の取り巻きをみんなやっつけたんだろ?」
何で慰めてんだろ。と思いながらも方榮。
「嫌だ嫌だ。アンタを倒したい! これから毎日つきまとってやる!」
「おいおい、勘弁してくれよ」
方榮は困った顔をして、覆面の下の瞳を覗き込もうとする。
「どうしたら、許してくれるんだ?」
「アンタが謝ってくれたら、許す」
「分かった」
帝王は何の躊躇もなく、襲撃者に頭を下げた。
「謝るよ。ゴメン」
「そんなんじゃ嫌だ!」
駄々を捏ねる子供のように、不帯虎は暴れながら言った。
「心を込めて、ちゃんと謝ってくれなきゃ嫌だ!」
「……。分かったよ」
 ズ、と方榮は身を引き、きちんと座りなおすと、背筋を伸ばし堂々とした姿で相手に頭を下げた。床に額を擦り付けるように、低く。
「済まなかった。謝る」
「な、」
言葉を失ったのは不帯虎だった。「何でそんなにすぐ謝るんだよ……」
「あの姑娘に悪いことしたと思ってるからだよ。あのバカどもがしたこととはいえ、な」
覆面の下で、不帯虎は目をパチパチやった。無言。こういう展開は予想していなかったとばかりに、呆然と相手を見つめている。
「あの、その……俺もゴメン」
やがて不帯虎は、恥ずかしそうに小さな声で言った。
「何が?」
「アンタのお母さんのこと、酷いこと言って」
「いいよ、別に。もう気にしてないから」
方榮は、足を崩しながら気楽な口調で返した。
「お前が言ってたこと、朱の野郎が言ってたことと、まるっきり一緒だったし。俺を怒らせようと思ってワザと言ったんだろ?」
「うん」
「俺のお袋は確かにロシア人だが、気も触れてないし、死んでもいない。北京で親父と仲良く暮らしてる」
「そ、そうなの?」
「昔は中国語も出来なかったし、こっちの生活が肌に合わなくて、ふさぎ込んでモスクワに帰っちまった時期もあったが、今は元気だ。麻婆豆腐だって作れるしな」
「じゃ、何であんな噂が?」
聞いていた不帯虎は驚いたように返した。
「俺を恐れる存在にしたいからだろ」
少年は眼前に迫った浦東地区の近代的なビル群に目をやった。再開発ラッシュを迎えた街が、霞の向こうにゆらゆらと像を結んでいる。
「人間そんなもんだよ。誰も本当のことから目を背け、信じやすいことを信じるように出来てんのさ。喧嘩に強い不良少年には妥当なエピソードが必要で、北京大学の名高い方教授の“ご子息”が問題行動を起こすことにも、もっともらしい理由が必要なんだろうよ」
 少年は言葉を切ると、眼を細め少しだけ悲しそうな顔をした。不帯虎はその横顔を見て初めて、彼を不憫だと思った。
「あのさ──俺、アンタの言うこと信じるよ」
「ありがとよ」
笑みを浮かべる方榮。不帯虎の声からも険がとれていた。
「アンタの眼、みんなが言ってるみたいに青くないし、龍も殺さないよね」
「だろ? みんな俺と目を合わせないから知らないのさ」
少年はニヤと笑ってから、両手を天へ。背筋を伸ばして身体をほぐしてから、自分の自転車を起こして対岸を見る。
「そろそろ着くぞ。俺はもう怒ってないから、お前もちゃんと学校に行けよ」
「ま、待って」
自転車に乗ろうとした時、不帯虎が慌てて前に立ちはだかった。まだ何か言うつもりなのか? 方榮は動きを止めて、じっと相手の出方を伺った。
「俺、アンタの友達になってやってもいいよ」
「いきなり何だよ」
方榮は突然の申し出に噴き出した。一体何を言い出すんだと思いきや、相手の目は真剣だった。
「アンタ、謝ってくれたし。本当は悪い奴じゃないから」
「友達なんか要らないよ」
言ってから、不帯虎が悲しそうな眼をしたのを見てとって、方榮は、しまった、と息を呑んだ。
「いや、あの、その、」
珍しく率直にモノを言えずに戸惑う方榮。不帯虎は不思議そうに相手を見て、あ、そうか。とつぶやいた。
「じゃあ義兄弟ならいいんだな?」
「何で、もっと関係が深くなるんだよ!?」
 鋭く突っ込んだものの、方榮は不帯虎の背中を叩き、大声で笑い出した。可笑しくて可笑しくて、心の底から笑った。何が可笑しいの? と今度は不帯虎が戸惑う番だ。
「お前、面白い奴だなあ」
ひとしきり笑った後、方榮は相手の肩にぽんと手を置いた。
「義兄弟になってやってもいいぞ、フー。俺の方が年長だから、俺が兄貴でお前が弟だな」
「いいよ、それで。負けたから弟だ」
覆面の下で、不帯虎は笑った。
 方榮が拳をグッと突き出すと、不帯虎も拳をつくりコツンとそれにぶつけた。
「俺のことはロンって呼んでいいぞ」
「分かった、榮兄。俺は……メイでいいよ」
「梅?」
「あっ、違ったっ」
不帯虎はパタパタと顔の前で手を振った。「えーっと俺、杜梅光トー・メイグァンっていうの。だから梅」
「梅、ね」
方榮は相手の動揺をワザと無視し、続けて問いかけた。
「それはそうと、その覆面はいつ取ってくれるんだ? 梅」
「だっ、駄目だよ。いくら榮兄でも、これは駄目」
恥ずかしそうに覆面を抑えながら、不帯虎──梅は言った。
「俺、すごい不細工なの。顔見せらんない」
「そんなことないんじゃねえの? まあいいけどさ」
笑みを浮かべたままの方榮。
 そこで渡し舟が港に着いたので、方榮は梅を促し、自転車の後部座席に立ち乗りさせた。わずかな助走で二人は仲良く船の屋根から跳躍し、手近な屋根に飛び移る。
「じゃあ梅。学校に行く前に一つだけ聞いていいか」
屋根の上で、相方を振り返り方榮は言った。
「いいよ。何?」
「朱の野郎に、俺のことを聞いたって言ってたな。一体、奴からどうやって聞き出したんだ?」
「南天無雙?」
梅は、ぽりぽりと頭を掻きながら答えた。
「まあ、力づくかな」
「そうなのか」
兄は、感心したように“弟”を見た。「アイツも馬鹿みたいに取り巻きを連れてるだろ? よく近づけたな……」
すると、梅は少し困ったような素振りを見せた。
「あの、まあ、ちょっと卑怯な手も使ったから」
「卑怯な手!?」
方榮は今度は驚いて弟を見る。
「どんな手を使ったんだ?」
「え? 何でそんなこと聞くの? 言えないよ」
「言えよ」
怖い顔をしながら詰問口調になる方榮。
「兄に言えないのかよ」
「ま、また今度ね」
手を掴まれそうになると、梅はパッと身を翻して、屋根から一瞬のうちに滑り降りた。
 軽やかに地面に着地してから方榮を見上げ、手を振る。
「またね、榮兄。そのことはそのうち……」
 方榮が手を振り返すと、覆面の梅は、嬉しそうに両手を振った。元気出してね、などと余計なことを言うと、背中を見せて、停泊中の渡し舟の屋根に飛び上がった。
 やがて、渡し舟が出ると、めったに見せない幸せそうな笑みを浮かべ方榮は、梅を見送った。

 梅、梅、梅……。口の中で何度もつぶやいてみる。
 方榮は思った。梅が自分から覆面を取ってくれるまで、何も言わないでいよう。“彼女”が居れば、くだらない学校生活も楽しくなるに違いない。
 今にして思えば、半年前彼女に食らったあの蹴り。あれほど“卑怯な手”もない。次に会うときには、朱にどんな“卑怯な手”を使ったのか必ず聞き出してやろう。と、方榮は心に固く誓った。


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