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ある靴の話

作者: Shin

 ところで、きみはどこでご主人様に買われたの?

 ああ、あの百貨店に入ってる靴屋か。最近あそこで買われる人多いから、きっときみの知り合いも大勢いるよ。ご主人様も金欠気味らしくてね。


 ぼく?ぼくは、こう見えて、青山の靴屋でオーダーメイドされたんだ。ほら、ご主人様はおしゃれだから、お金に余裕があるときはそういうところで買うんだよ。ぼくもその一人なんだ。今じゃあこんな有様だけど、昔はご主人様のお気に入りで、よそ行きの特別なコーディネートのときにしか使われなかったんだぜ。デートのときなんか、ぼくの働きで何人もの女性を口説くことが出来たと言っても過言じゃあないよ。


 え?そんなぼくがなんで今、こんなところでひっそりと待機してるのかって?こんな汚い格好で?

 いやあ、それには深い事情があってね。聞くも涙、語るも涙の物語さ。

 おや、きみ、右端にカビがあるね。そういえば近頃は梅雨で湿気が多いから、汚れたまま、ほんのちょっと放っとかれただけでカビが生えちゃうよね。ぼくも本皮製だからわかるよ。

 でも、まあそういうことなら、ぼくがなぜここにいるか話してあげようか。



 初めてここに来たときのことをぼくは鮮明に覚えてるよ。さっきも言ったけど、ぼくは青山にあるオーダーメイド専門の靴屋から来たんだ。ぼくを作った職人さんはそれはそれは腕が立って、ご主人様の注文通りに作ってくれたんだよ。

 ご主人様は足の採寸や、デザインに関する細かい注文のためにしょっちゅう店まで来ていたから、ぼくは買われる前からどんな人間だか認識していたよ。はぶりが良かったのもあるけど、当時のご主人様はとってもおしゃれだった。着るものは上から下まで全部考えられたコーディネートで、靴屋に来るにしてもただの一度だって同じ格好で来たことはなかったよ。

 そんなご主人様のもとへ買われることはとても誇らしくて、靴屋から家に帰るまでぼくは袋の中で揺られながらわくわくしたものさ。ぼくはこれからどんな風に履かれるんだろう、どんな衣装で、どんな日に履かれるんだろうってね。


 ご主人様の自宅は埼玉のはずれにある庭付きの大豪邸だった。と言っても、家には興味がないようで庭は雑草がぼうぼう、屋内はほこりだらけだ。外灯も割れていて、さながらお化け屋敷さ。二階建てだったけど、一人暮らしだからか階段から先には生き物の気配さえなかった。時折、木造の柱がまるで悲鳴のように乾燥した音を立てるぐらいしか、物音もしなかった。

 でもご主人様が使う範囲だけは、さすがに生活の色が見えた。玄関とその最寄の八畳間、それからもちろん下駄箱さ。家に着くと同時に、ぼくは玄関に置いてあった靴磨きで磨かれた。冬だったから、乾いた肌に油が優しく浸透していって、生き返った心地だったよ。


 下駄箱にはたくさんの仲間たちがいた。種類も色もいろいろで、スニーカーやらデッキシューズやブーツに革靴、全員が背の順に並べられていた。背の低いものほど上の棚、高いものは下だ。ぼくは見ての通り、ひざ下まであるブーツだから、当然一番したに入れられたよ。ご主人様の手にも届きやすい場所で、ほっとしたのを覚えてるよ。

 仲間たちは新入りのぼくにいろんな質問を浴びせてきた。いくらで買われたとか、皮はどこ産のものだ、とか。上の棚から滝のようにね。ぼくとしてはこれから一生過ごすだろう下駄箱の中で悶着を起こしたくはなかったけど、あまりにデリカシーを欠いた質問もしばしばで閉口した。それにぼくは、なにせオーダーメイドで生まれてるからプライドが高かった。どこで作られてどこで買われたかもわからないような連中に、ぐずぐず言われるのは我慢ならなかった。

 そんな中、ぼくの隣にいたブーツだけはただ一人黙っていた。背丈はぼくと同じくらい。体中をベルトでぐるぐる巻きにしていて、そこには無数のとげがぎらついていた。その人は泥にまみれたのか錆びたのか、もともと黒いであろう体をさらに暗くしてすっかり光沢はなく、ものすごい臭いを発していた。新品のぼくとしては臭いが移るのは避けたかったし、ただ傍にいるだけで気持ちが悪かった。

「おい、お前らいい加減にしろ。困っているだろうが」

 そのブーツが口を開くと、棚の中は水を打ったように静かになった。何人かの靴はがたがたと震えて、棚から落ちそうになっていた。ぼくの中で、彼の印象がガラッと変わった瞬間だったよ。彼の一言が全員を黙らせたのが、とても強そうに感じられたんだ。ああ、彼はここのボスのような存在なんだってね。もちろん臭いがきついことに変わりはなかったけど、それも「飾らない、無骨な男」なんて良いほうに解釈した。


 何日かたって、ぼくが始めて外に出る日がやってきた。期待と緊張で、ぼくの体全体が縮むような気がした。ご主人様はいつもより一層おめかしをしていて、ああ、これは何か特別な予定があるんだと胸を躍らせた。

 ご主人様はぼくをいつもより入念に磨き上げると、さらにその上に防水スプレーを振りかけて出発した。外は前日に降った雪がまだ溶け残っていて、とても滑りやすい状態だった。ぼくはご主人様が転ばないように細心の注意を払って足の置き場所を選んだ。ぬかるんだところで転んだりしたら、せっかくの洋服が台無しだからね。

「ご主人様、今日はどちらへ?」

「今日は意中の女性に会いに行く。やっとのことでデートの約束を取り付けたんだ。だから取って置きのお前を履いて行くのさ」

 ご主人様の言葉にぼくはとても感動して、思わず体中の皮が変色するところだった。

 相手の女性はすでに待ち合わせ場所に着いていた。年齢はご主人様よりも少し上で、けばけばしい化粧に、真っ赤なコートがとても印象的だった。待ち合わせ場所だった公園も、冬だからすっかり木も裸で閑散と人もいなくて、女性がとても浮いて見えたよ。

「ちょっと、遅いじゃない!こんなところで風邪でも引いたらどうするの?」

「いやあ、ごめんよ」ご主人様は笑顔で謝った。

 ぼくの目から見て、その女性はすこし高飛車な様子だった。年上なのも関係しているだろうけど、ご主人様への接し方も少しとげとげしかった。

 たぶん、いい所の令嬢なんだろうと思って、ぼくはご主人様の手腕に感銘を受けたね。というのも、ご主人様は二枚目でおしゃれで、その上女性には紳士的ときているけど、金銭的な部分から言えば決して人より優れているとは言えなかった。それなのにこんな上流階級の女性とデート出来るだなんて、ご主人様の内面はどれほど素晴らしいものなのか。

 相手の女性は終始いらいらしていたけど、結局二人は朝まで一緒にいたんだ。だからぼくはてっきり、このデートは成功したんだと思って誇らしい気持ちで家に帰ったんだ。


 けれど、それからさっぱり、ぼくが外に出る機会がなくなった。

 理由はわかっている。例の女性との二度目のデートで、ぼくは全身が油まみれになって、まだらにシミが出来ていたからだ。女性がディナーのときに怒っていくつかの料理を払い飛ばしたのがご主人様の足にかかったのだ。どうも一度目のデートのときから彼女には不満があったらしく、かなりヒステリックに怒鳴り散らした。結局その場はご主人様がなだめすかして、ようやく彼女も落ち着いたんだけど、おかげで一丁裏が台無しで、内心はご主人様もお怒りだったに違いなく、ぼくもあわや、と思った。

 一晩も放っておくと、シミはすっかりぼくの皮膚へと浸透していた。ご主人様はぼくを作った靴屋まで連れて行ったけれどすでに遅く、ぼくのシミはもう落ちないと言われた。新品で高価だったぼくがこうも早く汚れてしまったことにご主人様はひどく落胆した。実際、ぼくがご主人様に履かれたのは数えるほどの回数しかなかったんだ。


 シミが落ちないと分かると、ご主人様のぼくへの扱いはぞんざいになった。泥道も平気で歩くし、焼肉なんかの臭いがついても気にしなくなった。そうしてついに、ご主人様はぼくを履かなくなった。

 下駄箱の中で、仲間たちからさげすみの視線が向けられる。仲間たちはぼくの出自を面白く思ってなかったから、ここぞとばかりに陰口を言った。悔しくてたまらなかったけれど、ぼくには何も言うことが出来なかった。ここでは、ご主人様に使用されているかそうでないかがすべてだったんだ。

 だからぼくはご主人様が下駄箱を開ける度にアプローチした。

「ご主人様、今日のコーディネートも完璧ですね。その服装にはぼくのようなブーツが似合いますよ」

「ご主人様、最近安物のスニーカーばかりお召しですね。それでは女性も振り向きません。たまには、ブーツなんていかがですか?」

「ご主人様、今日は雨がひどいですよ。こんな日はブーツでないと」

 ぼくは精一杯、ご主人様に呼びかけた。けれど、ご主人様はぼくを見るといやな顔をして、すぐに別の靴を手にとってしまう。ぼくはめげずに呼びかけ続けた。するとご主人様は、今度はぼくの顔を見ることさえいやになったのか、ぼくを逆向きに入れなおした。

 あんまり悲しくて、戸が閉められた途端、ぼくは下駄箱の隅に向かって大泣きした。わっと仲間たちが笑い出した。本当にみじめな気持ちだったよ。このまま一生履かれることもなく下駄箱でほこりを被っているのなら、いっそ死んだほうがましだとさえ思った。


 そのとき、声をかけてくれたのが隣の薄汚いブーツだった。彼は仲間たちの笑い声を一喝して黙らせると、優しくぼくをなぐさめてくれた。その言葉にどれだけ助けられたことか。

「あきらめずに、待ち続けることだ。待ってさえいればいつかまた、きみを使ってくれるときが来る。きっと来るとも」

 それから、ぼくは彼とよく話すようになった。ふたりとも似たような背格好のブーツだったからか、意外にも彼との話題は多かった。あるときは靴の材料はどこであるべきか議論を交わし、あるときは梅雨どきの管理体制についての愚痴を聞いた。


 驚くべきことに、彼はぼくと同じようにオーダーメイドで生まれたらしい。かつてはご主人様のお気に入りの一足として、毎日のように履かれていたという。今の状態から言えば、とても信じられない話だった。

「それがどうして、全然履いてもらえなくなったの?」

 ぼくはおそるおそる尋ねた。すると彼は急に渋い顔をして「さあな」と言って、それっきりその日は話してくれなかったんだ。次の日になると元に戻っていたんだけど、何かを隠しているように見えた。

 考えてみれば、彼にはいくつか不自然なところがあった。ひとつには、彼がご主人様と出かける姿を見たことがない。もうひとつは、それにも関わらず彼はこの下駄箱に残っている。流行に敏感なご主人様はシーズンごとにたくさんの服や靴を処分する。ご主人様が、一度だけ履いたきりの靴を無造作にゴミ袋へと放り込むのを見たことがある。慈悲を乞いながら捨てられた多くの靴を、ぼくたちは戦々恐々と見送ったんだ。そのときも、ぼくの隣には彼がいた。ぼくは、捨てられた仲間たちと彼の顔をそっと見比べて気づいた。捨てられたやつらのほうが、彼よりもよっぽど着用頻度は高かったってね。


 ある日のことだ。騒がしい雨の音に僕が薄く目を開けると、血走った目をしたご主人様が、そっと隣から彼を取り出してどこかへと出かけていったんだ。時計はないけれど、おしゃべりな仲間たちの多くが寝静まっていたから、午前零時は確実に回ったはずだ。予定ではご主人様は昨日からデートで、帰りは朝になるはずだ。こんな時間にどうして、しかも彼を連れて出て行くんだ?

 翌朝目を覚ますと、ぼくの隣には当然のように彼がいた。疲れているのか普段より年老いて見えたが、彼の皮膚は磨きたてのように輝いて、しかし彼の悪臭は増していた。それ以外には、別段変化は見られない。ぼくが寝ている間に戻ってきたのだろうか。それとも妙な夢を見たのだろうか。尋ねてみようかとも思ったけれど、またはぐらかされた挙句仲が険悪になるのは嫌だったから、結局その場では黙っていたんだ。

 午後になって、ぼくがまだ聞き出せずにやきもきしているときに、ご主人様が勢いよく下駄箱の戸を開けた。ずいぶん焦っているらしく、服装は乱れて、ひたいには汗が浮かべながら靴を物色し始めた。

 おかしい。今日は外出の予定はなかったはずだ。

 見ると、ご主人様は携帯電話を片手に誰かと通話している。電話の向こうから聞こえる甲高いどなり声から、例の高飛車な令嬢だな、とピンときたんだ。

 今こそ名誉挽回のときだ。そう思ったぼくは見栄えがいいように顔を引き締めて、なおかつぼくに付いたシミが出来るだけご主人様の目に入らないように角度を変えた。そうしてきょろきょろと下駄箱を見まわすご主人様に、いつもより一際大きな声を出して言った。

「ご主人様!今日のお相手は以前ぼくが応対した方でしょう。それならぼくが行きます。前回の失敗を考えれば、ぼくがその方をなだめてご主人様との仲を取り持つ責任があると思います。ご主人様、どうか!」

 力の限り声を張り上げたぼくにご主人様は視線を向けると、少し考えてからぼくをひっつかんで外へ出た。閉まる玄関の向こうから仲間たちのブーイングが聞こえてきたけれど、まさに負け犬の遠吠えだった。だってぼくが選ばれたんだからね。


 待ち合わせ場所に着くと、真っ赤なコートを着た女性が携帯電話を片手に不機嫌そうな顔をしてベンチに腰かけていた。やっぱり例の令嬢だ。彼女はご主人様が来たのをみとめると、その顔を一層険しくしてこちらへ詰め寄った。

「あなた、人を馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ。これであたしを待たせるの、何回目だと思ってるの?」

「ごめんよ。あんまり突然の連絡だったから、用意するのに手間取ってしまったんだ。それに元あった予定もキャンセルしなくちゃいけなかったし」

 ご主人様の足がじわりと汗ばむのを感じた。女性の機嫌を直すのに嘘をついたためか、口調がしどろもどろになっている。

「あなたの都合なんか知ったことじゃないわ。それにその服装、全然センスが無い。とても用意に手間取ったようには見えないわ。その靴も前に見たことがあるし、そんな汚れたままでよくあたしの前に顔が出せたわね。失望したわ」

 そう言うと、女性はご主人様に唾を吐きかけて、そのまま帰ってしまった。ベンチの横で、ご主人様とぼくだけが呆然と立ちすくんでいた。

 帰宅してすぐに、ご主人様はまたあのブーツを手に取ると足早に外へ出て行った。足の筋肉収縮や乾き具合から、ご主人様は相当にご立腹の様子だった。大きなことを言ったくせに結局何もできなかったぼくは、下駄箱に放り込まれた後も放心状態だったよ。


 ぼくが放心状態から目覚めたのは、もう夜がとっくに更けてからだった。情けない話だけどいつの間にか寝ていたらしく、時間の感覚がはっきりしなかった。

「ようやく目が覚めたか」

 隣であのブーツが、ぼくにだけ聞こえるように顔を寄せて言った。

「やあ、どうしたんだい、こんな夜更けに?」

「お前が起きるのを待っていたんだ」

 彼は、怒っているようにも泣いているようにも見える神妙な顔をした。ぼくは昨晩にご主人様が血走った目をして彼を連れて行ったことを思い出した。

 この前のことを聞くなら、今しかない。そう思ったぼくは勇気を振り絞って尋ねた。すると彼は神妙な顔を崩さずに「今にわかる」とつぶやいた。

 しばらくして、ご主人様が下駄箱の扉を開いた。よほど急いでいるのか玄関も開けっ放しだ。ご主人様の背中にはざあざあ、と音を立てる大雨と時折光る雷が見えて、ご主人様はさながらホラー映画の怪人だった。

 ご主人様は下駄箱から彼をつまみあげ、今まで履いていた靴と取り換えた。

「それで、どいつになった?」

「はい。私の隣にいましたあのブーツが適任かと」

 彼が言うと、ご主人様はぼくをにらみつけて「あのシミがあるやつだな」と一言、蚊の鳴くような声を出した。ぼくは二人が何を話しているのかさっぱり分からなかったから、靴を履き終えたご主人様がぼくをつまんで外に出るときまで、ただその様子を見ているだけだった。

 玄関を閉めると、ご主人様は雨の中を傘を差さずに庭へと向かった。普段手入れもしていない庭のぬかるんだ泥の中を足元のブーツは平気な顔で進んでいく。ぼくも今さら雨粒が当たることぐらいは気にならなかったけれど、ご主人様と彼からは鬼気迫るものを感じてすっかり怖気づいていた。

 ご主人様は辺りを懐中電灯で照らして誰もいないのを確認すると、泥の中に手を突っ込んだ。そうして泥を四角く縁取るようにすると、徐々に鎖の形が現れてきた。ご主人様がそれをゆっくりと音を立てないように巻き取ると、なんと地下室の入り口が現れたんだ。

 驚いているぼくを尻目に、ご主人様はどんどん中へと進んでいく。あんなにうるさかった大雨も地下に入ってからはまるで聞こえず、ただご主人様の足音だけが響いていた。

 階段を下りて行くと、つきあたりに部屋があった。窓からは明かりが漏れている。ここに来てご主人様は懐中電灯を切ると、鍵を開けて中へと入った。

 部屋は真っ黒だった。少なくとも机に置かれたランタンの光が届く範囲は、床から天井に至る部屋の隅々が、まっ黒く変色していた。床はフローリングだったが、木材にも黒色が染みついているらしい。

 ご主人様はランタンを手に取ると、隅のほうにぼくを置いた。

「見ていろ」とあのブーツが言った。

 するとご主人様は、奥の部屋へ行って何かを引きずってきた。その何かが床や壁にぶつかり大きな音を立てて、その度にぼくは心臓が止まる思いだった。部屋の中央まで来て、巨大でひどく臭うその物体をご主人様はランタンの元に照らし出して、ぼくに見せつけた。

 あの令嬢だ!

 ぼくは目を丸くして見つめた。ご主人様が持ってきたのは真っ赤なコートを着たヒステリックなあの女性だった。長い髪は陸に上がった海藻のように不気味で体はあざだらけ、さらに胸のあたりにコートごと刃物で切られた跡があり、そこから出た大量の血が彼女をさらに赤く染め上げている。どう見ても死体だ。突然に凄惨な現場を目の当たりにしたぼくは、何も言えずただその場にいるだけだった。

 そうしているうちにご主人様は、大きなナイフとハンマーでもって女性を解体し始めた。用意された三つのバケツの中に髪、肉、骨、内臓が分けられていく。屠殺屋のような手際のよさだった。ただ血液だけは垂れ流していて、ナイフで肉を切る度、ハンマーで骨を叩き割る度に女性の体から膿のように血液が噴出して、まっ黒な床へと染み込んでいった。

 その血の海の中で、足元のブーツがずぶずぶと音を立てた。気味の悪い音だ。ぼくが思わず彼を見つめたときに目が合った。

「お前はあの女のことに責任を感じているんだろう」彼はにやりと笑って言った。

「よかった。これでようやく解放される」



 そうしてぼくは見事、ご主人様の死体処理を担当することになったってわけさ。前は知らなかったけれど、ご主人様は付き合っていた女性を今まで何人も殺していてね。その度に使わなくなったブーツを、死体処理用の靴として履いていたんだ。

 え、なんでこんな不気味な話をするのかって?

 いやあ、実はぼくのかかとのところには穴が開いて、もう血塗れの床を歩くことが出来ないんだ。ぼくの皮は血を吸ったまま放置されたせいでひび割れて、どこかから移ったのか腐食が始まっている。臭いもひどいし、もう働けないよ。

 それにうまいこと、きみにはカビが生えているね。

 よかった。これでようやく解放される。

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