イロコイ文化祭。(16)
呼吸が速まる。
緊張して、指先が冷たくなって、もうこのまま逃げ出したい衝動に駆られてしまう。
でも。
もう、逃げちゃいけない。
オレは意を決して、その扉に手を掛けた。
中に入ると、清潔な白が視界を支配する。
しんと静まりかえった保健室の中は、かすかに消毒液の匂いがした。
部屋の奥にはベッドがズラリと並べてあって、その1つ1つにカーテンが取り付けられていた。
「ああ、来たか」
一番奥のカーテンがシャラっと動いて、鳴沢先輩が顔を出した。
オレを見つけると、いつもどおりの優しい顔で笑ってくれる。
「よっ緒方」
「…先輩、」
なんだか罪悪感でいっぱいになって、オレは何かを言おうとして口を開いた。
が、止まった。
開いたカーテンの向こうから桐谷先輩が出て来て、今まで見たこともないような冷たい目でオレを睨んだからだ。
「おい、キリヤ」
少し焦ったような鳴沢先輩の制止もきかず、桐谷先輩がオレに近づいてくる。
立ちすくむオレの胸ぐらを掴んで、冷たい表情のまま口を開いた。
「――…本当なら、このまま殴り飛ばしてやりたいところだが…」
「っ、」
「そんなことをしたら、また透が泣くからな」
乱暴に解放される。
けほ、と軽く咳き込むオレには見向きもせず、桐谷先輩はそのままスタスタと出口の方へ歩いていった。
「待てよ、キリヤ」
その後を慌てて鳴沢先輩が追う。
去り際ちらりとオレの方を見て、何かをヒョイと投げてよこした。
購買で売られている、パックのお茶だった。
「それ、お前の分。…頑張れよ」
最後に付け加えられた言葉はどういう意味なのか。
くしゃりと、オレの頭を軽く撫でてから、桐谷先輩と一緒に部屋を出て行く。
ぴしゃっと扉が閉じられ、鳴沢先輩の姿が完全に見えなくなってしまったとき、オレはようやくのろのろとベッドの方へ目を向けた。
「…遼…平?」
かすれた声に名前を呼ばれ、正直な体がビクリと震えた。
感情が高ぶると、人は自然と早足になるという。
スタスタ歩いていく背中に、鳴沢は小走りでようやく追いついた。
憮然とした顔の隣に並び、その様子を横目でちらりと窺ってから、ふっと溜め息をつく。
「意外と不器用なんだよな、お前も」
「…何の話だ?」
低い声で応える桐谷に、鳴沢は苦笑を浮かべた。
「さっきのことだよ。あんな言い方して…緒方を怯えさせるな。ハッパかけたつもりか?」
「別に。思ったことを言っただけだ」
「またそんなこと」
やれやれと肩をすくめて、鳴沢は窓の外に目を向けた。
隣の教室棟では、店や出し物の後片付けをする生徒達が忙しそうに動き回っているのが、遠目にも分かった。わいわいと賑やかな声までも届く気がして、鳴沢はふっと目を細めた。
空が朱い。
徐々に光を失う世界がとても綺麗に見える。
秋の夕暮れをバックに、見慣れた校舎がまるで影絵のようにぼんやりと浮かび上がって、なんだか少し寂しくなった。
お祭り騒ぎ、2日目終了。
あと明日の後夜祭が終われば、今年の桜祭は全て終わりとなる。
自分たちの、最後の桜祭が。
「あいつら、うまくいくといいな…」
渡瀬は大切な友人だ。最後くらい良い思い出を残してやりたい。
鳴沢の呟きに、桐谷も暫くしてから「そうだな」と頷いた。答えるのに時間がかかったのは、渡瀬を傷つけられたことをまだ少し根に持っているからだろう。
そんな彼の横顔を見つめ、鳴沢は唐突に口を開いた。
「キリヤ」
「なんだよ」
「俺、お前を誤解してたかもしんない」
「あ?」
「今、急にそう思ったんだ」
腹黒だとか性格悪いだとか皮肉屋だとか根性ねじ曲がってるだとか鬼だとか悪魔だとか魔王だとか。
ずっとそう思っていたし、その認識が間違いだとは今でも思っていない。
でも、それだけじゃないのだ。
わざとクールに振る舞って、本質を隠してはいるけれど、今の鳴沢には桐谷の本当の姿が見える。
実際の彼はもっと、もっと温かい人間だった。
自分の“身内”を何よりも大切にして、時には自身のことさえ顧みないくらいに。
「…絶対に損な生き方してるよ、お前」
鳴沢がそう言うと、桐谷は少し歩調を緩めながら「うるさい」と返した。
まだ怒っているような声だったが、その目がほんの少しだけ優しくなっていることを、鳴沢は見逃さない。
2人でのんびりと廊下を歩きながら、ふりそそぐ茜色に手をかざした。
「後悔しても知らないぜ、俺」
「誰がするか」
フッと笑って桐谷は言った。
「嫌われ役は慣れてるさ」
「…このカッコつけ」
つられたように、鳴沢も笑った。
「なんで…来たの?」
「…っ、」
2人きりの保健室で、オレが息を呑む音は、嫌になるくらい大きく響いた。
渡瀬会長に近づくごとに、心臓の音が大きくなる。
声を聞くたびに呼吸が止まる。
問いかけに答えることも出来ず、オレは拳を握りしめた。
情けないくらい、震えている。
「…会長、オレ」
「――…僕が嫌いなんじゃなかったの」
「!」
体が動かなくなる。
違う、と言いたいのに、声がうまく出せなかった。
中途半端に開いたカーテンの向こうで、渡瀬会長がゆるりと首を傾ぐ。
「遼平?」
「…い」
「え、」
「…嫌いなんかじゃ…ない…」
蚊の鳴くような声で、そう言うのが精一杯だった。
重たい沈黙にそのまま崩れ落ちてしまいそうで、オレは俯いたまま身動きが取れない。
動いたら、そのまま倒れ込んでしまいそうな気がした。
そんなオレの情けない姿を、渡瀬会長はどう受け取ったのだろう。
随分と長く間をあけて、会長は「そう」と小さく頷いた。
「優しいね、君は」
「…は…?」
「僕に同情しているの?」
「っ、違う!」
反射的に叫んだ。
早まる呼吸をどうにか抑えて、顔を上げる。
「なんで…なんでそんなこと思うんですか? オレはただ…謝りたくて…」
「僕が哀れだから、だろう」
「え…!?」
「君は優しいから。だから来てくれたんじゃないの?」
「…違う!!」
カーテンの向こうに寂しそうな笑顔が見えて、オレは弾かれたようにベッドに縋り付く。
白い布地が翻り、間を遮っていたものが一切なくなった。
渡瀬会長は驚いたような顔をしていたが、オレはそんなもの気にしている余裕がなくて、ただ必死に叫んでいた。
「同情なんかで会いに来るかよ! なんで分かんないんですか!? あんなの…」
“あんたなんか大嫌いだ”
自分の言葉が脳裏に蘇り、胸がズキリと痛む。
後悔と自己嫌悪で涙が出そうだ。
再び俯いて、オレは白いシーツをぎゅっと握り込んだ。
「あんなの…嘘に決まってる…!」
こんなに好きなのに。
どんなに振り回されても憎めないくらい、好きなのに。
嫌いだなんて、よくも自分は言えたものだ。
―――…本当に嫌いになれたら、きっとその方が楽だったのだろうけど。
「…う、そ…?」
渡瀬会長が、信じられないといわんばかりの表情でオレに手を伸ばした。
長くて綺麗な指が、ためらいがちに頬へ触れた。
「僕のこと、嫌いじゃないの?」
その問いかけに、オレは無言でコクンと頷く。
まだ相手の顔をまともに見ることは出来なくて、それでも何かしなくちゃと思い、おそるおそる相手のシャツをそっと握る。そのまま渡瀬会長の腕に額を押しつけ、オレはくぐもった声で「ごめんなさい」と呟いた。
「遼平…」
「ひどいこと言って…すみませんでした」
オレが傷ついた分、きっと、この人はもっと傷ついたのだ。
そう思うと胸が痛くて切なくて、申し訳なさでいっぱいになり、また泣きたくなってしまう。
桐谷先輩に殴られても構わない。ただこの人に謝りたい。許されたい。
ベッドの横に膝をついて、オレは子供のようにしがみついていた。
そんなオレを見つめ、渡瀬会長は暫く黙り込んでいたが、やがて糸が切れたようにフッと微笑んだ。顔は見えないけれど、雰囲気で分かる。優しい手のひらがそっとオレの頭を撫でた。
「ありがとう」
「え?」
「いいよ、もう。よくわからないけど、きっと僕も悪かったんだ。それなのに君は自分から来てくれた。…嬉しいよ。本当にありがとう」
「そんな、」
どうして礼を言われるのか理解できず、オレは途惑った。
思わず顔を上げてしまい、渡瀬会長ともろに目が合って、恥ずかしさで顔が熱くなる。
慌てて目をそらすと、渡瀬会長はそんなオレを見てニッコリした。
「やっぱり僕は君が好きだ」
「な、…!?」
ぐい、と腕を引かれ、そのまま相手の腕の中におさまる。
それは一瞬の出来事で、抱きしめられていると気づくまでに、オレは数秒を要した。
「ちょ、会長…!」
「ごめん。さすがに泣き顔は見せたくないから」
「へ?」
「…嬉しくて泣きそうなんだ、今」
そう言った渡瀬会長の声は、確かに少し震えていた。
抱きしめてくる腕に、ぎゅう、と力がこもる。
まるで、手に入れた宝物をなくすまいとするかのように。迷子になっていた子供が、迎えにきてくれた親に縋るように。嬉しくて、安心して、しがみつく。ひどく弱々しい姿だった。
(そんな…オレ、まだ好きとか言ったわけじゃないのに…)
嫌いではないと言っただけで、この人はこんなに喜ぶのか。
その事実にオレは半ば愕然とした。
どうしてこの人は、そんなにもオレが好きなんだろう。
そして、どうしてオレは、今までそれを疑ったりなんかしたんだろう。
こんなに想われているのに。
(――…ああ、だめだ)
「オレも泣きそう」
小さく小さく呟いて、オレはそっと渡瀬会長を抱きしめ返した。
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