イロコイ文化祭。(15)
初めて出会ったのは初等部の頃。
彼はたくさんの友人に囲まれて、ニコニコと楽しそうに笑っていた。
最初は相手に興味なんか無かった。
同じ「優等生」でも、自分とは違うタイプなんだろうと考えていたから、特に親しくしたいと思わなかったのだ。
もちろんクラスメイトとして表面上は仲良くしたし、必要があれば一緒に行動したりもした。成績の良い者同士でグループを作るのはそう珍しいことでもなく、自分も彼も当然のようにその中へ組みしていた。とは言っても、彼はクラスの誰にでも優しく平等で、小学生ながらに教師からも一目置かれる聖人君子のような少年だった。
それが彼の本当の姿ではないと気づいたのは中等部の頃。
切っ掛けは些細なことだ。
放課後たまたま委員会で遅くなり、1人で教室まで鞄を取りに戻ったとき、偶然彼を見つけた。
普段なら、見かけても適当に挨拶するだけで、すぐに通り過ぎてしまっただろう。でも、その日は何故かそうする気にならなかった。
窓際の机に突っ伏して眠る彼の姿が珍しくて、だからつい近寄ってしまったのだと思う。
こんなところで寝たら風邪ひくぞ、と。
何気なく横から顔を覗き込んで、声を掛けた次の瞬間に、愕然とした。
彼は泣いていたのだ。
「ん…」
瞼が微かに震えて、小さく身じろぎをする。
相手がゆるゆると覚醒していくさまを、桐谷は呼吸さえ止めて見守った。
やがて。
「――…きりや?」
「起きたか」
幾度か瞬きを繰り返し、渡瀬が自分の顔を認識したのを見て、桐谷は安心したように体の力を抜いた。隣にいる鳴沢も、確かめていないけれど同じ表情をしているだろう。
「ここ、は…?」
ぼんやりした目で、渡瀬がゆっくりと周囲を見回す。
白いカーテン。白い天井。ほのかな消毒液の匂い。
学校の保健室だと、認識するのに通常よりも少し時間が掛かった。
そんな渡瀬の様子を気遣いつつ、鳴沢がそっと顔を覗き込む。
「倒れる前のこと、覚えてるか?」
「え…」
「お前、倒れたんだよ。花瀬さんがここまで運んでくれたんだ」
「…そうなの?」
「そうなのっ」
少し強めの声を出して、鳴沢はハァと溜め息をついた。
「疲れてたなら、一言いえば良かったのに」
「…別に…疲れてたわけじゃ、」
「じゃあ何で倒れたんだよ」
「…」
黙り込んだ渡瀬を見て、鳴沢は顔を曇らせた。
彼は暫く友人の顔を見つめた後、やがて諦めたように「ああもう」と呟く。どこか苦しげな表情を浮かべ、右手で前髪をくしゃりとさせながら俯いた。
「心配させんな、馬鹿…!」
そう吐き捨てて、鳴沢はベッドに背を向けた。
渡瀬の、かすれたような「ごめん」は果たして聞き入れてもらえたのだろうか。鳴沢は「…飲み物買ってくる」の一言を残して、いったん保健室を出て行った。
それを見送った渡瀬が目を細め、小さく溜め息をつく。
「――…涼があんなに怒ったのは初めてだ」
「怒ったんじゃない。心配してたんだよ」
「ボクを?」
「当たり前だろ」
「どうして」
「…お前が、危なっかしいヤツだからだよ」
言いながら、桐谷は横たわる渡瀬の髪をそっと梳いてやった。黒く細い髪はサラサラと指通りが良く、撫でている方も心地よい。親友相手に今更どうこうする気も起きないが、こいつ女に生まれていたら美人だっただろうな、といつも思う。髪も、肌も、目も、男にしては綺麗すぎるくらい綺麗だった。
痛々しいほどに傷ついた今でも、なお。
「―――…何があった?」
短く問いかけると、渡瀬は静かに目をそらした。
別に桐谷は、答えることを強制したわけではない。普段の彼からは想像できないくらい、口調はとても優しいものだ。ただ単に相手のことを気遣って問いかけただけなのだ。
でも、それが解っていても、渡瀬は目をそらさずにはいられなかった。
「嫌なら答えるな」
そんな相手の様子に微苦笑を浮かべ、桐谷が言った。
ひどく優しい手つきで、再び渡瀬の髪を撫でてくる。女子供じゃないんだから、と渡瀬が言っても聞きはしない。もしかしたら桐谷は、ただ自分が安心したいがために、渡瀬に触れているだけかもしれない。もちろん渡瀬も、親友にそうされるのが嫌なわけではなかったから、拒否することはしなかった。ただ大きな手のひらに、ふっと目を細めた。
気持ちいい。
「…そろそろ起きられるか?」
「うん」
のそのそと起きあがる相手に手を貸し、その顔色が随分と良くなっているのを見て、桐谷は安心した。最初に彼を見たときは、その青白さに自分までも血の気が失せる思いをしたのだ。
普段けっして弱みを見せない渡瀬だからこそ、桐谷は相手のことが心配だった。
いつもいつも、彼はギリギリまで我慢する。
馬鹿なヤツだといつも思う。
そんなヤツを大切にしている自分も、相当な馬鹿なんだろうとは思ったが。
「宗吾」
「は…」
起きあがった渡瀬が、唐突に自分の名前を呼んだ。
なんだよ、と応える前に抱きしめられる。
背中に回った相手の手が、かすかに震えているのに気づいて、桐谷もハッとした。
渡瀬が自分を下の名前で呼ぶのは、彼がひどく弱っているときだけだった。
「…どうしたんだよ」
抱きしめ返してやりながら、小さな声でそう尋ねてみる。
渡瀬は回した腕に、ぎゅう、と力を込めて俯いた。
「僕、は…」
今にも消え入りそうな声。
遠く離れた教室棟の方から、生徒達の場違いな笑い声が響いてきて、ただでさえ掠れがちな渡瀬の言葉をよりいっそう聞こえにくくさせてしまう。今日一日のお祭り騒ぎが、まるで別世界のことのようだ。
それでも、桐谷には解った。
渡瀬のこの表情を知っている。
あのときと同じだ。
泣いている。
涙もこぼさずに、堪えて堪えて、心の中で泣いている。
「透…?」
言いかけて黙り込んでしまった相手へ、静かに呼びかける。
腕の中で彼は小さく身じろぎをして、それから疲れたように口を開いた。
「本当に僕は…救いようのない馬鹿だよね。君や涼の忠告も聞かないで、ヘラヘラ笑ってばかりいたから、大切なものをなくしてしまった」
「…何をいきなり」
「今ほど、自分が嫌になったことは無いよ」
無表情なのがかえって痛々しい。
桐谷の肩に、こてん、と顔を乗せた渡瀬は、ぼんやりと白い壁を見つめていた。
ねぇ宗吾、と。
別人のように覇気のない声で、力無く桐谷の名前を呼んだ。
「確かに僕は馬鹿だけど…――…面と向かって大嫌いと言われて、平然と笑っていられるほど、脳天気なわけでもないんだよ」
「…!」
怒りにも似たやりきれなさで、呼吸が止まりそうになる。
桐谷は何も言わずに、空いている方の手で渡瀬の頭をそっと撫でた。
(大嫌い、と…)
言われたのか。
あいつに。
緒方遼平に。
きつく目を閉じ、どうして、と桐谷は思った。
どうしてあいつが、そんなことを言ったのだろう。
そんな心にもないことを。
「…きつかったか」
「うん、かなり」
当然のことを尋ねても、渡瀬はまったく声の調子を変えずに答えた。
しかしその後、急にネジが緩んだかのように、ふっと自嘲気味に微笑する。
「情けないね、…震えが止まらない」
「透」
桐谷は撫でる手を止めて、もういい、と囁いた。
もういい、もういいから。
自分で、傷口を広げるようなまねをするな。
「違うんだよ…透」
ゆるゆると首を振って、桐谷は口を開いた。
どうしてお前は、自分のことになると鈍いんだ。
「―――緒方はきっと、わからなくなってしまっただけだよ。何も解らなくて、混乱して、思ってもいないことを言ったんだ。…お前が傷つく必要はない。それはあいつの本心じゃないんだから」
「…なんで君に解るの」
「離れた場所で見ている方が、理解できることもある」
相手の震えが少しおさまったのを確認し、桐谷は体を離した。
自分が言ったことを理解しているのかいないのか、渡瀬は「だけど」と呟き目を伏せる。
「だけど宗吾、…僕はもう、」
ガラ。
渡瀬が何かを言いかけた、そのとき。
扉が開く音がした。
「―――…涼」
「ただいま」
扉のところに立っていたのは鳴沢だった。
腕に、購買のお茶を4人分かかえている。
空いた方の手で扉を閉めてから、鳴沢は2人に飲み物を差し出した。
「渡瀬、寝起きだから喉が渇いただろ。片付けの方は滞りなく進んでるみたいだし、ゆっくり飲んでいけよ」
「…ありがと」
「悪いな」
桐谷も礼を言いながら、鳴沢から飲み物を受け取った。
しかし、その表情はどこか怪訝そうだ。
「…涼。どうして4人分買ってきた?」
今ここにいるのは、渡瀬と桐谷と鳴沢だけである。買ってくるなら3人分だけで良かったはずだ。
鳴沢の方も、そんな桐谷の疑問を予測していたらしく、大して表情を変えずに「ああこれ?」と余った方のお茶を持ち上げて見せた。
「もうすぐ1人増えるからな」
「…どういう意味だ?」
「緒方が来るんだよ」
さらりと答えて、鳴沢は渡瀬の方を見た。
大きく目を見開き、声も出せずにいる友人を、鳴沢は少し申し訳なさそうに見つめた。
「勝手なことして、ごめん。…でも、こうしたほうが良いと思ったんだ」
そう告げてから、ためらいがちに桐谷の方へ目を戻す。
わずかな逡巡の後、鳴沢はこう言った。
「さっき竹下に言って、探しに行かせた。…多分、もうすぐ緒方はここに来るよ」
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