イロコイ文化祭。(12)
ポケットの中で、ケータイがぶるぶると震えている。
それを取り出した藤野は、表示された番号を見て小さく息をついた。
檜山という、父親の部下の番号だった。
『お嬢。不審人物です』
通話ボタンを押して電話に出ると、前置きもなく低い声でそう告げられた。
案の定だと思った藤野は、女子高生らしからぬ落ち着きを持って「そう」と呟いた。
「場所は?」
『敷地の北です』
「人物の特徴」
『身長は170センチ前半、金髪の若い男です。年の頃は二十歳前後…おそらく十八か十九歳くらいですね。服装からして、あまり柄が良さそうには見えませんでした。人気の少ない場所をあてもなくフラフラしていて…どこか苛ついているようにも見えました。目つきも宜しくありません』
「なるほどね」
しばらく考え込んだ後、藤野はケータイを耳に当て直しつつ口を開いた。
「まだ断定は出来ないけれど、確かにそれは怪しいわ。引き続き監視をお願い。決して気づかれないようにね」
『わかりました。…ところでお嬢』
「何?」
唐突に声の調子を変えた檜山を、藤野は怪訝に思いながら聞き返した。
すると、電話の向こうの父の部下は、少し躊躇いがちな口調でこう続けた。
『さっき…校舎の方から、緒方遼平と思わしき人物が走り去っていくのが見えたのですが』
「え?」
『しかも、走っていった方向が、先ほどの不審人物と全く同じでして』
「なんですって」
目を見張った藤野は、思わずケータイをギュっと強く握りしめた。
まさか。いや、でも。そんな。
重たい沈黙が、電話を通して2人の間に落ちる。
『…お嬢?』
黙り込んだままの上司の娘を心配して、檜山がそっと名前を呼ぶ。
すると、藤野は何やら気がついたような表情を浮かべて、クスッと小さく笑みを零した。
「檜山。…その不審人物の特徴を、もう一度言ってくれるかしら」
『は? え、ええ』
突然の変化に驚きながらも、檜山は言われたとおり先ほどの言葉を繰り返す。
金髪に、赤いピアスをつけた、柄の悪そうな若い男。
そして年の頃は、18歳か19歳。
昨年度の卒業生はちょうどそのくらいだ。
「もしかすると…もしかするかもね」
自分の予想が当たることを願って、藤野はそっと目を閉じ微笑んだ。
どうやって校舎を出て来たのかも覚えていない。
ただ、走った。
気づいたときには1人で走っていた。
「はぁ、はぁ」
敷地の北側は、日当たりが悪いし一日中じめじめしているので、あまり人が集まらない。
ぐしゃぐしゃの顔を誰にも見られないように、オレは校舎の影や狭い隙間をすりぬけるようにして走り続けた。
遠くで、ざわざわと楽しそうな人々の声がする。
それら全てが憎らしくて、情けない自分も腹立たしくて、オレはただ逃げつづけていた。
渡瀬会長の顔が、ちらちらと脳裏に浮かぶ。
目を見開いて硬直して、青ざめながらオレを見つめていた。かすれるような声で名前を呼んだ。
それを拒絶してしまった。
自分のやったことが相手を傷つけたのだと、混乱した頭でもそれくらいは理解できる。
だけど。
「…オレだって…!」
オレだって、傷ついた。
どうして、いつもいつも、こんなふうに気づかされなきゃいけないんだろう。
胸が痛い。じくじくと、奥から血があふれてくるような気がする。
ああもう手遅れだ。
オレはあの人を好きになってしまって、嫌いになれなくて、それなのに強引に手を振り払ってしまった。
これでおあいこだ。
渡瀬会長も、オレも、きっと同じだけ傷ついた。
嫉妬からくる八つ当たり。
オレは多分、当然のように渡瀬会長の傍にいる、花瀬さんの笑顔に嫉妬したんだ。
そして、花瀬さんの傍で微笑む渡瀬会長が、その事実が、どうしようもなく口惜しかったんだ。
だって。
だってオレは、渡瀬会長と笑いあったことなんか一度もない。
「…っ…」
(これも、自業自得、って言うのかな)
今まで渡瀬会長を拒絶してきたのはオレ自身だし、男同士の恋愛なんか有り得ないと豪語してきたのもまた、オレ自身だ。周囲の言葉に耳を貸さず、ただあの人の気持ちから逃げ続けた。
そして、自分の気持ちからも。
―――…何を躊躇ってるのか知らないけどさ、そんなんだと、手遅れになっちゃうよ。
―――…そーそー。よく言うじゃん。大切なものは失ってから気づく、って。
天宮兄弟の声が、エコーを伴って蘇る。
確か、体育祭のときに言われた言葉だ。つい昨日のことなのに、もう随分と昔のことのように感じる。
無機質な人形たち。
あのときは、その言葉に大した意味なんか無いんだと思っていた。
でも、違うんだ。
双子はオレの気持ちを見透かしていた。
(もう、消えたい)
ばかじゃないの、と。
五月先輩の、呆れたような冷然とした表情が浮かぶ。
まるでオレをあざけるように、冷たい響きが何度も頭の中に響き渡った。
(…ほんとはわかってた)
オレはとんでもない臆病者だ。
本当は、ただ恐ろしかった、だけなんだ。
自分の世界が変化していくことや、それまでの価値観が破壊されてしまうこと。
それが、オレはどうしようもなく怖かったんだ。
だから逃げた。
逃げ続けた。
その結果がコレなのだ。
「はぁっ…」
息を切らし、オレはその場にずるずると座り込んだ。
第2体育館の裏、体育用具室の前。最近はほとんど物置代わりとしてしか使われず、滅多に開かない扉の鍵は、すでに埃やサビで変色していた。
服が汚れるのも構わずその壁に背をもたせかけ、オレは膝頭に額を押し付けて俯いた。
制服のズボンに、じわりと染みが広がって黒くなる。
まだ泣いているのかと、自分の情けなさに溜め息が出た。
女の子じゃあるまいし。
自分から相手をフっておいて泣くなんて、お前はなんて馬鹿なんだと罵ってやりたくなる。
これからどうしたらいいんだろう。
こんなひどい顔じゃ皆のところに戻ることも出来ないし、だいいち今は誰にも会いたくない。
本当に、どうしよう―――…。
しゃがみこんだまま、このまま時間が止まればいいと、オレは半ば本気で願っていた。
それからどれくらい経ったのだろう。
さくさく、と音がした。
雑草を踏み倒して、誰かがこちらに歩いてくる、足音。
さく、さく、さく。
やがてそれは目の前で止まった。
沈黙が周囲を支配して、暫くは何の物音も耳に届かない。
いつまで経っても立ち去ろうとしない他者の気配に、オレはのろのろと顔を上げた。
「お前、泣いてんの?」
唐突に、目の前の男がそう尋ねてくる。
知らない声だった。
若い男の、少しぶっきらぼうで他人に無関心な口調。
座り込んだまま動かないオレを、具合が悪いとでも思ったのだろうか。それとも、たまたま通りすがったところにオレがいたから、声をかけてみただけなのか。
どちらにしろ有り難くない。
今は1人でいたい。
「…違います」
オレは嘘をついて立ち上がり、さりげなく目元を拭った。
顔をあまり見られないようにしながら制服の汚れを払い、相手の横をすりぬけ逃げようとする。
でも、それは出来なかった。
その男がサッと腕を出して、オレの逃げ道をふさいだからだ。
「何が違うんだ? ひどい顔してるぞ、お前。そんな情けないカッコで、どこに逃げるつもりなんだよ」
「…」
初対面とは思えないズケズケとした喋り方に、少しムッとする。
オレは泣き顔を見られないよう再び俯き、ほっといてくださいと呟いた。
親切だか気まぐれだか知らないけれど、今は他人と話す気分じゃない。慰めなんかいらないから、早く一人にして欲しかった。
何も考えずに、いっそのこと、あの人のことまで忘れてしまいたかった。
なのに。
「こっち見ろ」
そんなオレの肩を、見知らぬ男はガシッと掴んで、無理矢理自分の方に振り向かせた。
びっくりしたオレは思わず体を硬くする。泣きはらしたせいで真っ赤になっている(と思う)目で、まじまじと相手を見つめ返した。
バサバサの金髪。片耳に赤いピアス。
黒のTシャツとジャケットに、穴あきジーンズ。
じゃらじゃらのシルバーアクセ。
見るからにヤンキーな男の姿に、オレはたじろいだ。
「な、何…」
「お前が緒方遼平?」
「!」
名前を当てられたことに、オレは驚いて息を呑む。
その反応で自分の言葉が正しかったことに気づいたのか、そのヤンキーみたいな男は小さく息をついた。
「そっか…やっぱりな。渡瀬が好きそうな顔だと思った」
「は? え、ちょっと、何なんですか」
混乱しそうになりながら、オレはどうにか逃げようと身をよじる。
離してください、と訴えると、相手はようやく気づいたように「ああ悪い」と言って、オレの肩から手を離した。
「――…どうしてオレの名前を、」
聞きたいことは沢山あったが、とりあえずそれだけを尋ねてみる。
男は小さく肩をすくめて、最初の時と変わらないぶっきらぼうな口調でこう答えた。
「お前の話を、三杉のヤツから聞かされてたんだよ。メールも電話も、そりゃもう嫌になるくらい沢山な」
「え?」
「脅されてたから仕方なく来たけど…やっぱり合わせる顔がなかったし。どうしようか迷ってたところにお前が来て…もしかしたら緒方遼平じゃねーかと思って声かけたんだよ。正解で良かった」
「そ、それって」
オレは、今まで泣いていたことも忘れて目をパチパチと瞬いた。
情けない顔を隠すことさえ忘れ、目の前の相手を凝視する。
唐突に確信した。
この人は去年の生徒会関係者だ。
そして、例の事件の当事者―――…。
「ま、まさか、あなたは…」
半信半疑でその名前を口にしようとした。
その瞬間。
「―――駿河!」
三杉さんの声が、静かな敷地にハッキリと響いた。
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