世界は彼を中心に廻っている。
「宗吾」
歌うような調子で名前を呼ばれた。
本部席に座ってモニターに目を通していた桐谷は、溜め息を吐きながら顔も上げずに「なんだ」と答える。わざわざ見るまでもなく、声の主は分かり切っていたからだ。
そんな態度を、相手はあまり快く受け取らなかったらしい。
「あら、ぶっきらぼうなお返事。冷たいのねぇ、せっかく私があなたのために働いてあげたっていうのに」
ふぁさ、という衣擦れの音と共に、甘い香りと柔らかな腕がまとわりついてくる。
背後から抱きつかれて、桐谷はうんざりしたようにメガネを押し上げた。
「宮子。離れろ」
「やぁよ」
クスクスと笑いながら、声の主…―――藤野は、仏頂面の幼馴染みの頬をつんつんと指で突いた。
「ほら、何か言うことがあるでしょう?」
「…」
「私は、あなたのために働いたのよ?」
にっこり。
首に絡みついた、藤野の腕に力がこもる。
身の危険を感じた桐谷は、わかったわかったと両手を挙げて「降参」のポーズをした。
「ありがとう。おかげで助かりました。…これでいいか?」
「よく出来ました」
藤野が満足げに頷いて、ようやく体を離した。
悪魔の腕から解放された桐谷は、安心したように小さく息をつく。
そして、何やら物言いたげな顔で見つめてくる放送席の1年生に、「見せ物じゃないぞ」と言って実況の続行を促した。
「…まったく。軽々しく、誰かに誤解されるような行動を取るな」
にこにこと悪びれない宮子を、横目で精一杯睨みつける。
「あら。私に言ってるの?」
「お前の他に誰がいる」
リレーを間近で見物するためか、教師や来賓などの大人達は殆ど出払っていたので大丈夫だったが、もし見られたらどうするつもりだったんだと桐谷は眉をひそめた。実行委員が仕事そっちのけで女子といちゃついていた、なんて噂がたてば、苦労して取り戻した生徒会の信用も水の泡だ。
「平気よ。そんなヘマしないわ。誰も見てないのを確認してから抱きついたんだもの」
「女が、恋人でもない男に抱きつくな」
「いいじゃない。私とあなたの仲でしょう。小さい頃は結婚の約束だってしたわ」
「あれはママゴトだろ。お前に脅されて仕方なくやってただけだ」
「冗談の通じない人ね」
つまらなそうに肩をすくめた藤野は、桐谷の隣の椅子をひいて、そこに腰を下ろした。
「ところで、計画は順調? 大将さん」
「まあまあだな」
「渡瀬君は気づいたかしら」
「多分。まぁ今さら気づかれたところで、どうってことはないが…」
言いかけて、桐谷はふと藤野を見やった。
「おい、そういえば高月はどうした。お前と一緒じゃなかったのか」
「ああ。鈴子なら、お使い中よ」
「…お使い…?」
「そ。お使い」
くすくす、と愉しげに笑って、藤野はモニターを覗き込んだ。
「かわいい鈴子。私のお願いなら、なーんでも聞いてくれるのよ」
「…何をやらせる気だ?」
「大したことじゃないわ」
外は小春日だが、本部のテントの中は影になって、少し薄暗い。目の前に並ぶ6つの小型モニターの光が、藤野の人形のような顔をぼんやりと浮かび上がらせて、なんとも不気味だった。
「安心して。あなたの邪魔はしないから」
少女の笑みが深くなる。
「あの子、なかなか有能なカメラマンなのよ。乙女会の幹部ともあろう者が、こんなおいしい場面を放っておけるはずがないじゃないの」
藤野はそう言いながら、つつつっと指先で画面をなぞった。
彼女の白い指先は、6番目のモニター…―――緒方遼平と天宮五月の姿をたどり、そしてそのまま隣のモニターへ移動した。映っていたのは渡瀬で、ちょうどバトンを受け取る瞬間だった。
「!」
「…うふふ。いよいよクライマックスね」
唇の端を引き上げ、くつりと微笑む少女の顔は、背筋が冷たくなるくらい絵になっていた。
そんな2人の横で、放送部の1年生がマイクに向かって声を張り上げる。
「放送します!! ただいまバトンが第4走者から第5走者に渡されました!! トップは依然として紅組!! 大将の渡瀬会長が、妨害者を蹴散らしながら走り、その後に少し遅れて白組第5走者が続きます!! そして妨害者達の魔の手が次々と―――…っ」
声が止んだ。
桐谷が怪訝そうに見やると、その1年生は「副会長〜」と泣きそうな顔をしていた。
「放送機器の調子が悪すぎですよぉ。予算で新しいの買えませんか?」
「…考えておく」
桐谷は苦い表情で答えた。
と、そのとき。
「ただいま〜」
鳴沢が、ふてくされた皐月を引きずって戻ってきた。
桐谷の顔を見ると、彼は「ごめん」と両手を合わせて苦笑した。
「予定より遅くなっちゃった」
「何かあったのか」
「皐月のせいだよ。こっちに来る途中で、急に気が変わったとか言い出して、五月のところに戻ろうとするんだもん。引っ張ってくるのに苦労した」
鳴沢は苦笑混じりで言いながら、いまだに仏頂面の皐月(一見すると普段通りの無表情だったが、唇の先が微かに尖っていた)の背中を軽く叩いて、「ほら」と傍の席に座るよう促した。
「何をそんなに怒ってんだよ。どうせリレー終われば会えるだろ?」
「…」
「さつきー?」
「…皐月くんは反抗期に入りました」
「はぁ?」
「鳴沢先輩なんか嫌いです。もう口ききたくありません」
「小学生かお前は…」
双子の気まぐれ――というか、皐月のワガママには慣れっこだったので、今さら怒る気にもなれない。
やれやれと溜め息を吐いて、鳴沢は桐谷の左隣(右隣には藤野がいた)に腰を下ろした。
「五月に、ちゃんと渡せたか?」
「ああ。例のアレ? 大丈夫だよ。ちゃんと使い方も教えておいた」
答えながら、鳴沢は珍しく不敵な微笑みを浮かべた。
もともと勝負事は嫌いじゃなかったし、やっぱりやるからには勝ちたいと思うものだ。相手を騙したり、陥れたりという行為は得意じゃなかった(得意になりたいとも思わない)が、ただ純粋に“ゲームに勝つ”ための手段だと考えれば心は痛まない。
鳴沢は、そんな自分が決して嫌いではなかった。
(緒方はかなり買い被ってくれているようだけど、俺はそんな御大層な人間じゃない。善人からは程遠いし、狡さも脆さも、人並みに持ち合わせているんだよ)
「作戦は予定通り決行する。お前は暫くモニターの傍で待機しててくれ。いざとなったら遠隔操作を頼む」
「了解」
頷いてから、鳴沢はチラリと後ろを振り返った。
いまだにふてくされている皐月は、敵の作戦会議になど全く興味がないようで、五月達のいる中継地点の方をぼんやりと見つめていた。
「敵の副将は、警戒しなくても良さそうだ」
苦笑して、鳴沢はしゅるりと額のハチマキを外した。
「人員配置も完璧。道具の準備もOK。あとは、五月がそれを使いこなしてくれるかどうかだな。それと…」
「それと?」
藤野が、興味津々と言った表情で身を乗り出してくる。
押しのけられた桐谷が小さく呻き、それを見た鳴沢は少しだけ口元を引きつらせながら、こう言った。
「敵の大将の出方次第、かな…―――」
11、12、13、14、15。
ああもう、数ばかり多くて鬱陶しい!
渡瀬は走りながら、バトンを奪おうと群がってくる参加者達の腕をかいくぐった。
投げつけられる小麦粉爆弾を避け、足を引っかけるため幾重にも張られたロープを軽やかに飛び越え、その他もろもろの妨害にも全く怯むことなく、一気にコースを駆け抜けていく。
そんな渡瀬の進行を阻止しようと、中にはかなり過激な行動(たとえば隠し持っていた危険物を使ったりとか、大人数で一斉に襲いかかってきたりとか)に出る者も少なくない。そんな相手に対しては、渡瀬は容赦なく本領を発揮した。
見物客やカメラからは決して見えないアングルで、一瞬のうちに蹴りやら手刀やらを敵に叩き込む。思わぬ反撃を受けた男たちは、わけもわからぬまま気絶した。
(おじいちゃんに教わった護身術が、こんなところで役に立つとは思わなかったなぁ…)
新たにやってくる妨害者を次々と昏倒させながら、渡瀬はのんびりとそんなことを考える。
彼が走った後には、返り討ちにあった妨害者達の屍が累々と重なっていた。
とは言っても、神経に少し衝撃を与えて麻痺させただけだから、数分もすれば意識を回復するだろう。だが渡瀬が暴力をふるったという証拠はどこにも残らない(はず)だから、特に心配はない。妨害者達が目を覚ました頃には、自分はもうあの子のところへ着いているだろう。
「すっ、すごいッスね渡瀬会長! 俺のサポートなんかいらないくらい!」
渡瀬の後ろを必死で走る2年生が、ぜいぜいと息を切らしながらそんなことを叫んだ。
彼は紅組の第4走者で、バトンを渡した後、渡瀬を妨害から守るためだと言って一緒に走り始めたのだ。ルール上、走り終わった選手は、自分より後に走る選手のサポートをしても良いということになっている。
「大丈夫? 疲れてるんなら、君はココで抜けてもいいんだよ」
「いいえ、そんな! 今さら戦線離脱なんか出来ません! 俺は渡瀬会長を、アンカーのところまで無事に送り届ける義務がありますから!」
陸上部に所属しているのだというその2年生は、ぐっと拳を作りながら熱く言った。
渡瀬はそんな彼に微笑みを浮かべながら「ありがとう」と礼を言って、ついでに、彼に襲いかかろうとしていた妨害者の足をさり気なく引っかけて転ばせた。
「今、どのくらいかな?」
「たぶん半分くらい進んだと思います! 待ち伏せしてる参加者も増えてきてますし!」
「そっか、まだ半分か」
道をふさぐ体育用具を難なく飛び越え、待ち伏せしていた参加者の腕をかいくぐり(そのうち何人かには眠っていただき)、2人は走り続けた。
女性の見物客の殆どは、目をハートマークにして渡瀬に黄色い声援を送っていたが、遼平以外に興味のない渡瀬は彼女たちに見向きもしない。
彼はただ、前だけを見て走り続けていた。
と、そのとき。
「渡瀬会長、危ないっ!!!!」
「え?」
どん、と背中を押されて前のめりになる。
次の瞬間、後ろでバサバサバサ!と布がこすれるような音がした。
振り向けば、渡瀬の後ろを走っていた2年生が、参加者達の投げた網に捕まって、地面に突っ伏したまま身動きが取れなくなっていた。
「石山君!」
「…くっ…」
網は幾重にも重なり、そう簡単には抜け出せそうにない。
彼がもがいている間にも、妨害者達は迫ってくる。
悔しさに唇を噛みしめた後、石山と呼ばれた2年生はキッと渡瀬を見上げた。
「渡瀬会長…俺はもうダメです」
「石山君」
「どうか俺のことは構わず、はやくアンカーのところに行ってくださ」
「了解!」
「決断早!!」
石山のセリフを聞き終える前に渡瀬は走り出した。
「君の犠牲は無駄にしないよ石山君!」
「会長! 実は俺の名前、石山じゃなくて石川です!!」
哀れな石山…否、石川少年は、そのまま妨害者達の餌食となり、10分後に担架で救護室へと運ばれた。
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