いったい何を考えてるの。
バトンが第4走者に渡った。
元気な一年生の声で、そんな放送があった。
「いよいよ俺らの出番だな〜。うわぁ緊張するぅ」
隣で武者震いをする同級生に小さく笑って、渡瀬は「そうだね」と頷いた。
計算で言えば、あと20分…いや、15分も無いだろうか。
んー、と伸びをしながら、さり気なく周囲の気配を探る。ぼちぼち、妨害のために参加者達が近づいてくる頃だ。
(1人…2人……3…4…5……6人か。まだ少ないな)
自分でも少し驚くくらい、落ち着いていた。
足には自信があるし、段差だらけの校舎内で行う鬼ごっこに比べれば、多少の障害物は問題じゃない。
渡瀬は運動部には所属していなかったが、スポーツは趣味でやっているし、休日は鳴沢のトレーニングに付き合うこともあったから、体力面では何の心配もしていなかった。
まぁ結局のところ、自分のことはどうでもいいのだ。
大切なのは1つだけ。
(遼平、大丈夫かな。怖がったりしてないかな)
そんなことを考えて、渡瀬は思わず笑ってしまった。
―――これは杞憂というのだろう。
何も心配することはない。あの子は運動部のトップクラスで、我が校の数少ない特待生のうちの1人だ。
彼は中学時代から様々な大会で実績を積み、そこを買われて桜木高校に入学した。
足の速さや頭の回転、その他基礎的な身体能力も、同年代では群を抜いている。きっと精神面も強いのだろうし、こういう厳しい場面だって、何度も経験してきたに違いない。
ちょっとやそっとで、揺らぐような子ではないのだ。
自分なんかが、心配することさえおこがましい。
(むしろリレーより、ボクのことを恐れているんじゃないだろうか)
そう思うと、少しだけ寂しくなった。
ここ最近の彼の態度を思い出す。あからさまに自分を避けて、まともに目さえ合わせてくれない。
とうとう愛想を尽かされたのかと、痛む胸を押さえながら渡瀬は溜め息を吐いた。
――…何を今更。
嫌われていることくらい、最初から分かっていたじゃないか。
(きっと恨んでいるだろうな。毎日のように追いかけて、無理やり生徒会にまで入れさせて…)
だけど、それでも一緒にいたかった。
ワガママであるのは重々承知の上で、友人達に協力してもらって、強引に彼の傍へ居続けた。
罵られてもいいから、声が聞きたいと思う。
泣き顔も、怒ったときの目も、喚く姿でさえ愛しかった。
たとえ負の感情でも、あの子が自分に向けてくれる想いなら、どんなものでも受け止められた。
(いや…違う)
受け止めるしかなかった、というのが正しい。
どんなに苦しくても寂しくても、背を向けることなど出来なかった。
自分はそれしか手に入れられないのだから。
遼平を抱きしめるたびに心の奥が熱くなって、それなのに決して満たされることはない。
だからずっと追いかけて、抱きしめて、拒まれて、また欲しくなって追いかけて。その繰り返し。
胸の奥にある熱は冷えることなく、むしろ炎のように段々と肥大していった。終わりのない、不毛な悪循環だ。
どうしてだろう。
目を閉じたとき、瞼の裏に浮かぶあの子の顔は、いつも自分への負の感情で陰っている。
(―――…ああ、そうか)
今更ながらに渡瀬は気がついた。
自分は、あの子の笑顔を知らないのだ。
「さてと。とうとう俺達2人きりになっちゃったね、緒方」
「変な言い方やめてください」
「あーあ、不安だなぁ。あとで渡瀬会長に殺されなければいいんだけど」
「人の話を聞け」
皐月先輩と鳴沢先輩が本部に帰り、オレは五月先輩と2人きりで柔軟体操をしていた。
ぺたんと地べたに座って、足を開きながら前屈をしていたら、五月先輩が珍しく「手伝ってあげるよ」と言ってオレの背をゆっくり押してくれた。
「懐かしいな」
「え? 何がですか」
「中学の頃ね、よく皐月のトレーニングに付き合ってやってたんだ。こういう柔軟体操とか、やっぱり1人より2人でやる方が良いらしいからね」
「ああ…そういえば皐月先輩って、陸上やってたんでしたっけ」
「うん」
そのとき、背中から重みが消えた。
顔を上げると、オレから手を離した五月先輩が、どこか遠くを見るように目を細めていた。
「速かったよ、皐月は。高等部のコーチや顧問の先生が、皐月の練習見るために中等部まで来てたくらいだもん」
「へぇ〜!」
オレは目をぱちくりさせ、そのまま「すごいですね」と言おうとした。
が、五月先輩の表情を見た途端それは引っ込んで、オレの口は「す」の形に開いたままで固まってしまう。何ともマヌケな顔だったが、そのとき五月先輩は、オレの方を見てはいなかった。
「いつき、先輩…?」
「…ん。ああゴメン」
ふっとオレの方に目を戻した五月先輩は、もう普段通りの人形のような顔をしていた。
だからオレは、もしかして見間違いだったのかな、と目を擦る。
―――…一瞬、五月先輩が泣きそうに見えた、なんて。
「何じろじろ見てんの」
「いてっ」
かなり強い力でデコピンをされ、オレは思わずガクンと仰け反った。
「交代だよ。次、緒方がオレの背中押して」
「…わかりました」
さっきの表情が少し気になったが、何だかこれ以上尋ねちゃいけないような雰囲気があったので、オレはそのまま素直に五月先輩の後ろに回った。
その背中は細身に見える割になんだか厚くて、筋肉もちゃんと付いていた。まるで運動部みたいだ。もしかして双子は着やせするタイプなのかな、とオレは何となく思う。
「…何?」
しげしげと眺めていたら、五月先輩が怪訝そうな顔で振り返った。
「あ、いえ。すいません」
オレは慌てて首を振った。
そして、ゆっくりと背中を押し始める。
「あんまり強く押さないでね。俺、運動不足だから足の筋が痛んじゃう」
「ハイハイ」
「ハイは一回」
「はーい」
「伸ばしちゃ駄目」
「注文が細かいですねぇ、お客さん」
「礼儀の問題だよ、これは」
「さいですか」
礼儀、という言葉が、あまりにも五月先輩に不似合いで、オレは思わず笑ってしまった。
そして。
ピー・・・ガガッ
『放送します!! ただいまバトンが第4走者から第5走者に渡されました!!』
「「!」」
その直後に、スピーカーが割れてしまいそうなほどの声がオレたちの耳に叩き付けられた。
『トップは依然として紅組!! 大将の渡瀬会長が、妨害者を蹴散らしながら走り、その後に少し遅れて白組第5走者が続きます!! そして、―――…っ』
ぶつん。
古びた放送器具のせいか、それきり実況が途絶えてしまう。
オレは無言でスピーカーを見つめた。
背後で、じゃり、という音がする。五月先輩が立ち上がり、オレの耳元に唇を寄せた。
「よかったね、緒方。もうすぐ逢えるよ」
ぞくりと背中が粟立つような、甘く冷たい囁き。
振り向くと、人形が嘲笑っていた。
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