魔王とヤギ。
息が切れて、オレは立ち止まった。
すぐ横にあったコンクリートの壁に手をつき、胸を押さえながらハァハァと荒い呼吸を繰り返す。
どれくらい走ったんだろう。グラウンドのざわめきは大分遠くなっていた。
逃げることに夢中になっていたから、どうやってここに来たのかよく覚えていない。ただ、渡瀬会長の顔を見た途端、頭の中が真っ白になって、いてもたってもいられなくなってしまったのだ。
―――君は、そんなに僕が嫌いなのかな―――
違う。
そんなことない。
…思わず、そう答えそうになっていた。
「くそっ」
悔しまぎれに、だんっ、と拳を壁に打ち付ける。
表面がざらついたコンクリートに思いっきり叩き付けたせいか、手の皮は破れ、うっすらと血が滲んだ。
その痛みに、少しずつ自分を取り戻していく。
混乱しきっていた頭が、冷めていった。
「ここは…裏庭?」
見回してみる。
周囲は静かで、人っ子1人いない。
校舎の影になった草むらは、しおしおと枯れて湿っぽかった。
―――どうしよう。
オレは溜め息を吐きながら、よろり、とコンクリの壁にもたれかかった。
(いきなり逃げ出しちゃって…みんな変に思っただろうなー…。今更どんな顔して戻りゃいいんだよ…ちくしょう)
昼食休憩に入る直前だったから、陣地の周りには生徒がいっぱい集まっていた。
多分そのほとんどが、オレと渡瀬会長の一部始終を目撃していただろう。
会話の内容までは分からないだろうが、オレが渡瀬会長を突き飛ばして逃げた、という事実だけは明白なのだ。
それを考えると、心がどーんと重くなった。
(…いっそ、このまま校舎内まで逃げよっかな…)
幸い、弁当は1―Bの教室に置いてある。
誰かが探しに来たら、1人で食べたいからと追い払えばいい。(相手が簡単に諦めてくれるかどうかは微妙だが)
とにかく、渡瀬会長本人と顔を合わさないようにすれば何とかなるだろう。
安直だが、オレは単純にそう考えていた。
とりあえず今は、頭を冷やすことが最優先。
渡瀬会長に会ったら、それは絶対無理だって分かり切ってる。
1人の弁当は少し寂しい気がしないでもないが、まあ背に腹は代えられない。
(午後になれば大分ほとぼりも冷めてるだろうし…それまで1人で大人しくしていよう…)
壁の冷たさに身を預け、オレがぼんやりとそんなことを考えていた、そのときだった。
「こんなところにいたのか」
聞き覚えのある声に、びくりと肩が震える。
振り向くと、長身の3年生が、どこか呆れたような顔でオレを見つめていた。
「…桐谷先輩」
なんでここに。
呆然と呟くオレに対し、桐谷先輩はわざとらしく肩をすくめ、やれやれと溜め息を吐いた。
「紅組陣地の方が騒がしいと思ったら、お前が走っていく姿が見えたんでな」
それで、追いかけてきたらしい。
理由はよく分からないが、オレは何となくバツが悪くて「すみません」と呟いた。
「別に謝らなくてもいい。…それより、何があったんだ?」
桐谷先輩が近づいてきて、オレの顔を覗き込む。
まっすぐ目を合わせることが出来なくて、オレは自分の足下を見つめた。
「なんでも、ないです」
「うそつけ」
「ほんとです」
「じゃあ、なんで透が泣いてたんだ」
「え…っ!?」
びっくりして顔を上げた。
「泣いて…た…? 渡瀬会長が?」
呆然として呟くと、桐谷先輩は少し考えるように眉を寄せ、首をひねりながら、
「―――いや。実際に泣いてたわけじゃなかったな。でも、泣きそうな顔をしていたよ。あいつは表情を隠すのが上手いから、ほとんどの人間は気がつかないだろうが…。少なくとも俺には、あいつが泣いているように見えた」
「…」
「原因はお前だろ」
平淡な声に、オレは再度うなだれた。
無表情の裏で、相手が何を考えているのか、少しだけ理解する。桐谷先輩が何だかんだ言いながら渡瀬会長のことを大切に思っているのは、誰の目にも明らかだ。
…だから、なんだかオレは、すごく申し訳ないような気持ちになってしまう。
そのまま何も言えずに黙っていたら、やがて桐谷先輩は小さく溜め息を吐きながら、「別に責めてるわけじゃない」と言ってオレの頭に手を置いた。大きい手だった。
「お前の気持ちは分からんでもないが、とりあえず今はその情けない表情をどうにかしろ」
そう言った桐谷先輩は、オレの両頬を掴んで思いっきり引っ張った。
ビックリしたオレは、顔の肉が引き連れるような痛みにじんわり涙を浮かべる。
「いひゃひゃひゃひゃ…! ひょ、ひりやへんはひはひふふんへふは…!」
「お前が落ち込むと透が泣く。だから、無理をしてでも笑っていろ」
「ほんなむひゃな…!」
「無茶じゃない。お前だって、惚れた人間が悲しむことなんか望んでないんだろう?」
ぱっと手が離れる。
オレは目を見開いて相手を見つめた。
「…え…」
どういう、意味。
ぽかんとしているオレを見て、桐谷先輩は肩をすくめた。
「バカだな。気づかれてないとでも思ったのか」
「…あの、何が…」
「お前、透のことが好きだろう」
「ッ!?」
声にならない悲鳴をあげて、オレは酸素不足の金魚のようにパクパクと口を動かした。
なんで、なんで、なんで、なんで…っ!
「――…気づかない方が、どうかしてると思うがな」
メガネの奥で、桐谷先輩が目を細める。
「最近、様子がおかしかっただろ。あからさまに透のこと避けるし、目が合えば真っ赤になって逸らすし、必要事項以外はまともに口も聞かない。それなのに、たまにポーッとした顔で見惚れてたりして…」
「う、うそっ!」
「本当だ。顔に「恋してます」って書いてあるようなもんだった。…多分、気づいてないのは本人だけだぞ」
「…!!!!」
恥ずかしさのあまり、顔が熱湯をかぶったように熱くなる。
オレは声も出せずに、ずるずるとその場に沈み込んだ。
それのどこが面白いのか、桐谷先輩はクックッと喉の奥で抑えたような笑い声を出す。
「まったく。可哀想な奴だな、お前は。とうとう奴の毒牙に掛かったか」
「…ど、毒牙って…」
「悪魔からはもう逃げられないぜ。早めに観念するんだな」
しゃがみこんで、桐谷先輩はまた笑った。
どこか芝居がかった口調で言いながら、にっこり微笑んでオレの手を取る。
目があった瞬間、背筋を冷たいものが駆け抜けた。
「歓迎するよ、哀れな生け贄」
真の悪魔がそこにいた。
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