4-36 神々の遊技場 『前編』
澄み切った空間に張りつめたような緊張が支配している。息をするのも忘れたレイの耳は自分の心音だけを捉えていた。
少し手狭な室内。藁の床板では無く、磨かれた大理石の床に足を揃え跪き、頭を垂れている人物を食い入るように見た。いや、正確には人では無い。
顔を伏せているため、誰だが判別できないはずだった。だけど、レイにはその女性が誰なのか一目で分かっていた。
薄手のトーガの背中に波のように広がる、目も覚めるような青い髪を誰かと見間違えることは絶対にありえなかった。
「……アンタは……神様か?」
やっとの思いで放たれた言葉は油を差し忘れた機械のように錆びついている。その声に反応して女の細い肩がピクリと震えた。
そして、ゆっくりと頭が持ち上がると、魂すら吸い込みそうな漆黒の瞳と視線が交錯した。
エルドラドに来て、二か月近く。
遂にレイは彼女と再会した。
「お久しぶりですね―――御厨玲様」
「時の神……クロノス」
レイが彼女の、女神の名前を呼ぶと、クロノスは誰もが認める美貌を歪ませた。まるで、今にも泣きだしそうな子供のようにレイには写った。実際、彼女の瞳から涙が列をなして落ちた。
トーガの袖口で顔を覆ったクロノスの前でレイは魂が抜けたかのように呆然と立ち尽くしていた。五日間の修業が終わって、まさかこのような展開になるとは想像しておらず、脳味噌が機能を停止していた。
言いたいことは幾らでもあった。
怒鳴り散らし、喚き散らし、罵りたかった。
これまでのレイの境遇を思えばそれは当然だった。脳が停止している最中でも、どす黒いマグマのような感情がレイの中でうねりを上げていた。
―――しかし。
「………………はぁー」
長い沈黙から吐き出されたため息が全てを押しとどめた。ここで感情の赴くままに行動するのは集会所での失態の二の舞だと理性が働いた。
それに。
(こんなに涙を流している人に……何をぶつけろっていうんだよ)
トーガの袖口で顔を隠したまま、嗚咽を漏らしたクロノスを前にしてレイは怒るに怒れなくなっていた。彼はクロノスの前に座ると泣いている彼女の頭へと自然と手を伸ばしていた。
ほとんど無意識の行動だった。
レティなどにしていたのと同じ気持ちで手を伸ばしていた。
しかし。その手はクロノスの青い髪に触れる事は出来なかった。指先は彼女の頭髪の中へと沈んでしまった。
そのまま手が彼女の中へと潜りこむと、レイは慌てて手を引っこ抜いた。その際の衝撃なのか、クロノスの体がぶれた。
「もしかして、ホログラム?」
「……ぐす。……貴方の知識で一番近い表現をすれば、ホログラムや立体映像の類です。……本物の私は観測所に居ます。ここに居るのは姿と声を交わすための写し身です」
ようやく涙を流し終えたクロノスはトーガの袖口から顔を上げて説明した。目元は腫れ、鼻を啜る姿はまさに初めて会った時と同じだった。
二人は無言のまま視線だけを交わらせる。恋人のような甘い逢瀬では無く、どちらも話のとっかかりを求めるように困っていた。
レイは視線を彼方此方へと飛ばして話のタネになりそうなものを探した。しかし、室内にはそれらしいものは無かった。
周囲は白い水晶の壁で覆われていた。見上げればどこまでも高く伸びていて、天井は眩い光で覆われている。調度品なぞ無く、鏡のように磨き上げられた大理石の床にレイは直接座っていた。
「……ここが……『聖域』なんですね」
「はい。ここは今のエルドラドにて13神が人の子らと直接会話できる数少ない場所です。……アマノメもちゃんと場所を伝えれば良かったのですが……あれはプロメテウスに仕えていた精霊。私の為にそこまではしてくれないという事でしょう」
無念そうに呟いたクロノスに対してレイは視線を鋭くした。まるで刃のような鋭い視線にクロノスはびくりと体を震わした。
「ど、どうかしましたか玲様?」
クロノスの呼びかけにレイは固い表情のまま答えた。
「やっぱり……見ていたんだな。これまでの戦いを……僕の旅を」
敬語を付ける余裕がレイの中から消えた。予想はしていた事が事実だと判明して心が掻き乱される。
「―――っ! ……気づかれていましたか。……どうしてその事に気づかれたのですか?」
レイは一度目を閉じると、慣れた風にステータス画面を操作して、ある部分を確認すると同時に、精神を安定させた。
それは称号の欄だった。誰かが見る訳でも無いと考えて、そのままにしていた称号を読み上げた。
「『スライムに負けた男』。これが原因です」
瞼を開けたレイに対してクロノスは今一つ理解が及ばないように首を傾げていた。彼女に向けてレイは説明を続ける。
「最初、称号は僕が何かを達成したり、失敗した事柄に反映されて追加されたと思っていました。でも、それだと辻褄が合わない。スライムに負けたのは事実です。だけど、僕が負けた時間軸は《トライ&エラー》でやり直した過程で消えています」
レイはエルドラドでの最も古い記憶を引きずり出した。スライムに殺されて、初めて死に戻ったあの時。
初めて開いたステータス画面に、すでに『スライムに負けた男』は付いていた。その時は不思議に思わなかったが、リザ達に《トライ&エラー》の説明をしていた時に矛盾に気づいた。
時を巻き戻した時点で、スライムに負けた事実は消えて無くなるはずだった。なのに、あの時点で『スライムに負けた男』は称号欄に登録されていた。
この矛盾を説明するなら可能性は二つ。一つは称号の入手に記憶が関係する場合。
そしてもう一つが。
「称号を付けているのは……13神の誰かじゃないですか? つまり、貴方たちは僕の行動を見ていた事になります」
「……お見事です。……その称号を貴方に与え、セットしたのは兄です」
クロノスが認めるまでレイの中でもこの可能性は半信半疑だった。しかし、彼女が認めたことでレイの中の13神への不信が一気に増してしまった。
それを察知したクロノスは居住まいを正す。ピリッと空気が切り替わる。ここに居ない幻影のはずなのに、神の観測所で味わった圧倒的な重圧が彼女の全身から放たれる。赤龍をも超える重圧にレイは押しつぶされそうになる。
だけど、彼とて平坦な道を歩んできたわけでは無かった。迎え撃つように背筋を伸ばした。
「……お願いです。神、クロノス。この世界、エルドラドで僕に何をさせようとしているのですか。本当に、僕は偶然、この世界に来たのですか。救世主候補とは、僕よりも前に来た異世界人達は何のために来たのか。……隠している事を全て教えて下さい」
「……御厨玲様。……最期の救世主候補よ。貴方の願い、確かに受け止めました。……ゆえに、神として宣言します」
一拍開けた後、言葉を継いだ。
「全てを話すことを」
「さて、玲様。唐突ですが、問題です。どうして他の世界の住人をこのエルドラドに連れてくることが出来たのか、ご存知でしょうか」
唐突に始まったクイズにレイは面喰ってしまう。アマツマラの本屋で買った『エルドラドの神々』に書いてあった一文を思い出した。
「えっと、エルドラドは全ての異世界の受け皿だから、で正解ですか?」
「はい。その通りです。エルドラドは全ての異世界の受け皿として機能していました。例えるなら……樹を思い浮かべてください。天を突くように幹が伸び、そこから枝が腕を広げるかのように伸び、その先に葉が生い茂る。その一枚一枚が世界です」
ばさり、と。クロノスは何処かから小ぶりな枝を取り出した。根元で折れた枝の先端には葉が幾枚も折り重なるように茂っている。
「例えばこの葉。これを玲様のいた世界だとします。科学文明が発達して、代わりに魔法や神秘が物語の中に追いやられた時代。爆発的に増えた人類が資源を食いつぶしかねない時代。この葉と枝を同じにしている葉達はみな、玲様の世界と似たような経緯を経ています」
「それってパラレルワールドの事ですか?」
「その通りです。他には並行世界とも申します。同じような文明、同じような歴史を辿った世界の住人はパラレルワールドになら迷い込むこともあります。ですが、枝が全く違う、異世界には辿りつけません」
クロノスの細い指は隣り合う葉から葉へと転々と移動するも、枝が違う葉へと飛ぼうとした指は途中で失速した。
「ですが、エルドラドは樹で例えるなら……幹であり、根でした。他の文明、文化の異世界人が訪れる事が可能な世界だったのです。全ての世界と何処かで繋がっているからこそ、可能だったのです」
「その中の一人が僕や『安城琢磨』ですね」
クロノスは『安城琢磨』の名前に一瞬、目元を伏せたが、何も言わずに頷いて肯定した。クロノスの言葉を借りるなら、『安城琢磨』と御厨玲の世界は同じでは無く、枝を同じとしたパラレルワールドの可能性が出てきた。
「神の役割はこの葉の一枚一枚、つまり世界を管理することにあります。そのやり方は様々で、直接姿を見せたり、あるいは神話を伝える事で導こうとしたりしています。私達13神の場合は、無神時代の前は直接姿を現したり、声だけを聴くことが出来る技能保有者に代弁をさせていました」
クロノスは聖域を見回して、「昔はこのような場所を使う必要も無かった」と懐かしそうに呟いた。
「話を戻します。……神たちにとって世界を管理するというのは酷く退屈な作業でした。なにしろ、文明が終わりそこに生きた者達が全滅したからといって管理する作業は終わりません。滅んだ文明から生まれる新しい生命体を導いたり、時には暴走してしまいどうしようもないぐらい破綻した文明を滅ぼしたりします。そして更地となった世界に新しい生命体を生み出したりします。終わりのない仕事です」
「それは一体どうしてですか? 退屈なら止めてしまえばいいのに」
「そうもいきません。神は世界を管理してこその神。世界を管理できなくなった神の末路は……悍ましい物です」
何かを思い出したクロノスの表情は写し身であっても青ざめていた。
「世界を管理する神達の楽しみは、他の神が管理する世界に紛れる事や、自分の管理する世界で生きる生命体がどんな物語を紡ぐのか。それぐらいしか楽しみはありません。例えば、勇者や英雄、時代を変える天才。例えば、魔王や反逆者、大戦を引き起こす独裁者。時代に逸脱した存在などを見つけると、彼らの生涯を余すことなく味わい尽くしています。それは死後の魂すら手元に残しておく、お気に入りを見つけるのです」
『お気に入り』。その単語を『エルドラドの神々』で目にしていたレイは表情を硬くした。
「あるとき。その『お気に入り』を自慢する神が現れました。私の『お気に入り』は素晴らしい! 最強だ、と。それにすかさず反論した別の神は自分の『お気に入り』こそ最強であると言って譲りませんでした。その議論は他の神々たちを巻き込んでしまい、決着がつかなくなりました。そこで、誰かが言ったのです。『エルドラドにて彼らの魂を転生させ、競わせたらどうか』、と」
「……そんな下らない理由で異世界転生が行われたのですか」
「はい。最初は小規模で。しかし、次第に噂を聞きつけた多くの神々が、それぞれの『お気に入り』を持ちより、エルドラドの地に降り立たせました。転生、転移。送られた『お気に入り』たちの数だけドラマがありました。そうなると、今度は神達の間で賭け事が行われるようになりました。勝利条件を定め、ルールを定めて、どの『お気に入り』……いえ、どの『招かれた者』が勝利するのかを賭ける。それが『神々の遊技場』と呼ばれるようになった所以です」
レイの中で見たことも無い神々たちが、異世界に連れて来られた人間たちに野次を飛ばす姿が思い浮かんでしまう。自分と同じ異世界人がカジノなどにある、動物たちを走らせどれが一頭になるのかを賭ける類のの見世物になっている事に不快感を覚えた。
(なんて、悪趣味)
心の中で吐き気を堪えているレイにお構いなしにクロノスの説明は続く。
「称号はその時に生み出されたシステムです。神々も常に『招かれた者』を見ている訳にはいきません。自分の世界の管理があります。ですから、自分が注目している『招かれた者』を素早く見つけられるように目印を付けるようになったのです。それが称号の役割です」
「それって……タグ付けってことですか」
タグ付け、正式にはタギングという。ネットに投稿された動画や写真に対して、その物に関する情報を張り付ける行為だ。これをする事で星の数ほどある動画などを効率的に検索、分類が可能となる。検索する側の人間は、タグを入力することで、目当ての物やそれに近い物を一気に調べる事ができる。
「ああ、まさにその通りです。『神々の遊技場』はいつしか、『招かれた者』を連れて来ない神達の間でも注目を浴びるようになりました。賭けに参加するのが目的な者や、単純に『招かれた者』が紡ぐ物語に興味がある者など幅広いです。彼らが目当ての人物を検索するために称号はできましたから、タグ付けは言い得て妙です」
クロノスの言った事を纏めれば、『招かれた者』でエルドラド中の人間を検索すれば、その称号を持つ者がヒットすると言う事だ。その中にはもちろんレイも居る。
「エルドラドは幾人もの『招かれた者』を迎え入れ、幾つもの歴史が紡がれていきました。良き時代、悪しき時代。文明が滅んで更地から再生したことも幾度もありました。……ですが」
そこでクロノスは一度言葉を区切ると、困惑とも何とも判断の付かない曖昧な表情を浮かべた。
「アレを……何と言えばいいのか、私には分かりません。ですが確実に断言できることは、ある日、エルドラドの、世界の枠組みが……壊れてしまいました」
「世界の枠組み? それって一体」
レイが聞き返すと、クロノスは手を振る。今まで握っていた枝は消え、今度は水の入った瓶が現れた。
「文明をやり直すと言うのは、瓶を満たす水を入れ替えるような行為です。腐った水を新鮮な水で満たす。実に簡単な行為です。……ですが世界の枠組みが壊れると言うのは」
クロノスは話している最中に、突然瓶を大理石の床へと落とした。レイは反射で手を伸ばしたが、瓶はするりと通過していった。これも写し身だった。
ぱりん、と。
写し身の瓶は割れ、水が溢れてしまった。
「世界の枠組みが……瓶が壊れてしまえば水もこぼれてしまいます。これが世界の本当の意味での崩壊です。そこに生きる魂も、管理者たる神々も役目を無くす。……それが今から五年後に起きました」
「……起きました? これから起きるんじゃなくて、何で過去形なのですか?」
レイは口に出しつつも、ひどく嫌な予感がしていた。それに応えるかのようにクロノスは告げた。
「はい。これは観測所から見た神々からすれば、過去に起きた出来事です。……なぜなら、今のエルドラドは崩壊する時間から千三百年の時を巻き戻っています。今のエルドラドは二周目の世界なのです」
読んで下さって、ありがとうございます。




