今年6月は、お袋の23回忌だった。
そして、親父が死んで14年が経つ。
親孝行なんて、何一つ出来なかった。
知り合いに、「親より長生きしたことが一番の親孝行だ」と、言われたけれど、
親不孝の数々からしてみたら、そんなもの位では帳尻合わない。
当初、単なるヘルニアと近くの小さな診療所の診断を鵜呑みにしていたが、
そのうち腰が抜けたように歩けなくなったのを見て、おかしいと気が付いた。
お袋は、病気にかかったことがないくらい丈夫で、大袈裟だと照れていたが、
念の為と言い聞かせ、妹達と大学病院へ連れて行った。
診断結果を聞かされ、頭の中が真っ白になった。
「悪性の腫瘍で、手遅れです」
無常な言葉だった。
病室では、何も知らないお袋が無邪気そうに笑顔で妹達と話しをしている。
その日、俺はバイクで旅行に行く予定になっていて、まさかそんな事になるなど
想像もしていなかったので、旅支度の格好をしていた。
急に取り止めたら不審に思われるので、迷った挙句妹達に後を任せ旅立った。
その後、幾つかの病院をたらい回しにされ、何とか紹介の力も借りて、
家の近くの大学病院に落ち着くことが出来た。
何処の病院も、助からないと分かっている末期癌患者を快く置いてはくれなかった。
1回目の手術は、患部を開けただけで直ぐに閉ざされた。
手の施しようがなかったとのことだった。
何処からか転移して、脊髄が溶けて神経を圧迫して下半身不随になっているとの説明だった。
死の直前になって分かったことだが、腎臓から転移していたとのことだった。
暫くの間、お袋は軽い冗談を言ったりして、看護婦さんの間でも人気があったが、
そのうち、何故退院出来ないのか、何で検査ばかりしているのか不審に思い出し、
徐々に笑顔が消えて行った。
そんなストレスから、その後何回かした手術は胃潰瘍に対してのものだった。
体力がなくなっていて、胃潰瘍の手術にも耐えられるか分からない状態で、
毎回手術の時は「覚悟をして置いて下さい」と言われた。
営業で外回りの仕事をしていた俺は、友人にポケットベルを借りてもしもの際の
呼び出しに備えていた。(当時は今のように携帯などなかった)
手術の時と、その後少しの間は親父や妹達と交代で病室に泊まっていたが、
それ以外はお袋に勘ぐられるので、車で10分くらいの距離と言うこともあり、
家で待機する日が続いた。
電話が鳴る度にビクッとし、テレビで点滴や鼻にチューブをされているシーンを
見る事も辛くて出来なかった。
ひとつだけ良かったことは、親父とあまり上手く行っていなかった俺達兄妹が、
お袋の入院以来会話の機会が増え、ごく普通の家族のようになっていたことだった。
間が悪いと言うか、付き合っていた女に子供が出来たと言われ、
慌てて3日間で、結納、出産する病院、アパート、式場を決めた。
お袋は嬉しそうだった。
それが、せめてもの救いだった。
或る日、その女からポケベルに連絡が入った。
覚悟をして、心を落ち着かせて電話をした。
すると、「危篤だってさ」と、さらりと言いのけた。
その言い方に一瞬ムッと来たが、
押さえて「お前も直ぐに来い」と言って電話を切ろうとすると、
「今友達の美容師にパーマかけて貰っているから、終わったら行く」と言った。
「お前なんか来なくていい!」と、怒鳴って、俺は病院へバイクを飛ばした。
何とか峠は越してほっとすると、女の言葉が思い出され無性に腹が立った。
これから自分の親となる人間が危ないと言う時に、パーマどころじゃないだろう!
深夜、暗い待合室にのこのこその女は現れた。
ろくに会話など出来なかった。
その日以来、その女と結婚生活することに自信がなくなり、
重いため息しか出なくなっていた。
何日かして、その重苦しい時間から開放される時が来た。
想像妊娠だったのだ。
世の中がパーッと、開ける思いがした。
もちろん直ぐに、お袋には内緒だが婚約は解消した。
入院が10ヶ月も経つとお袋は薄々感付いて、「さっき看護婦さんが話していたのを
チラッと聞いたけど、サルノコシカケって癌の薬じゃないの?」
ーと、鎌をかけるようになっていた。
お腹は腹水が溜まり、妊婦のように膨れ上がっていた。
点滴やチューブの数も増え、酸素マスクを必要とする日が多くなって来ていた。
愚痴も増えて来ていた。
「あの看護婦は点滴指すのが下手だ」とか、今まで人の悪口を言わなかった
お袋の言葉を聞くのが堪らなくなっていた。
或る日、俺はとうとう怒って、持っていた体を拭く手拭をお袋に目掛けて投げてしまった。
自分でもハッとしたが、手遅れだった。
気まずい時間が流れた。
とうとう、謝ることも出来なかった。
それが、お袋の意識がハッキリしている時の最後の時間だった。
何日後かの夜、俺だけが病室に呼ばれた。
お袋がうわ言のように何かを言っている。
「○ちゃん、みんなで仲良く・・・」
「財産を守って・・・」
手をとりながら、聞き取れない言葉に相槌を打った。
「この間はごめんな」と言っても、伝わってはいなかった。
数日後、家族全員病室から出された。
担当医や看護婦さん達が、慌ただしく病室を出入りしだした。
何回もこんな日は経験していたけど、何時もと少し雰囲気が違っていた。
ナースステーションの前で、カウンターの上に載せられたお袋の心電計の
モニターを見るしか俺達には他に手はなかった。
「ピーッ」と、音が鳴ると、波形が直線になった。
波形はそのまま戻ることはなかった。
部屋に呼ばれ、「ご臨終です」と、言われた。
お袋の顔は、やっと安らかな顔になっていた。
落胆している俺達に、医者から「珍しいケースなので、今後の為にも
遺体を提供して欲しい」と依頼をされた。
あれだけ嫌がるのに何回も手術をして来たお袋に、これ以上メスを
入れさせる気にはなれなくて、趣旨は分かるけどお断りをした。
間もなく、病院の提携していると思われる葬儀屋さんがやって来て、
流れるように通夜となった。
俺は、いたって冷静だったと思う。
病室でさえ、泣いてはいなかった筈。
しかし、近所のおばさん達に囲まれて「○ちゃん、しっかり頑張ってね」と、
泣かれた時は、迂闊にも人前で生まれて初めて大泣きをしてしまった。
涙が止まらず、嗚咽した。
そんなお袋の時とは正反対に、親父の最後は呆気なかった。
お昼に蕎麦の出前を取ろうという事になり、出前を待っていると、
今まで一度も俺にものを頼んだことのない親父が、
「ちょっと背中を擦ってくれないか?」と、言って来たので、
直感として、背中を擦りながら「救急車呼ぼうか?」と言うと、
苦しげな声で「うん」と言った。
慌てて救急車を呼び、病院へと向かった。
医者が、既に意識のない親父の足首を指し、
「急性心筋梗塞です、助かりません」と、簡単に説明をし、家族を呼ぶように言った。
妹と親戚の叔父さんに連絡をして直ぐに病室に戻った時は、既に白い布が顔に被せられていた。
あっという間だった。
家に帰った親父の横で、その晩俺は布団を敷いて一緒に寝た。
お袋には悪いけど、俺も死ぬ時は親父のように呆気なく死にたい、と思った。
親父の葬式は、長男の俺が当然喪主で、そんな事もあってかついに一滴の涙も零れなかった。
お袋の時はあんなに泣いたのに、男親ってそんなものかな、寂しいもんだなって思った。
結局、二人にはとうとう気の利いた事も、言葉も掛けられなかった。
今でもハッキリと覚えているのは、あのピーッといって波形が直線に変わる瞬間と、
救急車で運ばれるのと擦れ違いに届けられた、二つ並んだ狸蕎麦とざる蕎麦だ。 |