水を弾く音が響く。
日はもう傾いていて、オレンジの水面には一つだけしぶきが上がっていた。
二十五メートルを折り返してきた彼女が、赤い色のラインを超えたのでストップウォッチに集中する。
トンと壁に触れる掌、それと同時にストップウォッチを押した。
「ッ……ハア、どうだった?」
息を切らせながらゴーグルをとった彼女に、そのままを見せる。
「ダメ、かぁ」
「休憩入れろよ、ただ続けていても効率悪い」
あまり気遣う事が得意じゃない自分の性格が、こんな時は少し嫌になる。
もっとマシな言い回しはあっただろうに。
「ヒドイ言いかたぁ」
あごまで水に浸けて、もう慣れたという風に見上げてきたから「残念、これは生まれつきだ」と、若干調子を戻しつつそう返した。
「四、五本流すから、タイムはちょっと休みね」
そう言って、こっちが何か言い返す前に水に潜っていった。
「まったく」
遠ざかっていく波に、そうひとり呟く。
多分彼女は誰よりも努力家で、誰よりも練習していた。だけど、いかんせん運動には才能に寄る部分が大きいのも事実で、そのタイムは決して早いとは言えない部類だった。
だけど――。
少しそれが羨ましかった。
ほぼ同じだけの時間を費やしたにも関わらすに、同じだけのモノを手には出来なかったから。
だからかもしれない、三年になって直ぐに引退した僕が、主に彼女のマネージャーとして部活に出ることを了承したのは。
『ごめんね、だけど他に頼める人もいなくて……』
申し訳なさそうにそう告げられ、少しだけ嬉しくて同じくらい悲しかった。
もっとも、推薦をもらって夏休みの早い段階から暇になってしまったのも理由の一つだけど。
ぼんやりと見つめているうちに、水から上がった彼女は飛び込み台の上にもう一度立って「一本! お願い」と気合を入れるように叫んだ。
だから「はい」と声を上げて、スタート用のブザーを手に取る。
「位置について」
選手の状態を見てから、機を窺う。
「ヨーイ」
心の中で三秒数えて、ブザーのスイッチとストップウォッチを押した。
瞬間、弾かれるように水面へ飛び込んでゆく。
散った水の飛沫が、頬に数滴ぶつかった。
明らかに先程よりもペースの落ちているその波を、ただ目を逸らさずに見詰めていた。
「何でかなぁ」
計るたびに落ちていくタイムに、彼女はそう悲しい声で呟いた。
「疲労をしっかり把握するべきだ」
コンと、うなだれるその頭を軽く小突いた。
「疲れてなんか」
「いるよな?」
言い終える前にそう答えると、不機嫌さを隠さずに「もう一本だけ」と、言った。
「残念だけど、今日はもうタイムアップ」
壁に掛かっている、大きな時計を指差した。
「ほんとに、ざんねん」
疲れた表情で、泣き笑いみたいな声でそう言って、キャップをとりセミロングの髪を解き放つ。プールの塩素のためか、その水をまとった栗色の髪は、ライトを反射してキラキラと輝いた。
「片付けとくから、シャワー浴びて着替えな」
「うん」
この辺も慣れたもので、最初の頃みたいな焦りはもうない。
「ごめんね」
練習を終えて、シャワーへ向かう彼女はいつも背中越しにそう告げる。
だから僕は「良いって、気にするなよ」と、いつも通りに返す。
そのやり取りをしていると、自然と心が柔らかくなれる気がしていた。
一緒に帰るために彼女の着替えを待っている時間、どうか彼女の引退が延びますようにと願う。
せめて、まだ――形を成さないこの想いがはっきりするまでは。 |