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科学者 小山内英治
作:波多野成一郎



【第五章】 時空跳躍理論


第一節 過去からのメッセージ

結婚してから26年後の2115年、小山内英治は51歳となっていた。
ケインズが小山内に奇妙な事を話し始めたのはこの頃である。
2095年の優秀論文賞の受賞から20年の時を経て、小山内はようやく、時空跳躍理論によるタイムスリップを発表したのである。
「多重フラーレンによる時空跳躍の理論と実証実験の成功です。」
「時空跳躍といっても、まだまだで、時空を跳躍できるのは、ナノという非常に微細なレベル、分子ほどの大きさです。」
宇宙でのタイムワープ、人類のタイムトラベルというものはついに実現しなかったからなのか、小山内は控えめであった。
それでも人類は、過去と現在を往復できる術を手に入れたのである。
「時空跳躍素子TMRの発明から20年の歳月を経て完成した私の理論ですが。この20年の研究成果は、次の3つの研究に集約されます。」
世界が小山内に注目していた。
「それは、多重フラーレンの外膜に電磁コーティングを施して時空跳躍の耐性を強化すること。
高エネルギー球を衝突させることでタイムスリップを発生させるしくみ。
タイムスリップさせる時間は速度の2乗に比例していて、10秒単位で制御可能としたこと。
であります。」
しかし、これらの小山内の研究の素案は、20年前のTMR発明当時に既に完成されていたものである。
なのに、なぜ、20年も研究発表を遅らせたのであろうか。
107年前の2008年3月、春樹がMITのスプリングスクールに参加していた時のことである。
春樹は、小山内に日本語でメールを書いてしまっていた。春樹の用意したサーバは2バイト対応であった。
21世紀の当時は日本とアメリカでは文字コードが違っていたため、メールは文字化けを起こしていたのである。
春樹の設置したサーバや、MITのサーバに隠した時限メールはほどんどが撤去、削除されてしまったが、いくつかは残り、発信されたメールはMIT内のサーバをさまよい、2089年の小山内に届いたのである。
しかし、当時は文字化けなど無いユビキタスITの世界だったので、小山内は、
これをウィルスと勘違いして、大学に削除を依頼したのであった。
結果としてこれが良かった。C60@C240@C520、これしか確認できなかったメールはウィルスのサンプルとして、MITのサーバに10年間保管されることとなったのである。
そして、それから6年間
小山内の研究成果といえば、、、。、
宇宙空間に光速を超える事実をいくつか発見したものの、2095年になっても宇宙ワープにつながる発見には至らなかった。
「人類が光速を超えることは不可能なようだ。
 移動するにはエネルギーが膨大だ、地球上にはこのようなエネルギーは存在しない。」
6年間の研究成果は全くなく、あきらめかけていた。
ケインズ博士と冬実の励ましで、どうにか持ちこたえていた小山内であった。
2095年の春、ハーバードの町を冬実とケインズ博士と三人で歩いていた。
「英治さん、まだ、これからよ。」
「そうとも、小山内、君のしていることは、人類に希望を与える偉大な研究だ。
 神だってそう簡単には助けてくれないさ、試練は続くだろうが、いつかきっと神の恵みがある。」
ケインズ博士は小山内の才能を早くから認めており、常によきアドバイスをしてくれていた。
小山内も、ケインズ博士の人柄、多才な能力に憧れ、尊敬していた。二人はよき親友である。

第ニ節 ひらめき

ハーバードの町は夜店が並んでいて、いつもの静かな町とは趣きを異にしていた。
ちょうど、移動サーカスの夜店で、子供たちが射的ゲームに興じていた。
「チャーリー、大きいものは、だめだってば、そんなの落ちないよ。
 もっと、小さくて軽いものを狙うんだよ。」
「わかったよ、ジョージ。あのキャラメルにするから。」
小さなキャラメルの箱が、コルクの弾ではじき飛ばされた。
「ほんとだ、ジョージ。あんなに遠くまで吹っ飛んだ!」
突然、小山内がひらめいた。
「そうだ! ナノ物質と高エネルギーだ。」
小山内は、ナノ物質に高エネルギー分子を衝突させることで光速を超えられるかもしれないと考えた。
「人だから、エネルギーが足りないんだ。
 小さなナノ物質だったら、
 衝突実験で確認できるはずだ。」
この後すぐに、小山内は、シンクロトロン衝突実験を繰り返し、フラーレンが最も時空跳躍に適していることを突き止めた。
フラーレンとは、炭素原子が『かご型』の構造を成して結合しているもので、C60はサッカーボールに似た形状である。
ナノテクノロジが実用化した2080年より、C60フラーレンは、医薬品や燃料電池、半導体素子など、さまざまな分野で応用されていた注目の構造である。
「最も有力なフラーレンの構造がC60@C240@C520型多重フラーレンとは、、。
 これは、あの時のウィルスメールだ。
 あれは、ウィルスではなくて宇宙からのメッセージだったんだ!」
小山内は、6年前に来たウィルスメールのタイトルを思い出したのであった。
文字コード変換して復元した2008年に発信されたメールのメッセージは驚くべきものであった。
それは、春樹のメッセージであり、宇宙からのものではなかったが、多重フラーレン構造を持ったTMR素子が時空跳躍に対する耐性を有していること。
フラーレンの中に、別のたんぱく質分子や、ナノマシンを封入することで、タイムスリップを現実のものにすることなど、小山内のこれからの研究を裏付ける内容が書かれていたからである。
「2008年の春樹君にメッセージを送らなくてはならない。」
小山内は、他人に知られないように春樹と通信するため、今は利用価値のほとんど無くなった短波放送を使った、通信手段を考え出したのである。
しばらくして、春樹から受け取った、17.10MHzの局間ノイズから検波されたメッセージは、小山内と冬実を驚愕させるものであった。
夏子の容態のことが書かれていたのである。
「恐れていたことだ。」
タイムスリップは歴史を傷つける、決して発明してはならないものであることが明白となった。
しかし、夏子の手術をするためには、タイムスリップを完成させ、更に、自動手術ナノマシンを開発し、過去へ送り込まなくてはならない。
「将来に備え、必要な準備をしなくては。」
この後、小山内は世界科学アカデミーにおいて、優秀論文賞を受賞することになる。
しかし、タイムスリップを実用化させる前に、夏子を救う手立てを確立させておく必要があった。
小山内はこれに20年の歳月を必要としてしまったのであった。
研究をやめれば歴史が変わる、研究が完成すれば歴史を変える。
小山内は、天才の名と偉大な科学者の名誉を手中に収めながらも、
悲惨な人類の終焉を自ら招き、それを、黙って見過ごすしかない無力感に襲われていた。

第三節 謎のウィルス

5年後の2100年、小山内に双子が生まれた。
長女、ナオミ・オサナイ、次女は高柳春実と命名された。
そう、高柳春実は、春樹の夢に出てきている女性である。
彼女は日本で育ち、28才になってから、2007年の春樹の夢に出てくるようになるのである。
さて、アメリカでは、小山内は一人娘、ナオミ・オサナイだけを授かったことになっていた。
春実は日本に預けられ、出生の事実は隠蔽された。
なぜ春実だけ隠す必要があったのか。
小山内の時空跳躍の発表から5年後の2120年8月、リチャードソン&ケインズ中央研究所。
バイオハザード・レベル3の厳戒体制の研究所で、Z-PDRウィルスが開発され、害虫駆除薬品への最終合成の段階にあった。
このころの人類は、モグラやウサギなどの小動物による農作物の被害が深刻な状況にあり、世界的な食糧難に直面する危機を抱えていたのである。
山間部の乱開発、地殻変動が原因で、餌場を失った野生の小動物が農場の作物を食い荒らすようになっていたためである。
研究員がぼやいた。
「これでは、害虫駆除どころか人間駆除になってしまうな。」
研究所では、害虫駆除向け薬品であるたんぱく質抑制ウィルスZ-PDRが完成の時期にあり、人体への影響が調査されている最中であった。
翌朝の経営会議では、害虫駆除向けの決定打としての販売戦略を検討することになっていた。
「とにかく、レポートを作成しろっていう指示だ。」
翌朝提出されたレポートは、社長であるケインズにとって、当然、満足できるものではなかった。
「Z-PDRは動物だけでなく、人類にも感染し、感染力は絶大ですが、持続性に弱く、およそ5分以内で自然死滅してしまうことが判明しました。」
つまり、人体に悪影響を与えるだけで、動物を駆除することは不可能という結論だった。
人類の未来のために、膨大な開発費用を投じた害虫駆除ウィルスはこのまま闇に葬られることになった。
この結果に疑問をもった科学者がいた、ケインズの親友である小山内英治56才である。
ケインズは当時、ウィルス免疫学の世界的権威であり、製薬のエキスパートであった。
しかも、経営手腕に優れ、政治見解にも秀でており、おまけに、正義感が強い人間であることから、米国大統領へと国民の期待が高まっていたほどの人物である。
今回のような単純な実験の失敗などは想定内のはずで、発売間際になって、しかも会社に損失を与えるようなダメージをもたらすとは、最もケインズらしくない。
「ケインズは、何かを企んでいるようだ。」
小山内は不気味な胸騒ぎを抑えることができなかった。
そして、、。
翌年、人類は未曾有の危機に見舞われる。謎のウィルスが原因で地球上の全ての人間を含む動物が
突然、拒たんぱく質症を発症したのである。
拒たんぱく質症とは、たんぱく質を自力摂取できなくなり、分解が進む病気で、有効な抗ウィルス剤は存在しておらず、治療不可能である。
このままでは全人類は数週間で死滅してしまう。
ところが、この人類滅亡の危機に、ケインズ博士が立ち上がることになる。
ケインズ博士は、動物性たんぱく質を体内に定着できる形に改良された合成たんぱくを血管に直接投与する治療方法を開発したのである。
ウィルスは、体内の既存たんぱく質より、合成たんぱく質を好み、しかも分解するのには1〜2週間かかる、それまでに、次の投与が行われれば、
人類は生存可能となるのであった。
そして、リチャードソン&ケインズ社による全人類への無料定期投与が発表された。
人類は、ケインズの努力により、かろうじて滅亡を逃れることができたのである。
しかし、合成たんぱくの原料となる動物たんぱくは、生きている動物からしか摂取することができない。
拒たんぱく症を発症している動物がどんどん死滅していく中、この方法は先が知れていた。

第四節 世界政府誕生

ニューヨークの国連本部に、国際栄養推進機構が設立されケインズ博士が就任した。
2121年6月のことである。
まもなく、世界中から動物性たんぱく質が集められ、リチャードソン&ケインズ社にて合成たんぱくとして世界に支給されることとなった。
戦争などしている場合ではない、世界が協力して動物たんぱくを集めなくては、人類が滅亡するのである。
食料難により、各地で紛争が勃発し、世界戦争へ一触即発の状況にあった世界は、人類滅亡の危機感の中、国際栄養推進機構の名の下に一致団結したのである。
「我々は、停戦条約を更に発展させ、ここに、和平条約として、永久の平和と両国の親善を宣言するものである。」
この、イラン・イラクの永久和平共同宣言が決定打となり、世界中で停戦、和平交渉が開始された。
国際栄養推進機構は世界平和の象徴となり、翌2122年1月、世界政府が誕生した。
世界中から優秀な技術官僚テクノクラートが召集された。
ニューヨークに世界政府常任会議が設置され、国際栄養推進機構もこの中に組み込まれた。
そして、、ケインズ博士は初代世界政府総裁に任命された。
世界政府常任会議満場一致の可決であった。
この後、すぐに、世界各地にリチャードソン&ケインズ社の合成たんぱくセンタが設立された。
そして、人類および人類に必要な動物への合成たんぱくの投与が始まった。
ケインズは世界に向けて話しかけていた。
「週一回の定期投与が必要ですが、合成たんぱく投与をすれば心配することはありません。」
人類滅亡の危機は回避されたのである。
これにより、ケインズ博士はアメリカ大統領以上の強大な権力を握ることとなった。
人類は彼の会社の財政状態を心配こそすれ、人望の厚いケインズ博士の野心を疑う者はなく、人類の滅亡回避に向けて事態は好転しているように思われた。
しかし、ケインズ率いる世界政府とテクノクラートたちは、膨大な利権を貪り富を蓄え始めていた。

第五節 人類の危機

そして、ある日、小山内の電話が鳴った。
ケインズからの電話であった。
小山内の発明であるTMR素子による時空跳躍で、過去から動物性たんぱくを持ち帰り、合成たんぱくを製造しようというのである。
「小山内のフラーレンの中に、0.7ナノの機械蚤ナノマシンを封入して過去へ転送する。
 フラーレンは過去に到達すると、フラーレンの中身だけ置いて、現代に戻ってくる。
 そうすると、過去に、機械蚤ナノマシンだけが残る。
 ナノマシンは人間に寄生して、たんぱく質を摘み取る。
 そのあと、ナノマシンの座標に、空のフラーレンが回収に行く。」
強大な権力を持ったケインズの依頼を、小山内は快諾せざるを得なかった。
「時空跳躍の件ありがとう。
 小山内、君がついてくれれば、安心だよ。
 人類は君が救ったも同然だ。
 じゃあ、パーティで会おう。」
分子レベルの動物たんぱくは、十分な栄養を蓄えていた過去の人間からだったら、どんなに摂取してもその人間へのダメージはない。
数時間で回復してしまうからである、シミュレーションコンピュータも、人間の排泄物が数マイクログラム減少する程度で、歴史への影響はないと答えていた。
たとえ分子レベルでも、過去のあらゆる時代から動物性たんぱく質を何度でも入手することが可能となるのである。
事実上、無尽蔵といってもいいのである。
2122年12月、世界各地の合成たんぱくセンタから、多重フラーレンに封入されたたんぱく摂取ナノマシンが
あらゆる時代で一斉に動作を始めたのである。
小山内は、心配であった。
「ナノマシンは歴史を変える、第二、第三の夏子さんが出てしまう。」
歴史の崩壊を食い止める為には、別の方法を考える必要があった。
「世界政府を止めなくては。ケインズが判断を誤った。」
小山内は、拒たんぱく質症への有効処方として、代替動物性たんぱく質Gプロテインの研究に資金提供した。
強大な権力を持った親友ケインズと対峙することは、命の危険を意味していた。
それでも、世界政府が誤った方向へ進もうとしている今、小山内は、この命がけの開発への投資を断行した。
開発は成功し、2124年に完成を見た。
この研究成果に、当然、ケインズは渋い表情であった。
国際栄養学会にてGプロテインの効用が発表されることで、世界は急に色めきたつであろう。
「時空跳躍を使った動物性たんぱく摂取の必要性がなくなってしまうじゃないか。」
「君の時空跳躍理論は完璧だ、今さらなぜ、Gプロテインなんだ、合成たんぱくを提供し続ければ人類は問題ないじゃあないか。」
「永遠に過去から動物たんぱくを調達するつもりか、
人類への供給もままならない、このままでは、いつか歴史を傷つけて、一瞬にして地球は滅んでしまうぞ。」
「小山内、それでは、だれも喜ばない、歴史は金を払ってはくれないんだよ。」

第六節 新たなる危機

権力と利権はいつの間にかケインズを変えてしまっていた。
アメリカ大統領よりも強大な権力を持つと言われるケインズ、世界政府は特権階級の利権優先戦略により、進むべき道を誤っていた。
しかし、世界政府の圧力は凄まじいものがあった。
その夜、まるで想定されていたかのように、
一夜で、Gプロテインを開発した栄養科学研究所は閉鎖された。
実験データ、製造方法の全ては、世界政府に奪われてしまったのである。
小山内は、タイムスリップの管理運営という名目で、世界政府の監視下に置かれることとなった。
そして、Gプロテインの残りと実験用の昆虫は、廃棄されてしまった。
しかし、命令を文面どおりにしか実行しない官僚部隊が行った『廃棄』とは、Gプロテインと実験用昆虫を一緒にして裏山に廃棄、、放置しただけだった。
このため、Gプロテインは昆虫の格好のエサとなっていた。
そして、翌2125年の夏には、Gプロテインを過剰摂取し巨大化、肉食化した昆虫が世界中で確認されるようになっていた。
Gプロテイン、、
またもや小山内の業績は、人類の滅亡を早めただけにすぎないように見えた。
なぜなら、肉食昆虫のエサは、、、人間であったからである。

第七節 肉食昆虫発生

その年の冬、2125年11月の国際栄養学会の学術講演会の壇上で、若き昆虫学者、フレデリック・レイモンド・スミスが訴えていた。
3次元パワーポイントの世界地図が立体ホログラムに映し出された瞬間、
「うぉーっ」
低い歓声の後、沈黙が続いた。
赤い点が世界地図の湾岸部を埋め尽くしていた。
「2130年は世界中に昆虫が繁殖する150年に一度の大繁殖期にあたります。」
「1980年の大繁殖では、イナゴと蟻の発生くらいで済みましたが、今回は違います。
巨大化した肉食昆虫が世界中で大量発生するのです。」
「この赤い点が肉食昆虫を発見した場所です。肉食化した昆虫は今、世界中に広がっています。
つまり2130年に人類は昆虫のエサになるのです。」
「2125年の今、各国で、肉食昆虫撲滅に向けた積極的な活動が必要です。
国民に状況を訴え、非常事態宣言をするべきなのです。」
この講演をひっそりと聴いている二人の科学者がいた。
ロバート・ケインズ、世界政府総裁、75歳、もう一人は、小山内英治MIT教授62才である。
小山内は、「スミスの言うとおりにするべきだ。」とケインズに助言した。
ケインズは「前向きに検討しよう。」と答えた。
しかし、その日の夜、スミスは、飲みすぎでレストランの階段を踏み外し、転落死してしまった。
翌朝、小山内が世界政府の実験室で目を覚ますと、早朝のニュースで飲みすぎによる事故死と報道されていた。
「昨晩事故死だって、、政府はここまで、、。
 ケインズ博士、いつからあなたはそんなに変わってしまったのですか。」
フレデリック・レイモンド・スミス、、、、実は、彼と小山内は、彼の発表直後に会っていた。
「フレディ、大変興味ある話をありがとう。ちょっと一杯やりながら話しませんか。」
と誘う小山内に、彼はこう答えていたのだ。
「これは、小山内先生、お話できるとは光栄です。ただ、私はアルコールが飲めないし、菜食主義者なので、
そこのレストランで、サラダとコーヒーでどうでしょうか。」
フレデリックは酒を飲まない。
「酒を飲まない彼が、どうして、飲みすぎで転落死などするものか。
 政府は、目障りな人物を次々に始末し始めている。」
小山内は思った。
「次は私だな。
 間に合わないかもしれない、、春実。」
小山内はもはや自分の死を覚悟しなくてはならなかった。
そして、ゆっくり自宅へ電話をかけた。
おそらく、この電話も盗聴されているであろうことは、小山内にも察しがついた。
「ああ冬実、今から戻る。ナオミは、まだ寝ているのかな。」
めったにしない自宅への帰るコール、しかもこんな早朝に、、
冬実は、小山内の覚悟を感じ取ったようだった。
「早くお帰りになって、待ってます。英治さん。」
凛とした冬実の声は、小山内と同じ覚悟の証であった。
小山内は自宅に戻る途中、春樹からのメッセージが届いたため、急遽、研究室に立ち寄った。
小山内の帰宅が30分遅れたことは、世界政府にとっては誤算であった。
やがて、この小さな誤算が大きな変化となって、世界政府へ襲いかかることになる。

第八節 小山内暗殺

この頃、小山内の自宅では、
「ピンポーン」
小山内の自宅の玄関に、宅配業者が立っていた。
「は〜い。」
冬実が出た。
「小山内英治さんに小包です。本人の署名が必要ですが。」
小山内はまだ戻ってきていなかった。
「あら、そう、ちょっと困ったわねぇ。」
業者の男が尋ねた。
「ご主人はいらっしゃるのですね。」
この瞬間、稲妻のような戦慄が冬実を襲った。
冬実が最後を覚悟した瞬間だった。
(ついに来たわ、今、英治さんを死なせるわけにはいかない。
 日本にいる春実と会わせなくては。)
この時、小山内は大学にいたはずであるが、冬実はおかしな返事をした。
「あなた、書類よ、サインして〜。
 あなたったら〜。
 すいません、今研究に没頭しているみたいです。
 ちょっとサインもらってきますね。」
冬実は二階へ駆け上がっていくと、ナオミを起こした。
やがて戻ってくると。ナオミに買い物に行くように言いつけて、
冬実は宅配業者へ、
「二階の書斎にね、居るんですけど。
 鍵がかかっちゃってて、。
 もう、ああなったら、食事でもなんでも、
 わかんなくなっちゃうんですよ、困ったものです。
 こないだもね、これからピクニックに行くっていうのに、
 書斎に入ってしまって、も〜大変だったんですよ。
 それにね、、、」
しゃべりまくる冬実、業者はとうとう。
「あの、ご主人がいらっしゃるのでしたら、
 他の方のサインでもかまいませんので。」
「あら、私のサインでいいかしら。
 じゃあはい、どうもご苦労様。
 あなた〜、もっていきますね〜。」
冬実は、小山内の携帯へメールを打った。
「春実をよろしく。」
冬実がリビングへ入ったとき、そこには、気を失って倒れているナオミがいた。
叫び声をあげる余裕はなかった。
世界政府の秘密警察が冬実に襲いかかっていた。
遠のく意識の中で冬実は思った。
(少しだけだけど、日本へ脱出する時間は作りました。
 英治さん、あなたと暮らせて幸せでした。
 春実のことをよろしくお願いします。
 結局誰も助けることはできませんでした。
 ナオミすら、、、
 春実にはつらい思いをさせてしますねぇ。)
まもなく、自宅は爆発音と共に炎上した。
翌日、警察は、失火と報道していた。
失火で爆発音などするはずがない。
小山内は、自らの世紀の大発明により、最愛の家族を失ってしまったのである。
「すべては、私が原因だ。
 冬実、ナオミ、私がケインズを必ず止める。」
家族を失った悲しみと、ケインズへの復讐心、テクノクラートへの憎悪が
小山内の心を蝕んでいった。
小山内の自宅の焼け跡からは、小山内の死体は見つからず、所在はつかめなかった。
もっともこの時すでに、彼は世界政府から逃亡していた。
冬実のメールを受け取った小山内は、研究室から日本へ直行していたのである。
次にやるべきことのために。
そして、小山内が行方不明となっている間に、世界政府常任会議では、肉食昆虫被害対策が検討された。
しかしその結果は、非常事態宣言とは対照的な案の採択であった。
それは、肉食昆虫の進入を遮断する機能を持つ無塵構造都市スーパー・ヘパ・シティの建設計画であった。
2年後にできるスーパー・ヘパ・シティは、常識外の高額な譲渡価格で即日完売された。
リゾート・マンションの名目で、政府高官と富裕層、および一部の特権階級に入居が決まった。
世界政府は、2130年までに建築できる無塵構造都市では、人類全体の40%ほどしかカバーしないことを決めていた。
短期間で肉食昆虫を駆除するため、一旦は60%の人類をエサとして、1年間で爆発的に増加させ、都市外の人類は消滅。
その後急激なエサ不足で、2年後には肉食昆虫は自滅、2134年には安全な地球となるという、コンピュータ・シミュレーションの結果であった。

第九節 春実の決意

2125年の11月、小山内の家族が不慮の死を遂げている時、彼は日本にいる春実の元へと向かっていた。
春実は冬実の実家の金沢で冬実の旧姓を名乗り、高柳冬実として、美術館の学芸員をしていた。
25才になっていた。
春実にとっては、初めて見る父親であった。
「はじめまして、パパ。」
「もっとゆっくりと話したかったんだがね、
 時間がないんだよ。
 職場に押しかけてしまって、すまないね。
 ちょっといいかな。」
二人は21世紀美術館を出ると、閉園間際の兼六園へ駆け込んだ。
とりあえず、石灯篭の前で記念写真を撮ると、急いで香林坊へ戻った。
「今まで、すまなかったね。
 どうしても、会うことができなかったんだ。」
近くにある、尾山神社の和洋折衷の建築に驚きながら、小山内は、春実に再会の意図を説明した。
「え、ママとお姉さんが死んだ。本当?
 パパもこれから、そんな。」
春実は、ひと時の安らぎもなく、自分に起こった不幸の全てと、
これから起こる、不幸の全てを理解しなくてはならなかった。
「私にそれをしろって言うの。
 そんな、私はその使命のために生まれたの?」
「こんな事のために今まで生きてきたなんて、。」
その使命とは、春実にとって受け入れ難い内容であった。しかし、しっかりを受け止めなくてはならない事実であった。
ぼうぜんと佇む春実に父親らしいことを何一つしていない、
小山内は、ひたすら謝るだけであった。
「そうじゃないの、パパを愛してるわ。謝ってほしくない、
人類のために正しい事をしているパパに
 謝ってほしくない。」
大声を出して泣いて、春実な自分を取り戻そうとしていた。
「パパ、じゃあ一年後に。
 大丈夫よ、私は科学者・小山内英治の娘。
 ちゃんと気持ちの整理はしておくから。」
一年後の2126年の12月。
クリスマスを目前に控え、春実は小山内のいるボストンに移住するための準備を進めていた。
父へのクリスマスプレゼントにするつもりの加賀友禅の羽織も準備できていた。
ちょうどその頃、小山内は、ケインズへの最後の対抗策として、Gプロテインの製造方法をインターネットで公開することを決断していた。
そして、計算式をサーバへアップロードするために、隠れ家からインターネットへアクセスした。
それが小山内博士の最後だった。享年63才、交通事故死であった。
ホテルでパソコンを使っていたはずであるが、小山内の遺体は、ハドソン川に車ごと突っ込んでいた。
高柳春実は、まだ日本にいたため、難を逃れていた。
肉食化した昆虫を絶滅させるためにはGプロテインの組成が必要であったが、ついに不明なままとなった。
都市の周辺部では、肉食昆虫による人体への被害が拡大しつつあった。
人類は、最後の希望小山内英治までも失ってしまったのである。
そして、小山内の死は、春実の壮絶な運命を決定づけることとなった。
「パパ、覚悟はできています。
私が今すべき事、必要な決意。」
大繁殖期まで、あと4年。打つ手なし。
春実は意を決して、アメリカへ渡った。
2127年、スーパー・ヘパ・シティ第一棟が完成し、多くの特権階級と富裕層、一部の中産階級の官僚たちが暮らしていた。
名目は、リゾート・マンションとなっていたが、昆虫を一切侵入させない、耐害虫要塞であった。







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