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Beltis
作:氷高ゆうり



5.好きだって言え!


 
 ――エルドが勝った。
 始まりの苦戦が嘘のような、あっけない勝利だった。信じがたくて、ベルティスは実感が湧かない。
 喜びがなかなか訪れてくれなかった。
 アータルに手を差し伸べ起きあがらせると、エルドは礼を取り、ベルティスの方へと戻ってきた。
「ベルティス」
 声の響きが低い。怒っているような響きだ。ベルティスは思わず身を竦めた。
「アータルに何されたって?」
「……」
「……どこ?」
 とっくに耳に入っていることだと思っていたのだが、エルドの耳にはまだキスのことまでは入っていなかったらしい。
 おずおずと右手を差し出す。手の甲にアータルからキスを受けたのだ。
 エルドは身を屈めて、アータルと同じようにそこに唇を押し当てた。
 数日ぶりのエルドの唇。ドキリと心臓が飛び跳ねた。
「ここだけ?」
 手の甲から唇を話すと、エルドは上目遣いでベルティスの顔を覗き込んだ。
 ――ううん、違う。手の甲だけじゃない。
「あと……」
 唇。言葉にして言うのを躊躇われて、そっと指先を己の唇に触れさせた。
 エルドの眼にカッと怒りが走るのが見えた。そして次の瞬間、抱き竦められ、きつく唇を塞がれる。
 苦しい。エルドの力が強すぎて、躰が軋むくらいに痛かった。――だけど、嬉しい。
 しばらく触れることも言葉を交わすこともなかったエルドが、今はこうして誰よりも自分の傍にいてくれている。
 コホン、というわざとらしい咳が聞こえ、ようやくベルティスはエルドから解放された。
 見やると、いつの間に二人の側に白衣を着た男が立っていた。
「エルド、優勝賞品はいらないのかね?」
「まさか」
 笑って答え、エルドはベルティスの躰を抱え込んだまま自分の腕を捲った。
 それがホルモン剤なのだろう。白衣の老人は、皆が固唾を呑んで見守る中、差し出された腕に注射を打ち込んだ。
「錠剤もあるらしいんだけど、注射の方が即効性があるんだってさ。それに、錠剤は何日か続けて飲まないといけないらしい。面倒臭いだろ?」
 注射跡を確認しながら、いかにもエルドらしいことを言う。だが、その次は頂けない。
 それがどんなにエルドらしくても、さすがにベルティスは逃げ腰になった。
 老人はベルティスの分の注射も用意していたのだ。
「逃げるなよ、ベルティス」
 エルドの押さえ込まれては、どうしようもない。差し迫ってくる注射針にひたすら顔を青くした。
「ちょっと待ってよ! 俺はまだ女になるとは言っていない!」
 ――いや、女にはなるけれど、エルドの女になるとは言っていない!
 力一杯抵抗したが、あえなく注射を打たれてしまう。エルドにとってベルティスの抵抗など、抵抗の内に入らないのだ。
「ひどい……」
 ぐっと目頭が熱くなった。泣きたい。泣き叫んでやりたい。
 ――まだエルドから好きだって言われていないのに。
 エルドはベルティスの気持ちを無視して、無理矢理ベルティスを女にしてしまったのだ。
 どうして言ってくれないのだろう? たった一言を聞きたいだけなのに。
 注射を打たれたってことは、女性ホルモンをレース優勝者であるエルドから受け取ったってことになるのだろうか。
 それはつまり優勝者からの求婚を受けたことになるのだろうか。
 ――もうすでにエルドと結婚してしまったってこと?
 公認の夫婦になってしまったってことなのだろうか?
 認めてない。まだ承諾なんかしていない。好きどころか、結婚してくれの言葉もなく自分は結婚させられてしまったということだろうか。
 ――酷すぎる!
「エルドなんか嫌い。大嫌いだ!」
 どん、とエルドの躰を突き飛ばした。そうできたのは、エルドの瞳が怯んだから。
 言われるとは予想すらしていなかっただろう言葉を、ベルティスが言ってのけたからだ。
 茫然自失となった彼を一瞬可哀想に思ったが、それを上回る思いにベルティスは駆られていた。
 ――離婚してやる。即、別れてやる!
 それでも彼が自分を妻に望むのならば、ちゃんとした言葉で求婚してくれない限り、頷かないつもりだ。
 何としてでも言わせてやる! 好きだって。
 それでも言わないようならば、もう知らない。エルドなんていらない!
 キッと睨み付けると、エルドが正気を取り戻す前に彼の前から走り去った。
 分厚い武道場の扉を体当たりして開け、廊下に飛び出す。駆けて、駆けて、行き着いた場所を見渡して、自分の行動パターンの乏しさに笑った。
 いつもの場所だ。ここでエルドを待とう。
 来るなら善し。来なければ一生ここに居たっていい。
 ガラス張りの床に身を横たえると、じわりじわりと体温を奪われていく。
 こうしてエルドの迎えを待っている自分は、やっぱりエルドがどうしようもなく好きなのだ。
 エルドも好きだと言ってくれたら、すべてを許して彼のものになってもいい。
 どうしても言ってくれないのなら、凍り付くまでここにいて、ゆっくりと死んでいこう。
 彼以外の男のものになんてなりたくない。彼が手に入らないのなら、他に何も欲しくない。
 何もいらない。
 冷えた指先が痺れてきた。胸が苦しい。いつもよりも寒くて、躰がどんどん冷えていくようだった。
 苦しい。胸が痛い!
 未だかつて感じたことのない胸の痛みに、ベルティスは躰をよじった。
 何かが躰の奥ではち切れようとしているかの痛み。その痛みは次第に下へ下へと移動していき、今度はズンと鈍い痛みを下腹部に感じた。
「うっ」
 呻いて、床を転げ回った。身体を粘土のように引き延ばされたり、丸め込まれたりしているかのような感覚だった。何かが躰のどこかで変化している。
 痛い。苦しい。何かに縋りたくて必死に腕を伸ばしたが、冷たい床の上で指先が滑るだけ。
 胸元を掻きむしった時、両胸が大きく膨らんでいることに気が付いた。
 ――まるで女みたい。
 ハッとして床に両手を着くと身を起こし、映った自分の顔を見やった。どこが違うということはない。確かにいつもの自分だ。
 だけど、何かが違う。ガラスに映った自分の顔に手を置き、もう一方の手で生身の自分の頬に触れた。
 頼り無げに映る自分の姿は、明らかに女だった。
 丸みの取れた顔立ちは幾分か大人びて見える。金糸のような髪は今まで通りだが、ぱっちり開いた瞳は大きく、睫毛は目の下に影を落とすほどに長い。
 紅を塗ったわけではないのに、桜色に染まっている唇。
 薄く唇を開くと、瑞々しく潤ったそれは何かを求めているようで、ガラスに映った自分にベルティスは頬を染めた。
 ――会いたい。すぐに。今すぐ抱きしめてくれなければ、いやだ!
 自分をこんな風にしてしまった責任を取って欲しい。ベルティスの中に芽生えてしまった女が、エルドを求めて仕方がない。
 抑えがたくて、苦しくて。彼が恋しくて、切ない。
 床に座り込むと、ベルティスは自分自身を両腕で抱きしめた。一刻も早くエルドにそうして貰いたいのだ、と。
 堪らず、彼の名前を呼ぶ。
「エルド」
「なんだよ?」
 間を置かず返された返事に、ベルティスは呆気に取られた。
 振り返ると、簡易階段を途中まで上ったエルドが、頭だけを床から出してベルティスを見つめていた。
 カン、カン、カン。音を響かせて残りの階段を上りきってしまうと、ベルティスの正面にしゃがみ込んだ。
「うん。うん。思った通り、善い女になったな」
 ベルティスの頬に触れ、上機嫌である。そんな彼もどこか今までと違う。
 どこが違うとは正確に言うことは出来ないが、一つ言えることは彼を取り巻く雰囲気がずっと大人びて感じられるということだ。
 ――男になったんだ。
 思わず見取れてしまう。だが、つい先ほど自分は彼に対して嫌いだとハッキリ口にしたのだ。
 そんなこと、まるで忘れてしまったかのように、ごく自然な態度で自分に接してくるこの男がベルティスには信じられなかった。
 急激に気持ちが冷え、ベルティスはエルドから顔を背けた。
 ――自分が何を言っても、エルドは堪えないのだろうか。
 だとしたら、いくら願ってもエルドから好きという言葉は貰えない気がする。
 ズン、と心が沈む。床を擦り抜け、宇宙空間をどこまでも落ちていく。そんな錯覚に陥った。
「ベルティス」
 俯いてしまったベルティスの顔を、エルドがやや乱暴に上に向かせた。
 そっと唇が触れ合う。だけど、触れるだけ。すぐに離れていった唇を目で追うと、それは静かに言葉を発した。
「――好きだ」
 思考が停止する。何を言われたのか、すぐには分からなかった。
 幾度か瞬きを繰り返している間、嬉しさと怒りが交互に訪れて、一瞬ずつベルティスを支配して去っていった。
 感情に取り残されたベルティスは、ただただエルドを見つめ返す。
 ――どうしてこんなにもあっさり言ってくれるのだろう?
 あれほど求めた言葉だったのに。するりと容易にエルドの口から飛び出して来るものだから、ちっとも有り難みがない。
 だけど、ついに言ったのだ。そう、言わせたことには変わりはない!
 コクリと咽を鳴らせて、ベルティスはエルドの次の言葉を待った。
「好きだ、ベルティス。これからは何度でも言う。だから、ずっと傍にいろ」
 ――否はない。だって、ベルティスもエルドのことが誰よりも好きだから。
「うん。……けどっ!」
 頷いた一瞬後に言い放った逆接の言葉に、エルドの顔が明らかに引きつった。
 案外、エルドにとってベルティスの拒絶は大きなダメージを与えられるのかもしれない。
 先ほどの、エルドなんて嫌い、というベルティスの言葉も実のところちゃんと利いているのではないだろうか。
 強がりで、負けず嫌いの彼だから、そんな様子などおくびにも出さないだけ。
 エルドがそんなんだから、ベルティスは迷うのだ。
 もっと分かり易い性格だったら、安心して傍にいられるのに。
「……今まで一度も好きだって言ってくれなかったのに、いきなり言うし」
「……」
「俺に嫌いだって言われて、焦っちゃったわけ?」
 エルドの怯んだ瞳を見て、我ながら言い方がキツイと思ったが、言わずにはいられなかった。
 これだけはハッキリさせたい。エルドがやっと口にしてくれた好きという言葉が、逃げそうになった鳥かごの鳥を引き留めようとして、とっさに口にした言葉ではないことを。
 否定の言葉を縋るような思いで待ち、だけど、わざと冷たい表情をしてエルドの顔をじっと見つめた。
「違う。俺は端から、俺が男になって、お前が女になったら、お前に好きだって言うつもりだったんだ。ガキが口にする好きだって言葉なんか当てにはならないだろう? 花が好き、蝶が好き、星が好き、誰とかちゃんが好きだ、誰とか君が好きだって。そういう好きと同列に並べられるのがオチだろ?」
 いつになく真剣に言われて、ベルティスも真面目にエルドの言葉を聞こうと姿勢を正した。
「自分の言葉に責任を持てるようになってから、お前に言いたかった」
 ――責任。
 ベルティスは目を見開く。エルドにとって好きという言葉は、単に好きという想いとその響きではなく、ずっと傍にいたいという想いと夫婦になりたいという響きに直結するのだ。
 18歳になりレースを終えるまで、結婚することはできない。
 そうできるようになってから、責任を持って言いたかったのだと、エルドは言う。
 重い。エルドの好きは、ベルティスが求めていた言葉よりもずっとずっと重い言葉だったのだ。
「エルド、あのさ……」
 ごめんと呟いて、ベルティスは項垂れた。
 ずっと誰よりも傍にいたのに。18年間、あの育児室で出会ってからずっと一緒にいたのに、自分はちっともエルドを分かっていなかった。
 情けない。エルドと同じように成長してきたつもりだったのに、エルドの方がずっとずっと大人だ。
 ぐっと、ベルティスは拳を握りしめた。
「ベルティス」
 穏やかな声がベルティスの耳のすぐ側で響いた。顔を上げると、驚くほどエルドの顔が近くにあった。
「お前、知ってる? お前さ、今まで一度も俺のこと好きだって言ったことないんだぜ?」
「え?」
 目を大きくすると、堪らないとばかりにエルドは笑い声を上げた。
「ほらな。やっぱり気付いていなかった。――お前は心の中で何遍も俺に好きだと言っていたかも知れないけど、俺は一度たりともお前の口から好きだって聞いたことねぇよ」
「うそ」
「こんなことで嘘ついても仕方ないだろ。――ほら、言えよ。俺が好きだって。好きなんだろう?」
 不敵な笑みを浮かべて、エルドは言う。なんだかとっても悔しい。
 だから、しばらく沈黙を作ってやると、不意にエルドの瞳が陰りを帯びた。
「早く言えよ。……不安になるだろ」
 ――そうか! そうなんだ!
 いつだって余裕ぶってベルティスの手を引いてくれるエルドも、不安は感じているのだ。
 エルドとベルティスに成長差なんてものはない。同じように成長してきたから、同じように不安を抱くのだ。
 相手の言葉に一喜一憂してしまうのは、エルドも同じ。
 だからこそ、不用意に嫌いだなんて言ってはいけないし、まして好きだなんてそう簡単には言えない。
 好きという言葉は、誰よりも大切で愛して止まないたった一人のために、囁くように言うのだ。
「――好きだよ、エルド」
 言うと、エルドは破顔して、力の限りベルティスの躰を抱き締めてくれた。
 
 
 完














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