3.言葉の波紋
絶句した。
何も言えなくなるという状態が本当に実在するのだと、ベルティスは生まれて初めて知った。
ハオマの顔を見つめ返す。ハオマはまるで己が言った言葉の意味が分からないというような顔でベルティスを見つめていた。
「違うの?」
淡い桜色に塗られた唇が音を発する。声は低くもなく、高くもない。
少年にも少女にも見えるハオマの髪の色は、深緑色。頭の後ろで、縄のように長く三つ編みにしてある。
隣のクラスのアータルを好きになったから女になることにしたのだと、ハオマがベルティスに告げたのは半年前のことだった。
だけど、ハオマの髪はそれよりずっと以前から切っていないという。
「なんで、そのことを?」
「昨日、武道場でベルティスとマーフが話しているのを聞いちゃったって子がいるのよ。――もう、みんな知ってる。エルドもね」
ほら、とハオマが指差したのは、数メートル先の廊下の壁。コンクリートではなく、アルミに似た柔らかい素材で出来ている。とは言っても、そう容易には穴があかないようにできているのだが、そこには無惨にも大穴があいていた。
「エルドがやったわけ?」
「すごい音がしたのよ」
――やったのか。
怒りを拳で表現する性格は、幼い頃から変わっていない。
穴のあき具合でエルドの怒りの程度が分かって、ベルティスは思わずゾッとする。
武道場でのベルティスとマーフとの会話。それはつまりベルティスの、エルドとは結婚しない宣言のことだ。
昨日のことなのに、すでに広く広まってしまっているらしい。
そのせいか今朝からやたら視線を感じる。そして、振り返ると、まるで幼い頃にやった遊びみたいに、皆そっぽを向くのだ。お前のことなんて見ていないとばかりに。
教室に入り、自分の席に座ったベルティスを追って、ハオマも近くの椅子を引き寄せて座った。
「それで、その話は本当のことなの?」
焦れたように、ハオマは先ほどの問いを繰り返した。ベルティスは今度の問いには、間をおかずに大きく頷いた。
「うん。本当だ。俺はエルドとは結婚しない!」
そう、ベルティスがきっぱりと言い切ったその直後、教室中にどよめきが起こった。
驚いて振り返ると、いったいいつの間にこんなに集まっていたのだろうか。ベルティスとハオマを囲むように人だかりができていた。
「うわっ。本当かよ!」
「信じらんねぇ。あのエルドが振られたってことか?」
「ベルティスのフリー宣言だ!」
単純に驚いている者。頬に朱を走らせながら歓喜の声を上げる者。皆、口々に何か叫んでいる。
よくよく見ると、人だかりは教室内に収まりきらず、廊下にまで広がっていて、ベルティスを唖然とさせた。
――なんで?
そんなに騒ぐことなのだろうか?
ベルティスはただ、エルドとは結婚しないと言っただけなのに。
ざわめきは収まる気配がない。その中心が自分だということが、なんだか居たたまれない。
だが、それは突然。ざわめきに色があるとしたら、その色が急に変貌した。
人だかりの外側から徐々に後方を振り返って、身を引く。道が出来ると、その道をベルティスのいる方へと歩んでくる者があった。
アータルだ。
まず目に飛び込んでくるのは、鮮やかな赤い髪。それから、ギラギラと輝く黄金色の瞳。
浅黒い肌はますます彼の存在感を強くしている。空気の色を変えたのは間違いなく、アータルだ。
アータルは猫のような眼を周囲に向ける。それだけで、群がっていた他の者たちは皆、何か舌触りの悪いものを口にしたような顔をして、それぞれの方向へ散っていった。
ベルティスの正面に立ったアータル。その背後にはアータルの三人の取り巻きがいる。
「よう、ベルティス」
軽い口調の挨拶。だが、ベルティスがアータルと言葉を交わすのは、この時が初めてだ。
クラスが違うということもあるが、エルドがアータルと気が合わない様子を見せるので、ベルティスもなるべくアータルとは関わらないようにしていた。
だけど、噂だけはいろいろと聞いている。ベルティスたちのクラスではエルドがそうであるように、アータルたちのクラスではアータルが誰からも一目置かれるリーダー的存在なのだという。
授業内での模擬試合は負けなしで、上級生たちの間では、今年のレースでエルドが優勝するかアータルが優勝するか賭けになっているらしい。
ちらりと隣に視線を向けると、ハオマが突然現れた憧れの人物の顔を凝視していた。
ベルティスの知るアータル情報はハオマ経由のものがほとんどだが、ハオマの性格上、ハオマもアータルと直接会話をしたことはないのだろう。
目の前のアータルが幻ではないことが分かり、一瞬にしてハオマの顔が赤く染まった。
もう一度名前を呼ばれて、ベルティスはアータルを仰ぎ見た。
アータルの顔に淡い微笑みが浮かぶ。そして、次の瞬間。スッと身を屈め、ベルティスの右手を取ると、その甲に唇を押し当てたのだ。
「なっ。何すんだよ!」
慌てて自分の右手を取り返す。強く何度も手の甲を擦ったが、アータルの唇の感触は肌に染み付いてしまったかのようにしつこく、取れてくれない。
――嫌だ。
じわりと眼の奥が熱くなった。抑えがたい嫌悪感。エルド以外の唇が自分の肌に触れたのだ。
「ふざけるな!」
荒げた声と同時にやってきたのは、怒りだ。かっと頬を朱に染まり、今にも全身が発火しそうなくらいな憤りを感じた。
だが、アータルの表情はベルティスとは対照的に涼しげだ。ニッと笑う。
「ふざけてなんていないさ」
「なら、どういうつもりだよ!」
「好きなんだ」
お前が、とアータルは続けた。
「エルドとの婚約は解消したんだろ? だったら問題ないよな? 俺の女になれ、ベルティス」
反応することができなかった。気が付くと、アータルの唇が自分のそれと重なっていた。
ガタン、と椅子が鳴る。ベルティスはアータルの躰を力一杯突き飛ばし、立ち上がった。
睨み上げると、己の唇を指でなぞって笑みを浮かべるアータルと目が合った。
「返事はレースの後でいい。俺が優勝するから、俺の手から女性ホルモンを受け取ってくれ」
俺のために女になれ、と言い残して、アータルは取り巻きと共に去っていった。
ガタン、と再び椅子が鳴る。足の力が抜けてしまい、半ば椅子に吸い寄せられるようにして、ベルティスは腰を下ろした。
ぐったりと背もたれに寄りかかる。怒りの元凶が消え去ると、ズンと疲労感が襲ってきた。
それから、今更ながら驚きが訪れる。
まさかアータルから、ああいうことを言われるとは思ってもみなかった。
――好きだって言われた。アータルに。
どれほどエルドに望んだ言葉だっただろう。エルドがけして言ってくれなかった言葉を、アータルは容易に言ってのけた。
ハッとする。隣に座る人物の存在を思い出して、ベルティスは一気に血の気が引いた。
「ハオマ?」
振り向くと、ハオマはひどく青ざめていた。拳を握り、必死に躰の震えを堪えているように見えた。
「ごめんね。ベルティスが悪いわけではないって分かっているんだけど。でもね、ベルティス。しばらく私に話しかけないでくれる?」
「ハオマ?」
「ベルティスの顔、見たくない」
言ってハオマはすくっと立ち上がり、ベルティスに背を向けた。
引き留める言葉なんてない。教室を逃げるように出て行ったハオマの姿をベルティスはぐっと奥歯を噛みしめて見送った。
それからしばらく、寮の自室に戻ろうとして、ベルティスはその扉の前に山積みにされた荷物を見つけた。
二十個くらいあるだろうか。手に乗るくらいの小箱から、とても一人では運べないような大箱まで様々なものがある。
これでは扉が開かない。自室に入れなくて頭を抱えていると、隣室のラシュヌが戻ってきた。
「ラシュヌ!」
天の助けが来たとばかりに振り返り、ベルティスは唖然とする。
ラシュヌの亜麻色の髪がばっさり切られ、短くなっていた。
普段は、すらりとした身体のラインがはっきり見える服を着ているのだが、今ラシュヌが身に着けている物は、エルドやアータルが好んで着ている物のような身動きの取れやすさを重視したあっさりとした服だった。
――まるで少年みたいだ。
「それ、全部ベルティスへのプレゼントみたいだよ」
ベルティスの驚きを無視して、ラシュヌは荷物の山を指差した。しゃべり方もいつもと違う。
低めた声は少年のものだ。
「ラシュヌ?」
「部屋の中に運ぶ? それとも捨てる?」
「……とりあえず中を確認する」
「なら、運び入れるんだね?」
先ほどからラシュヌと視線が合わない。ラシュヌはベルティスの顔よりもわずかに下方を見つめている。
うつむき加減に無言で、ラシュヌはプレゼントの山を移動し始めた。その様子は、なんだか不機嫌であるように感じられた。
すべての荷物がベルティスの部屋の中に入ると、ラシュヌはそのまま何も言わずに自室に戻ろうとする。ベルティスは慌ててラシュヌを引き留めた。
「ラシュヌ、なんで?」
「何が?」
「……いつもと違う」
ふっとラシュヌが笑みを浮かべた。目が合う。どこか苦しげな微笑は、ベルティスの呼吸を止めた。
「エルドと別れたって。――本気で?」
「マーフが……」
エルドを好きだと言ったマーフ。
切ないほどにエルドが好き。その想いにベルティスは共感して、マーフのことを応援したいと思ったのだ。
エルドがベルティスに好きだと言ってくれないのなら、ベルティスはエルドの傍らになんていられない。エルドの傍にはマーフがいてあげればいいんだ。
そう、ラシュヌに言おうとして、言葉が咽の奥に詰まった。
「マーフが何?」
怪訝そうに顔を歪ませ、ラシュヌが低く声を響かせた。
「マーフがエルドのこと好きだって言ったんだ。結婚したいって」
「だから?」
「……」
ため息が頭上から落ちてくる。ラシュヌの顔を仰ぎ見ると、ラシュヌは明らかに苛立った表情をしていた。
「アリユースもエルドが好きだよ。ナービクもエルドが好き。スワーシャも好きだし、ワユも好き。フワルも、ティシュトリヤも、バフラームも!ラマンも!アシも!」
知っている名前をすべて上げたのではないかと思う程の数だった。
――いや、ベルティスの知らない名前もいくつかあった。
大きく目を見開くベルティスに、ラシュヌは暗い笑みを浮かべた。
「ベルティスが知らないだけだ。エルドのことを想っているのはマーフだけじゃない。マーフよりもずっと以前から、それこそ何年もの間ずっとエルドのことを想っているやつも少なくないんだよ。――ベルティスが気付いていないだけでね」
ドクドクと胸が鳴り響く。血の気の引いた頭に心臓が懸命に血液を送り届けているかのようだ。
再びラシュヌが重たく息を吐き出した。
「マーフがエルドを好きだと言ったから、エルドと別れただって? そんなことで別れられるくらいなら、どうしてもっと早く別れてくれなかったんだ!――もっと早く。二年前に」
「ラシュヌ?」
――二年前? なぜ二年前なのだろう?
そう疑問に思った時、ラシュヌの表情が変貌した。どくん、と胸が動く。
ラシュヌはベルティスに真っ直ぐ視線を向けて、静かな声で言葉を紡いだ。
「ベルティスが好きなんだ。初めてベルティスを見た瞬間から。――だけど、ベルティスにはエルドがいたから」
近付けなかったのだとラシュヌが言ったのは、昨日のこと。
ラシュヌが今のようにベルティスと話をするようになったのは、ラシュヌが武道場を去った時から。
ラシュヌが男になることを諦めたから、エルドはラシュヌへの警戒を解いたのだ。
「ベルティスと話をしてみたかった。少しでも近付きたかった。――あの日。二年前のあの日、おれはエルドと手合わせをして完敗したんだ。エルドには適わないと思い知った。エルドからベルティスを奪えないのなら、男になっても仕方がないと思ったんだ」
そうして、ラシュヌは女になって、友人としてベルティスの側にいることを選んだのだ。
「レースに参加してみようと思う。二年も剣を持っていないから、優勝はおろか、男になれるとも分からないけど。――だけど、もし、おれが男になれたら、ベルティス、おれのことを考えて欲しい」
頷こうとしたが、金縛りにあってしまったかのように身動きが取れない。
頷きたかった。ラシュヌはベルティスにとって一番の友人だし、二年前からずっと近くにいてくれた。
ベルティスの近くにいて、ベルティスの無知によって誰よりも傷付けられてきた人物だ。
ラシュヌが自分を好きだと知っていたら、ラシュヌに対してもっと違う対応ができたかもしれない。
今までのことが脳裏に浮かんでは消え、再び浮かび、ベルティスは悔いた。
後悔。――いや、それよりも過去の自分の行動すべてが恥ずかしくなった。
なぜこんなにも自分は人の気持ちに鈍いのか。
ずっとラシュヌの側にいたのに、あまりにも自分はラシュヌのことを知らなすぎる。
不意に空気が緩むのを感じた。ラシュヌの顔を見上げると、ラシュヌは微笑を浮かべていた。
「頷かなくて正解だよ、ベルティス。もしも君が頷いたら、その細い首を絞めてやろうと思っていた」
「……どういうこと?」
「マーフに同情して不用意なことを口にしたベルティスが憎いよ。大好きだけどね。――でも、許せない。ここでまた、おれに同情して頷いていたら、ますます憎らしくなるところだった」
言って、ラシュヌはベルティスに背を向けた。
「万が一おれが男になっても、気にしないで」
去っていくラシュヌの背中。隣室の扉が閉まる音が響くまで、ベルティスはそれを見送った。
|